2-5
日曜日がやってきた。
きょうも世界は平和である。平和すぎて、ハナクソをかっぽじりたくなる――はずなのだが、ぼくの心臓はバクバクだ。手を握ることになるかもしれないので、ハナクソをほじるのは諦めた。代わりに――
気休めにと、TVを点けた。
ニュースをやっている。
殺人事件とか放火時間とか。
社会学者たちが「若者が!」とかいっちゃうような事件が目白押し。
が――かの哲学者アリストテレース先生ですら、「昨今の若者はチャラチャしてて、女みたいな格好ばっかしやがって、クソがッ!」って言ってるし、ぼくは気にしない。いつだって老害はあるものだ。老人はおしなべてアルツなハイマーに罹患するのだろう。あな、おそろしや。
TVだって出端のころは害悪と言われていた。インターネットができてからは、あまり言われなくなったが。新規なものはいつも虐げられる。=(イコール)若者は虐げられる。
ケータイが鳴った。
ぴぴりりりるぴぃ♪
電話じゃなく、メールらしい。
『茂木くん。待ち合わせ場所を変更してもいいかな?』
先輩からだった。
商店街の喫茶店で待ち合わせる予定だったのだが、
『学校の校門前にしてほしいのだけど……』
ギャル文字も絵文字も使わない、先輩の文面はすばらしすぎる。感動した。泪がぎっちょんちょん。
待ち合わせの変更? モウマンタイ。
壁掛け時計を見ると十一時だ。予定の二時まではけっこうあるが、支度をすることにして、TVを消した。まずは――顔を洗おう。
念入りに洗顔し、もしもに備えて歯磨きに十五分を費やし、スマイルの練習をしてから、ぼくは本を開いた。書名は《自殺願望者の心理》。なんでこんな本を読むのかって? 決まってるじゃないか。先輩がアレでソレなひとだからさ。
ヘタな一言が、よからぬ結果を生むかもしれない。
しかし、逆に考えることもできる。
神さまもびっくりな善人であるぼくにとっては天啓に等しいかもしれない。先輩は、どうやらぼくに対して好感をいだいたようだから、もしかすれば先輩のリストカットをやめさえることもできるかも。と少しばかりぼくは思っていた。
歯を磨きながら考える。
どうして先輩はリストカットなんかするのだろう?
先輩はなにひとつ不自由していないように見える。天から二物いじょうを与えられているのだ。
ふと脳裏に浮かぶのは――太宰治だった。
稀代の女ったらしの駄目人間。代表作はみんな大好き《人間失格》。「俺は人間をやめるぞーッ!」でおなじみ。
彼は充たされていることにコンプレックスに持っていた。豪農の息子であることが彼を苛んだ。彼を愛好するひとびとは、「彼の弱いこころが魅力だ」と言う。とんと理解できないことである。いや――ダメンズのハシリと思えばいいのか。自己解決。
女と心中を繰り返した太宰と、人間関係から自殺した芥川龍之介は似て非なる。――まてよ? 心中? まさか、ね?
「茂木くんなら、どうでもいい人間だからいっしょに死んで」
ぼくはかぶりを振った。
――ない、ない。
ない、と思いたい。
歯茎から血が出た。
洗面台に吐き出すと、歯磨き粉に混じって赤い模様がある。
なんだか、ゾクっと背筋が寒くなった。早く出よう、と思った。
学校につくと、校門の前、門柱に背中をあずけて先輩が立っていた。
先輩は制服を着ていた。
私服じゃないのがまことに遺憾である。
「ごめんね。パパがどこへ行くの? ってうるさくって。だから、生徒会活動だってウソ言ってきたの」
なるほど。だから制服か。
制服でもワガママボディは隠せないッ!
胸でタイがおしあがっていてよ。
まあ、私服が拝めないのは残念だけど、デートはきょう一回ぎりということはないはず。ないよね?
「それじゃ、いきましょう」先輩が歩き出す。
ぼくは黒紐先輩のあとについていく。
路肩に、黒塗りのセダンが停まっていた。
セダンといえば、成金と政治家と成金とヤで始まる自由業のひとたちが愛好していることで、とみに有名である。さすがは、A社のご令嬢。
「お嬢さま」
ドライバーが降りてきた。
いかにもな、専属運転手といった風体の男だった。しかも、そこそこのイケメンである。精悍な顔立ち。軽く嫉妬。
先輩は振り返り、
「茂木くん。安心していいよ。佐藤は私の味方」
佐藤さんというらしいドライバーは、ぼくを見るとにこやかに笑った。見た感じ悪いひとではないようだ。その仕草がさわやかすぎて、ムスカになった。「目が、目がぁぁ」
「茂木さん。お嬢さまをよろしくお願いしますね」
よろしくされてしまった……。
仲良く後部座席に乗り込む。
ぼくらふたりには、いまのところ、共通の話題というものがない。その点を気遣ってか、佐藤さんはしきりに話題を提供してくれた。
外面だけではなく、内面もイケメンのようだ。
先輩が信頼するのも解った。内面イケメンでありガワイケメンである。まさしく最強、フルハウス。
三十分ほど車に揺られた。
国際水生生物見本市まで五〇〇メートルといったところで、セダンは近くのスーパーの駐車場へ入った。スーパーは日曜だというのに閑古鳥(*動物界・脊索動物門・脊椎動物亜門・鳥網・キジ目・キジ科・夜逃げフラグ属・閑古鳥。kancodorius yonigeflaguus)が鳴いている。
佐藤さんを残して、ぼくらは目的地を目指す。
彼は、ぼくらが帰るまで駐車場で待っているらしい。なんだか後ろめたかったが、その旨を告げても涼しい顔で「仕事ですから」と言った。メンがよいばかりか、仕事にも実直とは、コイツ……隙がねぇ……。
花子の説明によれば、見本市は民家のない山の手にあるとのこと。舗装道路はところどころひびわれ、ブザマなようすを晒している。
道中、
「緊張する」先輩が言った。
「ぼくもです」
「初めてなんだよね」ちょっと恥ずかしそうだ。ほのかに朱が射しているような気がするのは錯覚だろうか。ぼくはPTSD(*たぶん、麻薬)をやっているわけじゃないので、おそらく、紅潮してくれているのだ。
嬉しさに有頂天がマッハだった。
「そうなんですか? 先輩って――」
ぼくの言を、彼女は遮る。
「お付き合いしてことがあるって思ってた?」
「はい」
「オトコノコから告白されたことならいっぱいあるんだけど、いい返事をしたのは茂木くんが最初だよ」
「どうしてです?」
「飛べるか? って話だよ」
見本市の入場ゲートが見えてきた。
アーチ型のゲートのうえにはペンギンがあしらわれている。
それを見て、先輩は言う。「ペンギンって飛べないよね」
担任の童貞ペンギンのすがたが浮かんでしまい、笑い出しそうになるのを必死にこらえた。脳波パターンをマジメモードに切り替える。ノンレム睡眠をレム睡眠に切り替えるようなものだ。楽勝。
「ペンギンは泳げます。ダチョウはライオンよりも早く走れます」
「そうだね」先輩は笑った。どうやらこの回答でよかったらしい。ひとまずは一安心。
そして――安堵感は瓦解した。
国際水棲生物見本市は釣堀だった。
「はい。練り餌は五〇〇円です」と受付の、褐色膚で豪気そうなおっちゃんが、眠そうにしながら言った。
目を白黒させながら、先輩は釣竿を受け取ると、ぼくに助けを求める視線をよこした。
ぼくも助けてほしい。
男同士にしたところで、わざわざ釣堀に出向くなんて、おっさん臭いことこのうえないではないか。
うら若き男女の逢引の場としてふさわしいのかどうか――ふさわしくないことなど、決定的だ。考えるまでもない。考えることすら放棄して、このまま釣堀にスキューバダイビングしてやろうかと思ったが、寒そうだったからやめた。
「あんのぉ……クソビッチ(*雌イヌのこと。ダッチはオランダ人のこと。ダッチワイフは俺の嫁のこと)が」
花子を呪う。
五寸釘と藁人形がないのがうらめしい。釣り針と竹竿では呪術すらかけられぬ……。
「ビッチ?」
「いえいえ。こっちの話ですよ」
「そうなの?」
「はやく池に行きましょう」
テキトーに誤魔化すことにした。
初デートか釣堀とかなめてんの? 死ぬなの? ぼくは死んだ。スイーツ(笑)にならないように細心の注意を払わねばなるまい。
一辺が五メートルほどの池にはぼくら以外の客はいなかった。
それもそうだ。
ぼくですら、町内に釣堀が存在することをきのう識ったのだ。花子から耳にするまではまったく識らなかった。存じない町民もきっと多いだろうし、識っていたとしてもくるだろうか? こない気しかしない。それくらい寂れていた。
ここでトリビアです。
釣堀に国際という枕詞がつくのは、もともとアメリカの占領軍軍人のための娯楽施設で、インターンショナルな施設だったからです。舟旅がメインだった、かの時代、アメリカンがいるだけでインターナショナルだったんです。
先輩が言った。「釣りってどうやるの?」
とりたてて、ぼくだって詳しくはない。
他人にレクチャーできるレベルじゃない。祖父に誘われて何回か海釣りをした経験があるくらいだ。しかし、だいたいのことは解る。
釣りというのは、愛好家が多いことからも解るように、難しい趣味じゃない。カンタンな導入だが、そのじつ奥が深い趣味なのだ。
ぼくが手短に説明すると、先輩はよろこんだ。
備え付けの椅子に座りつつ、まったりとした空気が流れた。ホーホケキョが啼いている。山田君はいないようだが。
どれくらい時間が経っただろうか。ぼくは腕時計を見る。まだ十五分しか経っていなかった。なかなか魚はひっかかってくれないことにやきもきする。
ここのお魚さんたちは、自分たちが娯楽の種にされていることに薄々気付いているんじゃないか。そう思わせるくらいに、まったく釣れる気配がない。このままではボウズだ。はなはだかっこ悪い。ボウズなのは高校球児だけでいい。
先輩に、いいかっこを見せたくなった。
けれど、釣りというのは気合や根性ではどうにもならない。釣果は魚の気分しだいなのだ。
焦った。
まったりした空気が他人ごとのように思えてくる。
横を見ると、先輩はジーっと水面を見詰めている。視線を落として、ぎゅっと釣竿を握っている。そんなにきつく持たなくても相手は本マグロでもないし、竿をもっていかれるということはないのに。
緊張感は膀胱を刺激する。
尿袋の緒が切れそうだ。
防波堤が決壊するまえにぼくは、
「ちょっとトイレいってきます」
「いってらっしゃい」
水面から視線をはずすことなく、先輩は言った。