77.初仕事
瑞希はエーベルヴァイン男爵に案内され、事務用の部屋に居た。
広い空間に大きな机と立派な椅子が置いてある。
事務用の部屋としては、大げさすぎる広さだ。
「ここが私の執務室になるの? 無駄に広くない?」
エーベルヴァイン男爵がフッと笑った。
「今はそう見えますが、公務が動き出せば、あっという間に書類で埋まります。
王族の公務書類の量を、甘く見ない方が身のためですよ。
たとえ目を通して決裁するだけだとしても、相応の量をこなさねばなりません。
その量に耐えられなければ、目を通したことにして決裁の署名をするだけでも結構です――が、その後に問題が発生しても私は責任をとれませんので、あしからず」
瑞希が小首を傾げてエーベルヴァイン男爵に尋ねる。
「それはどういうこと?
エーベルヴァイン男爵がまとめた書類なんでしょ?
自分の仕事に自信がないの?」
「決裁の署名をする以上、その書類の責任は殿下が持つことになります。
そこに不備や不都合があっても、書類を作った私ではなく、殿下の責任が追及されます。
それで殿下が私を責めるのは構いませんが、周囲は殿下の失敗として判断いたします。
ですので殿下がご自分の責任だと自負できる程度には、きちんと目を通しておくことをお勧めいたしますよ」
瑞希が小さく息をついた。
「そっかー、思ったよりは大変そうだね。
手始めにまず、私は何をしたらいい?」
「では慣れて頂く為に、軽く練習をしていただきましょうか。
ラニエロ公国の報告書がありますので、そちらに目を通して決裁をしていただきます。
ラニエロ公爵の決裁が終わった書類ですので、問題点はないはずです。
属国の決裁を我が国が承認した、という決裁となります」
「ラニエロ公爵の? エーベルヴァイン男爵は何もしてないの?」
「いえ? 事前に目を通し、チェックは済ませてあります。
ですが人間の仕事にミスはつきものです。
それを見落とさないよう、複数人がチェックをしていく必要があるのです」
エーベルヴァイン男爵の指示で、文官たちが部屋に書類の束をどさどさと積み上げていく。
あっという間に、書類のタワーが一つ出来上がっていた。その高さはエーベルヴァイン男爵の胸程度だ。
書類を運び終えた文官たちは、静かに部屋を立ち去っていった。
瑞希が冷や汗を垂らしながらエーベルヴァイン男爵に尋ねる。
「……この書類に目を通すの?」
「練習ですので、期限は今月内で結構です。
本番ともなれば、この程度の量は三日で済ませられるようにしてください」
「……エーベルヴァイン男爵はこの書類のチェック、どのくらいかかったの?」
「この程度、半日で終わりますが……それが何か?」
「つまり、本当ならその程度の時間で済ませなきゃいけないってこと?」
エーベルヴァイン男爵がフっと笑った。
「いえ、半日で済ませられる文官など、それほど多くは居ませんよ。
なにより私には十年のキャリアがあります。
慣れた仕事なのですぐに終わる――それだけの話です」
瑞希が右腕をぐるぐると振り回して告げる。
「いよーし! それなら私もさっさと慣れちゃおうか!」
****
瑞希はエーベルヴァイン男爵に付き添ってもらいながら、書類の意味をレクチャーされつつ目を通していった。
どうやら領地からの問題報告とその対応に関する書類らしい。
問題点の調査報告とその対策を決め、それが記されていた。
デネブ公国内の各領地ごとに分けられた書類、ひとつひとつを確認しては署名をしていく。
「殿下、そろそろご休憩ください。
根を詰めても能率が落ちます。
適度な休憩を心掛けてください」
執務時は専用の男性従者が付き、従者がお茶を給仕してくれた。
甘いお茶請けを口にしながら、瑞希がエーベルヴァイン男爵に尋ねる。
「どうして執務には専用の男性従者なの? ザビーネを連れて来てはいけない理由は?」
「公私を分ける意味合いが強いですが、結局は慣例でしょうね。
希望すればザビーネを控えさせることも可能でしょうが、彼女は彼女で、殿下のプライベートスペースを整備する職務を持ちます。
その時間を奪って控えさせるのは、お勧めいたしません」
「なるほど、役割分担ってことかー。
私の仕事、巧くできてるかなぁ?
特に署名はたくさん練習したけど、うまく書けてるか分からないや」
エーベルヴァイン男爵がフッと笑った。
「予想よりかなり良いペースです。
これなら一週間で決裁が終わるでしょう。
読み飛ばしている訳でもなく、きちんと内容も把握しておられます。
その調子で、あとは慣れてしまえば三日で済ませられるようになるでしょう。
署名も読める字を書けてますので、問題ありませんよ。
――書類を読んで、なにか気になった点はございましたか?」
瑞希が俯いて思考を巡らせた。
「やっぱり、兵士の数が足りてなくて治安が悪そうだね。
野盗に対応しきれてなくて、嘆願が多いように感じる。
ラニエロ公国が今抱えてる兵数がわからないけど、いつ頃増強が終わるんだろう」
エーベルヴァイン男爵が「少々お待ちください」と告げ、部屋を出ていった。
戻ってきたエーベルヴァイン男爵が、一束の書類を瑞希に手渡した。
「ラニエロ公国の軍備状況と増強計画書です」
瑞希はお茶を飲みながら、その書類に目を通していく。
「国内の総数が一万を切ってるのか。
それを国境付近に配置しちゃうから、内側がスカスカになっちゃうんだね。
白竜教会の私兵団が街の治安はなんとか対応しても、街の外の治安は手が回らないって感じか。
――増強はやっぱり時間がかかるね。半年で五千人か。
練度も低いだろうし、マシにはなるだろうけど、この状況は続くだろうなぁ」
「我が国も、ようやく新兵五千人の訓練が終わり、現場に配備されているところです。
来年の雪解け迄には残り五千人が配備され、戦争前の三万人に到達します」
「となると、派遣して常駐する余裕がドライセン王国にはないね。
まぁラニエロ公国周辺は友好国ばかりだから、喫緊の課題って感じでもないんだね。
ラニエロ公爵も長期で増強計画を練ってるみたいだし。
――となると、外周部の国が気になるな。どうなってるんだろう」
エーベルヴァイン男爵が二っと笑った。
「では参考までに、書類のいくつかをお持ちしましょう」
またエーベルヴァイン男爵が立ち去り、しばらくして書類の束を持って帰ってきた。
瑞希はその書類に目を通していく。
「うわっ! なにこれ酷いな……野盗の数がラニエロ公国とは比べ物にならない。
隣国への対応も大変みたいだし、こっちも軍備増強が追い付く目途がないや。
陛下に陳情する内容まであるじゃない」
「ええ、そちらは陛下が直接対応している案件です。
周辺国と協議して、兵力を融通する計画を進めているようですよ。
――しかし、本当にきちんと書類を把握なさってますね。
そうやって問題点を見つけて対応していくのが公務の本質となります。
その為にも多数の書類で上がってくる情報を把握する必要がありますし、諸外国の動向も理解していなくてはなりません。
我々も注意してチェックはしていきますが、殿下もお気づきの点があれば気兼ねなくご相談ください」
瑞希が顎に手を当てて考え込んでいた。
「これは属国の情報だから正確に軍備のこともわかるけど、他国の情報なんて友好国でも正確には分からないよね。
――ああ、それで諜報部が情報を持ち帰ってくるのか。
なんか、考えることが多いなぁ。これで本当に練習なの?」
「ですから、最初はラニエロ公国の書類のみをお渡ししました。
殿下が所望されたので、追加の書類をお渡ししましたが、そちらは手を触れる必要はございません。
今後、内政の決裁も行うようになれば、さらに考えることは増えていきますよ?」
「うへぇ……ほんとに王太子妃の公務って、大したことがないの?」
「ははは、これは練習だ、と申し上げております。
王族が行っている書類仕事の内情を体験して頂いているだけです。
王妃殿下などは、こういったことはほとんど陛下に任せ、ご自身は王立施設の慰安や運営チェックに留めています。
どちらかというと社交界で噂を漁り、公務の支援になる情報を陛下にお渡しする――そんな形になる方が王妃には多いですね。
ですが陛下がご不在の場合、代理として決裁を行う必要が出てまいります。
その為にも、代理に立てる程度の経験と能力が欲しい、というのが私共の本音です。
ミズキ殿下は、どのようなスタイルでご公務に当たられるか、決まっておられますか?」
「んー、私は社交界が得意じゃないしなぁ。噂話も得意じゃないし。
そうなると、社交界の噂はクラインたちに任せて……ああでもそうか、クラインたちじゃ公務の内容を知らないのか。
やっぱり私も社交界で噂を漁れるようになった方が良いのかなぁ?
情報戦なら得意だと思ってたけど、真面目な文官の仕事には魔導なんて役に立たないね……。
こうやって書類の海をかき分けるのは、社交界よりは結果を出せると思うけど……自信はないかなぁ」
エーベルヴァイン男爵が微笑んで告げる。
「人には得意、不得意がございます。
不得意な分野で頑張るより、得意な分野で力を発揮する方が良い結果を産みます。
殿下の魔導は比類なきもの。
それを生かせる方法を模索してみてはいかがでしょうか」
「そっか、自分のスタイルを探してみればいいのか。
――ちなみに、私がラニエロ公国の書類でギブアップしてたら、どんな予定を立ててたの?」
「王立施設の慰安と運営チェックのみをしていただく、オーソドックスな公務のみをお渡しする予定でした。
そちらもお嫌でしたら、時折慰安を行う程度でも構いません。
王妃殿下からも、『くれぐれも無理をさせないように』と仰せつかっております。
エステル殿下のご事情も耳にしております。今は育児に専念し、慰安を行うにとどめるのが無難だと思います。
ですが物は試し、ということで少し厳しい公務を割り当てさせていただきました」
瑞希が苦笑を浮かべて応える。
「エーベルヴァイン男爵、結構スパルタなんだね……。
そうやって私の適性を、最初に確認しておきたかったんだね。
『打てる手は早めに打つ』かな?」
エーベルヴァイン男爵が二っと笑った。
「ご理解感謝いたします。
ここまでの手応えでは、ミズキ殿下は王妃となられた後も、充分国王代理としてやっていける素質をお持ちです。
ですがそれでは、せっかくの殿下の魔導が持ち腐れとなってしまいます。
そこは私共が殿下ほど魔導に通じておりませんので、どうしたらよいのかは見えてまいりません。
己の至らなさを申し訳なく感じています」
「それは仕方ないよー。
私の魔導なんて、こんな使い方ぐらいしかできないしさ」
瑞希は手のひらを広げてラニエロ公爵への≪映像通話≫の回線を開いた。
「ラニエロ公爵久しぶりー。元気にしてた?」
画面の向こうで驚いていたラニエロ公爵が、ため息をついて応える。
『ミズキ殿下、いきなり回線を開くのはやめてくれ、心臓に悪い。
――それで、何か用かい?』
「今丁度、ラニエロ公国の報告書を決裁してたんだけど、兵力が足りなくて大変そうだったね。
増強計画は間に合いそう?」
『ああ、それなら周辺国も他国に手を出す余裕はない。
自国内でなんとかしなければならないが、焦る必要もないからね。
じっくり新兵を鍛えていくつもりだよ。
君の提案のおかげで、国内産業も安定を維持できた。
今のところ、問題らしい問題はないかな』
「野盗が多いのは問題じゃないんだ?」
『あれくらい、以前と比べて少し増えた程度さ。
賠償金を背負った国は、どうしても貧困に苦しんで野盗に手を染める人間が増えるからね。
そういった国外の野盗を防ぐのに、国境周辺に兵を置いて見張っている。
街の治安は白竜教会の私兵団が協力してくれているから、大きな乱れはないよ』
「予想通りかな。じゃあ何かあったらまた回線を開くから、その時はよろしくね!」
瑞希が≪映像通話≫の画面を消して振り返ると、エーベルヴァイン男爵が呆然とした顔で一部始終を眺めていた。
「どうしたの? エーベルヴァイン男爵」
「いえ……今のが噂の、殿下の魔導ですか」
「あー、この術式は一応、軍事機密だから、他言はしないでね。
陛下が口を酸っぱくして『人前で見せないで欲しい』って言うんだよ」
エーベルヴァイン男爵が苦笑を浮かべた。
「それはそうでしょう。
ここからラニエロ公国まで、馬で何日かかると思ってるんですか。
その距離を無視して会話するなど、反則技にも程がある。
こんなことを他国に知られる訳にはいきませんよ」
エーベルヴァイン男爵が控えていた従者に対して告げる。
「殿下に付けられている以上理解はしていると思うが、この部屋で見聞きしたことの一切を他言せぬよう。
くれぐれも徹底してくれ」
従者が恭しく頭を下げた。
「承知しております」
エーベルヴァイン男爵がため息をつきながら瑞希に向き直った。
「その魔導は絶大な力となります。
なんとかそれを行かせる道を、私も探してみます」
「そう? 無理はしなくていいと思うけど。
それに、エステルの育児に力を入れたいのも確かにあるんだよね。
あの子の魔力、今は創竜神に抑えてもらってるけど、私がきちんと魔力制御を教えてあげた方が良い気がするし。
どうも創竜神はエステルに甘いらしくてさー。あの神、育児には向いてないんじゃないかな」
「……神に子守させていると、そう仰いましたか。
それにエステル殿下はまだ生後二か月。魔力が強いとは伺っていますが、魔力制御の話は初耳です」
「あの子、生後三日目でもう魔力を操り始めたんだよ。
でもまだ、好き勝手に動かして遊んでるだけ見たい。
竜種を超える神様クラスの魔力に育つみたいだから、手に負える内にきちんと技術を教えておきたいんだ。
創竜神はエステルの好き勝手にさせてるだけだから、あれじゃ教育に悪いよ」
「生後二か月で、魔力制御技術を教えられるとお考えで?」
「あの子は勘がいいからね。
私の魔導センスをきちんと受け継げたみたい。それがどこまでかは、大きくならないとわからないけど。
手取り足取り教えてあげると、きちんと真似をして制御してみせてくれるよ?」
エーベルヴァイン男爵は言葉もないようで、ただ呆然としていた。
瑞希が苦笑を浮かべた。
「公務を覚えるか育児に力を入れるか、ほんと悩ましいね。
とりあえずラニエロ公国の書類をかたずけたら、しばらくはエステルの様子を見てみるよ。
王立施設の慰安ってのも、早めに体験はしておきたいし、適当な時期に見繕っておいてほしいかな。
エステルの成長次第で、どれだけ公務に本腰を入れるかを決めることになりそう」
瑞希が時計に目を走らせた。
「いよっし! 休憩しすぎた! 残りは飛ばしていくよー!」




