7.魔導講師の老爺
夕食後の雑談が済むと、アルベルトとクラインは自分の部屋に戻っていった。
時刻は夜の八時を回ったところだ。
瑞希が傍に控えている侍女に尋ねる。
「寝る時間は、このくらいが普通なの?」
「消灯時間は通常、九時から十時の間となっております。
食後は入浴が待っておりますので、特にご用がおありでなければ、入浴後にご就寝していただくことになります」
受験生だった瑞希からすれば、寝るには随分早い時間だ。
マイヤー辺境伯のところでも同じ時間帯に寝ていたから、これがこの世界での常識なのだろう。
「……どうしてあなただけ、私の傍に控えているの?」
「ザビーネと申します。お見知りおきください。
私がミズキ様の侍女頭として、身の回りのお世話をする事となっております。
以後、ご用がおありでしたら、なんなりとお申し付けください」
ザビーネと名乗った侍女は、線は細いが仕事のできる女のオーラを醸し出していた。
タフな女性だろう、と瑞希に思わせるには十分なオーラだ。
年齢は恐らく、二十代中盤だろう。
「ザビーネさん、あなたは結婚してるの?」
「ザビーネ、と呼び捨てで結構でございますよ――私は未婚です。
今後も、婚姻することはないでしょう」
「どうして未婚なのかな。相手が見つからなかった?」
瑞希のとんでもなく失礼な質問に、ザビーネは無表情で応える。
「私は王家の侍女として人生を歩むと決めております。
これでも下位貴族の生まれですから、探せば婚姻相手は見つかったでしょう」
瑞希が小首を傾げた。
「結婚しても、侍女は続けられるんじゃないの?」
「そういう者も、確かに珍しくはございません。
ですが私は男性と婚姻を結ぶことに、さほど価値を感じておりませんでした。
私のような者もまた、珍しくはございませんよ」
どうやら、既婚女性の立場は無理をして目指すようなものでもないらしい、と瑞希は理解した。
無理に見合い結婚をするより、仕事一筋に生きると決める女性が珍しくない世界なのだ。
「この世界は、死が身近な世界なのでしょう?
未婚の女性が珍しくなかったら、人口が減ってしまわないの?」
「その分は、既婚者が子供を多く生み育てることで帳尻があっております。
特に平民は、婚姻し家庭を持つことを目標に生きる者が多数派です。
貴族もまた、血筋を残すために子供を多く作る傾向がございます。
結果として、人口は維持される事となります」
つまり、この世界であれば瑞希が結婚せずに生きていようと、特に目立つ訳ではないということだ。
それもまた、瑞希にとってひとつの選択肢に思えた。
(私の将来か……どうなるんだろうなぁ)
魔力を扱えるようにはなった。
だが神の気配を探そうとしても、まだ巧く探せないようだった。
霧の神の気配を探し出し、手繰り寄せなければ会話ができない。
会話が出来なければ、帰る手段が見つかったとしても教えてもらう事もできない。
瑞希が元の世界に戻る為の、絶対条件だ。
(まずは、魔導の講師にしっかり教わらないとだなぁ)
その後、入浴を済ませた瑞希はベッドに入った。
それと共に室内から従者たちが去り、室内の明かりが消されて行った。
月明かりもない真っ暗な夜の部屋で、瑞希は暗闇を見つめていた。
この国の軍が隣国に負けそうになった時、霧の神は『世界が滅亡に近づく』と告げた。
つまり世界を救うためには、隣国の脅威からこの国を守る必要があるということだ。
(私も、戦争に参加しなきゃいけないかも)
アルベルトは『人を殺す事を覚える必要はない』と言ってくれていた。
だがそんな覚悟では、この世界を救うことはできないような予感も覚えていた。
既に、瑞希の願いを霧の神が叶え、隣国の軍隊が八千人以上死ぬほどの損害を与えている。
間接的にだが、瑞希はもう人を殺しているのだ。
ならば直接自分が殺す事も、今後覚悟しなければならないだろう。
平和な日本で生まれ育った瑞希に、そんな覚悟が持てるのか――それはわからなかった。
戦争に参加する自分の姿に違和感を感じつつ、瑞希は静かに意識を手放していった。
****
翌朝、やはり早朝に目が覚めてしまう。
どうしてもこの生活リズムは変わってくれないようで、王都までの移動中は退屈な時間を持て余していた。
だが今日は、アルベルトに頼み込んで話を通してあった。
扉がノックされ、侍女が三人ほど部屋に入ってくる。
「ミズキ様、お召替え致しましょう」
瑞希は黙ってベッドから降り、用意してもらった服に着替えて行った。
ランニングウェアとは比較にならないが、男性用の簡素な服を瑞希のサイズに仕立て直してもらったものだ。
侍女が一人と兵士が一人付き従い、別の侍女が先導して王宮の内庭に案内してくれた。
内庭に付くと、さっそく瑞希はその周囲を走り始めた――半月ぶりの早朝ランニングだ。
怠けていた訳ではないが、ブランクがあったせいで息が上がる。
十五分間走り込み、元の場所に戻ってきて息を整えていた。
「あー、朝の空気が美味しい!」
半月ぶりの冷え切った朝の空気を胸いっぱいに吸い込み、体内にこもった熱と一緒に吐き出していく。
「ミズキ様、お身体が冷える前に戻りましょう」
瑞希は頷き、部屋へ戻って入浴を済ませた後、部屋着に着替えた。
****
朝食もまた、アルベルトとクラインが同席してくれていた。
クラインが呆れたように瑞希に告げる。
「あなた、本当に五時なんていう早朝に走り込みをしていたらしいわね。
兵士や騎士だって、そんな時間に走り込みなんてしないわよ?」
アルベルトがおかしそうに笑っていた。
「ははは、当直ではない兵士たちは、身体を休めることも仕事の一つだ。
早朝訓練でもないかぎり、当然寝ているさ」
瑞希は唇を尖らせて反論する。
「仕方ないじゃない、それが私の健康を維持する習慣だったんだから。
早朝ランニングをやらないと、身体の調子が悪くなるんだよ」
体型維持が目的で始めた早朝ランニングだったが、今ではすっかり身体の調子を整える習慣になっていた。
クラインが小首を傾げた。
「でもその走り込み、十五分程度で終わるのでしょう?
その後の入浴を含めても、六時にはまた暇になるのではないの?」
瑞希がげんなりとした顔で応える。
「そ~なんだよねぇ。
元の世界では勉強したりご飯を食べたりしてたけど、今は朝食が七時半と決まってるし。
勉強道具もないから、特にやることもない――仕方なく、魔力操作を自習してたよ」
アルベルトが嬉しそうに微笑んだ。
「ほぉ、朝から勉強するのが習慣だったのか。勉強熱心だな。
勉強家は嫌いじゃないぞ」
「好きで勉強してた訳じゃないってば!
受験に備えた勉強だよ。
入りたい学校を目指して、嫌々勉強してただけ」
アルベルトとクラインがきょとんとした。
「……不思議な感覚だな。
学校は勉強するために行くところだろう?
そこに入るための勉強をしていた。
それが嫌々なのか?」
「高校にも行かない人間は、社会の落ちこぼれ扱いされるんだよ。
三年間通うなら、好みの学校に行きたいじゃない?
そのための勉強だったから、嫌々だったんだよ。
勉強するために高校に入る人は、それほど多くない世界だったから。
高校に入った後は、高校生の生活を楽しむ人の方が多かったかな」
「その学校に入った後は、勉強はしないのか?」
「するよ?」
「だが勉強は嫌なのか?」
「嫌だよ?」
「努力はしないのか?」
「するよ?」
クラインが唖然として呟いた。
「やっぱり理解できない心境ね……
教養を詰め込む事ができる幸福を理解しない人間は貴族たちにもいるけど、そういった人間は学校には近寄らないわ。
――ああでも、魔導学院に入学しておいて社交界に現を抜かす愚か者は居るわね。
その類ということかしら。
努力を怠らないなら、その分だけはマシと言えるわね」
『愚か者の類』と言われてしまい、瑞希がたじろいだ。
相手はエリート中のエリート、高位貴族の上澄みだ。
相応の矜持を持った人間の言葉は、説得力が違った。
「……私は、二人みたいに優秀な人間じゃないし。
必死に頑張って、ようやく人並なんだよ。
そんな人間が勉強を楽しめるかと言ったら、無理があるよ」
アルベルトが楽しそうに微笑んだ。
「つまり、前代未聞の結果を連発できる魔導なら、楽しんで勉強できるんだな?」
瑞希が悩み始めた。
「ん~、そりゃあこれだけ結果が出るなら、面白くて勉強も捗るかもしれないけど。
学校に通ってまで勉強したいかと言われると、まだわかんないかなぁ」
クラインが優しく微笑んだ。
「あなたなら、魔導学院でも優秀な成績を収められるはずよ。
教養科目もあるから、そちらは大変かもしれないけれど、この世界を知る手助けにはなるはず。
決して無駄にはならないと思うわよ?」
アルベルトも頷いた。
「俺もそう思う。
霧の神は『より良い結果を得るために努力を怠るな』と告げたんだろう?
ならば己を高めるためにも、魔導学院は良い場所になるはずだ。
どうだ? 俺たちと三年間、魔導学院に通ってみないか?」
瑞希が腕を組んで悩み始めた。
「う~ん……二人と一緒に通えるなら、それは楽しそうだなって思えるけど。
受験勉強をしなきゃいけないんでしょ?
無事に入試を突破できるか、その自信はないよ?
それに、私の魔術は前代未聞の結果なんでしょ?
学校のカリキュラムに収まらないんじゃないかなぁ」
アルベルトが寂しそうに眉をひそめた。
「確かに、いきなり高等魔術を修得してみせるなんて真似、魔導学院の生徒はできないだろう。
カリキュラムにも、高等魔術は含まれていないはずだ。
ミズキ一人が枠から飛び出てしまうのは、避けられないかもしれないなぁ……
そこは魔導の講師の意見も含めて、改めて考えることにしようか」
****
「それじゃあミズキ! また今度会いましょう!」
朝食後、クラインは明るい笑顔で領地へ戻っていった。
その馬車を見送った瑞希とアルベルトは、顔を見合わせる。
「さて、まずは魔導の講師を紹介しようか。
今日一日、お前に魔導の初歩を指導してくれる人間だ」
「私たちは昨日王都に着いたばかりなのに、よく手配できたね……」
「なに、簡単な事だ。
マイヤー辺境伯の邸から、早馬を飛ばして事情を伝えてあった。
私たちより一週間近く早く、王都に報せが届いていたはずだ」
(ああ、なるほど~)
アルベルトの用意周到ぶりに、瑞希は密かに感心していた。
アルベルトに案内された部屋に居たのは、見覚えのある顔だった。
「お爺ちゃん?!」
瑞希の叫びに、部屋で待機していた講師が首を傾げた。
「はて、あなたは私の孫ではありませんが……
どういう勘違いですかな?」
瑞希はまじまじと講師の顔を見た。
どこからどう見ても、あの日に出会い、祖父だと名乗った人物の顔だ。
(確かにあの人、日本人離れした顔をしてたけど)
どうやら他人の空似らしいと納得した瑞希は、素直に頭を下げた。
「ごめんなさい。
私の祖父と瓜二つだったものだから、思わず叫んじゃった」
講師の老爺が人の良い笑顔で微笑んだ。
「異世界に、私と同じ顔の人間が?
そんな偶然があるものなのですなぁ。
――私はヴォルフガング・ネーベルゴット。
家督を譲り引退していますので、今は無爵ですな。
私がミズキ様に、魔導の初歩を手ほどきしましょう」
アルベルトが申し訳なさそうにヴォルフガングに告げる。
「すまないなヴォルフガング。
引退したお前を引っ張りこんでしまった。
だが今の時期、手の空いている信頼できる講師が他に見つからないらしくてな」
「はっはっは! この時期は優秀な講師ほど、貴族たちに引っ張りだこですからな。
ノートル伯爵から昨日の話は聴いておりますが、とんでもない逸材だとか。
彼が『前代未聞』と称えた魔導の才能、しかと見届けさせてもらいましょう」
(うわぁプレッシャー……ノートルさん、そこまで言わなくてもいいんじゃないかな)
重たい気分を背負いながら、瑞希の魔導指導がはじまった。