5.覚醒(1)
呆然としながら、瑞希は石板の欠片を眺めていた。
いつのまにか、邸の人間が動き出す時間になった。
廊下から、朝の慌ただしい空気が伝わってくるが、瑞希はそれに全く気付かずに石板を眺め続けていた。
扉がノックされ、侍女たちが部屋の中に入ってくる。
促されるままに侍女のお仕着せに着替えさせられるが、彼女たちの言葉を瑞希は理解できない。
(≪意思疎通≫の魔法も消えてるのか……)
瑞希は侍女に促されるように移動し、ダイニングに辿り着く。
アルベルトやクライン、マイヤー辺境伯が次々と話しかけてくるが、やはり何を言っているのかはわからなかった。
元気のない、無口な瑞希の様子を見て、怪訝な表情になった三人がさらに話しかけてくる。
「……悪いけど、何を言ってるのか、もう分からないんだよ」
瑞希の発言で、クラインの表情が愕然となった。
アルベルトとマイヤー辺境伯は、まだよくわかっていないようだ。
クラインがアルベルトたちに深刻な表情で語りかけ、彼らも愕然となった。
三人が何かを話している間、瑞希は手のひらを広げ、黙って砕け散った石板の欠片を見つめていた。
「ミズキ!」
クラインに呼ばれ、瑞希は顔を上げた。
どうやら、朝食を食べようと手ぶりで言っているらしいと分かった。
瑞希は頷き、侍女に促されるままに席に座り、食事を口に運んでいった。
食後しばらく、クラインは瑞希とのコミュニケーションを試しているようだったが、瑞希には言葉が全く理解できないのが伝わっただけだった。
(聞いたこともない発音ばかり。
日本人には習得が難しそうな言葉だなぁ)
少なくとも、標準語圏内で生まれ育った瑞希には、難易度が高く感じられていた。
クラインとマイヤー辺境伯に促され、侍女たちと共に別室へ連れて行かれた。
そこで煌びやかな乳白色のドレスに着替えさせられた。
あちこちに銀の刺繍が施され、それが光り輝いて見えていた。
どうやらこれが、昨日言われていた『クラインの使い古し』を仕立て直したものらしい。
(どう見ても新品なんだけど……使い古しってどういうこと)
着替え終わった瑞希は、促されるままに外に向かう。
邸の外には、逞しい数百人の兵士たちが整列していた。
それを見た瞬間、思わず瑞希が後退った。
(怖いってば!)
青い顔をしている瑞希を、クラインが笑顔で宥めているようだった。
「……『怖くない』って言ってるのかな?」
クラインに手を引かれ、アルベルトが待つ馬車に一緒に乗りこむ。
そのまま扉が閉まり、馬車が走り出した。
「……えっ?! クラインも一緒に行くの?!
そんなこと、一言も言ってなかったじゃない!」
慌てる瑞希に、クラインは明るく笑いかけ、背中をさすってくれていた。
「もしかして、言葉がわからなくなった私に付いてきてくれるの?」
言葉は通じないが、手ぶりが『一緒に行く』と伝えているように感じていた。
「クラインーっ!」
思わず抱き着いて泣いている瑞希の頭を、クラインは優しく撫でていた。
****
いくつかの街を経由して二週間。
馬車はとても大きな街に入っていった。
そのまま城のような場所まで馬車は移動し、その前で停車した。
先にアルベルトが降り、続いてクライン、そして瑞希が降りる。
降りた先には、魔法使いのような男性が佇んでいた。
その男性が淡く青く光る手を複雑に動かすと、その身体も青く光り輝き、その光が瑞希を包み込んだ。
「ミズキ! これで私たちの言葉がわかる?!」
クラインの言葉が理解でき、呆然とした瑞希はクラインの顔をまじまじと見つめた。
「……返事がないか。やっぱり≪意思疎通≫の魔導術式じゃ、異世界人のミズキには効果がないのかしら」
「――効果あったよぉっ!」
瑞希は泣きながらクラインに抱き着いていた。
王宮の廊下を歩きながら、瑞希は久しぶりの会話をしていた。
「この二週間、本当に心細かった。クラインが居なかったら、泣いて溶けて消えてたかも」
涙目で語る瑞希の背中を、クラインが優しくさすっていた。
「それで、どうして急に言葉がわからなくなったのかしら」
瑞希は、あの日の朝、霧の神と交わした会話を覚えている限り全て伝えた。
アルベルトが納得した様に頷いていた。
「ああ、お前が持っていた石板にそんな力があったのか。
それで砕け散ってたんだな。
――おい、シュトルム王国との防衛線はどうなってるんだ?」
アルベルトに尋ねられた宮廷魔導士が、頷いて応える。
「確かに、二週間前に早朝の奇襲を受け、我が軍が壊滅的打撃を受けております。
未完成の魔導兵器を使ったようで、敵軍は我が軍以上の被害を出し、ほとんどの兵が死んだようだと報告がありました。
両軍が戦闘続行不能となって撤退し、現在は国境警備兵が睨みを利かせている状態です」
「……具体的に、どれほどの被害を出したんだ?」
「戦線を構築していた第三軍、およそ五千人の命が失われました。
敵は八千人以上の損害を出したのではないかと推測されています」
アルベルトが不機嫌そうに険しく顔をしかめた。
「五千人もか……多いな。
だが、その敵の壊滅は霧の神の魔法だったということか。
ミズキが身体を張ってくれなければ、そのまま防衛線を突破され、今頃は王都もその兵器の餌食になっていた可能性すらあった。
この事は私から父上に報告を上げ、ミズキに報いるべきだと説得をしてくる。
ノートル伯爵、お前は可能な限りミズキに付いてやってくれ」
「はっ! お任せを!」
アルベルトはそのまま瑞希たちと別れた。
残された瑞希がぽつりと呟く。
「私たち、どうすればいいんだろう」
クラインがニコリと微笑んだ。
「ひとまずサロンに行きましょう。
ミヅキの受け入れ準備が終わったら、呼びに来るわよ」
****
クラインが宮廷魔導士に尋ねる。
「あなた、ノートル伯爵と言ったかしら。
その術式はどれくらい持続していられるの?」
「一時間ごとに十分休憩を頂ければ、日中は維持できますよ。
女性に夜間まで付き従うのは難しいと思いますので、そこは諦めて頂くしかありません」
瑞希がため息をついた。
「やっぱり、自力で≪意思疎通≫の魔法を使えるようにならないと不便だね。
女性でその魔術を使える人が居れば、もう少し楽なんだけど」
「これでも高等魔術の一つ。現在王都に居る魔導士で使えるのは、私ぐらいです」
クラインも苦笑を浮かべている。
「となると女性で使えるのは多分、ガイザー先生ぐらいじゃないかしら……
ここはやっぱり、ミズキが自力で魔力を扱えるようになるのが早い気がするわね」
瑞希が憂鬱そうに応える。
「やっぱり自力かぁ……
勉強しないといけないのか。
大変そうだなぁ」
クラインが優しく瑞希の肩を叩いた。
「魔力操作だけなら、子供でも覚えられる簡単なものよ?
試しに今、暇潰しにやってみたら?」
「……どうやるの?」
「たとえば、自分の魔力を紅茶に浸透させれば、こんなことが出来るわ」
クラインの身体が薄い桃色の光に包まれた後、その光が彼女の持つ紅茶に収束していった。
光を帯びた紅茶は、クラインの思うままに空中で形を変えて浮いているようだ。
「……そんな身体を光らせる方法なんて、私は知らないんだけど」
「えっ?!」
「何を驚いているの? 魔力の存在なんて、この世界に来て初めて知ったんだよ?
その操り方なんて、初歩から出来ない――」
クラインが慌てて瑞希の言葉を遮った。
「そっちじゃなくて!
身体が光るって、どういう意味?!」
瑞希はきょとんとして尋ね返す。
「どうもこうも、今クラインが魔力を操った時も、さっきノートルさんが魔術を使った時も、身体が光ってたじゃない。
私にはそんな方法がわからないと言ったんだよ」
クラインが呆然と呟く。
「ミズキあなた……魔力を目で見ることが出来るの?」
「……普通はあれ、見えないの?」
クラインとノートル伯爵が頷いた。
「魔力は一切、目に見えないわ。
それが見える人の話を、私は聞いたこともない」
「そっか、あれって私だけに見えてるのか。
でも見えてたって、操れなければ意味がないからなぁ」
宮廷魔導士のノートル伯爵が、瑞希の背後でおずおずと手を挙げた。
「あーその、君さえよければ、私が魔力同調をして魔力を操る手伝いをする事が出来るかもしれない。
君の魔力が私より強大だった場合、巧く行くかはわからないけれどね」
くるりと瑞希が振り返った。
「今は魔力を扱えるようになるのが優先されるよ。
やるだけやってみてくれる?」
瑞希はノートル伯爵と向かい合って、手を重ねていた。
「それじゃあ、はじめるよ」
ノートル伯爵が告げると同時に、彼の身体が青い光に包まれる。
それに触発されるように、瑞希の手のひらも赤い光がぼんやりと灯り始めた。
ノートル伯爵が苦しそうに顔を歪めながら、魔力同調を試み続ける。
それにあわせて、瑞希の手に灯った光が明滅していた。
瑞希は自分の手に灯る光を見ることで、生まれて初めて『自分の中の魔力』を認識した。
魔力の圧力、波長、熱、存在感――そういった感覚を、瞬く間に身に着けて行った。
ノートル伯爵が大きく息を吐き、瑞希から手を離した。
「これは、君の魔力が強すぎるね。特等級の中でも、特に強いんじゃないかな。
私には、君と魔力同調を成功させるのは無理そうだ」
瑞希が静かに、掲げたままの自分の手の甲を見ながら応える。
「……ありがとうノートルさん。おかげで魔力がどういうものなのか、私にも理解できたよ」
瑞希が掲げた手は、赤い光が灯ったままだった。
その光が見る間に大きくなり、反対の手で持っていた紅茶を包み込んでいく。
――次の瞬間、ティーカップごと紅茶が爆発していた。
寸前で瑞希が紅茶に魔力を通そうとしたのを認識したノートル伯爵が、咄嗟に紅茶を包み込むように魔力の壁を作り上げていたおかげで、瑞希の手が紅茶にまみれるだけで済んでいた。
「あっぶないなぁ!
そんな強い魔力、いきなり液体に通そうとしてはだめだよ!
――人間の肉体を含め、物質には魔力の許容量というものがある。
それを超える魔力を注ぎ込めば、今みたいに破裂してしまうよ。
流し込もうとする先の許容量を感じ取り、見極め、それに収まる範囲で魔力を流し込むんだ」
侍女に手を拭いてもらいながら、瑞希は真剣な顔で説明を聞いていた。
「……なるほど。そんなルールがあるんだね。
もう一度やってみるから、紅茶をもう一杯もらえるかな?」
改めて紅茶を受け取り、瑞希はまず紅茶の水面を見つめていた。
新しく身に着けた感覚で、紅茶と言う液体が持つ『魔力の許容量』を感じ取っていく。
それは瑞希の魔力の大きさと比べれば、とても小さくか細い許容量。
それに合わせて、集中して慎重に魔力を流し込んでいく。
ぼんやりとした淡い赤い光が、手のひらからティーカップへと移っていった。
今度は破裂することなく、紅茶全体が淡い光に包まれていた。
そのまま瑞希の思い通りに、紅茶は空中で形を変えていく。
「なるほど、液体を動かすと魔力が消費されて行くんだね。
動かすほど力を失っていく感覚がある」
瑞希は魔力が失われる速度に合わせて魔力を継ぎ足していった。
器用に紅茶と言う液体を操って見せている瑞希を見て、クラインもノートル伯爵も驚いて目を見開いていた。
ノートル伯爵が瑞希に告げる。
「君、本当に魔力の感覚に目覚めたばかりなのかい?
こんなにすぐに魔力を自在に操れる人間を、私は見たことも聞いたこともない。
しかもそれほど強大な魔力は、操るのがとても難しいはずなんだ。
それをそんな苦も無く操るだなんて、信じられない魔導センスだな……
我が目を疑うとはこの事だよ」
瑞希はきょとんとしてノートル伯爵に振り向き、小首を傾げた。
「そんなに難しいことなの?
針の穴に糸を通す程度の感覚しかないけど。
確かに集中力は使うけど、そこまで驚かれるようなことなのかな」
クラインは少し俯いて考えながら告げる。
「霧の神の話では、ミズキは神の血を引く人間。
だから魔導の才能が飛び抜けて高いんじゃないかしら。
それほど高い才能を持つなら、術理を教えるだけで≪意思疎通≫の魔導術式もすぐに扱えるようになったりはしないかしら」
ノートル伯爵が小さく笑った。
「ははは、初心者が術理を理解することが、まず無理だろう。
次に、術式を組み立てるという関門が立ちはだかる。
その上で、魔力で高度な術式を成立させなければならない。
これほどの才能があったとしても、できるようになるとは思えないな」
「試しに、教えるだけ教えてみたらどうかしら。
ミズキも自分の生活品質がかかっているんだもの。
必死になって覚えようとするはず。
その底力で、覚えられる可能性が高まる気がするわ」
ノートル伯爵も考えるように俯いた後、頷いた。
「確かにそうだな。
十五歳の少女が、私のような男に張りつかれるというのも嫌だろう。
必死になれば、覚えられるかもしれない」
ノートル伯爵はミズキに、≪意思疎通≫の術理を口頭で伝えて行った。
術理――つまり、その魔術を支える魔導の理論だ。
瑞希は静かに納得する様に頷いていた。
「理屈は理解できたと思う。
つまり、自分と相手が頭の中で描いているイメージを一致させるという魔術なんだね」
「一言で言えばその通りなんだが……その理解で本当に大丈夫かな……」
続いてノートル伯爵は、術式の組み立て方を瑞希に口頭で説明した。
それは数学の数式を組み立てるように、原因と結果をイコールで結んでいく学問のようだった。
受験勉強をしていた瑞希には、馴染みのある考え方だ。
そうして因果関係をいくつも積み重ねて行き、『魔力という原因』を最終的に『求める現象という結果』に変換する――そんな技術だ。
瑞希は静かに頭を回転させていく。
「……なんとなく、出来そうな気がする。
私が手を挙げるまで、ノートルさんは≪意思疎通≫の魔術を中断して一休みしていて。
その間、私が自力で魔術を成立させてみる」
瑞希の言葉にノートル伯爵が頷くと同時に、瑞希の身体を覆い続けていた淡く青い光が消えて行った。
「これで今は、私たちが意思を疎通できない状態だよね」
瑞希の言葉に、クラインもノートル伯爵も応えない――いや、何かを口にしていたが、その内容を瑞希には理解できなかった。
続いて瑞希は、説明を受けたように魔力で因果関係を成立させるように術式を構築していく。
数学は得意な方ではなかったが、受験範囲の数学を解くよりは簡単に思えていた。
魔術世界の公式は知らなかったが、どうやら同じような理論が、この術式には含まれているようだと感じた。
おそらく魔導の定理や公理のようなものがあるのだろう。
瑞希の身体が淡い赤い光に包まれ、全身を術式が包み込んだ手応えを得ていた。
「……今度はどうかな。
私の言葉、理解できてる?」
ノートル伯爵が、顎が外れるほど大きく口を開けていた。
彼は驚きで言葉が出ないようだ。
クラインも驚いて大きな声を上げる。
「理解できてるわ!
すごいわミズキ! 口頭で説明されただけで魔導術式を成立させたのね!」
瑞希が苦笑を浮かべてクラインに応える。
「そりゃあ必死だもん。
まったく言葉がわからない世界のままじゃ、心細くて死んじゃうよ」
いつまでもノートル伯爵に頼るわけにもいかない。
お手洗いに行くときにも壮年の男性が付いて回るような生活も、正直に言えば願い下げといったところだ。
ノートル伯爵は悪い人ではないと感じていたが、それとこれとは別問題という奴だ。
ようやくノートル伯爵が言葉を絞り出した。
「……いや、とんでもない才能だな。
これは高等魔術。
口で説明を受けただけで初心者が実践できるはずがないんだ。
だが魔力の使い過ぎには注意しておくんだよ。
魔力を使い過ぎると命の危険を伴う。
そのうち、自分の魔力の限界と言うものを知る機会があるはずだ。
それを認識したら、その限界を超えないように魔力を扱う癖を付けるんだ」
命の危険――魔術の危険性を警告され、瑞希は神妙な顔で頷いていた。