Ⅰ-Ⅶ 皇帝-②
朝起きて、食事を終えたら出発だ。
『巨大樹の森』から港湾都市アトナテスまでの間にそびえるハイモス山には街道があったが、今回行く道には無い。ここで追手を撒くつもりだった。
エスィルトが知らない道を行く事については不安こそあれ、太陽と、木の年輪を使った方位磁針がある。最低でも北へ行く道だけは分かるのだ。それが分かれば山越えには十分。
ここで追手を撒くことには値千金の価値がある。
走行中はエスィルトと会話をしない事に決めていた。走り方を改善して振動が少なくなるようにしてはいるが、喋れば舌を噛みかねない。だから、俺はエスィルトから得た情報を用いて、今後の方針を考えながら走っていた。
主題は皇帝の性格について。
彼女が寝物語に聞いたトゥルスの言によると、今上皇帝のトニトリウスは『暴君』であるという。
トニトリウスが即位するまでの経緯を整理しよう。まず、先帝アウェンティネンシスについて。
先帝のもたらした戦果は大別して2つだ。
1つは、ダキア周辺を支配していたダキア王国の壊滅と併呑。
もう1つは、東方のペルシアン王国が握る交易路を奪取するための連戦連勝。
これらの勝利は、アウェンティネンシスのチートで生み出された神鉄に由来するものではあるのだろう。しかし、戦術眼が優れていたからこそでもあっただろう。
どうあれ、元老院はそれらの勝利に歓喜してしまった。
元老院は、その名からイメージするような老人たちのグループではない。
現役の政治家たちの中から特に有力な者たちを集めた人材のプールこそが元老院。元老院議員の1人であるトゥルスは40歳程度であり、年齢の平均もその程度なのだという。
壮年の有力者によって構成されている以上、元老院は決して愚かな集団ではない。本来は連戦連勝程度で熱狂するような者たちではないのだ。
ただ、元老院議員は終身身分であるために老いた者もいる。
ネリウス帝の後に来た混乱期と、アウェンティネンシス帝の繁栄。その両方を味わった老爺たちは、アウェンティネンシス帝のもたらした繁栄が永遠に続くことを望んだ。ひたすらに国土の拡大を求める主戦派が、元老院の多数派を占めてしまったのだ。
ピソとの会話の際に予想していたより、少しばかりアウェンティネンシスは愚かだったらしい。
彼はペルシアン王国に攻め込むために、北方と北東に駐在する、合計4個軍団を招集してしまったのだ。
それは辺境の防御を手薄にするということ。ブリタンニアとドナウ流域に住む蛮族たちが攻め込んできた。装備と兵の質で勝るマーレ軍でも、数の差は如何ともしがたい。防衛線の突破こそされずとも、蛮族たちの襲来が止まらなくなってしまった。
混乱はそれだけに留まらない。ジュデッカの民が反乱を起こした。彼らは交易を生業とする民であり、交易路を握ろうとアウェンティネンシスが起こした戦争は、彼らの商売を大いに邪魔したのだ。帝国への反乱を決意させるほどに。
そして、反乱が起きた土地が最悪だった。
ジュデッカの民は帝国東部に多く住む。シリアという土地は、ペルシアン王国との戦争に備えた前哨基地に改造されていた。ジュデッカの大反乱とは、前哨基地で反乱が起きたということなのだ。
反乱鎮圧のために軍が割かれれば、物資は前線に届けにくくなる。
前線の物資は減り、兵は疲弊し、細くなった補給線がアウェンティネンシス帝を苦しめていった。
戦の疲労なのか、それとも砂漠の温度差による疲労が原因なのか。アウェンティネンシスはそんな大混乱の最中に崩御した。
もちろん死んだというのは嘘だ。別基底からのサルベージがそのタイミングだったというだけなのだが、世間を混乱させないために崩御という事にしたのだろう。サルベージを拒否することはできない。意図しないタイミングで世界を去った時に混乱を招かないためにも、基底現実からの転移者は高い地位に就いてはならないのだ。アウェンティネンシスはそうしてしまった。なんと愚かな男だろう。
ともあれ、去り際の先帝はトニトリウスを指名した。人品卑しからず、また彼の示してきた、軍事・内政における能力の故だという。その評価を証明するかのように、即位したトニトリウス帝は2手で混乱を解消してのけた。
ブリタンニアとダキアから招聘した将軍・軍団の差し戻しと、ペルシアン王国との和平だ。
賢明な選択だと俺は思う。戦争などあらゆる意味での浪費に過ぎない。始めないに限るし、始めたならさっさと終わらせるに限る。
だが、ペルシアンとの和平が元老院の大勢を占める主戦派の不興を買った。
熱狂の中にいるとはいえ、元老院は決して愚人の集いではない。彼らはトニトリウス帝の狙いを正確に見抜いていた。トニトリウスは戦線の縮小を望んでいるのだと。事実、アウェンティネンシスが占領した都市は、ペルシアン王の要求通りに返還された。平和は歓迎だが、その対価が戦果を白紙に戻すこととなれば話が変わる。
主戦派に水を差す行為である。トゥルスが聞いた噂によると、トニトリウス帝の暗殺計画が持ち上がったらしい。
――そこで、トニトリウス帝が先手を打った。
アウェンティネンシス帝の時代から仕える4将軍が殺されたのだ。
彼らは主戦派の重鎮たちであり、中には皇帝に次ぐ地位たる執政官経験者さえもが含まれていたそうだ。そんな大物が、皇帝を守護する近衛軍団によって白昼に路上で殺された。
下手人と被害者、最終的な受益者を考えれば、この暗殺にトニトリウス帝の意図が絡んでいない訳がない。
故に暴君。トニトリウス帝は地位も気にせぬ狂王であると囁かれた。
その事件の後、トニトリウス帝は「今後は裁判も無く元老院議員を罰する事はしない」と誓ったらしい。だが、この誓いでは元老院の安心を買えなかった。今、元老院と皇帝の間には緊張が走っている――。
トニトリウスの略歴を、皇帝即位前後の経緯だけ纏めればそんなところ。
一見すれば、彼を特徴づけるのは敵対者に対する強硬姿勢だろう。敵とみなせば誰であろうと容赦はしない性格に見える。
そんな相手の庇護を買うには、第一に敵対しないこと、というのがエスィルトの意見。
だが、俺は少し違うと思う。
国家の安寧という大のために将軍という小を切り捨てる者。帝国の維持だけを目的とした、徹底的な現実主義者。それが俺の思うトニトリウス帝だ。
彼には、何か明確なビジョンがある。理想とする帝国の形がある。庭師なのだ。理想的な形に国家を整えるために、的確に剪定する腕利きの庭師。
暴君といえば暴君。だが、名君といえば名君でもある。
そんな人物の庇護を買うなら、敵対しないという消極的な選択では弱い。俺たちの有用性を示す必要がある。国家の安寧を守るに有用であると示すことが。
有用性。
俺の有用性は明らかだ。チートによる身体能力。マニュアルと、過去の転移事故事例に基づく知識。借り物の力ばかりだが、有用であることに違いはない。
だが、俺が去った後は? トニトリウス帝が現実主義者という仮定に基づけば、俺が居るうちは不興を買わないためにエスィルトに手を出さない事を選ぶと思う。
だが、去った後はエスィルトを”有効活用”しかねない。俺はそれを許容できない。今度こそエスィルトの逃げ場が無くなってしまう。
アウェンティネンシスを唾棄するならば、彼の二の轍を踏んではならない。トニトリウスに、エスィルトを厚遇するに足る、彼女自身の有用性を示す必要があるだろう。
だが、何度考えても、エスィルトの有用性は――彼女が忌避する、性交に関わる物しか思い当たらなくて。
彼女が奪われてきた年月を思って、噛み締める奥歯に力が入った。
考えながらも俺の足は止まらない。獣道を行くのだから時折道を見失いもする。しかし、とにかく北を目指すと決め、崩れそうな道だけは避けて山脈越えを敢行する。
流石に街道も通っていない道を行くのは時間がかかる。道を選ぶ必要がある事もあるし、崩れた道があれば戻らざるを得ない。危ない道でも飛び越す事はできるが、その衝撃でエスィルトの腹の子が死にかねないからだ。
行きつ戻りつ、山道を行く。面倒と困難こそあれ、登れば進めるという前提がある以上、進んでいるのは確実である。
山に入る前の速力はまるでなく、一歩一歩踏みしめるように山を登り――3日目の朝、遂に最後の峠に来た。
森林限界を遥かに超えた高地であるため、木が無い。これでは年輪による方角判定が使えない。太陽の運行を見て方角を見るために、この寒い尾根で一旦休憩する必要があった。エスィルトには生臭い思いをさせて悪いが、毛皮でくるんで火に当たらせることにした。
寒いが死にはしない。下衣のまま、少し坂を上って南北を確認。太陽が右手側から昇りつつある。つまり、北は正面だ。俺の特別製の目で北を見ると、積もった雪の平野でも、街道が北へと伸びているのが分かる。
安心して、火の世話と料理を任せたエスィルトの元へと戻る。
「行き先は分かったかい、アキラ?」
「いや、ちゃんと北に向かっていることしか分かりませんね」
登山と下山なら、断然、下山の方が難しい。ルート取りが難しいのだ。ただでさえ獣道で見づらいのに、上から見れば道は木々に隠されている。峠からでは計画を立てることが出来ないのである。この世界に来てからずっとそうだが、今回も行き当たりばったりで全てをこなすしかない。
「君の選択も、理由も納得はしたけどね。あの速さがあるなら逃げ切るのも可能だったと思うんだよ、今更だけど」
確かに可能だ。
だが、俺たちは目立ちすぎる。行き先が分かればいずれ追い付かれる。
追い付かれる。それこそが問題なのだ。
まず、俺たちはトニトリウス帝に有用性を示す必要がある。
有用性を示す、つまり価値の売り込みは総合評価だ。失点は少なければ少ないほど良い。仕事を続ければ脱出できる奴隷身分から逃げ出したという事実は、義務に対する責任感の欠如を印象付けてしまうだろう。そんな奴に価値を認めるだろうか? 俺の想像するトニトリウスは「要らん」と切って捨てると思う。
だから、トニトリウスの元で働いて有用性を示し、手離すという選択肢が浮かばなくなるまでは俺たちが逃亡奴隷だとトニトリウスに知られたくない。よって、追手が俺たちの行き先を把握できていては困る。
そのために、目立ち具合に緩急を付けたのだ。俺は、山に入るまでは目立つことを恐れず疾走し続けた。蹴り足の衝撃で畳石にダメージが入り、土に足跡が残り、さぞかし目立つことだろう。しかし、山に入ってからは、エスィルトの安全のためは勿論、痕跡を残さないためにもゆっくりと進んだのである。
そうすれば、追手は俺の痕跡を見つけるのに時間を要するようになる。彼らは追い付くのに俺の10倍の――人馬を動員したとしても3倍程度の――日数を要し、その後は山狩りだ。たっぷりと俺たちの痕跡を探すがいい。追いついた頃には、俺たちはトニトリウス帝の部下に収まっている。
「まあ、算段はこんなところですが」
と言って熊肉を口に放り込み、続ける。
「問題は、エスィルトの売り込み方なのです……」
こればかりは、全く案が思い浮かんでいなかった。
エスィルトの美点は様々ある。輝くような体毛。整った見目。虐げられて腐っても消えない優しさ。熊の解体の巧みさ。料理の上手さ。”蛮族”出の身で、貴族風のラテン語を身に着けられる教養。
だが、皇帝の周辺にも似たような相手がいるはずだ。見目麗しい愛人も、狩りの名手も、料理を得意とする奴隷も、教養人もいるはずなのだ。
何か、エスィルトだからこその強みが無ければ彼女を売り込むことができない。
「まあ、60年ずっと腰振ってばっかりだったからね。できる事もあんまり無いねえ」
などと、口を歪めて言うエスィルトに胸が痛くなる。
エスィルトは自虐しがちだ。自分には価値がないと。
身分も、故郷も、財産も。全てを奪われ、子宮と遺伝子だけが価値だと叩き込まれた彼女にとって、そうなるのも無理からぬ事ではある。
だが、エスィルトには、それが当然だと思わせたくない。彼女には奪われた人生を取り返してほしい。胸を張って生きていって欲しい。
何故こんなにもエスィルトに肩入れするのかが、俺自身にすら分からない。彼女は、俺の生存にも基底現実への帰還にも関係がない、ただの余分だ。
でも、理由などなくても、俺はエスィルトに笑っていて欲しいのだ。
「あーあー、そんな顔しなさんな、アキラ少年。どうした、お姉さんに言ってごらん」
よほど沈んだ顔をしていたのだろう、エスィルトが俺の頬に手をやって、そう言った。
彼女の体毛は柔らかく、俺の頬を撫ぜる優しい手触りが心地よく、彼女の手に俺の手を重ねる。俺を直視してくる彼女の瞳が射抜くように痛く、俺はふいと視線を逸らしてしまう
目を逸らした。
そうした自分を自覚して、彼女を助けたい理由が、彼女の事を思った時に胸が痛む理由が分かった。
俺は、トゥルスとエスィルトの情事を食い入るように見つめてしまった。エスィルトがそれで苦しむことが分かっているはずなのに。俺は視線で彼女を蹂躙してしまった。
これは罪悪感だ。俺は彼女に対して不貞を働いた自覚があり、それに値する償いをしなければならないと思っている。
「助けてと、言われましたから」
唐突な独白に、しかし何かを察したのか、エスィルトが表情を消す。
「トゥルスに、あなたが見世物にされそうになった時です。私はあなたが抱かれる姿を見たいと思ってしまった。私が助けたのは、エスィルトが助けてと言ったからに過ぎない。
――私は、求められなければトゥルスの思うままにさせていたでしょう」
「そうかい」
嫌われたと思った。
エスィルトが、俺から視線を外して、串焼き肉を手に取ったから。話はここでおしまいなのだと。
だが、彼女は手に取った串を、呆けたように広げた口に突っ込んできた。
「真面目に見えて、エロガキなんだ」
にやりと笑った彼女の言葉に、かっと顔が熱くなる。
エロガキという言葉の意味こそ分からないが、からかわれているのは分かった。エスィルトから視線を逸らして肉を頬張る。
許されたのか嫌われたのか、状況を保留されてしまったが、少なくとも険悪な雰囲気にはならず、俺はほっとしている。
「ふふん、アキラはエロガキ、裸に釘付け」
妙な節を付けて言わないで欲しい。
「――でも、同情はしないんだ」
妙に楽しそうなエスィルトを見て、少しでも気晴らしになったならば良かったと思うのだった。
性的な目で見ていたと白状した後にエスィルトの体に触れるのは妙に気まずかったが、そうしなければ高速移動ができないのだから是非もない。俺はエスィルトと荷物を背負い、ゆっくりと下山した。
下り終わったころには4日目の朝。通算して、この山に1週間も取られてしまった。つまりマーレ市を出発してから11日目だ。追手が兵士の速度ならば、4日目の野営地点に辿り着いた頃だろう。人馬の速度なら山道の入り口に辿り着いた頃だろうか。
山狩りの人数次第だが、最短でも俺たちが通って来た7日以下の時間で踏破するのは無理のはず。最悪でも7日分の浪費は買える。それは兵士の速度で70日、人馬の速度で21日分の浪費だ。
俺は今日の間に港湾都市カレーに辿り着き、海を越えて皇帝に対面する予定を立てていた。
エスィルトの売り込み方も、考え方を変えてみればすぐに思い浮かんだ。
――そもそも、俺がトニトリウスの性格を予想出来ているのは何故だ? エスィルトの情報だ。
そして、それこそが彼女が提供できる有用性だと気付いた。彼女の情報は客である元老院からの寝物語で得たもの。元老院との関係が硬直しているトニトリウスからすれば、彼女の持っている情報は喉から手が出るほど欲しいもののはず。
しかも彼女が性交業従事者として働いてきたのは60年間。相手をしてきた元老院階級の寝物語が60年分も彼女の頭に詰まっているという事だ。
エスィルトはトニトリウスのブレインになれる。
万事が整った。山に入る前と同じ高速低負荷走法に切り替え、風を切り裂いて、北へ延びる街道を行く。山狩りで追手を迷わせている間に距離を稼ぐには、目立ちたくないなどとは言っていられない。エスィルトのための休憩も最低限に留め、夜を徹し、街道沿いの村々に、農地の農民に、交易商に目撃されながら疾走する。
そして、マーレ市から出立して通算12日目の朝。ブリタンニア島への入り口として栄える港湾都市、カレーを丘陵の上から視界に捉えた所で街道から外れ、西へと向かう。
船に乗るのではなく、海を走るからだ。ここからは皇帝の居場所に近付く。余計な目撃情報が彼に届かないよう、出発地点は人目につかない海岸にしたかったのである。エスィルトに正気と現実を疑われながら海上を駆け、12日目の昼。
俺たちは、やっとブリタンニアの地を踏んだ。
「トニトリウス帝はこの島の北だよ。北方の二脚狼氏族を征伐しに来て下さった」
エスィルト曰く、彼女が王女だった頃に建築され始めたというアルビオンなる要塞港がカレーの真向かいにある。慎重を期したい俺は、そこから西に40kmほど離れた半島から上陸した。
北へ真っ直ぐ進み、北東へ向かう街道に合流。道沿いにあった農地で畑に種を撒くオークに、カレーから船で出たのだが難破してしまった、道を教えてくれと切り出し、世間話の中から探ったところ、先の答えが返ってきたのである。
思わず顔を見合わせる俺とエスィルト。トニトリウスがブリタンニアに来ていると確信はあったが、確証があったわけではなかった。その確証が得られたことで安心したのだ。
喜ぶ俺たちを怪訝な目で見る農夫に銀貨を渡し、エスィルトの毛並みを梳るための櫛と、俺の不精髭を剃るための剃刀を買い取る。理由が必要だったので、船が沈没したために品物がほとんど無くなってしまったと嘘を吐いた。
「そりゃァ大変だ。よく生き残りなさった」
「ご心配いただきありがとうございます。旦那様がブリタンニアへ運んでいた小麦が全滅してしまったので、トニトリウス帝に直接お伝えする必要があるものですから」
「あァ、そりゃ確かに。俺んちは小作人だから良いが、これから冬に入るってのに小麦が無いんじゃ皇帝が大変だ。アンタらこそ大変だろうに、よくぞ皇帝に伝えに行くことを選びなさった。
だが、そのボロボロの見た目でお目通りするのも失礼だろう。ロンディニウムで良い物を買える額だとも思うが、急ぐ事情のようだし差し上げますと奥方に伝えておくれ」
「そのように致します。ご親切に、ありがとうございました」
そして、エスィルトを背負って、常識的な歩速で農夫に見送られ、丘を越えた所で疾走を開始。ロンディニウムを避けて真北へ向かう。エスィルトの故郷を置き去りにして、見つからないようにコソコソと、しかし急いで北上し。
12日目、夜。エボラクムに辿り着いた。
その土地は、東を山脈に、西を海に挟まれた平野部である。
大軍で迎え撃つならば平野に陣を構えるのが最適だ。絶対にそこに軍団基地があるという俺の読みに間違いはなく、平野部の中心には都市と見紛うほどの巨大な基地があった。
俺は丘の上で、野営の準備をしながら城塞を観察することにした。
円を描く高い城壁には、南に大きな門がある。その内部には石造りで木屋根の兵舎が並んでいた。
中心には、兵舎とは思えない巨大な建物。あれがトニトリウス帝の宮殿だろう。
ざっと行動計画を立て、いつも通りに夜を迎える。
いつも通りでないのは、沐浴と身繕いが加わる所。俺はエスィルトの体毛を梳いてやり、エスィルトが俺の髭を剃ってくれる。
体が汚れないように草地に身を横たえ、13日目の朝がやって来た。
早朝3時ほど。風より早くエボラクム要塞へ駆け寄った俺は、門衛の1体の顎に軽い当て身を加え、もう1体を締め上げた。これで門から入ることもできるだろうが、門を通ることは無い。閉まっているのだから、開けては異常を悟られる。よって、進入路は城壁。
マーレの建築技術と石切りの技術はオーパーツとさえ言えるものだが、それでもボルダリングの真似事ができるくらいの手がかりはある。手がかりが無くとも壁面を指で貫けば手がかりを作れるが、城壁の上には哨戒の兵が居る。音で気付かれては意味がない。
そして、哨戒が居る以上は屋根の上を行くのも無し。薄暗がりの中とはいえ、哨戒に気付かれてしまっては皇帝に目通りするなど到底無理だろう。
努めて音を出さずに城壁を登り、努めて音を出さず城壁を降りる。石造りの兵舎が並ぶ通りには哨戒の兵が行き来している。彼らの目を盗んで行く必要があった。
行き先はエボラクム要塞の中心、トニトリウス帝の宮殿と思しき建物。
時に哨戒を締め上げて路地の陶器壺の陰に隠し、時に屋根上に一時退避してやり過ごし。
トニトリウス帝の宮殿の前に辿り着いた。
木屋根の上から門扉を確認するが、そこには門衛が2体立っていた。彼らに気付かれずに建物に入るには、屋根上から跳躍して宮殿の屋根に着地するしかない。そんなことをすればエスィルトの身が持つまい。正面から入ろう。
壁沿いにするりと降り、植え込みに紛れて門扉に近付く。
誰何の声を無視して顎に一撃。くずおれる彼らが頭から落ちないように、しゃがみながら2つの頭を受け止める。
そして、静かに扉を開き、衛兵を屋内に引き込み、静かに扉を閉じる。一息ついて、やっとエスィルトを下ろした。彼女には、30分も俺にしがみついて貰っていた。
無声音で彼女をねぎらい、パンの匂いがする方へと向かう。食事ではなく、情報が欲しかった。朝も早くから料理をしている奴隷に後ろから忍び寄り、トニトリウスの居室を聞き出してから締め落とし、エスィルトを後ろに従えて回廊を進む。
コリント式だか、イオニア式だか、あるいはドーリア式だか。どれもこれも大して変わらないように思うので、俺には回廊を支える円柱がどの方式なのか分からない。ただ、交渉が決裂した場合は、この建造物さえ破壊して逃げなければならない。それを思うと少し惜しかった。
トニトリウスの居室を守る衛兵の顎に、両手で同時に一撃を加えてやり、今までと同じように頭を下ろしてやって。
戸ではなく、羅紗で区切られただけの門の向こう。そこで、何者かが体を起こした気配がした。
「何者だ」
良く通り、揺れず震えぬ重々しい、しかし涼やかな声が入室を促してくる。
既に俺たちに気付いている。寝ていたはずなのに。
俺は、固唾を飲んで羅紗をくぐって。
トニトリウス帝に出会った。