Ⅰ-Ⅵ 憤怒
いつの間にか眠っていた俺は、ドアの開く音で目を覚ました。俺の体内時計は完璧で、朝の2時30分には目覚めるリズムになっている。これは兵士たちとの旅でも早起きだと言われたものだった。
その俺が眠っているタイミングで入って来るということは夜襲か何かだ。木窓からも日光が差し込んでいない。ほとんど深夜のような時間帯なのだ。
瞬時に体を起こし、寝台から飛び降りて、戦闘姿勢を取ろうと足を開いたところで、鎖につんのめって顔から床に着地。
俺の醜態を目の当たりにして呆れた様子の侵入者はゴブリンであった。この宿には主を始めとして複数のゴブリンが居る上に、見た目が似たり寄ったりなので見分けが付かないが、声に聞き覚えがある。俺を洗った中の一人だった。
なぜここに、と思ったので、ぼんやりと眺めていると目が合った。
ゴブリンの目がキッと鋭くなり、俺を指さして甲高い声で非難してくる。
「エルフ、なぜ姐さんを抱かなかったのか言いなさい」
責められて、俺は思わず目を伏せた。エスィルトを傷つけたらしいことは分かっており、苦い気持ちを抱えていたから。
エスィルトにどう言い訳をしたものか考えていた所を直接的に責められて、俺の柔らかな所が痒くて仕方がない。
だからだろうか、本音に近い言葉がぽんと飛び出たのは。
「私には性交ができない理由があるからです」
ひやりとする――どうか、それは何故かと問わないでくれ。
今はまだその理由が用意できていないのだ。
「随分とお高く止まってるね、エルフ。商売女とまぐわうのはごめんだって?」
「違う!」
一番されたくない誤解で、解かなければならない誤解だった。だから反射的に強い否定が出た。
「違うのです……」
しかし、言葉が続かない。普段のようにするすると言葉が出てこず、喉につっかえるばかりである。
「何が違うっていうのさ。姐さんを抱かなかったのは事実だろう」
それは事実だ。だが、やはり俺には彼女相手に限らず性交できない理由がある。
性交をして子供が生まれた場合、俺のチートが弱まる可能性が高い。そうなれば、生存に支障をきたすだけでなく基底現実への帰還が不可能になるのだ。
それが断じて許容できないリスクである以上、俺は、誰が相手であろうと決して性交を行うことはないだろう。
だが、このまま伝えることはできない。基底現実の存在が前提となる行動原理だからだ。
話を逸らそう。
物は試しだ。先ほどから問いかけてくるゴブリンに向けて、とぼけた調子で問いかけてみる。
「というか、エスィルトは私と性交をしたかったのですか?」
「そうじゃなくてさ。アンタがここで上手くやって行けるように、姐さんから志願したんだ。あの人はいつもそうさ。なのに、アンタはそれを無下にした」
それは悪い事をした、と胸がざわめくのと同時に、脳は冷静に思考を回していた。
エスィルトが志願した? 嫌々やっているような意味合いの事を言っていたのに。
ならば、嫌々というのが嘘だった? 積極的に俺との性交を求める理由があったと?
何故だ?
「姐さんはね。凄く優しいんだ。凄いことだよ。もう70年近くもこんな仕事やってるのに、もう何度も子供を取り上げられてるのに、それでも腐らずに初夜の手ほどきも上客の相手も完璧にこなしているのさ。
凄い方なんだよ? 勃たせて寝てればいいだけのアンタに、断る権利があると思うのかい?」
優しくて面倒見が良いから。それがエスィルトの行動原理なのか?
それだけだろうか、という疑いを一旦横に置いて現状を整理。
待遇は異様に良い。3食寝床付き、昼寝あり風呂ありの深夜労働。しかし、それは性労働に従事することを求められているからだ。
俺の遺伝子、というかエルフの遺伝子はマーレの貴族階級にとって高い価値がある。
生存だけを考えるならば、子供ができない上にチートが遺伝しないことに賭けて性労働に従事すべき。
だが、そうするとチートを失う可能性がある。生き残れない可能性が高まるのは勿論、基底現実に帰られなくなる事がどうしても怖い。
先生たちとの穏やかな授業の日々に戻りたい。冒険の日々は楽しいが、それは帰る場所がある安心があってこその旅行の楽しみだ。根無し草に安住無しだ。
だから、俺の我を通しきる選択肢を見つけなければならない。
考えて、考えて、ふっと思いついたそれは、極めて単純な正解だった。
鎖をじゃらりと鳴らし、立ち上がってゴブリンたちを見下ろす。
「私に断る権利が無い事も、断った事で待遇が悪くなることも分かっています。しかし、私にはどうしても性交ができない」
言いながら、思いついた事を口にする。
「主とエスィルトに伝えてください。私には性交する能力が無いのだと」
正しくは能力ではなく意志だから、これは嘘だ。喉がひりつく。
「……去勢されているのかい? それとも不能?」
通った。
先ほどまでとは一転して、労しげな態度を見せるゴブリン。俺は後者であると肯定し、ゴブリンの出方を見ながら考えることにした。
ゴブリンの言葉は、昨日主から問われた質問と同じだった。昨日はピンと来ない言葉だったが、性交に関する言葉だと理解した今ならば何を問われていたのかが分かる。俺は性交能力があるのかを問われていて、どう答えれば良いのか分からず黙り込んでしまったのだ。
それが今になって「実は勃起不能者なのです」などと言い出して、信用してもらえるものだろうかと思いもした。
だが、通るはずだ。俺には実際にエスィルトという魅力的な女性との性交を拒否した事実がある。この事実が、俺は性的不能者であるという嘘に箔をつけるだろう。
「そういう事は事前に言うもんだよ? 姐さん、すっごく傷ついてたんだから」
「すみません、実際に事に及ぶまで、自分がそうだとは知らなかったのです」
長い鼻をしごくゴブリン。相変わらず目は細いが、その奥にある瞳からは険が取れている。
「悪気が無かったなら良いさ、仕方ない事でもある。姐さんたちに伝えておく。そうさね、もう少し寝な。姐さんが起きてきた頃に魔術医の所に連れて行くことになるだろうから」
魔術医?
看過できない単語が出てきた。この世界にも魔術の前例があるのは神鉄の件から分かってはいたが、連れて行こうと思えば連れて行けるほど身近な所にそれが居るとしたら良くない。
どうにか詳しく聞き出そうと言葉を練っている内に、ゴブリンはひらひらと手を振って部屋から出て行ってしまった。
これはまずいか? 魔術医とやらに俺が性的不能者ではないと暴かれたらエスィルトとの関係は完全に破綻するだろうし、待遇の悪化も決定的なものになるだろう。
今更どうにもなるまい。俺は眠い頭を軽く振り、寝台へと身を投げ出した。
「スパルトゥアは寝てろったはずだけど?」
俺の目の下に隈が浮いているのを見て取ったエスィルトが、そんなことを言って来た。
眠いけれど大丈夫、と返して彼女についていく。
寝台に横になってはみたものの、魔術医に出会う緊張はもちろん、昨日のエスィルトの性交に伴うと思しき音を思い出して、まともに眠れなかった。
太陽の光が眩しい。眠いのに俺の体は全く問題なく稼働しており、眠気と元気が同時に体にみなぎっている不思議な体調だ。
現在地は宿の外、町の奥の方にある通りである。レンガ造りの集合住宅が猥雑な臭いのする通りを挟んでおり、太陽は天頂方向から光を送り込んできている。
俺たちは、昼間から店先で酒を飲んでいるゴブリンや、所在なさげに立ち尽くしているオークたちに見られながら進んでいく。目的地を知っているのはエスィルトだけで、俺はついていきながら周りを見渡すくらいしかすることがない。
視線が集まっていると分かる。俺よりエスィルトの方が注目を集めているようだ。
周りの者どもは、厭らしい息遣いと腐った呼気で、汚らしい言葉を吐いていた。
「金鹿のとこの姫さんだぜ」
「後ろの黒髪のやつも金鹿の宿の新入りかよ。エルフを雌雄で揃えるとは、景気のいいこった」
「いいねえ、貴族のお歴々は。どれだけ金を積めばあんないい女を抱けるのかねぇ」
ひそひそとした声だが、俺の特別製の耳は拾ってしまう。気分の良い話ではない。昨日の夜を思い出しそうになって頭を振る。思い出すと胸が痒くなってしまう。
胸の痒みに気を取られて、普段なら気付くべき違和感が少し遅れてやってきたとき、ちょうどのタイミングでエスィルトが声をかけてきた。
「寝ないとダメなのは、占い師が上手く術をかけられなくなっちまうから。ちゃんと寝なきゃいけないよ」
彼女の声は昨日の別れ際とは打って変わって険が取れており、不思議な音律のラテン語で話してくれる。輝くような笑顔は日光に照らされて美しい。
俺を見る目も力ある猫科の瞳に戻っており、俺の嘘は目論見通り受け入れられたことが分かる。
「というか、不能ならちゃんと言ってよ。変な勘違いしちゃった」
「すみません。エスィルトのような魅力的な女性に触られているのに反応できず、恥ずかしかったのです」
「そりゃ見栄かい? 男は大変だね。ま、いいさ。今から行くとこの呪術はよく効くんだ。今日は勃たないなんて言わせないよ」
緊張してきた。というか問題を先送りにしただけで全く状況が変わっていないことに今更気付く。嘘が露見したらどうしよう? 生存に支障が出る。それ以上に、エスィルトが悲しそうな顔をするだろうことが想像できて、胸を引っ掻いてたまらない。
生存と帰還だけが目的となるシンプルな生存戦略に不純物が混ざり出しているのが分かる。
第1イタリカ軍団の補助兵4人とエスィルト。彼らが悲しむんだり傷ついたりするのは、俺にとっても苦しい事だと感じるようになってしまった。
それが悪いとも思わない自分に感じるこれは、喜びだろうか。
先生たちとの間にあったのは知識の授受だけで、私的な交流も無かった。だから、親交が結べる事がとても嬉しく感じられる。
だが、だからこそ。俺が嘘を吐いていることが手ひどい裏切りだ。
交流とは、相手と俺の間で信頼があるからこそ深まるもの。嘘が前提となる交流に親しみなどあるものか。
俺の態度は許されて良いものではない。最悪であると言っていい。親しげに振舞いながら、嘘を吐いて、本音を明かさず、親しみだけを搾取している薄汚い裏切り者。それが俺だ。
全てを明かしたい衝動が生まれ、必死で抑える。それはあまりにも生存に不利だ。だが、しかし、あるいは、それでも――俺は生き残りたい。
撞着する思考を抱えてエスィルトの後を付いて行く。立ち止まった彼女の背に気付いて立ち止まると、そこが目的地であるようだった。
薄汚い通りのなかで、その店は際立って汚かった。
「婆さん、入るよ」
異臭が漂う店内に、エスィルトは臆することもなく入って行く。仕方なく俺も後を追うと、むわっとした臭気が俺を包み、反射的にえずいた。
どうせ逃れられない、と思った俺は、思い切り店の空気を吸い込んだ。無理矢理体を慣らす作戦である。
店内には異様な光景が広がっていた。
蝋で照らされた薄暗い部屋の中央に、一際目立つ巨大な釜がある。何を煮ている訳でもなく、ただ湯が溜められているようだった。
壁には陰茎が過度に強調された人影が描かれている。
異臭の源は、見た目だけでは老婆かどうかも分からないゴブリンが煮ている鍋。とても臭い。最初は焚かれた香が原因なのかとも思ったが、あれは臭い消しのようだった。
「エスィルト。ようやっと孕んだのかね」
「どうだろ、それも確認して欲しいけど、また後でね。クレプシナの旦那がこっちのアキラ少年を男娼にって買ったんだけど、勃たないらしくてね。今回は本業のお願いさ」
「ほう、エルフの男は初めてだね」
などといった会話を挟んで、ゴブリンの老婆がじろじろと俺を見てくる。
何をされるのか分からず硬直していると、老婆が手を引いて大釜の方へと俺を誘い、ジェスチャーでそこに入れと示してきた。
「言葉で良いよ。最初の頃の私と違って、その子はマーレ語に堪能だから」
老婆はフンと鼻を鳴らし、鼻をしごきながら、物は試しという風に話しかけてきた。
「アキラと言ったか、服を脱いでその釜に入りなさい」
分かりました、と返事をして、エスィルトに手錠の鍵を外してもらった後、言われた通りに全裸で釜に入る。ちなみに服装は宿の中で来ていた絹の下衣ではなく、外出用の麻の下衣である。絹は高級品であるから、外出の際に汚さないようにということのようだった。
エスィルトの刺すような視線が俺を観察しているのが分かる。体に秘めた暴力とは違って見た目は貧相だから、できれば見ないで欲しい。
少し熱いくらいの湯に肩まで浸かる。すると、老婆が異臭の源である鍋を掴み、その中身を湯に入れようとしてきた。
ふざけるなよ。手で鍋を掴んで押しとどめると、老婆が悪態を吐きながらまくし立ててきた。
「これは薬だ! 鉱泉に生姜の絞り汁とオークの娘の乳とミノスの男の精液を混ぜたもの。勃起不全にはこれが効くのだ!」
魔術医とやらが単なる民間療法の類いらしいのはこれで分かったが、そんな汚物を全身に塗れさせるのは御免被る。
だが、これを断るということは不能を直す気が無いということになる。それはエスィルトから決定的な不信を抱かれる結果に――と考えたらふっと力が抜け、老婆の持つ汚物が鍋から釜に注がれた。
汚物が水で隠れたので臭いはマシになったと思ったそばから、老婆が大釜を櫂でかき混ぜる。攪拌の度に、汚物混じりの湯が往時の臭気を取り戻していく。俺の鼻が利きすぎるのが最大の原因なのは当然としても、この老婆は鼻がバカになっているんじゃないのかと疑ってしまう。
「まだ最後の仕上げが残っておる。わしが良いと言うまで、頭から湯に浸かりなさい」
このババア、冗談じゃねえぞ。今は手が自由だし縊り殺して逃げてやろうか。
などという思考が浮かんだそばから、こちらを観察しているエスィルトの視線で消されていく。大きく息を吸って、大人しく釜に頭から浸かることにした。
汚物に包まれ、目を閉じたまま浸かる。
そんな俺をよそに、老婆はエスィルトと会話をしていた。
「ふん、男のエルフはこれでいいとして、女のエルフにも話が要りそうだね」
「そうかい」
「ああ、エスィルト、アンタ14回目の懐妊だ」
「まあ、これだけ回数こなすと分かって来るもんだけどねえ。やっぱりそうかい」
「一か月目といったところか。寝た男は同じだろうね? 違ったら面倒だ」
「昨日はそこのアキラ少年と火遊びしようとしたけど、上手くいかなかったからね。間違いなくルキウス・オルクス・トゥルス様の種さ」
「それなら良い。クレプシナに伝えておきな、9か月後には取り上げに行くから、いつも通りに手筈を整えときなって。アキラ! そろそろ上がっていいよ。そら、股間のモノも立派に屹立しておるわ」
こんな汚物風呂に浸かったから興奮するなどあり得ない。
エスィルトの情事を想像したからだ。意識すると余計に興奮が強まる。
「来てよかった。今夜から仕事ができるね、アキラ少年」
麻の短衣を着直して、エスィルトに手錠をかけられながら、俺は恐怖を感じていた。
流されるままに流されていたら、性交をしなければならない流れになってしまった。
生存に直結することなので、それを行うことは徹底して避けたい。しかし、ここから性交を避ける方向に話を持っていくのは何をどうやっても無理ではないだろうか?
皮膚にぬるりとした感触が付きまとう。汚物が乾きだしたのもあるだろうが、これは脂汗だ。
宿に帰りつき、風呂を借りて部屋に戻った後、食堂に通されて料理を食べる。俺は特別メニューだと言われ、出て来たものはエスカルゴと山羊の睾丸をアヒージョにしたものだった。
「食え。精が付く食べ物だ」
と、対面に座った主、クレプシナが言って来た。
基底現実っ子の俺からすると塩気が物足りないのと、食感が単調で楽しくない。
いや、楽しくないのは味わいが原因ではない。これから俺は生死がかかった運否天賦に挑もうとしている。それが緊張になり、味が分からないのだ。
「男娼を扱うのは初めてだったから、お前には苦労させられたよ。しかし、エスィルトによるとしっかり勃つようになったというからな。今夜からは発情期のケンタウロスのように働いてもらうぞ」
言葉を切って、声にもならぬ声でクレプシナは俺を落札した時の額を呟いた。
彼は俺にそれだけの価値を見込んでおり、それだけの額を稼いでもらわなければならない、というのが彼自身にも重圧になっているのだろう。
「そうするしかないのですから、そうします」
俺にもプレッシャーが圧し掛かる。価値を見込まれるのは嬉しい。だが、その価値が俺の帰還可否に直結していると考えると、背中に一筋冷や汗が垂れる。
俺は会話を打ち切るように淡々と答え、淡々と味気のない食事を口へと運び続けた。
陽が沈みかかり、夕方である。
俺は寝台に腰かけ、上の空になっていた。何を考えても絶望しかない八方塞がりが今だからである。
頭は思う存分掻きむしった。どうにかして逃げ出そうとも考えた。手錠の音が何度も俺を引き留めた。この有様で、どこに、どうやって逃げるのか。まともに走ることもできないこの有様では逃げ場も食事もままならないのだ。
この世界で生き延びるには、最初の4人に勝つしかなかった。しかし、俺は最初の4人に勝ったら俺の手で殺していただろう。そうならなくて良かったと思っている時点で、俺はきっとこうしてチートを失い、埋没していくしかなかったのだろう。
俺は弱くなった。
だが、俺は人として正しくなりつつある。
それは良い事だと思う。だから、仮に俺のせいでこの世界が狂っていくとしても、俺がチートを失うとしても、受け入れるべき事なのだろうと、考え無しに結論しようとした。
矢先に、ノックの音が響く。
客が来るには早いだろうと疑問に思って部屋の入り口を見ると、エスィルトが立っていた。
「アキラ少年、少し良いかい」
手で俺の隣を示すと、彼女はとことこと歩いてきて、そこに座った。
彼女は手をこまねき、何を言うでもなく、憂いを含んだ面差しで俺を眺めていた。
ここでエスィルトと二人でいると、性交の危機に思い至った昨日の事を思い出す。そう、あれは昨日のことなのだ。一日先延ばしになった分、余計に気が重くなっているような気さえする。
エスィルトは何度か決心したように顔を上げては、俺の視線にすくんだように言葉を飲み込むのを繰り返している。
俺もエスィルトも会話をせず、互いへの意識だけがある奇妙な雰囲気が寝台に広がっていた。俺は居心地がいいと感じているのだが、エスィルトはどうなのだろう。空気を壊すのも勿体ないと感じて、黙ったまま彼女の言葉を待っていた。
しかし、このまま客が来たらまずいことになるのでは? と思ったので、思い切って話しかけることにした。
「何でしょう、エスィルト」
エスィルトはびくりと体を震わせ、ぎこちなく俺を見つめた。
「変なエルフだね、あんたは」
「よく言われます」
「何で森から出ちゃったのさ」
「マーレ好きが高じて、外を見たくなってしまったといったところでしょうか」
「それでこんな所に来ちゃったら世話無いね。本当に、勿体ない」
本題に辿り着かないようにわざと遠回りしているのは分かった。
しかし、今は夕方だ。陽が沈めば夜になる。夜になれば、いつ客が来るのか分からないのだ。
「エスィルトの初体験はどのようなものだったのですか?」
エスィルトが固まる。
意外だった。彼女は初体験に向けた心構えを教えに来たものだと思っていたから、その方向に話を振ろうと思ったのだ。そうしてみたら、彼女は唇を引き結んで、何かに耐えるように瞳を閉じている。
しばらくそのまま固まっていた彼女は、眦を決して俺を見つめ、俺の胸に手を当て、力を込めてきた。俺の体幹は特別製だ。彼女の力で倒れるようなことはない。だが、これは成り行きに任せた方がいいだろうと思って、彼女のなすがままに寝具へと倒れ込んだ。
「私はね、ブリタンニアに住んでいた部族のね、王女だったんだ。王位継承権は私にあった」
しかし、王女だった、ということは。
「お父様が事故で死んだ後、お母様が女王で、私と妹が共同統治者になる、ってことになったんだけどね。マーレ帝国は男が政治をする国だからなのかな、お母様が女王になることに“待った“が入ったのさ。女が王など罷りならぬ、って言って、私の部族があった土地を併呑しやがった」
嫌な流れだ。その立場から、宿で性交従事者になる流れなど。
「お母様――白銀の二脚狼だった美しきお母様は、私と妹を連れて、ブリタンニアの総督府に抗議に行ったんだけど」
彼女はそこで言葉を切って、俺の胸に手を置いた。
「私の初体験は、その時さ」
なんという事を告白させてしまったのだろう。
砕けよとばかりに、俺は歯を食いしばった。
「護衛の戦士たちはみんな殺されちゃってねえ。母さんと妹ともども、その場で兵士に群がられて、鞭打たれながら、痛い、やめてって泣き叫びながら……それが私の初体験だった」
この感情は、怒りだ。
エスィルトの身に起こった理不尽に共感し、脳が、燃えるような憤怒に吠えている。
だが、それを白状させたのは他でもない俺だ。今、彼女の胸を引っ掻いている思い出は俺がきっかけなのだ。俺自身を責める気持ちが止まらない。
「私たちとお母様はそこでお別れ。お母様は諸部族をまとめてマーレに復讐の戦争を起こしたけど、負けて死んじゃったらしい。私とネッサン、ネッサンは妹ね。私と妹は、貴重なエルフの血が混じった女だからってマーレまで連れてこられたのさ」
起こるべきではない策謀で貶められ、全てを奪われたエスィルト。彼女はその顛末を語りながら、かつてあっただろう怒りに共感している俺を、実態は自分を責めているだけの俺を、平穏な顔で見下ろしている。
その表情には何もない。全てが枯れ果てたような、虚無だけがそこにあった。
「私と妹は色んな主の元を転々としながら、何度もまぐわっては子を孕んで、孕んでは子を産んで……それを繰り返してた。私はもう13回は産んで、産んでは取り上げられてを繰り返したね。
妹はある日、もう嫌だって言って、自分で心臓を引っこ抜いて死んじゃった。私にはできない。そんな死に方はこの下水みたいな国に負けるってことだから」
最後の一言の時だけ、視線に力を取り戻した彼女は、四つん這いになって俺に顔を近づけてくる。
壮絶な事情は分かった。
だが、彼女は何をしたくてここに来たのだろう?
話の顛末を見届けるために彼女の瞳を見つめると、彼女は一瞬怯み、しかし意を決して口を開いた。彼女は俺の耳元まで口を持ってきて、囁くように言って来た。
「逃げないでね、アキラ少年。君も私みたいに、汚れて堕ちて、ここで生きていくんだよ」
彼女の虚無の表情が、醜く歪んで汚物を吐く。
美しいエスィルトの口から吐き出されたその言葉は、この世界に来てから聞いた何よりも汚い願望であった。その願望を正しく表す語彙は俺には無かったが、高貴な姿で、光輝さえ放つ彼女がそんなことを口にするほど腐ってしまった事が、俺は悲しい。彼女を腐らせたこの国が、俺は許せなかった。
美しい彼女を突き飛ばしたいという衝動を自覚しながら、俺は汚い彼女を抱きしめていた。
彼女を引っ掻く痒みに寄り添えればいい。そう思って、俺は初めて本音を吐いた。この一事で、この宿で生き、そして死んでいく覚悟が決まったから。
「逃げません。死にません。私はあなたの側で、汚れながら生きていきます」
「そうかい」
エスィルトは震えていた。汚点さえも曝け出したこの会話で、彼女は全てを使い果たしたのだろうと思った。
奇妙に歪んだ笑みを浮かべて、エスィルトの手が俺の股間をまさぐる。この流れで性交に行くのかと驚く。さっきの話を聞いて勃つわけがないと思っていたが、彼女の手はとても巧みに俺を刺激してきて、否応なく、俺の股間に血が集まる。
震える口で、彼女は俺へと口づけを降らせんと迫ってくる。
口が触れるかと思ったその瞬間、ノックも無しにドアが開かれた。
「ここにいたのか、エスィルト」
「トゥルス様……」
寝台から立ち上がったエスィルトが、呆然としたように闖入者を見つめている。
あれが、エスィルトを孕ませたというルキウス・オルクス・トゥルスか。
彼の長衣は発達した筋肉の形で持ち上げられており、腕も足も丸太のように太い。第1イタリカ軍団で見た、軍団長に比べてもなお頑強なその体の上にある顔は奇妙な特徴があった。
彼は確かにオークだ。豚のようなたるんだ顔、扁平な鼻頭。しかし、オークの豚面というにはたるみが少なく、鼻の形もやや整っている。そして、他のオークと違って髪が生えており、耳はエルフほどではないが長く尖っていた。
その表情に浮かんでいる複雑な表情は、俺には読み取れないものだった。
トゥルスなるオークに向かって、エスィルトが弁明めいた調子で話しかける。
「私はもう孕んだのですから、これ以上抱く必要はないとクレプシナが伝えていませんでしたか?」
「そうだな。そうだとも。だが、確認に来てよかった。私が買い上げたはずの子宮が別の男に汚されようとしている。女とは奔放なものだが、少なくとも私が買い上げている内は貞淑であって欲しいものだ」
「これは”愛の交歓”ではありませんわ。ただ、戯れに遊んでいるだけのことです」
それは流石に苦しい言い訳なのでは、と思っていると、トゥルスは大股で寝台へ、というかエスィルトの方へと向かって来た。
何をするかと思えば、エスィルトの腕を掴み、強く引っ張った。
鋭い悲鳴を上げるエスィルトに、俺は思わず静止の声をかける。
「乱暴ですよ!」
「間男の分際で何を言っているのか。今、この女は私の物だ。奔放には罰が必要だろう?」
それもそうなのだが。否定する論理は出てこないが。
だが、罰とは何なのか。さっきの話を聞いたばかりだ。エスィルトに過度な乱暴を加えると言うなら、俺も流石に手が出る――鎖がじゃらんと鳴る。
鎖が邪魔だ。これでは攻撃ができない。
固まっている俺をよそに、トゥルスがエスィルトの下衣を毟り取った。彼女の裸身が晒され、表情が弱弱しいものになってしまう。
「お願いです、トゥルス様。まぐわうのは構いませんけれど、ここでするのだけはやめてください」
「いいや、駄目だな、エスィルト。お前の火遊びの相手に、お前が私の物だと見せつけなければ気が済まない」
先ほどの絹を引き裂いた音を聞きつけたのだろう、主をはじめとした宿の住人が集まってくる。
剣呑な雰囲気と、事が始まりそうな淫蕩の気配を察して、彼らはドア越しに状況を覗いている。
これは良くない。先ほどの話からすれば、見世物のような状況で事を成すのはエスィルトに最悪の記憶を思い出させるトリガーだ。
オークにしては整った顔を下卑た表情に歪ませるトゥルス。固唾を飲んで場を見守る宿の者ども。ついにはエスィルトが裸身を震わせ、首を振りながらトゥルスから逃れようと藻掻きだす。
「嫌、嫌です。こんなのは嫌。閨事はひそひそとするものですわ。こんな衆人環視でまぐわうのは嫌です」
落ち着いた雰囲気のエスィルトがこうも取り乱すのが、痛々しくて見ていられない。
だが、目を離せない。それが何故なのかは分からない――それは嘘だ。俺はエスィルトの痴態を見たいと思っている。今度は間近で見られるのか、という下卑た欲望が鎌首をもたげる。
その俺の視線がエスィルトを傷つけると知っていながら。俺は今、単なる下衆に堕落した。
「だから罰になるのだろう。そら、ここはブリタンニアだ。お前の処女が踏み躙られた、あの砦だ。さあエスィルト、見せ物を始めよう」
トゥルスがエスィルトの唇を奪い、全てを脱ぎ捨てて全裸になり、彼女の胸を掻き抱く。
事が始まる。エスィルトの傷を抉るような蹂躙ショー。俺はそれから目を離せない。
「たすけて、アキラ」
弱弱しいエスィルトの懇願が、俺の血液を沸騰させた。
視界が真っ赤に染まる。頭に血が上っている。何が間近で見られるのか、だ。彼女の事情を知ったからには、何をおいても止めに入るべきだというのに。
トゥルスを打ち抜こうと寝台から飛び降り、拳を口に寄せたピーカブースタイルをとる。拳を放とうとして――じゃらんと鳴る。拳が、足が、鎖に阻まれて戦闘行動に移れない。
邪魔だ。
俺は鎖を引きちぎろうと思い切り引っ張り、むしろ手首に痛みが走り、血が流れる事に落胆する。やはりこの神鉄の鎖は、何が何でも俺を縛るのか。
「クレプシナ、鍵をよこせ!」
主に対して、荒々しく叫ぶ。
彼はしかし、当然のように――彼の立場なら当然の事だが――無視し、エスィルトの情事を食い入るように眺めている。むしろ、藻掻く俺の姿が邪魔であるかのように、白い目が俺に向けられる。
鎖が邪魔だ。
無駄だと分かっていても、泣いて嫌がるエスィルトを見ていられない。元老院がなんだ。絶対に殺してやる。
がしゃん、がしゃんと鳴る鎖。トゥルスは面白そうに俺を見つめながら、手でエスィルトを弄んでいる。
視界が真っ赤に染まるほど血が上った。
その憤激が、普段ならば絶対にしない、頭の隅にあった選択肢を選ばせた。
鎖が邪魔なら――こうしよう。
トゥルスは面白そうに、エスィルトは絶望的な表情で俺を見つめている。しかし、両者の顔が、不可解を表明するように眉を寄せる。
脳に駆け巡った確信のままに、俺は俺の左手をもぎ取った。
手首を握り潰し、関節を粉砕してしまえば簡単な事。
こうすれば、ほらこの通り。右手が自由だ。
同じように左足を足首からもぎ取り、戦闘姿勢を取る。体の左側が少し軽くなって、バランスを取るのが難しい。
だから何だ、俺は無敵だ。
噴き出す血。束縛の役目を解かれてじゃらじゃらと鳴る鎖。何事かとどよめく住人たち。そして顔色を変えるトゥルス。
「それは神鉄の鎖だな。なるほど、束縛を壊せないから自分の体を壊したのか」
「大正解だよ、ブタ野郎」
激痛の信号が体の二か所から脳へと届く。
口に溜まる唾を床に吐き捨てた。こんなものはエスィルトが受け続けてきた、今受けている痛みに比べれば大した事ではないはずだ。
脳を焼く激憤の炎に身を任せて、雄叫びを上げてトゥルスに突進。
トゥルスは、余裕の表情で、エスィルトを手離して俺へと向き直った。レスリングのように両手を広げ、両足を広げた姿勢。
そのまま体を落とし、足を取るようにタックルしてきた。
あまりにも遅い。俺の特別製の目は動体視力にも優れる。そんな俺にとって、彼の動きは止まっているも同然だ。
彼の顔面を、左手で掬い上げ、そのまま掴んで持ち上げる――。
待て。
左手?
驚きは俺だけではなく、トゥルスの顔にも浮かんでいた。
再び確認して、確かに左手がある事を認める。
まさかと思って左足を見てみれば、そこにはもぎ取ったはずの左足があった。
トゥルスを左手で持ち上げたまま、いくらか思考を回し、俺の体には再生能力があるらしいと、遅まきながら察した。
口が引き裂けるかと思った。俺の口が、自動的に哄笑を迸らせたのだ。
「鋼の肉体! 再生能力! はッ! いいのかよこれ、絶対無敵じゃねえか!」
狂奔する脳のどこかで、現状分析の思考が回る。
考えてみれば、別におかしなことではないのだ。俺のチートは生理的恒常性にも及ぶ。そんな事はダキアの寒冷の中で理解していた事だ。
爪が伸びる。髪が伸びる。怪我が治る。その延長線を極限まで延ばせば、欠損部位が生えるという超常現象に辿り着くのは科学的にも矛盾しないことである。
「貴様、まさか、蛮族の奴隷の分際で神威を持つなど、ありえ――」
「ごちゃごちゃ五月蠅ェな!」
痛みで馬鹿に――ハイになった頭が、トゥルスを握り潰せと指令を出す。
だが、一瞬で潰してしまっては勿体ない。トゥルスはエスィルトの痛みを知るべきだ。
ゆっくりゆっくり、俺が何をしようとしているのかが分かるように、じわじわと力を加えていく。
そうさ、俺は無敵だ。
無敵の俺を怒らせるような事をしたお前が悪い。
――それは他責思考、責任転嫁だ。マニュアルが推奨しない、殺人鬼への変身行為だと、冷静な俺が囁く。
だが、高速で回る過熱した思考がそれを拒否。――こいつはエスィルトを腐らせたマーレそのものだ。
「やめ、やめろ、やめて」
俺の頭は激怒と愉楽で馬鹿になっていた。ドーパミンが止まらない。エンドルフィンがドバドバだ。こいつが苦しそうにするのが楽しい。トゥルスが呼吸をしている事がむかつく。だから、エスィルトの意趣返しだと分かるように、彼がしたのと同じ挑発を返してやる。
「だから罰になるのだろう。そら、ここは死地だ。お前の未来は無惨な無花果だ。存分に怯えろよトゥルス、見せ物の主役らしく堂々と」
みしりと軋むトゥルスの頭蓋。上がる悲鳴。哄笑する俺。
これからどうしよう? そんな問いに対して答えは単純だ。
似たような出来事がそこかしこで起こっていそうなのがマーレ帝国だ。こんな国は滅ぼしてしまおうじゃないか。
やるなら徹底的にやる。サルベージ部隊に、この地に国があった事さえ気づかれないように、念入りに皆殺しにしてやる。エスィルトは助けるが、他は知らない。俺の保身のために皆殺しだ。
調査される範囲は精々が300km半径。チートを用いた分析も行われるだろう。それを全て騙しきってやる。全身全霊の頭脳戦と洒落込もう。
手始めにトゥルスの頭蓋を破壊せんと力を込めようとして。
「やめて! アキラ!」
エスィルトの悲鳴が耳に入って、動揺した隙に、彼女が体当たりしてきた。俺はトゥルスを取り落とす。
どよめく宿の住人達と、痛みに呻くトゥルス。
俺はエスィルトが壊れないようにとあえて力を抜き、床に倒れ込む。エスィルトはそのまま、トゥルスをかばうように両手を広げた。
「やめる? どうして?」
驚きのあまり、頓狂な調子で話しかけてしまう。
このトゥルスというオークは、エスィルトの魂を汚してきたマーレの象徴だ。殺すべきだ。なぜエスィルトが止める?
彼女は口を真一文字に引き締め、胸に手を当てて言い放つ。
「この子は私がお腹を痛めて産んだ子だもの。何が何でも殺させないよ」
呆然とする俺。それはなんだ、実子と性交渉をしていたということになるのか?
インブリードではないか。劣性遺伝子が発現する確率が高くなり、遺伝子病を誘発する危険な行為。なぜそんな馬鹿げたことをしているのだろう?
少し考えて気付く。逆だ。マーレの貴族は劣性遺伝子を発現させたいのだ。
トゥルスの外見はエルフに似ている。尖った耳。整った容姿。エルフの形質は劣性で、発現させるにはインブリードが最も効果的なのだろう。
だが、何故? 何故エルフの形質を発現させたい? いや、今はそんなことはどうでもいい。考えるべきことは他にある。
何を考えるべきだ? 考えろ。
――今後の対応。それが最も大事だ。
俺個人はトゥルスに対して何の感情も持っていない。エスィルトが殺すなと言うなら、トゥルスを殺すのは無しだ。
である以上、その延長線上にある、マーレ帝国を向こうに回した鏖殺も無し。
事情を鑑みれば、エスィルトをこの宿に置いていくのは無しだ。といって路地に放り出すのもありえない。彼女は攫って行く。
だが、どこへ行く? 俺が今まで行った場所を思い出せ。『巨大樹の森』。第1イタリカ軍団基地。寒村。ハイモス山。港湾都市アトナテス。奴隷市デロス島。ダメだ。エスィルトを連れて安住できる土地がどこにもない。
俺は既に自由だ。どこにでも行ける。どこでだって生きていけるだろう。超常の身体能力とホメオスタシス。この体なら毒だって効かないはずだ。森の中で適当に食っちゃ寝していてもサルベージが来るまで生き延びられる。
だが、エスィルトを連れて行くと決めた以上、それは無しだ。俺1人ではないからには、そして同行者が妊娠中であるからには、安住の地を探し出さなければならない。
これから脱走する奴隷の身で安住? そんなことが可能だろうか?
期待できない。そう思って案を却下しようとした瞬間、それを可能にする案――いや、案とも呼べない思いつきが閃いた。
国のトップなら、奴隷の身から解放してくれはしないか?
俺はこの世界では最強だ。大抵の事は実現できる。便利な駒だ、確保したい、と皇帝に思わせられれば、交換条件として俺たちを奴隷身分から解放してくれたりはしないか?
可能性はある。そう思う。何より、その手順を取れたなら、エスィルトを傷つける様々から、彼女を守る盾を得ることになる。
行けるかもしれない。可能性があるならば行くべきだ。
決断してからは早かった。
トゥルスにはもはや目もくれずに、大股でクレプシナに歩み寄り、彼から長衣を剥ぎ取る。抗議する彼を一睨みし、エスィルトの体を長衣でくるんで背負う。
「逃げますよ、エスィルト」
「は?」
きょとんとした声を出す彼女から目を離し、俺は天井に視線を向けた。どうせ行くなら派手に行こう。
軽く跳躍して天井を蹴破る。轟音と粉塵。煉瓦がガラガラと崩れる音が響く。そのままの勢いで屋根に上った俺は、唖然として俺を見上げる者たちへ振り向いて、気取って大音声を張り上げた。
「おさらばだ。姫君は貰っていくぞ」
背中越しに目が合ったエスィルトに微笑みかけて、思い切り屋根を蹴り飛ばして大跳躍。
沈む夕陽に追いつけばいいと思った。俺は今、何よりも自由だ。




