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異世界転移事故事例14号  作者: 北見鷹多
Ⅰ 生存
5/14

Ⅰ-Ⅴ 娼奴

 セクストゥスとの苦い別れに胸をかき乱されつつも、俺はマーレ帝国首都のマーレへと到着していた。

 船から降りた後の道中だが、俺は徒歩だ。俺の他には主に買い付けられた奴隷は居ないので、多数を運ぶための馬車は用意する必要がない。主のゴブリンが乗るケンタウロスとは別のケンタウロスの奴隷をあてがわれ、彼に乗りなさいと勧められた。

 冷静に考え、断った。

 俺の身分が奴隷という低いものであるから、主と同じく人馬の背に乗るなど恐れ多い――などという殊勝な理由ではもちろんない。

 奴隷になってしまったからには、俺の価値を高く見せて好待遇を買わなければならないからだ。健脚を見せれば高い価値を付けてくれるような気がする。

 主はそうかと納得し、彼を乗せた奴隷のケンタウロスと並走する形で首都マーレへ向かう事になった。

 首都までの街道はダキアからアトナテスまでの道と同様に整備されており、俺たちは翌朝に首都へ辿り着くことができた。


 この都市の特色と言えば、まず門と壁がない事だろう。誰に誰何すいかされるでもなく、俺は首都マーレへと入ることが出来た。

 入ると、その都市の雑然とした、しかし重ねた歴史から来る厳粛な雰囲気があった。レンガ造りのその都市は、古い塩漬け肉に似たピンクとオレンジの中間のような色で俺を出迎えた。

 マーレの民の衣装は、下衣の上に長い布を巻き付けた服装である。その長い布は無地のものから種々の色に染色されたものまで複数あった。目抜き通りを通る者の中で、その長い布を身に着けていない者はあまりいなかった。

 その長い布を巻き付けた服装に見覚えがあるどころか、俺はそのものを知っている。あれは古代ローマの正装であるトーガだった。

 またもや基底現実に近い文化を見つけてしまった。ここはマーレ、ローマじゃない、と俺に言い聞かせる。

 ローマじゃない証拠にこの都市でも人間は見当たらない。ゴブリンとオークがほとんどで、他に目立つのは馬車引きをしているケンタウロスくらいのものだ。

 そんな中では俺の姿がよほど目立つらしく、道行く者たち誰もが俺を見ている。

 港湾都市アトナテスでの視線とは違い、最初に来るのは手錠足錠の鎖であった。


「神鉄の鎖だ」


「ならば、奴は伝説に謳われるエルフなのか。ついに捕らえられたのだな」


 俺の敏感すぎる耳には囁き合う声が届いてくる。主は俺を競り落としたのを自慢に思っているのか、ケンタウロスの背の上で堂々と小さな胸を張っていた。





 進んでいくと、あたりの雰囲気が次第に雑然としたものになっていく。長衣トーガを付けずに、酒の入った陶器を片手にフラフラと歩くゴブリン。逆に長衣を纏った姿で、うつろな眼差しで通りを眺めるゴブリン。そんな通りを抜けた先にあったのはレンガ造りの複数階建ての大きな宿場。ここが行き先であるようだった。

 なんでこんな街道から外れた場所に宿が、と不思議に思って立ち止まった俺は、主に急かされ、宿へと入る。

 そして、即座に控えていたゴブリンたちに群がられ、宿に備えられた風呂場へ連れられた。

 彼か彼女かは分からないが、ともかくゴブリンたちは丁寧に俺の旅の埃を払い、全身を洗い、花の香りのする香油を塗りたくっていく。

 新しく渡された下衣は絹のそれ――初めて触った――であり、それを着た俺は部屋へと通された。

 雑居房ではなく、個室である。

 薄暗いが、豪奢な雰囲気の部屋であった。部屋の端に四角い食卓と椅子があり、中央には天蓋付きの寝台が鎮座している。床には丁寧に織られた赤の絨毯、壁には同色の壁掛け布。箪笥、姿見の鏡、燭台。数多の調度品が設えられている部屋だった。

 昼の光が隙間から差し込む両開きの木窓を開けると、俺の部屋は通りに面していることが分かった。しかし、雑然とした通りから上り立つ糞尿や酒の匂いで酔いそうになり、急いで閉じた。


 そのような具合で、俺は部屋に通されてしばらく放置されている。部屋をうろつくのにも飽きて寝具に触ってみたら、その柔らかさと滑らかさに驚愕した。絹の布で作られた羽毛布団なのである。

 俺でなければ気付かないほどにうっすらと嫌な臭いがしたが、とりあえず無視して観察を続ける。

 クッションや枕も備え付けられたそのベッドは、明らかに一人を寝かせるには大きすぎる。

 俺は靴を脱いで寝台に上がり、横になった。思い切り手足を伸ばしたい気分だったが、鎖のせいでそうもいかず、横向きの体勢になる。

 毛織物が被せられた天蓋を横目で見ながら、あまりの違和感に顔を覆ってしまった。


 ――どういうことだ。奴隷の扱いじゃない。


 俺の思考を占めるのはその一言だった。

 風呂を世話されるのが意味不明ならば、個室が与えられたのは輪をかけて不可解だった。これでは奴隷どころか貴族の待遇であろう。

 俺は一体何をさせられるんだ? と不安が募る中、陽も沈みかけた夕方に主が訪れた。その命令は、拍子抜けするほど簡単な仕事内容だった。





「この奴隷、ぜんぜんダメじゃないの!」


 怒れる豚面の貴婦女が、傲然たる足取りで部屋から出ていく。


 俺が指示された簡単な仕事は、しかし客たる豚顔オークの不興を買ってしまった。命令に従っただけなのに。

 主からは「部屋にやってきた貴婦女を抱け」と言われていたのである。

 夜になり、先触れのように入室してきたゴブリンが燭台に火を灯すと、そこから30分ほどでオークの女性が入って来た。

 鎖をジャラジャラ言わせながらも、命令通りにおずおずと抱き着いたら不愉快そうな顔をされてしまった。

 彼女が任せろと言うので、言われた通り寝台に腰かけたのを確認すると、彼女は絹で出来た上等な下衣と面紗ヴェールを奇怪な動作で脱いで裸になり、尻を振りながら体をくねらせ出したのである。

 何度目かの困惑が襲って来て、俺は硬直した。

 尻を振る全裸の貴婦、それを虚無の顔で眺める俺。


 これはなんなんだろう。


 こうして困惑するのが奴隷として与えられた仕事であるわけもない。

 何かをしなければならないと思いつつ、何をすればいいのか分からず、座ったまま彼女を観察することにした。

 女体というものを始めて見たので評価は難しいが、全身に脂肪の乗った姿は丸っこくて可愛らしい印象だ。その上に乗っている豚面も可愛いらしさに一役買っている。

 可愛らしい豚面の貴婦女が滑稽な踊りを踊っていて、俺は奴隷なのにベッドに座って滑稽踊りを眺めている。

 その様子を客観視した時、可笑しさを自覚し、俺はクスッと笑ってしまったのだ。

 瞬間、彼女は踊りをやめ、豚面を真っ赤にして立ち去ってしまった。

 

 一人取り残された俺は、主のゴブリンから叱責を受けることになった。

 確かに客の滑稽踊りを笑ってしまったのは良くないことだろう。しかし、叱られた理由は全く納得のいかないものだった。


「どうして抱かなかったんだ!」


「抱きましたよ。ほら、こうやって」


 と言いながら主に抱き着くと、彼はキンキン高い声で、そうじゃない、離せと喚いている。

 鎖をじゃらんと鳴らしながら主から離れると、彼は眉間を揉みながらため息を吐いた。


「あの御方がどれほど高貴な方かお前には分かるまいが、一応教えてやろう。彼女は栄えある元老院議員たるマーメルクス・オルクス・トゥリヌス様の細君なのだ。彼女が顧客になれば、この宿の名が元老院階級の高貴な方々の間で更に有名になることは間違いないんだぞ。

 ……蛮族バルバリのエルフには分からんだろうが」


 マーレの元老院というのが古代ローマのそれと同じであるなら、それは貴族の中の貴族たちで構成された国会だ。皇帝ですら彼らの承認が無ければ皇帝に成れない。それほどに元老院の権力は大きいものだった。あくまで古代ローマでは、だが。

 なるほど、と思う。俺が彼女を上手くもてなすことで、国家の舵取りさえ担うような階級の者に取り入ろうというのが、主たるゴブリンの考えらしい。

 それでは確かに、俺は滑稽踊りを踊られるどころか踊るべき立場だったろう。俺は、次こそは先ほどのような失態をしないと固く誓い、主の両手を固く握った。――もちろん握りつぶさない程度に加減して。


「私がどれほどの大任を負っているのか分かりました。次こそは、ご満足いただける歓待をしてみせます」


「今度こそは頼んだぞ、しっかりとお客様を抱いてくれ」


 そして次に通されてきたゴブリンの客の前で、先ほどの奥方がしたような滑稽踊りをしてから彼女を抱きすくめると、そのゴブリンもまた憤慨して出て行ってしまった。





 そのゴブリンの細君を最後に、客は来なくなった。

 夜、居室にやってきた主から叱責を受けた。

 俺はと言えば、別の部屋から聞こえる荒い息遣いや奇妙に甲高い声、寝台の軋みと思しき音が耳に五月蠅く、ほとんど神経衰弱状態に陥っていた。

 この奇妙な宿は夜になると騒がしくなるようだった。どういう宿なんだ。

 だから態度は神妙なものにも見えるものだろう。俯いたまま、辛そうな態度で立っているのだ。

 そんな俺の様子を見て主は叱責を止め、妙な事を聞いてきた。


「まさかとは思うのだが、お前は"愛の交歓"をしたことがないのか?」


 "愛の交歓"。どういう意味だろうか。

 雑音のせいで重い頭を振り、首を捻る俺。彼は嘆くように天井を仰ぎ、矢継ぎ早に意味不明の問いを投げかけてくる。どれもこれも俺の語彙にない言葉だった。

 状況を考える限り、俺の失態は事実だ。このままだと主からの評価が下がってしまう。こうなったら、この場でそれがどういった意味合いなのかを推測し、頭の回転を見せつけることで失点回復とするしかない。


 とはいえ、俺の中にある取っ掛かりは"愛の交歓"という言葉と、ここに来てからの出来事だけだ。

 まず、俺がもてなせなかった婦女たちは、"愛の交歓"を求めてこの不可解な宿に来たのだと分かる。しかし、それが何なのかが分からない。

 俺と彼女らの接触例は2件ある。この2つの違いから回答を導くのだ。

 2件とも主の言葉通りに彼女たちに抱き着き、その結果として彼女らの怒りを買った。だから、抱き着くことは"愛の交歓"ではないのだ。

 最初の例ではオークの細君が不可解な踊りを行い、2回目の例では俺がその踊りを真似た。

 ここで踊りというものの意味を考える。踊りとは非言語的コミュニケーションの一つであり、その意味も様々だ。

 祝祭、葬儀、歴史伝承、権力への抵抗。

 言葉を用いないからこそ踊りには多様な意味がある。しかし、最初の客が踊りを通じて俺に何を伝えたかったのかは、先ほど思い浮かんだどれにも相応しくない気がする。


 ――いや、待てよ。


 社交ダンスというものがある。

 これはヨーロッパのワルツを起源とするものであり、基底現代では一種の符丁として機能している。

 ダンスの種目を知っているかどうかという符丁。これによって相手の教育や学習の程度を測り、社会の上層として受け入れるに足るかどうかを量るのだ。

 パーティでは数多の目により幾多の評価に晒されるらしい。夜会に混ざるに相応しい衣装を用意できるのか。語る言葉はどうか。食事や歩行の所作はどうか。夜会の演目たる社交ダンスにどの程度精通しているのか。

 彼女が踊りを踊ったのは、そういう試しだったのではないだろうか?

 俺が"愛の交歓"――なんとも儀式的な名だ――に相応しいかどうかを見定めるための。

 そして"愛の交歓"に際して踊りに適切な対応をできず、また適切な踊りを踊れなかったためにお客様方の不興を買った、と考えてみればどうだろう。

 いけそうだ。この線で“愛の交歓”が何なのか考えてみよう、

 ……奴隷相手に何を試すっていうんだ?


 脳裏に聞こえた囁きで思考が止まる。

 そう、俺は奴隷だ。実際、俺は彼女を満足させられなかったのは踊りに応じなかったからではなく、その後の俺の失笑が原因であろう事は分かる。

 だから、彼女の怒りは儀式の符丁に応じられなかったから、といった意味合いではないのだ。

 いや、だが、しかし、例えば――頭の中で様々な検討がぐるぐると周り、これといった答えが出ないまま、俺は固まってしまった。


「乙女にするが如くしなければならないか」


 固まったまま主を見つめる俺を見て、主は一言呟き、今日はもう休めと指示を出して部屋から出て行ってしまった。

 まずい、失敗続きだ。挽回もできていないまま。

 せめて休めという命令くらいは黙って従うか、と思って寝台に潜り込むと、この宿が齎す不快感を思い出した。

 休めと言われたところで、この奇怪な宿で安眠などできようはずもないのだ。

 寝台のそれと思しき奇妙な軋みたち、巨大狼のそれに似た荒い息遣いたち、嗚咽にも似た声々。この寝台からも、うっすらとだが、嗅いだことがない、えたような臭いがしている。身体チート特有でなければ気付けなかったろう不快感だが、身体チートを解除もできないために俺はそれに悩まされている。これでどうやって眠れというのか。

 この奇妙な宿から聞こえてくる不快な物事もまた、"愛の交歓"に伴う諸要素なのだろうかと思って、ぐるぐると頭の中で検討を重ねている内に、俺の意識は落ちた。





 眠ってしまえば、目覚めは爽快である。

 この世界に来てから色々あって疲れていたのもあるだろうし、これまでとは別格に寝具が良いからだ。絹の下衣と絹のシーツは非常に肌触りが良く、夢も見ないほど深い眠りへといざなってくれた。

 とはいえ、状況と任務の不可解さは未だに解消されていない。


 整理してみよう。

 俺は今、奇妙な宿にいる。どう奇妙なのかというと、雑然としたスラムめいた通りの中なのに、異様に豪奢な作りなのだ。

 まだそれはいい。宿が招いている客は元老院階級の女であるらしく、金持ちであろうから、彼女らを満足させられれば宿の建築費とランニングコストはペイできるのだろう。

 分からないのは、客を満足させるための儀式と思しき“愛の交歓”というものである。

 それは恐らく滑稽踊りと関係があるだろう事は分かっているが、やはり不可解な点が多い。


 などと、悶々と考え続けていると、部屋のドアが開かれた。

 現れたのはもちろん主だが、今度はもう1体を伴っていた。

 急いで寝台から降り、直立して2体を出迎えた。

 主が伴って来た個体だが、まず身長が高い。ゴブリンの主はもとより、172cmある俺より頭一つ高い。黄金を梳いたような長い髪の毛は頭の後ろで一つにまとめられており、活動的な印象を与えてくる。射るような鋭さの視線が、値踏みするように俺を見つめる。それは猛獣を思わせる切れ長の青い瞳だった。

 恐らく女性である。恐らくというのは、絹の下衣を着ているのは当然として、五体が黄金の体毛に覆われているのだ。女性は化粧の匂いがするから分かるのだが、彼女は顔から手まで、そして恐らくは下衣の下も金の体毛を生やしており、化粧をしていない。

 獣人。彼女は黄金の獣人だった。女性ならば持っているだろう、男のそれとは違う様式の胸の盛り上がり方と尻の丘陵が、彼女が女性であると伝えてくる。彼女の体は男の引き締まったそれとそう変わらず、鍛錬を積んでいる事が伺える体である。

 しかし、この程度は特筆事項でもないと思えるほど、彼女は特別な要素を備えていた。

 長い耳。黄金比を思わせる目鼻立ち。彼女は獣人であり、エルフだったのだ。

 そんな女を伴って来た主が語り出す。


「私がお前を活用するには、然るべき手順を踏む必要があると分かった」


 手順。

 昨日の去り際に残した「乙女にするが如くに」とはそれなのか。

 それでは、と黄金のエルフを残して主が去っていく。

 腰を折って主を送ったエルフが、所在なげに突っ立っている俺を通り過ぎて木窓を開けた。朝の光が差し込み、部屋を照らしてくれる。

 しかし気分爽快とはいかない。朝の空気で緩められてはいるが、通りから饐えたような臭いが漂って来る。思わず顔をしかめた。


「少年、陽の光は嫌いかい? 名は何という?」


 不思議な音韻のラテン語が獣人エルフの口からこぼれ出た。

 と思ったら、彼女の雰囲気が緩み、あくびと伸びをして寝台に腰かけた。

 彼女が手で招いてくるので、俺も彼女の横に座ることにする。

 人ひとり分程度の間を開けて座った俺は、胸に手を当てて自己紹介をした。


「私はアキラ。陽の光ではなく、臭いが苦手なのです」


 彼女は驚いたように目を丸くし、俺をじろじろと見つめてくる。


「貴族風のマーレ語だ。所作に優雅さは無い。しかも『巨大樹の森』から来たっていうのに――」


 早口でぶつぶつと呟いて、俺の視線に気づいてハッとした彼女は自己紹介を返してくる。


「私はエスィルト。すまないね、昨夜も仕事でさ。今度のお客様は少し激しいから眠くてね。ま、ちゃっちゃと始めちゃおうか」


 などと言いながら、今度は立ち上がる。

 落ち着きがない女だな、と思っていると、エスィルトは下衣を脱いで、黄金の体毛に覆われた体を顕わにした。

 均整の取れた体だ。体毛も滑らかそうで、朝の光を受けた黄金の毛がきらきらと輝き、俺は思わずため息をついた。

 そんな俺の観察する視線を受けて、彼女もまた俺を観察しだす。

 俺と違って、彼女は喋りながら考察するタイプらしく、ぶつぶつと喋りながら俺を見つめていた。


「耳が尖っていない。本当にエルフ? お父様とは似ても似つかない。昨日はオークとゴブリンが相手だから勃起しなかっただけかと思ったけど、私を見てもびくともしてないってことは、性に関して無知なのかな? 『巨大樹の森』のハイエルフなら、そういうこともあるか」


 全部聞こえているんだけど、それはいいのか――いや、俺の耳が特別製だから聞こえているだけだ。よくない。

 性に関して無知、というのが現状に繋がっているのは分かる。

 性別は分かる。人には男と女がある。しかし、昔ならともかく、今では大した意味もない要素だ。だから、性に関しては俺を教育してきた老人たちの医学知識の中に含まれる程度の事しか知らない。

 そういえば。昨日この部屋にやってきた客は両方とも女性だった。

 男女が揃うことが、"愛の交歓"とかいう儀式に関係する事なのだろうか? 男女一揃いという要素に思い当たる節はあるのだが、喉の奥に引っ掛かる感じで、うまく言葉にならない。

 まあいい、エスィルトに聞いてしまうか。主に質問しなかったのは、俺の無知が低評価に繋がりはしないかと危惧したからだ。存分に評価が下がったと思しき現状なら、むしろ質問する態度の方が高評価に繋がるだろう。


「質問してもよろしいでしょうか。"愛の交歓"とは何ですか?」


「"愛の交歓"、ああ、主の言い回しだね。彼は詩的な表現が好きだから。性交の事だよ」


 性交。思い出したものが合っているかと思い、首を捻って精査していると、彼女は顔を覆ってしまった。


「ハイエルフだから知らないのかね。ほら、森にも子供くらいいるだろ? 男と女が交わらなければ子供が生まれないんだよ」


「ああ、――いえ」


 言葉を飲み込む。

 危ない、基底現実のことに言及するところだった。

 というのも、俺の基底現実では性交による人口生産は行われなくなって久しいのだ。生産に伴う死亡や、生産に伴う妊婦の生産性低下、遺伝子デザインができないなどの不利益が問題視され、今では性交などという言葉は死語である。リスクを考えて、娯楽として行うことさえ避けられるような。思い出そうとしなければ出てこないような、身に覚えのない概念だ。

 言われてみれば当たり前なのだが、中世水準の文明レベルでは人工子宮などあるはずもない。彼らは性交によって人口生産を行っているらしかった。

 本当に危なかった。「ああ、昔はやっていたらしいですね」と口走るところだったのだ。

 そんな事を言えば芋蔓式に基底現実の事が露見する。そうなれば彼女を口封じするかサルベージ隊に罰されるかの二つに一つを選ばなければならない。どちらも嫌だ。


「どうしたね、アキラ少年」


 答えに窮して頭を回す。どうにか自然に答えなければ。


「知識としてはあったのですが、経験がまるでないもので。私に出来ない仕事などないと思っていたのですが、これからどうしようかと困っていた所です」


「ま、そのために私が連れてこられたわけだよ」


 ふむ。

 ――いや待て。

 俺がするべき仕事が性交であり、俺はそれに関して無知だ。そしてこの部屋に、無知な俺と熟達と思しきエスィルトが居る。

 つまり。


 これからの展開に気付いた俺が身構えると、エスィルトは裸のまま、奇妙な笑顔でにじり寄って来た。

 まずい気がする。何がまずい? 少なくともマニュアルに性交禁止のようなルールは無い。あったらもっと前に思い当たっている。

 ルールには無いが、このまま性交を行ってしまうとまずい事になる気がする。俺の中のカンが鋭い部分がそう言っている。

 エスィルトに掌を向けて制止する。彼女は不満げな態度を見せたが、ひとまず状況を停滞させた俺はそのまま手を顎にやり、少し考えてみることにした。

 まず、俺があれだけの高値で競り落とされた理由は何か? エルフだと誤解されていたからだ。エルフの性交用奴隷には元老院階級の客がつくからだ。それは何故だ?

 外見が美しいからではない。美醜の基準が人間とは違うこの世界の民にとって、エルフの美しさは無価値である。美しさに価値が付くのだとしたら、俺のような凡庸で平板な顔立ちの男が高値で競り落とされるわけがないのだ。

 外見が理由ではないなら中身か。

 具体的に思いつくものと言えば、性格や技術。エルフは性格が良い者が多いから上客が付く? あるいはエルフは性交の経験が豊富だから? どれも違う気がする。

 悩む俺に呆れたらしいエスィルトは、相変わらず下衣を脱いだ全裸で――といっても全身が黄金の体毛で覆われていて肌は見えないが――俺の隣に座った。


「アキラ少年」


 真剣な声色だったので、一旦思考を打ち切ってエスィルトの方を向く。猛獣を思わせる青い瞳が、一直線に俺を射抜いていた。


「君がどういう経緯でここに来たのかは知らないよ。でもね、どう足掻いたって君は春を売ることでしか生きられない身分になったんだ。高級娼婦の私が徹夜の身を押して教えに来てるんだし、ここは腹を括って練習をするべきじゃないのかい」


 そう言って、俺に向かってにじり寄るエスィルト。

 確かにそうだ。俺は全身から力を抜き、腕を頭の上に、足を肩幅に開いた状態で寝具に寝そべる。

 鎖がじゃらりと鳴り、しかし静かになった。エスィルトの喉が唾を飲む。俺が彼女にとって魅力的に映っているのならば良いのだが。美しい彼女と初めての性交を体験できるということは、恐らく望外の幸運でもあろう。

 彼女の手がゆっくりと下衣をめくりあげ、股間にあるものをまさぐる。性交にはこれを用いるということくらいは何となく知っているから、俺も逆らわずに彼女の手を受け入れた。

 奇妙な刺激が体を襲う。思わず目を瞑り、顎を引いて、俺の喉が出したことのない声を出した。


「初めての男とまぐわうのは最初の事でね。快楽で死なないように気を付けな、少年」


 彼女の獰猛な舌が俺の股間のものに触れんと迫る。その様子を眺めながら、俺は思考を再開していた。

 俺は基底現実からのサルベージが来るまで、この宿で性交をし続けて生きるしかないのだろう。

 それが嫌ということはない。このような恍惚的な刺激を感じ続けられるなら、むしろ望む所だ。

 避妊具が無いからには俺の子供ができることもあるのだろうが――待て。

 奇妙にのぼせた思考を冷やし、上ずった声で問いかける。


「エスィルト、確認させてください。私たちは奴隷身分ですよね」


 少しだけ眉を顰めたエスィルトが、沈んだ声音で答える。


「そうだね」


「では、客との間に子供ができた場合はどうなるのでしょう。この宿で育てるのですか?」


 彼女は俺の陰茎から手を放し、顔を背けて、絞り出すように答えた。


「……いや。客が引き取っていっちゃうよ。妾腹の子として育てるんだとさ」


 腹筋を使って跳ね起き、再び顎に手をやって考える。

 エスィルトは不満げな表情で、目と鼻の先、四つん這いの姿勢で俺を見つめている。彼女の熱っぽい視線を受けながら、俺の思考はどこまでも冷えて行った。


 奴隷との子供が、貴族の子弟として引き取られる? なんだそれは。どんな社会制度だ。

 疑問に思ったが、しかし、考えてみたら納得がいった。

 元より性交は子作りのための行為。本来なら貴族は貴族と交わって子を成せばよい。

 その中であえて奴隷、特にエルフとの性交を選ぶというのは、エルフとの間に子を作ることに何かしらのインセンティブがあるからに他ならない。それがどういった利点なのかは分からないが、しかし何かしらがあると考えるのは妥当に思う。

 だから、俺に期待されているのは、ただ性交する事ではない。むしろその先、子作りこそが俺に求められている事なのだ。

 ここで気になることが一つ。

 

 チートは遺伝するのか?


 原理上、基底現実ではチートが発現しえない。かといって、保護が原則の異世界で大々的に実験をするわけにもいかない。だから、恐らく今回の俺が初めてのチート遺伝の問題に直面した事例だ。

 マニュアルに無い事態に遭遇することも現地ではままある。これも自分で考える場面だろう。


 前提だが、チートを遺伝させてはならない。

 これは異世界の文化・文明を保護するためにも絶対条件だ。物理法則に反する異常存在がこの世界に生まれてしまっては、健全な文明の発展など望めまい。だからこそチート能力者は王やら皇帝やらの権力者になってはならないのだ。アウェンティネンシスとかいう別基底の人物を唾棄したのはそういう理由だ。

 チートが遺伝する可能性は分からない。俺を強化しているチートの性質を軸に考えてみよう。

 結論から言うと、俺の体を強化しているチートは遺伝子改変が原因ではない。

 細胞の入れ替わりには時間がかかるからだ。全身の細胞が強化細胞に置換される形式であったなら、俺が異世界に降着した時点で馬鹿げた強度を得た事実と矛盾する。

 よって、俺の体の強化はメタ世界的位置エネルギーに支えられる形で成されていると結論してよい。

 俺のチートが遺伝子改変ではないなら子供にチートが遺伝することも無い。親が怪我をしたら子供にも怪我が遺伝したりしないように、外的要因による獲得形質が遺伝することはないからだ。

 ――と安心するのはまだ早い。むしろ話はここからだ。


 獲得形質は遺伝しうる。

 エピジェネティクスというシステムがある。

 これはDNAの塩基配列に変化を加えない、遺伝子の調節機構だ。

 まず、DNAはRNAに転写され、転写されたRNAを設計図としてタンパク質が生成されるという形で細胞、そして肉体は作られる。

 DNAからRNAへの転写の際に、どの遺伝情報を取捨選択するかによって発生する形質が変化しうる。この取捨選択によって形質を調整する機構がエピジェネティクスである。

 調節機構(エピジェネティクス)外的要因ストレスによって変化しうる。そして、この調節機構(エピジェネティクス)というものは遺伝しうる。

 要するに、後天的に獲得した形質でさえも遺伝する可能性があるということだ。

 遺伝子と違って、チートの発生機序は完全に解明されているわけではない。だから、チートが遺伝しないとは限らない。それならば、むしろ遺伝するかもしれないと考えるべきである。

 少しでも俺のチートが遺伝する可能性があるとしたら、やはり子作りをするのはこの世界にとって良くない。子作りに繋がる性交渉も避けるべきだ。


 更に、その先にも思考の手が伸びる。

 俺の身体強化チートがエピジェネティックな変異によるものだとしたら? メタ世界落下によって発生したエネルギーがエピジェネティックな変異をもたらしているとしたら?

 俺のチートの発生機序は調節機構(エピジェネティクス)によるものということになる。

 ならば、調節機構(エピジェネティクス)の遺伝は、俺と俺の子供の間でRNAへの転写時にエネルギーを取り合う状況をもたらすはずだ。

 結論。チートが遺伝すると俺のチートが弱くなる。

 ぶわりと冷や汗が出た。よほど顔色が悪くなったのだろう、エスィルトが目を丸くした。

 何度も筋道を辿り、異論の余地がない事を確認。結論は変わらない。チートが遺伝したら、俺のチートは弱くなる。

 ――許容しかねる。この身体能力が俺の生命線だ。絶対に手離せない。


 問題はそれだけではない。

 チートが弱くなったが最後、基底現実に帰還できなくなってしまうのだ。

 基底現実のサルベージ部隊は、あくまで転移者の鎮圧と迅速な事後処理のために派遣されてくるものである。加えて、正しい方向にメタ世界跳躍するための誘導灯でしかない。基底現実からのザイルではないのだ。

 メタ世界跳躍に必要なエネルギーこそが、この体に備わったチートだ。これを捨てた反動がなければ、高エネルギー準位の基底現実に向けた世界間跳躍は不可能。

 子作りをして、仮に子供にチートが遺伝したとしたら、俺はチートが弱まった状態で、この世界に留まることが確定する。

 ダメだ、性交にはリスクが多すぎる。


「少年、アキラ少年、どうした? 怖いなら大丈夫だぞ。男は初めてでも痛くないと聞く」


 冷や汗を流して顔を青くしている俺の様子を見て、何かを勘違いしていると思しきエスィルト。というか女は痛いのか。大変だな。

 恐らくチートが遺伝すると考えられる以上、性交を行う危険は冒せない。

 だから、のしかかる態勢のエスィルトから素早く離れ、寝台から降りて下衣を整えた。

 あれだけの快楽を感じさせてくれたエスィルトに、それを中断する合理的な言い訳をしなければならない。これは非常に難儀な事だ。

 どうしたものかと考えていると、彼女もまた、俺と対面した客たちのように、形の良い唇を一文字に引き締めた。

 瞳は最初と違って力無く、寝具に置いた手の甲を眺めている。頬が奇妙に捻れていて、全く造型が異なるのに、その表情から別れ際のセクストゥスを思い出した。


「そうかい、少年。こんな汚い商売女とはしたくないか」


 汚い? なんのことだろう。

 エスィルトは美しい。リスクさえ無ければ喜んで性交というものを体験したい。しかし、事情が事情だけに俺の考えをそのまま伝えることもできず――。

 まごまごしている内に、同様に下衣を整えたエスィルトも寝台から降り、大股で去って言ってしまった。

 エスィルトと入れ替わるように入って来た主が、今後を考えるので待てと言って来た。俺は部屋から出るでもなく、考えることに時間を使うことにした。

 食事は運ばれてこなかった。その方がありがたい。思考に時間を使える。

 だが、思考はまとまらなかった。

 エスィルトを苦しめてしまったという後悔と、どう伝えれば良かったのかという葛藤が脳内でさざめく。俺はまとまらないバラバラの考えを並べ続けて、そのまま夜が来た。


 今夜も、奇妙な軋みと獣の息遣い、そして嗚咽のような声が宿に響いている。俺の特別製の耳は、その中にエスィルトのそれを聞き取っていた。


 昼に喋っていた不思議な音韻のラテン語ではなく、俺が喋っている時のような、彼女曰くの貴族風のラテン語。楽しげで軽やかな、しかし囁くような声は、段々と震え、掠れ、突発的なしゃくりあげのようなスタッカートが混ざり、最後には彼女の声も獣の息遣いに紛れていってしまう。

 初めての感情を自覚した。股間が熱く熱を持っている。

 その日は、一睡もできなかった。

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