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異世界転移事故事例14号  作者: 北見鷹多
Ⅰ 生存
4/14

Ⅰ-Ⅳ 奴隷

 登山の苦労は凄まじい――らしい。まず単純に登坂が辛く、進むだけ増す寒さもある。それ以上にげんなりするのが、斜度が付いた地面を行くことだ。同じ時間だけ進んでも、高さ方向にも進む分だけ、水平方向での移動距離が短くなる。山のせいで旅程が伸びるのだ。

 俺は平気チートだが。

 もう要らないし檻なんか捨てていきましょう、と話を振ったら、4人に猛反発を食らった。

 先帝の作り出した神鉄の檻は非常に貴重で、第1イタリカ軍団にも1つしか無いほどだというのだ。

 人馬アメテュストゥスが言うには、


「そもそも、国家の資材を簡単に捨てるなどまかりならぬ」


 ということらしかった。

 次いで、登山に挑むからには、ということで荷物を交換して整理する運びとなった。

 今までは各人が武器に加えて個人の糧食、着替えといった個人装備を背負っていたが、天幕や料理鍋などの部隊装備はピソの次に携行能力の高いドワーフ(ケントゥマルス)持ちだった。

 なぜピソが持たないのかといえば、彼は部隊最大の荷物である檻と台車と俺を運んでいたからである。その最大の荷物が丸ごと消えたからには、部隊装備がピソ持ちになるのは当然の運びであった。

 とはいえ檻を置いていくわけにいかない以上、どうにかして神鉄の檻も持っていく必要がある。檻の中に部隊装備を詰めるのも、出し入れの手間がかかって良くない。何よりピソに負荷がかかりすぎる。

 そういう運びで、俺が檻を運ぶことになった。


「分かってはいたが……」


「うむ……」


 などと、不気味なものを見るように言う態度は、彼らなりの冗句だと思う。

 ピソの他は身軽な状態での登山である。

 しかし、身軽だろうがなんだろうが登山は登山なのだ。

 俺は平気だが、平気ではない彼らを見るのは辛いものだ。なんといっても、仲間と感じている相手と労苦の感覚を共有できないというのが、疎外感を覚えてしまう。

 彼らの方は、全く平気そうに坂を行く俺に対して、特に思うところはないらしい。気晴らしに俺へ話しかけてくることが度々あった。


「なぜそうも平気そうなのだ……」


 とアメテュストゥスが問えば、


「平気そうではなく、平気なのです。これは冗談ですが、あなた方を檻に入れて輿こしのように運ぶこともできますよ。――睨まないでください、冗談だと言ったでしょう」


 と返すような具合である。

 元は農家の出らしいケントゥマルスが言うには、このような声掛けは労作歌に似たものらしい。辛い農業を楽しくやり過ごすための楽しみ。日常祝祭ハレを持ち込んで辛さを和らげようという工夫である。

 逃避じゃないかと思ったが、逃避だとしても上手く使えているし結構な事かと納得したものだ。

 そんな労作歌まがいの雑談の中に、非常に重大なものが紛れ込んだ。それはセクストゥスが言い出したものだった。


「奴隷身分から抜け出す方法は知っているか?」


 俺の中の奴隷のイメージといえば、アメリカ南部の黒人奴隷のそれだ。

 生地から連れ出され、生まれてから死ぬまで鞭打たれながら働く身分だと。俺もそうなるものだと思っていた。

 考えていたことと言えば、鞭打たれる時に体に力を入れたら鞭先が跳弾めいて雇い主に跳ね返りそうだな、程度。

 奴隷身分から抜け出すことは想定していなかった。

 というか、逃げ出すことさえ選択肢にあったので、まともに考えていなかったという方が正しい。

 これはきちんと聞いておかねば、と心の中で居住まいを正して答える。


「いえ、知りません」


 ほう、という顔をするセクストゥス。


「エルフには奴隷制度が無いのだな。では知っておくがいい。奴隷はな、貨幣を貯めて自分を買い取れば自由身分になれるのだ」


「貨幣って……給料が出るんですか!?」


 思わず叫んだ。奴隷に給料が出るだと?

 なんだなんだとこちらを見る3人。大したことじゃない、と言いながらしっしっと手で払うセクストゥス。俺は頭を回すので一杯だった。


 奴隷というのは、要はモノになった人である。

 人権を剝奪され、売買され、主人にかしずかなければ明日も危うい。それが奴隷だ。

 言葉が通じて細かい作業ができるものの、力仕事に向かない"家畜"というものが奴隷だと了解していたのである。

 そのような立場から奴隷の人々を救済したのが人権思想であり、人権思想を下支えしたのが産業革命なのだ、と授業で教わって納得を深めたものだったのだが。

 ともあれ、モノに給金を支払う人はいない。であるならば、マーレにおいて奴隷は人である。否、ヒトはいないから、そう、民なのだ。

 じわりとした感動を覚えた俺は、よほど明るい顔をしていたのだろう。


「ああ、まあ、そこまで喜んでもらえるなら何よりだ。うむ、言っておいてよかった」


 こほん、と咳払いをしたセクストゥスが、続きを話し出した。


「自分の価値を安く見せろ」


 怪訝そうな俺に彼が言ったことをまとめると、大体このような事だった。

 奴隷が買い取る自分の値段とは、最初に買われた時の買値に等しい。

 高値を出すほどではないと思わせれば安く買われ、安く買われれば自分を買い戻すのも比較的容易になるという次第であった。

 疑問が一つある。


「安く買ったからには、安い給金しか支払われないのではありませんか?」


「そんなケチな者はマーレの市民ではないな」


 気前の良さこそがマーレの美徳ヴィルトゥスだという。

 費やされるべきには費やすべき、がマーレの民の考える美徳なのだと。

 だからこそ、俺には安日当でこき使われる未来はない。


「ほら、アキラは神鉄の檻さえ簡単に持ち上げられるような剛力であろうが」


 そうなのである。

 これが異世界転移で発生しただけ、運否天賦のズル(チート)である事実から来る罪悪感さえ別にすれば、俺が非常に高パフォーマンスなのは事実なのだ。

 どのような仕事に回されようが、俺が活躍できない未来は想定しづらい。


「まあ、精一杯うまく立ち回れよ」


 セクストゥスの激励を笑顔で受けて、俺は登山に集中しなおした。





 現地名、『ハイモス山』は山脈である。

 登山は初めてなのだが、この山脈というのは登山において本当に良くない。初心者ながらにそう思った。

 まず、山には頂上やら尾根やら、下から見ても分かるひとまずのゴールがある。

 しかし、山脈であるからには、頂上の先に別の山があるのだ。


「また登ると分かっているのに下るのはな」


 ケントゥマルスがぼやく。

 俺も同意だった。大して疲れていないとはいえ、また登るために下らなければならないというのは本当に下らない事だと思ったのである。


 行為には行為に値するだけの見返りが欲しいもの。

 登るという苦労のために下るという苦労を重ねるのでは、まったく釣り合いが取れていないと思った。

 いやまったく、ここに街道が無く、灌木かんぼくと土の坂道が広がっていたならば、俺は我慢の限界が来て、アメテュストゥスに吐いた冗談をそのまま実行するところだっただろう。


「そう言うな。この街道を建築した技師たちに感謝すればこそ、愚痴はあっても文句は出るまいよ」


 セクストゥスの言葉で気付いた。

 街道が伸びているのである。


「この街道も奴隷の手によるものなのでしょうか?」


 この問いにはアメテュストゥスが割って入った。


「石切やらの実務は奴隷の仕事であろうな。この街道、ティターナ街道の構築を命じた財務官クァエストルの名は残っているが、奴隷や技師の名は歴史にならない」


 ほら、と人馬の鍛え上げられた指が山頂を指さした。

 気になって一足先に駆けだし、檻を置いてアメテュストゥスの示したものへと近づく。

 それは石碑だった。

 碑文にはこうある。


『ここが山頂。ティトゥス・ゴブリウス・タルナ。財務官』


 碑文を指でなぞりながら、奴隷の名も技師の名も無い事にため息が出た。

 もちろん、こうして街道を作る事を考え付いてくれたタルナなる財務官にも感謝するべきなのだが、俺が本当にありがたがっているのは、石切り場で石を切り出し、運び、配置して街道とした奴隷と、その指揮者である技師のはずなのに。


「ティトゥス・ゴブリウス・タルナ? 知らん名じゃの」


 ケントゥマルスが俺の上から碑文を覗いてそう言った。


執政官コンスルにでもならなければ、我々のような田舎者には知られんとも」


 そう言って、ピソは石碑に一瞥もくれずに歩み去っていく。


 悲しいのはどちらなのだろう、と思った。

 名も残らなくて当然とされている奴隷や技師か。

 石碑にしか名前が残らず、後世の者に知らんと言い捨てられるタルナ財務官か。


 ――どっちもだな。


 石碑の表面を一撫でした俺は、再び檻を担いで4人に付いていくのだった。

 山脈の行軍はまだまだ続く。ゆっくりしている暇はないのだ。





 山脈を踏破しきるまでは更に1週間を要した。

 食料は想定通りの減り方だが、カビが生え始めたものがいくらかある。

 だとしても、俺にとっては総合的に評価すれば状況が改善されたと評すべきであった。

 なんといっても。


「寒くない!」


 山の上があまりにも寒かった分もあるだろうが、暖かいとは言わずとも、指が痺れて身が裂けるような極寒ではないのが本当にうれしかった。

 携帯食もカビさえ払えば食べられるし、そろそろ人里にも着くだろうしと思って気分が高揚している。

 加えて、山を挟んだこちらでは商業活動が成立しているらしく、小麦運びの馬車を引くケンタウロスと度々すれ違った。

 この世界では初めての小麦パンは、黒パンのような酸っぱさが無く、甘味さえ感じる豊潤さで、セクストゥスのマーレ風ピザの味わいも倍増しであった。


「極寒の地に住まうエルフとは思えんはしゃぎようじゃの」


 ぼそりとケントゥマルスが言い、俺は少しずつ気持ちを抑える事にした。

 最近は気が緩んでエルフ偽装がおざなりになりがちだったのである。

 疑惑を持たれないように、新天地に来てはしゃいでいる、程度に思ってもらわなければいけない。


「とはいえ、森が少ないのは気になりますね」


 森が少ない上に畑が多い。山を下りてからこちら側ではなだらかな丘陵が広がるばかりで、森といえるほど大規模な木々は見当たらないのである。

 アメテュストゥスが答える。


「こちらはかなり開拓が進んでいるのだろうな。歴史の長い土地だし、木は殆ど家に変わってしまったのだろう」


 こういった地理や地勢に関するアメテュストゥスの知恵はかなりのものだった。勉強になる。

 進みながら景色を眺める。

 丘陵を登り切ると、嗅いだことのない匂いを孕んだ風が吹きぬけた。

 なんの匂いだ? と鼻孔を広げる。なんとなく懐かしい気持ちのする匂いだが、確かに初めての匂い。

 同時に、今いる丘から更に南に、丘を中心した都市が広がっているのが分かる。

 丘の上には白亜の建造物。――写真で見たパルテノン神殿に似ている。

 それの背景に、初めて見るものがあった。

 写真で見たことくらいあるし、知識では知っているが、初めて見るもの。

 海である。


「海は初めてか、アキラ。潮の香りも初めてと見えるが」


 アメテュストゥスが言った。

 微笑ましげな、緩んだ表情だ。


「ええ、初めてです! 歌に聞いたことはありますが、こうも大きく青いとは」


 エルフ偽装をしようと思った矢先だが、偽装も要らないほど本心からの言葉が出てくれた。

 大きく青い生命の根源。冬の低い日から放たれた光が、海の照り返しを受けて目に刺さる。

 それは眩しいけれど、見ていたいと思える煌めきだった。





 台車を引き、檻を担いだ一行が都市へと入る。

 森を切り開ききってしまったというからには木造都市なのだろうと思っていたのだが、門も壁も、通りの家々も石造りだった。

 門をくぐると、ワッという歓声が聞こえる。

 なんだ、こんな歓呼の声で出迎えられるような身分なのか俺たちは――と思って誤解に気付く。

 歓声ではない。喧噪だ。そう勘違いするほど、この都市は賑やかだった。

 通りに並ぶ店、店、店。食料品だけではなく、服飾品や巻物の店もある。

 商う民で一杯の通りにはオークが多い。とはいえオークだけではなく、ゴブリンやコボルド、人馬ケンタウロス単眼巨人キュクロプスも見受けられる。

 通りに聞こえる言葉に耳を傾けると、それはラテン語ではなくギリシャ語だった。

 分かっていた事だが、ここにも人間はいないらしい。


「ここがアトナテスだ。名前くらいは聞いた事があるだろう?」


「ええ、まあ」


 無い。しかし、公用語がギリシャ語であり、パルテノン神殿に酷似した建物があるからには、ここは基底現実のアテネに相当する都市なのだろうと思った。

 商いに熱中する人々は、最初の内は俺たちには目もくれずに商談を繰り広げていた。新鮮な小麦を宣伝する声、鮮魚の美味さを喧伝する声。俺たちのような兵士こそ珍しいものの、目を引くほどではないらしかった。しかし、俺の異常は次第に耳目を集め出す。

 道行く誰もが俺の平坦な顔つきに目をやっては手錠足錠に目を移し、「ああ、奴隷か」といった具合で目を逸らす。

 しかし、その俺が、俺の背丈よりも相当に大きい、幅にして俺10人分、高さにして俺2人分が入るほどの檻を軽々と担いでいるのに気付いては2度見する。

 そして、2度見してから俺の異様に気付く、コボルド、ゴブリン、オーク、ケンタウロス、キュクロプスたち。ざわざわ声が耳に入る。


「見ろよ、檻を担いでる」


「それくらいキュクロス氏族なら誰でもできるだろ、大したことか?」


「あの体格でやれてんだから大したモンだろ」


「兵士が送っているなら蛮族の捕虜だろう? トニトリウス帝がドナウを鎮圧されてから暫く経つが、今更小競り合いがあったのか?」


「オークの体格にキュクロスの力ともなれば、奴隷市では高値が付くだろううな」


「そうだな。港湾奴隷にも、櫂船漕ぎにも丁度良さそうだ。血色の具合はどうなんだ? 初めて見る氏族だからよく分からんのだが」


 まずい流れだと思った。俺の見積り額が上がっていくのがわかる。

 まごまごしていると、ピソがいきなり大声で俺に話しかけてきた。こちらもギリシャ語であるが、やや訛りがあるものだ。


蛮族バルバリよ! 貴様は高く売れて貰わねば困る! 皇帝からの支給こそあれ、前線の軍団はいつだって資金不足だ。価値を示すために、まだまだその檻を担いで貰うぞ!」


 ピンときた俺は、血相を変え、腕をプルプルと震わせながら答えた。


「旦那ぁ、そりゃ無いです! こちとら北の丘からずっと担いでるんですぜ!? もう限界でさあ! これ以上担いじゃア潰れっちまいますよゥ!」


 ピソがシュゥと舌を出し、細い息を吐いた。出会った当初に度々見せていた威嚇に似ているが、今の俺には分かる。あれは笑いを堪えているときのピソだ。

 他3人も神妙な面持ちを保ち、思い思いに演技をしている。アメテュストゥスの演技は上手い。また始まった、やれやれとばかりに顔に手をやり、目頭を揉んでいるのである。


「潰れてしまっては売り物にならないではないか! 限界ならさっさと言え!」


 と言うが早いか、ピソ以外の3人がささっと荷台から荷物を取り去る。

 俺は息も絶え絶えといったふうに檻を荷台に下ろし、へたり込んでぜえぜえとやる演技をした。


「なんだ、持久力が無いんじゃ奴隷には向かねえわ」


 と言って、興味を無くしたように散っていく人々。

 日常に戻った街並みを見て、人目を盗んでため息を吐く俺たち。

 要は、俺の値段が上がり過ぎたら奴隷脱出が難しくなるからと一芝居打ってくれたのだ。


「北の丘からあの檻を運んでこれるならば、十分に価値はありそうだな」


 欺き切れなかった人が居るようなのも、俺の耳にはしっかり届いてしまっているが。





 北方の第1軍団に帰るための1か月分の食料について、アメテュストゥスとピソが店主相手に喧々諤々(けんけんがくがく)の値引き交渉をしている横で、俺はセクストゥスによって土産の買い出しに連れ出されていた。

 土産というのは、俺の服である。


「このアトナテスには様々な氏族が居るゆえ、お前に合う寸法の下着トゥニカもあると思ってな」


 セクストゥスの下着、というか貫頭衣に注目する。

 素材こそ麻か何かのようでゴワゴワしているが、構造は基底現実における長袖の服と大差ない。

 手の鎖をじゃらんとやって、苦笑した。


「これでは着るも脱ぐもできませんよ」


「大丈夫」


 腰帯をまさぐって手錠を外すセクストゥス。

 こちらの鍵はこいつが持っていたらしい。


「奴隷身分とはいえ新しい船出だからな。新しいトゥニカくらいは良いだろうさ」


 そう言って、店頭に積まれている貫頭衣を物色するセクストゥス。

 素材も色々ある。セクストゥスが着ている麻のもの。羊毛のもの。驚いたことに絹のものもあった。


「安いものにするぞ」


 登山中の労作歌を思い出す。

 ――自分の価値を安く見せろ。

 一貫して俺の事を気にしてくれるセクストゥスに胸の熱を感じながら、俺は麻で出来た袖なしの貫頭衣に頭を通すのだった。

 これもまた麻で編まれた帯を締め、俺は万感の思いを込めてセクストゥスに礼をした。


「ありがとうございます」


 満足げに笑うセクストゥス。

 その後、手錠を嵌めなおされたのはご愛嬌だ。





 奴隷市まではもう一つ旅があった。

 奴隷制度は生活にしみ込んだものであるためこの都市アトナテスにも奴隷市はあるが、わざわざ船でデロス島なる島へと出向くのだそうだ。

 もちろん理由がある。

 先ほどピソが言った「少しでも高く売れろ」もまた、兵士の身分としての本音らしい。

 同時に存在する別の思惑もある。

 アトナテスは政治的に没落して長い上、マーレの「費やされるべきには費やすべき」という美徳が違和感を伴って受け止められている土地柄であるという。

 要はこの都市にはケチが多いのだ。

 先ほどの値引きがどうこうという論争は俺とセクストゥスが下着を買って来ても続いており、ケチが多く利益にうるさいというのは納得いく話だ。


 ここでマニュアル知識を再検討。

 過去実例における異世界はどうにも国家規模が小さかったので、こうした文化摩擦を考えるには基底現実のそれになぞらえた方が分かりやすいだろう。

 例えば基底現実のイギリス帝国で考えよう。


 ――いや、帝国と言えばでおなじみのローマ帝国で考えてもいいのだが、この異世界のマーレなる国家はあまりにも古代ローマ帝国に似すぎている。

 ローマ帝国になぞらえて考えようものなら、マーレ=ローマという混同が起きてしまうだろう。

 それは良くない。

 マーレの歴史はマーレの歴史で、ローマの歴史はローマの歴史なのだ。

 例えばだが、ダキア属州というのは基底現実のローマ帝国にも同じ地名があった。現代で言うルーマニアあたりが基底現実におけるローマ帝国のダキア属州にあたる。

 デロス島というのも聞き覚えがある。ギリシアの都市国家同盟が『デロス同盟』だった。

 そういう共通点の一つや二つを意識する度に混同しそうになるのだ。ローマでなぞらえたが最後、他の物事もそうなのではないかと勘違いしてしまうだろう。

 それは良くない。


 どう良くないのかと言えば、状況への誤認が生じる。

 本当に古代ローマ帝国に来ているのならば、それは異世界転移ではなく過去転移である。

 俺の現状が確実に異世界転移である――チート能力が目覚めている――のに過去転移だと勘違いしたが最後、基底現実の知識に基づいた行動指針を立ててしまうことになる。

 あくまで、行動指針の策定はマニュアルに基づいて行うべきなのだ。


 とはいえ今この状況を整理できるマニュアルはない。俺が帰還したらマニュアルには大規模な改定が入ることになるだろう。

 だから、基底現実のイギリス帝国を元に再検討する。


 イギリス帝国は世界帝国だった。

 本土であるイギリスを起点として世界各地に植民地を形成したのだ。

 しかし、忘れてはならないのが、イギリスの文化はイギリスの文化であり、植民地の文化は植民地の文化であるということ。

 植民地のインドにおけるイギリスの影響は多大だったが、かといって全てがイギリス化したわけでもなかった。

 イギリスの司法制度が導入されたり、三角貿易のための阿片アヘン農場が造営されたりしたが、カースト制度は――宗主国イギリスの批判を受けながらも――残った。

 マーレ本土とアトナテスが植民地と宗主国の関係にあるのかは分からないが、考え方で言えばこのような具合が近かろう。

 マーレの文化といってもそれが「首都マーレの文化」なのか「世界帝国マーレの文化」なのかを理解して区別する必要がある。脳裏のノートに書き留めておく。


 閑話休題。


 結論からすると、アトナテスの奴隷市で俺を売るのは誰にとっても益がないらしい。

 より大規模な奴隷市に行けば、より高く、より気前の良い主人に売れる公算が高くなる。

 というわけで、デロス島という、帝国いち大きな奴隷市がある島へと船で向かうことになったのである。





「おえ……」


 俺は甲板右舷側の手すりで、海に向かって吐いていた。

 知識では知っていても実体験してみないと分からない物事はある。船酔いもそうだった。

 台車旅行で揺れの酔いに慣れたと思っていたが、船酔いの不快感はまた質の違う揺れで、こらえきれない気持ち悪さが襲ってくるのである。


「地面が安定しない……」


 ロジックで考えよう。船酔いに直面したらどうすればよいのか。

 船酔いの理屈はこうだ。

 船が移動することによって、縦揺れ、横揺れ、左右振動、上下動などの振動が生じる。これは日常生活を送るうえで経験しない刺激だ。だから脳が慣れていない。

 脳が不慣れな刺激を不規則に受けることで、情報を処理しきれずパニックになる。そうして自律神経への異常信号が発される。この異常信号が船酔いの正体だ。

 とすれば、解決策も自然と見えてくる。船の進行方向を見て、どのような波が来るのかを予想するのだ。

 船首側に目を向けると、次の揺れと共に更なる嘔吐感がやって来て、こらえきれず吐いた。

 背中をさするセクストゥス。

 船に乗っているのはセクストゥスだけなのである。

 俺の競り落とし料金を持って帰るために付き添いは必要なのだが、貴重な神鉄の檻と台車を放置するわけにもいかず、他3人は都市に残ってセクストゥスの帰りを待つという手筈になったのだ。


「ここは内海だから揺れは少ないと思うが、デロス島まではまだ一日ある。気張れ」


 一日か、と心の中で嘆息。

 船や飛行機の類いは基底現実でも体験したことはない。俺の生活を考えればそれも当然だが、それが響くタイミングがあるとは思ってもいなかった。

 ――あるいは冒険とはそういうものか、などとニヒルを気取る余裕は、胃の中身と共に出て行ってしまう。

 そんな俺の様子を見た、周囲の声が聞こえてくる。


「あの黒髪の奴隷、さっき市街に入って来たやつだろ? ちょっと噂になってた」


「第一イタリカの補助兵が演技させてたって? 演技ってなんだよ、役者志望か?」


「アウェンティネンシスの神鉄の檻を運ばせて来たんだと。といっても北の丘からだけど」


「キュクロス氏族なら誰だってできらぁ、それに力があるって言っても船に弱いんじゃ使い道がねえよ」


「だな、安値になる」


「安値かぁ? 買い手がつかねえだろ」


 ガハハ、と笑うコボルドたち。

 値が付いていない奴隷――商品ということで俺は労働を免除されているが、本来この船は奴隷や貧窮した市民によって漕がれるものらしい。

 俺も漕ぐべきではないか? という罪悪感を飲み込み、船を観察する。

 マストはあり、帆もある。しかしここは内海だという。内海は風の弱い海だ、動力はもっぱら漕ぎ手の腕力となるだろう。

 漕ぎ手の姿は甲板にはない。船の中、漕ぎ手部屋に籠っているのである。

 船の胴体位置から嘔吐しているので、かいが動いているのを観察できた。あれの根元が漕ぎ手小屋だろう。


 ――どうあれ、セクストゥスの思惑は当たりそうだ。

 俺が嘔吐しているのは演技ではないが、それによって価値が落ちているというのは喜ばしい事である。奴隷身分から抜けやすくなるからだ。

 長くて何年になるだろう、と考えて気付く。少なくとも基底現実からの迎えより早いということはあるまい。俺がこの世界で自由身分になることはないのだ。


 苦笑する。

 この甲板が、この世界における最後の自由だ。


 酔いが浅くなって来た俺は、背を撫でるセクストゥスに礼を言う事にした


「今までありがとうございました」


「礼を言われる筋合いはない。冷静に考えろ、私はお前を奴隷にしようとしているのだ」


 分かっている。こんなのはただのストックホルム症候群だ。

 だとしても、原因が何だとしても、俺がセクストゥスに感じている友情は事実だと思うから。

 彼を含めた4人との旅が、焚火を囲んだ夜が、たった一か月ほどの事なのに、俺の人生で一番楽しいと思えるくらい楽しかったから。


「あなたと二度と会うことがないであろう事が寂しく感じられるのです。セクストゥス」


 俺は海を見ている。だから彼の表情は分からない。

 背をさする手が逡巡するように行ったり来たりを繰り返す。

 その手は手すりに置かれ、俺とセクストゥスは隣り合って並ぶ形になった。

 反吐を吐き掛けてはならないと努めてセクストゥスの方を向かず、海の遠くに沈みゆく太陽を眺める。


「俺はもともと剣闘士だ」


 深刻そうに言うセクストゥス。それがどうしたというのだろう、と首をかしげる俺。

 安心したように、剣闘士について教えてくれた。


「マーレの民の間では、剣闘士は恥ずべき者とされている。奴隷の中の奴隷、社会の最底辺だとな」


 俺はそこからの解放奴隷なのだと。

 彼はそう言った。


「マーレの文化は良く分かりませんが、しかし、分かるつもりです。頑張ったのでしょう、セクストゥス」


「頑張ったなあ、頑張ったよ」


 感慨深げに答える彼が何を言いたいのか、いまだによく分からない。

 彼が語るに任せよう。話の続きを促す。


「俺はあと20年ほど軍にいる。まあ年季が明ける前に死ぬとは思うがな。ずっと巨大樹の森の辺りにはいるんだ。

いくらお前でも、自分を買い戻すのに5年はかかるだろう。そうなればこの国も大きく変わってしまっていると思う」


 気付けば俺はセクストゥスの方を向いていた。

 人間の美醜が基準となっている俺からすれば、相も変わらず不細工な貌だと思った。髪の無い頭、しわくちゃの皮膚、細い目、引き攣れたような口。俺の腰ほどもない背丈なのに老人の顔だ。よく見れば顔中傷だらけ。剣闘士の試合でつけられたものなのだろう。

 しかし、夕陽の輝きを受ける彼の顔は何よりも輝かしいものに見えた。


「年季が開けたら軍に来いよ。お前なら正規軍レギオーへの推薦状くらい貰えるさ。俺は補助兵アウクリシアだから職分は違うが、共に戦えるのに違いはない。マーレかぶれのお前の身では、今更森の民には戻れまいし」


 彼が真剣に考えてくれているのは分かるが、マニュアルでは軍隊所属は非推奨だ。

 しかも、恐らく俺は奴隷のまま、基底現実からの迎えを得て年季の前に帰るだろう。

 だとしても、単なる偽装として被っていた『エルフのアキラ』の俺が、いたく感動しているのがわかる。

 これは演技だ。そう言い聞かせて胸の痒みを押し込めて、彼に礼をした。


「ありがとうございます。是非とも頼りにさせてください」


 そのとき不意に強い風が来て、帆がそれを受けて船が傾いだ。俺は即座に海へ吐いた。

 慌てた手つきで俺の背をさするセクストゥスがどんな顔をしているかは分からないが、俺と同じような、緩んだ顔だったら嬉しいなと思うのだった。





 小屋の中、松明の音が響く薄暗がり。俺たち三人は、俺の太腿くらいの高さにあるテーブルを囲んでいた。


「これは……エルフか?」


 セクストゥスが取り次いだキュクロプスの奴隷商の第一声はそれだった。

 一つしかない目を広げ、まじまじと俺を観察する奴隷商は、その体勢のままセクストゥスに問う。


「どこで捕らえたエルフだ? それによって値が変わってくる」


「ダキア属州の北、巨大樹の森の辺縁部だ。恐らく追い出された来たものだと思うが」


 それを聞いた奴隷商は、中身のたっぷり入った袋――硬質な擦れ合いの音からして貨幣袋か――をむんずと掴み、セクストゥスに渡した。


「ハイエルフは高価すぎる。ひとまずはこれで買い取ろう。不足分は売上から出す形になるが、それで構わないか?」


 鷹揚な態度でそれを受け取ったセクストゥスが、重みを受けてにやりとする。高く売れたという演技だろう。

 しかし、セクストゥスが袋を開くと彼は本気で狼狽したようだった。袋の中身が松明の明かりを反射して輝きを放っている。

 銀貨だ。みっしりと入った袋の中身は銀貨だったのである。


「これは……デナリウス銀貨で……」


 袋を上げ下げして重さを量るセクストゥスの目に、曰く言い難い感情、俺の知らない表情が浮かんでは消えていく。


「20万デナリウス……」


 奴隷商にとってもセクストゥスの様子はよく分からないものらしく、彼を説得し始める。


「今の俺にはそれしか出せないんだ。不足分は売上から出す。それではダメか?」


 セクストゥスは袋をテーブルに投げ置き、俺に向き直って言った。

 その表情は、今まで見たことがないほど引き攣れている。

 奴隷商を見ると、こちらは焦れたような顔でセクストゥスと俺を交互に見つめていた。


「アキラ、第一イタリカ軍団に戻らないか」


「何故ですか?」


 二つの意味を持たせた問いだった。

 なぜ今? そしてなんのために?

 そもそも、マニュアルで軍隊所属が非推奨である以上、この流れのまま奴隷に身をやつす方が俺にとっても都合が良いのだ。

 俺が彼の提案に乗ることはない。彼もそれは分かっているからこそ、昨日の船上での別れのやり取りがあったのだろうに。

 なぜだろう?


「ほら、最初に軍団長がお前を売り飛ばす判断をした理由を思い出せ。それはな、お前が頑迷にも口を割らず、軍団に置く場所が無いからだった。

 だが今のお前は違うだろう。話してくれた。共に歩いてくれた。俺は、お前と一緒の陣営で戦うのが楽しみなんだよ。奴隷の間が待ち遠しいほどだ。

 今買われてしまえば奴隷の身だからそうはいかんが、まだ単なる蛮族バルバリだ。補助兵として俺たちに加わる道はある」


 胸を震わせる言葉で、一理ある言葉だった。そう、俺が軍団に所属するにあたっての障害はない。

 だが軍はダメだ。マニュアルで推奨されていない。

 マニュアルで軍隊所属が非推奨なのには明確な理由がある。

 まず、確実に殺しを行うことになる。それ自体は良いのだ。過去の転移事例でも殺人は行われたが、それは自由な冒険者の身分として、転移者自身の罪として受け止めることが出来る。

 基底現実に帰った後にも調べを受ける。基本的にはカルネアデスの板の原則から許容されるが、悪質な虐殺行為には法に基いた裁きが下ることになっている。

 チート持ちは簡単に人殺しができる。だから、殺しの禁忌に対するハードルを高めているのだ。

 しかし、軍団に所属してしまうと、他者の命令で殺しをしなければならない。

 その場合、罪は指示した上官に行く。罪の意識が軽いまま殺害を行ってしまえば、殺しに対する忌避感が薄いまま、誰かを手にかける選択肢が手に入ることになってしまう。

 命を見て、尊いものではなく刈り取るべき小麦とみなす者。仲間に対しては手厚く接しながらも、敵と見れば容赦なく殺す者。殺害禁忌が薄い者。

 チート能力を持った者がそうなっては災害だ。

 俺は基底現実からの転移者として、自分と同じくらい、この世界を保護する義務がある。

 だから、殺害は命令で行ってはならない。殺したならば自分の意思でなければならないし、殺害の罪を自分で受け止めなければならないのだ。

 これが、軍属が非推奨となる理由である。


 俺がマニュアルの想起に時間をかけていると、セクストゥスがテーブルを叩く。

 今度こそ、その表情が分かる。怒りだ。


「俺の売り値は……」


 語尾がぼやけていてピンと来ない。

 しかし、それが血を吐くような声だった事からも、セクストゥスの吐露はそれほど苦しいものだと分かる。


「売り値ですか?」


 意味も分からず鸚鵡返しにすると、セクストゥスはまたも激昂し、テーブルを叩いた。銀貨袋が揺れ、チャリンと音を立てた。

 奴隷商が怒るだろうと思ったが、彼はニヤニヤと俺とセクストゥスを比べ見ている。俺を見る時には興味深げな表情をしているので、失敗したと思った。価値を低く見せるのを忘れていた。綺麗な発音で喋ってしまったのだ。

 セクストゥスは、叩いたままテーブルに手を置き、目を閉じて天井を仰いだ。

 今まで見たことも無いような表情だった。しわくちゃの顔は、寄せた眉根と硬く引き結んだ口のせいで、しわくちゃの顔には更に皺が寄り、時折ピクピクと痙攣する頬が彼の懊悩を示している。

 俺には、彼が何に悩んでいるのか分からない。

 このままでは埒が明かない。俺は別れを切り出すことにした。


「俺は奴隷になります。あなたとの約束を果たすために」


 どうせ達成されない約束だ。なんとでも言える。

 心にもない言葉。これほど空々しく聞こえる言葉が、俺たちの間にあっただろうか。

 どうせ基底現実からの迎えが来る。そんな俺にとってこの異世界は全てが他人事だけれど。

 彼らとの間にできた縁は、本物だと思っていたのに。


「そうか」


 セクストゥスはそれだけ言って、テーブルの銀貨袋を手に取った。

 腰帯から鍵を取り出し、奴隷商に手渡す。檻の鍵はアメテュストゥスが持っていた。ということは、それは手錠の鍵か。

 奪い取りたい気持ちを、セクストゥスへの思慕が抑え込む。


「奴隷商、こいつの売り値はこれでいい。競りの売り値はお前がそのまま受け取るがいいだろう」


「いいのかよ?」


「良いのだ」


 出口に立って、セクストゥスはこちらを振り返る。

 薄暗い部屋の中からでは、逆光で表情が分からない。

 セクストゥスは、胸を押さえながら、絞り出すように言った。


「達者で暮らせ、アキラ」





 その後、競りに出された俺は、先ほどの値段がはした金に思えるような額で売れた。

 だが、そんなことは俺にとってはどうでも良い事だった。セクストゥスの態度の理由が分からなくて、それが胸を引っ搔いてしょうがない。

 モヤモヤした胸のまま、俺は主人に連れられて、マーレ帝国の首都、マーレに向けて船立つことになった。

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