Ⅰ-Ⅸ 子分-①
トニトリウス。
フルネームで、プブリウス・ゴブリウス・アウェンティネンシス・雷帝。
第二名の”ゴブリウス”で分かる通り、彼はゴブリン氏族の出身らしい。あんなにも完璧にエルフなのにだ。
それ自体はおかしい事ではない。減数分裂の起こり方次第、エピジェネティクスの作用次第でそういう事もあるのだろう。だが、ここで問題なのは、彼の中にエルフの血が流れている事実だ。エルフの遺伝子が入っていなければエルフの容姿は発現しない。
彼の中に流れるエルフの血が、一体どこから入って来たものなのか。それが判然としないのである。
それに限らず、マーレとエルフの関係については分からない事ばかりだ。
"蛮族"の俺を捕らえて連れてくるほど、マーレ帝国という社会はエルフの血統を欲している。それほどまでに、マーレ社会においてエルフの絶対数は少なく、貴重で、重要視されている。そうでなければ、エスィルトが最高級の性交業従事者として遇されていた理由がない。
だが、なぜエルフの血統を求めているのだろう?
エルフの外的要因、要は美貌を欲している訳ではないはず。何しろ、マーレの民は、俺とエルフの区別が付かないくらい美的感覚が人間離れしているからだ。
俺が立てた仮説はこうだ。混血を成すことで、俺が把握していない、何か重大なことが起こる。貴族たちは、その何かを求めている。そして、混血によって起こる何かを、彼らは知っているのだろう。
なぜ知っているのか?
結論は一つだ。かつてはエルフとマーレの民が交わった事があるのだろう。トニトリウスがその証拠だ。なにせ、彼はエスィルトの子孫ではありえない。
トニトリウスはマーレ市の外、イベリア属州――エスィルト曰く、帝国西方の半島出身だからだ。マーレ市に軟禁されていたエスィルトの血がトニトリウスに入るのは無理だ。トニトリウスに流れるエルフの血は、それ以外のどこかで混ざったものなのだ。
――では、どこでエルフの血が混ざったのだろう?
などと雇い主の素性を考えながら、俺は地を強く踏んだ。胃の腑が震えるような振動が発生し、すぐに収まった。陥没しない。地盤の安定した良い床地である。
俺は踏みしめた地面に対して、今度は鋤を入れるように手刀を差し込んだ。踏み固めた地面が抉れ、土塊が俺の手の上に移動する。雑草混じりのその土を右側に投げる。手をスコップ代わりに地面を掘り込み、土塊の山と、堀を作っていく。
後ろを見る。俺が掘って来た掘と、山になった土塊が一直線に並んでいる。その先では太陽が山に沈もうとしていた。
作業に戻ろうと右側を見ると、トニトリウス付きの元首顧問会だと名乗った人馬が、慄いたように俺を見ているのが分かる。
それも無理はない。エボラクム北部の、ブリタンニアの領土が最も縊れた所とはいえ、30kmくらいを延々とこうして掘り続けているのだから。
俺が従事しているのは、城壁の造営作業であった。
「私が作りたいマーレ帝国はな、誰もがその存続を希望するような国家なのさ」
朝食を共にしたその日の午後、夕食の席でトニトリウスがそんな事を言いだした。
朝と同じく、エスィルトと俺だけが客となる3者面談である。
「誰もが?」
何を言っているのかと、疑いの目を彼に向ける。
トニトリウスは興奮したように鼻息を吹き、俺の視線を受け止める。
「そう、誰もが。奴隷や、辺境の蛮族さえもが。下水攫いの奴隷でも、寒冷地の蛮族でさえもマーレ帝国の存続に同意するような。そんな国家にしたいのだ」
それは無理じゃないのか?
下水攫いの奴隷というのがどういう身分なのかは分からないが、その作業の質からして自尊心は傷付けられ続けるだろう。そんな身分に落ちて、マーレ帝国よ安寧たれと願うことがあり得るだろうか? 寒冷地、農作ができない土地の蛮族も同じだ。貧しい暮らしに倦んで、マーレ帝国へと略奪しに来つづけるだろう。
彼の願いは叶わない。
だが、叶わないと切って捨てるには惜しい。そんな世界が実現したなら、それは基底現実よりも遥かに良い世界になるだろう。
「具体的には、どのようにそれを実現しようとお思いですか?」
「まず、蛮族との国境は閉じる」
いきなり締め出しか。
思わず呆れた顔をした俺に対して、彼は言い訳をする風でもなく葡萄酒を飲み、続けた。
「国境が閉じれば暴力的な交流は減るだろう。それでもマーレの産物が欲しい周辺の蛮族はどうする?」
エスィルトが一つ頷き、トニトリウスに答える。
「商売をするようになるでしょう。私の故郷がそうでした」
「エスィルトの故郷は、元から商業を知っている民だったから少し違うが。全ての蛮族が彼女の故郷のようになれば良いと思っている」
「だから、一先ず国境を閉じ、商売による交流だけが成るようにするという訳ですか」
「うむ。戦争ができない程度に高く、交易ができる程度に低い城壁を、エボラクムの北と、ドナウ-ライン川防衛線に敷きたいと思っているのだ」
「そういう事でしたら、早いうちに始めてしまいたいですね」
「私もそう思っているが、建築は時間がかかる仕事だ。
特に、これから作ろうとしている壁は非常に長大なものとなる。成すべき手順が多いのだ。
まず北方蛮族が建築の邪魔にならぬよう征伐が必要だ。
エボラクムから北に植民都市を作り、工員が造営に取り掛かりやすいようにしたい。
城壁のための石切り場の選定もまだだし、堀と土壁の造営も手間がかかる。一日や二日だけ早く取りかかった所でどうにもならないのだよ」
そうして、酒を置いて前菜である新鮮な野菜のマリネをつまむトニトリウス。これはあくまで歓迎の夜会であり、子分に対して今後の方針を示しただけのつもりなのだろう。
だが、俺はこの状況にチャンスを見出した。
俺は山鼠と玉ねぎの炒め物を平らげ、トニトリウスに向かって、胸を叩いて宣誓する。
「7日頂ければ、土壁の造営まで成し遂げてご覧に入れます」
片目を閉じ、眉を上げた片目で俺を見るトニトリウス。発言の真贋を見ているのだと思った。
「手順を聞こう」
「土壁の造営訓練に1日。作業で6日です」
葡萄酒を飲み干したトニトリウスは、杯を置き、両目を開いて正面から俺を見据えた。
「兵士たちが長期の訓練を経て見に付ける建築の技術を、お前は1日で習得できると?」
「勉強は得意ですから」
さらりと返すと、少しばかりの逡巡を見せた後、一息吐いた。
俺を見つめるトニトリウスの表情は挑戦的だ。背筋が伸びるのが分かる。これもまた、俺を売り込むための手段に他ならない。完璧な実務能力を見せてやる。
「良かろう。やってみろ。お前が土塁を築くことを前提に、石切り場の選定も進めるぞ」
「承知いたしました。それでは、早速ですが土塁の技師を呼んで頂いても宜しいですか?」
勉強に入るなら早い方が良いと思ったので、図面があるなら見せて欲しいと思って切り出すと、トニトリウスが目を丸くした。
「なに? 今から練習に入るのか?」
当たり前だろう、と心の中で呟く。
そろそろ陽が沈む刻限なのだから、明日の練習に備えて、明るいうちに図面を読んでおきたい。
「トニトリウス様。アキラは、マーレ市民とは違って、昼に仕事を終えるということがないのです」
「勤勉なのは結構だが、朝も早かっただろう。今日は休め。技師も既に仕事を終えた時間だ。これ以上働かせると私の人気にも関わる」
ここで強弁すると叱られそうな気がしたので、大人しく引き下がる。
だが、不承不承なのが目に見えていたのだろう、トニトリウスがじろりと俺を睨んだ。そして、立ち上がって部屋を出て行く。
怒ってしまったのかと失敗を悔いていると、トニトリウスが戻って来て俺を呼んだ。
「来いアキラ。図面を見せてやる」
即座に腰を浮かせ、エスィルトを置いて彼の後を付いて行く。
「良いのですか。トニトリウス様みずから」
「子分の頼みとあれば仕方がない。建築が早く済むならば私としてもありがたい事だ」
陶器製のオイルランプを持ったトニトリウスが先導する。彼はあまり奴隷を使わないようだ。
彼の口調には険こそあれ、言葉では俺を信頼しているのが分かる。
エスィルトの安全に近付くことを実感して、達成感が胸を満たす。俺の価値が認められれば認められるほど、俺がこの世界にいる限りにおいてエスィルトの尊厳は保たれる。それはとても喜ばしい事だった。
その反面、別の喜びが芽生えつつあった。
他者に認められる喜びだ。第1イタリカ軍団に所属する4人の補助兵たちとの交流を思い出して、それに近い喜びを感じていた。トニトリウスは俺を認めている。それが胸に火を灯していた。
製図室と思しき部屋に入ったトニトリウスは、すぐに出て来て巻物を差し出してくる。
硬質の紙でできた巻物を開くと、『壁』の断面図が描かれていた。
「設計図はこれだ。見方は分かるのだろう」
「はい」
壁は3つの構造物で出来ているようだった。
北から順にV字の壕、本体となる石造りの壁、南にも壕がある。
思ったより手間がかかる仕事らしかった。とはいえ、やろうと思ってやれない事もない。
「私は、この最北の壕を掘ればよろしいでしょうか」
「掘った土は土塁とせよ。できるのだろう?」
彼の眼差しは挑発的だ。できるものならやってみろと、雄弁な瞳が言っている。
やってやるさ。俺は胸を叩いて応えた。
「できます。やってみせます」
という訳で、一通り壕の掘り込みと土塁の築き方を練習して、今である。
計画は実行のみの段階まで来ていたらしく、トニトリウスに付けられた、元首顧問会の人馬は正確に壕の場所を指示してくる。
元首顧問会というのは、裁判や行政に関してトニトリウスを補佐する助言会議のようなものらしい。彼が手ずから集めたからなのだろうか、元老院議員に限らず、高名な法律家や詩学者、建築学者といった、トニトリウスが精通していない様々な物事に長けた者が集められている。
俺を監督している人馬は建築に秀でた会員であるらしい。推測なのは、自己紹介を交わしただけで、お互いに何がどう得意なのかを把握しないまま作業に入ったからである。
だが、推測できる程度には建築と地勢を知っている事がよく分かった。壕を彫り込むのに良い場所や、防衛線に適した場所だと、指示された地点を見回すだけで分かるのだから大したものだった。
彼のその指示に従い、壕を掘り込み続けること一日。
ざっと30km分。壕と土塁を築き続けて、それだけの距離を造営できていた。
西の海岸沿いから始めた作業は、今は丘陵を超えて平原に達している。丘陵は崖がちなので壕が必要でない場所も多く、俺の手が要らない場所が多かったのである。今日の休憩地点は丘陵の頂上に設けることにしていた。
トニトリウスへの報告に人馬を返し、俺は加速度的に暗くなりつつある世界の中で座る。弓切り式発火装置を用いて作った焚火は暖かいが、奇妙な喪失感が俺の胸を冷やしていた。
思えば、孤独な夜は基底現実以来だ。
アトナテスまでの道のりには4人の道連れがいた。
ブリタンニアまでの旅路にはエスィルトがいた。
基底現実では1人の夜も辛くはなかった。だが、暖かみを知った今となっては、夜空は俺を飲み込む空疎な穴のように感じられる。
ただ星々が並んでいる。さしたる意味のないその光景が、急に恐ろしい物のように感じられて仕方がない。
夜空を眺めるのが怖くなってしまった。俺は、空から目を逸らして横向きに寝転がった。
そんな調子で6日が経ち、壕の掘り込みと土塁の造営が完了した。
堀の東端、河のほとりに立って、沈む夕日を正面に、壕の様子を眺める。トニトリウスに示された断面図の通り、綺麗に壕ができていた。
特にこだわったのが壕の掘り込み方である。断面図の通りなら9m幅でV字に掘り込むことになっていたのだが、俺はそれに少し手を加えていた。壕の南側を垂直に彫り込んでおいたのである。北がV字で南がU字になっているような具合だ。しかも深さは3mもある。これを登るのは相当骨が折れるだろう。
堀を越えたとしても、1m先には土塁がある。これは台形の土塁になっており、上底の幅は6m程だ。下底は7mほどなので高さは2m。越えようと思っても中々難儀する高さだろう。図面によると、ここの台形の基部の上に、幅3m高さ6mの壁が築かれる。
脳裏に思い浮かべた完成図と突き合わせながら土塁と壕を眺める。これならば、トニトリウスの『戦争するには高い壁』の要求は満たせたと思う。
夜が更けてきたので戻るのは面倒だ。今日も野宿にしようと思って河沿いの森から木を引き抜く。火を起こしてウサギを捕まえ、皮を剥いで串焼きにする。今日もそうやって、夜空から目を逸らして火を見つめていると、不意に肩に手が置かれた。
立ち上がり、反転してピーカブースタイルをとる。
この土地にいる者など、敵となる蛮族でしかありえないからだ。だが、ふと気付く。敵だったら攻撃してくればいい。となれば、誰か俺を見知った者が肩に手を置いたのだと判断してよい。相対する者を見てみれば、誰あろう皇帝その人が、俺を見上げていた。
トニトリウスが、下衣の上に鎧を纏った軍装で立っていたのである。
彼一人ではない。昼に報告のために返した人馬がいた。彼の背を借りて来たらしい。
「どうした、敵が攻めてきたとでも思ったか」
「急に触れられたら、誰だって驚きます。トニトリウス様、どうしてこのような所に?」
「今日中に完成するだろうと報告を受けていたのでな。手早く視察に入るために移動しておいたのだ。アポロドロス、往路はご苦労。帰ってよいぞ」
1往復半もさせるのは逆に辛くないか? と思ったが、アポロドロスなる人馬はさっさと帰って行く。
仲が良くないのだろうか。
俺のじとりとした視線を受けて気まずくなったのか、トニトリウスは早口で弁明を返してくる。
「誤解するなよ、不仲な訳ではない。奴は年でな、野営が辛いらしいのだ」
妙に饒舌だった。興奮しているらしいことが伺える。
彼は一体何をしに来たのだろう。
観察していると、彼はふいと視線を切って焚き火に目をやった。脂を弾けさせるウサギの丸焼きを見て、ため息を吐いた。
「ウサギか。私とお前が食べるにはやや物足りん。狩りに出かけるぞ、アキラ」
当然のように俺の食事を分けてもらうつもりだった事を白状され、口を開けて彼を眺めていると、トニトリウスが起立を促してくる。
仕方なく、帰って来た時に火が消えていたりしないように薪を足し、ウサギの丸焼きを火から離して彼に付いて行くことにした。
彼は腰に佩いた剣を抜き、日が沈んで完全な暗黒に包まれた森の中へと踏み入っていく。彼を先行させるのは子分として正しくないだろう。俺はトニトリウスを追い抜き、暗闇を先行していく。
「私は狩猟が趣味だ。エスィルトから聞いていたか?」
「初めて知りました。たとえ趣味だとしても、共回りもなく獣と相対するのは危険だと思いますが」
「お前がいるだろう、アキラ。単身で熊を倒せると聞いている。期待しているぞ」
いつのまにこんなに信頼を得たのかと思って胸の火が熱くなる。
彼は恐らく、社交的だが人好きのするタイプではない。和やかな態度の裏では、猜疑心と冷徹な評価が、コンピュータのように回っている。
そうして価値の評価に時間をかけこそするが、価値があると認めたならば親密に接するようになる。そういうタイプなのだろう。
一発で彼の不興を買った「操作」さえなければ、俺は彼に気に入られる性格らしかった。
ふむ。気になったので、少し考えてみる。
俺の性格とは一体なんだろう? 考えた事もなかった。
義務と規則への忠実さと、勤勉と言って差し支えない意欲の高さ。俺の性格の中核を成すこれらは、確かに美徳だ。
だが、言ってみればそれだけ。真面目な堅物だが、相手をしていて面白い相手とも思えない。
などと考えていた思考を即座に中断する。
血の匂いが漂っていた。トニトリウスの方からだ。
「トニトリウス様。怪我をされていますか?」
「ああ、お前に殴られた腹がまだ痛む」
それか。思わず謝って、待てよと思う。
殴ったのは腹だ。腹部の出血なら下血となるだろう。
だが、俺の鼻に漂って来た血の匂いには糞便や屎尿の匂いが混じっていなかった。彼から漂う血の匂いは、切り傷から発せられるもののはずなのだ。
つまり、彼は嘘をついている。だが、その嘘にどういう意味があるのかが分からない。
右手から、がさりと枯草の音が鳴る。重量感のある、獣の足音。
獲物だ。
即断した俺は思考を中断し、襲い掛かって来た猪の額に一撃を入れた。




