背中を押すお刺身丼
てっぺんから少しだけ傾いた太陽が照らす遊歩道の階段を降りていく。断崖の中に整備された遊歩道の階段はお世辞にも歩きやすいとは言えないけれど、想像していたより遥かにキレイだった。
自然と低い方の断崖に足が向いたのは何の因果だったのだろう。日本海とも思えない凪いだ海に、初夏の太陽が反射して、キラキラと目を刺激してくる。想像していた波音はどこにもなくて、時々吹く緩やかな風が植物を揺らした音だけが優しく響いている。僕は何をしにこんな遠くまで来たのだろう。
海の方からフワッと湿った強めの風が吹いてきて、視界の端に赤いものが揺らめいた気がした。えっ?こんな岩場で鮮やかな赤色なんて、心配以外何もない。少しだけ大股で岩場を跳ねながら赤いものの正体を確かめに向かった。
割りと平らな岩の上に人が倒れてる。しかもカラスがつついてるって事はもう既に?赤色は血じゃなくて髪色みたいだけど。さらに足を早めて近づきながら声をかけた。
「大丈夫ですか?」
「うぅん……えっ?」
のっそりと起き上がったのは、いつぞに会った変な外国人だ。そう言えばあの時もカラスに囲まれていたっけ。いや嘘だろう?そんな偶然が起こるのか?というか、なんでこんな所で寝転がっているのだろう?
「えっと?まえきりさん?」
「ボクの名前覚えててくれたんですか?嬉しいなぁ。ってか何で外で寝てるの?ヨーロッパってそんな習慣あったっけ?」
前に町田で声を掛けた時のように、勤めて軽くおどけた調子で話しかけた僕をジィっと見つめてくる。二つ瞬きをして、物凄く真剣な顔つきになった。もしかして、宗教的な何かで声を掛けちゃいけなかったかな?
「前桐さん、もしかして自殺とかしに来ました?残念ですけど、ここは自殺には向いてないですよ。ほら、見渡す限りエネルギーに溢れているでしょう?ここまで来るときに商店街通って来ました?お店の人たち凄く活気があったでしょう?海の中には活発な魚が生きてますし、あそこに生えてる植物もすごく活発でしょう?それにこの岩は大昔からのエネルギーを蓄えてて、触ってるだけで力がみなぎって来ますよ。前桐さんも寝ます?今しかできないですよ?」
物凄く早口で、図星を突かれた。舌打ちしたくなる様な気持ちは一瞬で、早口で捲し立てられた内容が色々と気になる。ニコニコと笑いながら、座れと言う様に左手で岩を叩くのは、少し強引に感じたけど、そう言えば僕もそんな調子で町田でライブに連れていった気がする。
「寝るのはどうかと思うけど。今しかできないってどういうこと?」
海の方を向いて腰を下ろしながら、努めてゆっくりと問い返した。名前が思い出せないなぁと思いながら、赤髪外国人の方を向いたら、太陽がまるで後光の様に差し込んで眩しい。キラッと光った瞳が青っぽくて、日本語上手だけど間違いなく外国人なんだろうなぁ、なんてどうでも良い事を考えた。
「冬は寒いし波を被るし、とてもじゃないけどここに立つこともできないらしいよ。夏はこの岩が火傷するくらい熱くなるって聞いたんだ。だから今しかできない」
「あぁ、そういう事ね。でも普通は外で、しかも岩場で寝たりしないから!」
僕の言葉をケラケラと笑う青年と、並んで首を振ってるカラス達。もしかしてこのカラス人間の話を理解してる?どうやって名前を聞き直そうかなんて考えてたら、少し強めの風が吹いて、フワッと外国人の赤毛が靡いた。チラッと見えた耳が顔とアンバランスな印象で思わず見入った。
「なんですか?」
「君って……その、名前何だった?」
変わった耳の形だねって言おうとして、何だか言ったら不味い気がしたから、どっちみち失礼なんだけど名前を聞いた。青年は一瞬キョトンと目を丸めてから、セファースと名乗ってくれた。
「なるほど、やっぱり通子さんの言う通り、前桐さんは見習っちゃいけない人だったんですね」
特に気を悪くした様子もなくウンウンと頷くセファースさんと、また首を振ってるカラス達。心なしかカラス達の視線に呆れが混ざっている様に感じるのは、名前を忘れた罪悪感故だと思いたい。
見習っちゃいけないって言葉について尋ねたら、町田で出会った翌日に、僕が教えたナンパ術を実行して、女性にドン引きされたエピソードを事細かに語ってくれた。すごい記憶力だな。
町田で会った日も、ナンパに失敗した時も、カラス達が取り成してくれたなんて信じられない。でも、隣のカラス達の動きを見てたらその話が本当の様な気がしてくる。
「で、前桐さん。なんで自殺しようなんて思ったの?」
何でそこに話を戻すんだ?もう、そんな気は無くなったんだから聞かないでくれよ。思わず言葉に詰まった僕をじっと見つめてくるセファースさんからは悪意は感じられない。純粋に心配をしてくれている様な雰囲気。まだ会うのは二回目だって言うのに。
「ボク、この国に来た日に出会った人に言われたんです。『困ってる様に見える人には手を貸さなきゃ』って。そういう所見習いたいんですけど、難しいですね」
少し歩きますか?ってセファースさんが立ち上がると、カラス達はどこかに飛んでいった。
背の高いセファースさんが岩場を跳ねるように歩いていく。僕は背が低い方だから、セファースさんが二歩で歩く所を三歩くらいで付いていく。別の断崖へ続く遊歩道まで登って来た時には少し息切れしてしまった。
そんなボクを見て、気まずそうに垂れた目を一層下げて小さく謝る姿は、女子にモテそうな可愛らしさがある。まぁ僕には分からない女心だけど。
「ボクこの国に来たときは途方に暮れてたんです。それからすごく落ち込んでも居ました」
なだらかな遊歩道を歩きながらセファースさんがポツポツと話始めた。もしかして、元気付けてくれようとしているのかな?風が吹く度に髪を押さえながら歩く様子を見る限り、さっき耳の話題を出さなかったのは正解だったみたいだ。
「セファースさん、僕の悩みはそんな深刻じゃないですよ。奥さんに逃げられちゃったんです。前に会った日、結婚記念日だったんですけどね、あの日喧嘩して、出ていっちゃったんですよ。さっきセファースさんも言ってたでしょ?僕の事は見習わない方が良いって。僕と一緒に暮らすのは子供達の教育に良くないって……」
仕方ない事ですね、とは続けられなかった。ここに来る迄の間に繰り返した疑問と逆恨みの様なドロドロとした気持ちが沸き上がってきて声が出なくなった。
「前桐さん。嫌なこととか辛いことが有ったときには、美味しいものを食べるに限りますよ。ボクも丁度お腹が空いていたんです。一緒に行きましょう」
岩場に向かっていたセファースさんがクルリと向きを変えて、商店街の方へと続く階段を登り始めた。
オシャレなカフェには見向きもしないでズンズンと歩いて、海鮮料理のお店の看板をマジマジと見ながら進んでいく。お昼よりも夕方に近い時間帯になって、いくつかのお店は店仕舞いを始めている。
「食事?」
どこかのお笑い芸人のような顔の、ズングリムックリのおじさんが大きな声で話しかけてきた。びっくりして思わず頷いた瞬間に、オジサンはお客さん来たよーって叫びながらお店の中に入って行くし、セファースさんはニコニコとそのおじさんに付いて行っちゃった。
奥の方のお座敷の席に通されて、おじさんが広げたメニューにかなりビビった。時価ってどういう事だよ。セファースさんも心なしか顔をひきつらせている気がする。
僕達は、庶民らしく、でも少し贅沢がしたくて、お刺身丼と蟹身の入った味噌汁のセットを頼んだ。時価と書かれた蟹を注文するのは怖かったけど、蟹が食べたいと言う庶民らしいあがき。
運ばれてきた料理は、メニューに載ってた写真と遜色なかった。こういう観光地の食事処と言えば、実物はショボイのが相場だと思っていたから驚いた。セファースさんは、物凄く嬉しそうにニコニコと丼を見つめている。
律儀に手を合わせて、日本式の食事の挨拶をしてから箸を手に取る姿は違和感しかない。青い目に赤い髪で鼻の高い見るからにヨーロッパ人なのに、所作が手元が言葉が思いきり日本人。思わず箸を持つのも忘れて見入ってしまった。
「前桐さん!美味しそうですよ!」
ハマチ、イカ、鯛、甘エビ、タコのお刺身が艶々と乗っている側には金糸卵とキュウリで彩りが添えられ、散らされたイクラが華やかさを増している。かなり贅沢な海鮮丼だと思う。
セファースさんは慣れた手つきで、ワサビを醤油に溶いて、丼全体に回しかけた。僕は、刺身をわさび醤油につけて丼のごはんにバウンドする派なんだよな。
「あれ?前桐さんは絶対お醤油かける派だと思ったのに!」
ケラケラと笑うセファースさんは、器用にお箸を使って、ぶりの刺身でご飯を巻いて、パクリと食べた。
「前に会ったときはもっと上品な食べ方してなかったっけ?」
「これは熱くないですから、一口が大きくても平気ですよ。ハマチ、すごく甘いです」
セファースさんの勧めに乗ってハマチの刺身を一枚、軽く醤油につけて、ご飯の上にバウンドしてから刺身だけを口に運んだ。確かに甘い。すごく脂がのっていて、臭みがなくて、これが新鮮な魚ってやつか。
イカは?鯛は?甘エビは?と美味しくて食べれば食べるほどもっと食べたいという食欲が沸いてきた。あんまり気にしてなかったけど、タコが生でプリプリで、すごく旨味を感じた。
丼に夢中で気がつくと、蟹の入った味噌汁だけがテーブルの上に鎮座していた。
海鮮出汁と思われる味噌汁と蟹の身はすごく相性が良いらしい。やわらかな身が口のなかでほぐれると、ふわっと磯の香りがして、それから蟹独特の甘味を感じる。味噌汁じゃなくて、ゆで蟹を食べているかと思うくらい蟹の味だった。
「前桐さん。美味しいって幸せですね」
僕は、刺身や蟹に釣られて自然に笑っていた。それがセファースさんの策略だったのかは分からないけれど、気分が良くなった僕は二人分の食事代を払って店を出た。
「前桐さん、よかったらボクの家、あ、そのお世話になってる家に一緒に行きませんか?」
海鮮料理の店を出て、バス停までの間にセファースさんにそんな提案をされた。特に断る理由もないし、是非にと言ってくれたから付いていく事にした。
バスと電車を乗り継ぐ間、お世話になっているという通子さんや、通子さんのお店の常連さん達について色々話してくれるセファースさんは、すごく楽しそうというか嬉しそうだった。
駅から三十分くらい歩いて、ちょっと騙された様な気分になった頃、藍色の暖簾の居酒屋の前に着いた。すごく嬉しそうにガラガラっと引き戸を開けたセファースさんは当然ただいまって言うと思ってたんだけど、僕の予想は盛大に裏切られた。
「通子さん、ボクちょっと旅に出ようと思うんだ!」
セファースさんの背中で見えない向こう側から、何人もの驚きの声が聞こえてきて、なんて所に連れて来たんだって文句を言いたくなった瞬間、視界が開けて、美味しそうなおでんと瓶ビールが見えた。
「ボクが居ない間は前桐さんがここでボクの代わりに働いてくれるって!」
「ん?ファー君偉いじゃないか!自分で後任を見つけてくるなんて!それでどこに行くのか決まってるのかい?」
ガッシリとした体格のオッサンが、ガハガハと笑いながらどんどん話を進めていく。僕もここで働くことを了承した訳じゃないし、多分店主だろう女性も一言も喋ってはいない。
「まぁとりあえず、納豆ネギ巾着でも食べてな」
女性店主が諦め顔でカウンターに二つの皿を出した。どちらにも同じ料理が三つずつ、香ばしい湯気を漂わせて乗っている。ハッと振り向いたセファースが一瞬の笑顔の後に悲しそうに目尻を下げた。
「通子さん、もしかして怒ってます?」
「なんでそう思ったの?」
「だって、通子さん、怒るとご飯減らすんでしょう?カラス達が言ってました。ボクの納豆ネギ巾着いつもは五つ有ったじゃないですか」
やっぱり、あのカラス人間の言葉が分かるのかぁ。言ってたって事はセファースさんもカラスの言葉が分かるのか?この人ならあり得るかな。
呑気にカラスとセファースさんの事を考えているうちに、お店の人とセファースさんがすごい勢いで話始めて、僕が口を挟める雰囲気じゃなくなった。
とりあえず、薦められた料理を食べとこう。パリっと焼かれた揚げの香ばしさが、納豆の臭みを消していて美味しい。確かに五個くらいペロっと食べれそうだな。
三日後、僕は通子さんのお店のバイトになって、そしてセファースさんは旅に出た。