更科そばのメロディ
彼との出会いは朝の早い時間、開店前のカフェのテラスにあるピアノを拝借して、弾いていた時。丁度バッハのプレリュードを演奏している時だった。赤い髪を靡かせた彼がペコリと私にお辞儀をしてそれから手元に視線を感じ続けた、弾きにくい演奏をした日。
満足いかないプレリュードを終わって、それでもまだ手元に視線を感じた。じいっと固まってる赤毛の青年は、瞳の色も薄くて北欧から来たと言われたら納得する風貌。日本語通じるかしら?
「お兄さん、何かリクエストある?」
「曲名が分からないんですけど……」
こちらの心配なんて関係なく、流暢な日本語ときちんとした音程の鼻唄が返ってきた。鼻唄で歌ってくれたのは、見上げてごらん夜の星をで、あたしも好きな曲だったからその場で即興の演奏をした。赤髪の青年が小さい声で演奏に合わせて歌い出したんだけど、英語でも日本語でもない歌詞で興味を惹かれた。
「観光でいらっしゃったの?」
「はい!日本は不思議な場所がいっぱいなので!」
好奇心に押されて話しかけたら、少年の様な雰囲気でニコニコと返事をする。さっき、ピアノを見てた真剣な表情はちゃんと大人の雰囲気だったのに、不思議な人。
「良かったら案内しましょうか?あたしも観光客みたいなものだけど」
「良いんですか?」
行きたい場所を聞いたら、少し考えるそぶりを見せてから、斜め上を指差した。松山城は外国人さんに人気だものね。納得だわ。お互いに簡単な自己紹介をしてから移動を始める。彼は自分の事を旅人だって言ったけど、それでどうやって暮らしているのかしら?
すぐ近くの駅から路面電車に乗って、二駅。電車なのに切符を買わないのかって聞かれた時のキョトンとした表情は可愛らしかった。
「ハノンさん、お城見えなくなっちゃいました」
「ちゃんとお城には向かってるから安心して」
ロープウェイ通りの緩やかな坂をゆっくりと歩きながら、彼の話を聞くことにした。右に左に現れる鯛めしのお店はどこも準備中。あちこちに吊るされた砥部焼きの風鈴が、金属の楽器のような音を響かせている。
「さっき行き先聞いたときに悩んでたのはどうして?」
「温泉に入りに来たんですけど、お城の方が気になってしまったんです」
「貴方もやっぱりサムライに興味があるの?」
「サムライ?なんですかそれ?遠くから見て変わった形の建物だったので気になってしまったんですよ」
外国人観光客でサムライを知らずに城に興味を持つなんて珍しい。リフトとロープウェイどちらにするかと尋ねれば、リフトと即答された。あたしはロープウェイが良かったけれど仕方ない。
夏のリフトは暑くて、けれど気まぐれな風が時々吹いて思ってたよりも、気持ちの良い乗り物だった。春なら桜が、秋なら紅葉が広がる眼下はただ一面の緑色。ひとつ前のリフトに乗った赤毛の青年は右に左に首を動かして楽しそうにしている。
リフトの駅を出て坂を登っっていく。要所要所にある説明書きの看板を見つけては青年は立ち止まっていく。こんなに色々な説明がされているなんて思ってもみなかった。お城って武将の見栄だと思ってたけど案外合理性の塊なのねぇ。
石垣を見上げたり、門を潜ったりしてやっと目の前に天守閣が見えてきた。白い玉砂利が敷かれた広場の『ミカンジュースの出る蛇口』を通りすぎて簡易休憩所で一息。この青年まったく動じてないけど、運動不足の身にはあの坂は結構キツイ。
「ハノンさん!ここ、そんなに高い場所でもないのに、すごく眺めが良いですね」
「えっ? こんなに坂を登ったのに高くない?」
言われて視線を横に向ければ、木々に邪魔されつつも市街地の様子が一望できた。ビルが立ち並ぶ街を見下ろす景色は確かに、もっと高い場所に居る様な気分になるかもしれない。
息を整えて切符売り場へと向かう。大きく息を吸い込んで城内に向かって歩き出す。現存十二天守のひとつならば、城内に文明の利器はないでしょう。急階段を昇る覚悟を決めた。
赤毛の青年は何に対しても興味津々な様子で、足取り軽くズンズンと進んでいく。展示物の説明書きを読むために度々立ち止まってくれるおかげで何とか付いていける。
天守の天辺は絶景だった。さっきは木が邪魔をしていた景色がよく見える。グルリと一周して景色を眺めれば、西には瀬戸内海の島々が見える。
「ハノンさん、あそこは何ですか?」
青年は東側の比較的近い所を指さしている。
「あの辺は、……道後辺りじゃないかな」
「道後温泉?宿もありますか?」
旅行に来たのに、宿も取っていないという青年に頼まれて温泉宿の予約電話をしてあげる事になった。今時、携帯持ってなくて、不便を感じてないなんて、本当に不思議な人。
お城から降りたらお昼を少し回っていた。周辺の飲食店は割とどこも満席になっている。通りに並ぶ飲食店を眺めていたら、ざるそばが食べたいなぁと、郊外の蕎麦屋を思い出した。
「お昼ご飯なんだけど、少し遠いんだけど付き合ってくれる?」
車を三十分程走らせて、目的のお蕎麦屋さんに着いた。青年に昼食がお蕎麦だと伝えたらとても喜んだ。西洋人なのに、お蕎麦が好きとはなかなかの日本通かしら?
昼時のピークを過ぎた店内は静かな落ち着いた雰囲気になっている。メニューを渡したけれど、私のおススメをと言われたので、かけそばを二つ頼んだ。
ここのお店は、西日本では珍しい更科蕎麦を出してくれる。ツルリとした舌ざわりとコシのある麺の喉越しがたまらない。白い麺は蕎麦の香りを柔らかく口に広げてくれる。湯気に香るお出汁を堪能していたら、正面の青年は困惑の表情を浮かべていた
「これがおそばですか?ボクが知ってるお蕎麦とは随分違います。お蕎麦って冷たい食べ物じゃないんですか?」
「冷たいのが食べたかったなら、自分で注文したらよかったのよ。アタシはいつだってお蕎麦は温かいほうが好きなんだもの」
青年は、持ち上げた麺に二十五回も息を吹きかけてから一口ずつ食べている。よっぽど猫舌なんだと気付いて、少しだけ、ほんの少しだけ申し訳ない気分になった。
「羽音さん、ピアノを弾くときの楽譜を見せてもらえませんか?」
どうにか食べ終わった青年からペコリと頭を下げてお願いされた。あたしにとっては些細なお願いで全然かまわないのだけど、真剣な表情で頼まれた。
「え?いいけど貴方楽譜読めるの?」
「うーん。正しくは読めないけどボクなりには読めるってトコロです」
楽譜を渡しながら確認したらそんな返事がかえってきた。自分なりに読めるって何だろう?
「正しい読み方に興味があるなら、教えようか?」
「ホント?嬉しいです」
市街地に戻って、商店街の近くにあるスタジオを借りた。アーケードの下は結構人通りが多い。細いアーケードのない路地に入って、ビルの狭い階段を昇る。今日はなんだか昇ってばっかりの様な気がする。
ピアノの前に座らせて、五線紙と鍵盤を交互に指しながら音階を教える。五線紙に書かれている記号の意味を最低限教えたら、サッと五線紙に「見上げてごらん夜の星を」のメロデイを書いて、奏でて手本を見せた。知っている曲の方がきっと分かりやすいでしょう。
青年はあっという間にメロデイだけならスムーズに弾ける様になった。青年の左側に立ってそのメロディに合わせて伴奏を弾いたら、驚いた表情であたしを見上げた。ポカンとした表情が可愛らしい。
青年に乞われるままに伴奏や和音についても教えた。流石に両手での演奏をその日のうちに出来るようにはならなかったけれど、即興でメロディを奏でる事は出来るようになってあたしを驚かせてくれた。
「貴方、すごいわね。初めてピアノを触って二時間で即興で作曲できる人なんてなかなか居ないわよ」
「もう一度引いたら、伴奏してくれますか?」
青年に頼まれて簡単な伴奏をつけると、なんだか不思議な気分になった。滅多に思い出さない実家の景色が浮かんで、郷愁に駆られる。あんな田舎に戻りたいなんてこの十年思った事もなかったのに。
狭いビルの階段を下りたら、すっかり夕方になっている。青年を宿に送るついでに道後温泉の温泉街を観光する事にした。夕食に誘って商店街のアーケードを歩いて居酒屋に入る。
名物を食べたがる青年はじゃこ天と日向鯛飯を頼んで、あたしは焼き鯖と冷奴を頼んで、ビールを飲む。お酒に弱いと紅マドンナサイダーを頼んでいた。
「ハノンさん、この近くにパワースポット、地球のエネルギーを感じられる場所はありませんか?」
「地球のエネルギー?少し違うかもしれないけど、焼き物って知ってる?」
「マグカップを持ってます」
「旅行にマグカップを持ち歩く人は珍しいわね。焼き物は日本中、世界中で作られるのだけど、場所によって全く性質が変わるのよ。見た目だけじゃなくて叩いた時の音も変わるの。それで、焼き物っていうのは、土を練って形を整えて焼くのだけど、場所によって土の性質が変わるから、その土は地球のエネルギーを持っているともいえるんじゃないかしら?この辺りは石の粉を捏ねるからかなり特殊な性質の焼き物ができるのよ」
翌日は本当は一日ピアノを弾いて過ごすつもりだったけれど、この青年と過ごしていると、技術より感性を高める時間が重要な気がしてくる。ピアニストとして、心に響く音を奏でるために、この青年と過ごす時間は必要だと、誰も聞かない言い訳を心の中で呟いた。
今日もオープンカー日和。砥部に向かって行く途中で私の好物のサバサンドを買う。ここのサバサンドは焼きサバが挟まれている。お昼はあの静かな公園でこれを食べようかな。
一時間も掛からないくらいで最初の目的地炎の里に着いた。いくつもの窯元の作品が展示販売されている。ズラリと並んだ砥部焼は、白地に青い模様という共通点はあれど、一つ一つに個性が宿っている様に見える。
青年に、自由に見て回る様に伝えて、あたしはコレクションに加える様な風鈴がないか探す。陶磁器の風鈴は、産地ごとに見た目だけでなく音色が違う。砥部焼の風鈴は独特の澄んだあたし好みの音がする。
結局、あたしの新しいコレクションは見つからなかったけれど、青年は小さなお皿と風鈴を買っていた。確かにその風鈴は並んでいた中で一番良い音だったと思う。
「まだ、どこかに行くんですか?」
「昨日、友達に連絡して教えてもらったパワースポット」
チリリンと青年の手元で風鈴が鳴る。上からの風を受けて、風鈴の短冊はクルクルと回る。
あたしにとっては、何もない小さな公園。駐車場に車を止めて、小さな橋で川を渡って、公園の中の木陰を目指していく。ピーヨピーヨと鳥の声がして、シャバシャバと流れる川の水音と混ざり合う。ワシャワシャジージーと蝉も鳴いている。もっと静かな公園だと思ってたんだけど。
「この川がパワースポット?」
「うーん?あの辺の地面?」
聞かれても答えられる訳ない。木々に囲まれて水の流れがあれば、マイナスイオンが発生するんだっけ?何年か前のマイナスイオンブームの時にそんな事を聞いたことがある。けれどここは、そうじゃなくて、断層のぶつかり方がどうとかって聞いた。
「なんか、古い地層のが新しい地層の上に乗ってるんだって。プレート?断層?なんか地面がぶつかり合うとパワーが地面から溢れるらしいよ。本当かどうかは知らないけど、友達がそう言ってった」
あの雑学大王の友人は、色々な事を薄く知っている。聞きかじった事を自分なりに解釈して覚えているらしい。決して深くは追及しないから、話半分に聞いてねといつも言っていたから、正直この場所がパワースポットじゃない可能性もある。
でも、風が気持ちよくて、自然の音が心地よいから、リラックスやリフレッシュはできる場所に違いない。鞄から鯖サンドを取り出して青年に渡す。
「とりあえず、お昼ご飯食べよ」
静かに川を眺めながら鯖サンドを食べる。脂ののった焼きサバは、パンと合わせても美味しい。あたしはゆっくり鯖の風味を味わっていたけれど、青年はあっという間に食べきって、風鈴を揺らしながら、昨日のあのメロディを口ずさんでいる。
「この後の旅の予定は?」
昨日の宿はチェックアウトしたと言ってたから、帰りはどこに送っていくべきかと思って聞いてみた。どこに行くにしても、松山駅が都合良いんだろうけど。
「九州に向かおうと思ってます」
言いにくそうに、青年は肩掛けバッグからヨレヨレの地図帳を出した。できれば佐田岬を経由して八幡浜港に送ってほしいと言われて、少し悩んだけど、送っていくことにした。見せられた地図の佐田岬に書き込まれている内容にあたしも興味を惹かれたから。
「本当に色がちがうんですね」
「本当ねぇ」
目の前は夕日でオレンジ色に染まる海。線を引いたように右の瀬戸内海と左の太平洋で色が違う。気のせいと言われるかもしれないくらいの微妙な差だけど、あたしの目には違って見えている。
「この海の底も、地面がぶつかり合っているのか。不思議な力を感じる」
小さな声で敬語も取れていたから、きっと独り言なのでしょう。気付かない振りしといてあげる。