黒たまごのエネルギー
不思議な事というのが誰にも平等に訪れるという事を、初めて信じました。カランコロンと鳴るドアベルの音。振り向けば、背の高い青年が、入り口すぐの棚の前でキョロキョロとしています。どことなくこの店によく訪れるお客様とは違う雰囲気です。
青とは言い難いけれど青いと言いたくなる色合いの色素の薄い瞳と、肩のあたりでふわふわと揺れる赤い髪。色白で長い首の上に乗った小さな頭が軽く傾いて、見るからに困ったような表情です。いえ、表情は、元々困った様に見える顔立ちなのですね。母性をくすぐられる顔というのでしょうか。
けれど、それ以上に、個人として興味を惹かれています。初めてお会いしますが、私はあの青年を知っているのです。どうしてここに来たのかは分かりませんが。
静かに近付いて斜め前から用件を伺うという、この店の接客マニュアルを完全に無視して正面から近付けば、三メートル程離れた地点で目が合いました。ふわりと口元を緩めて青年の方からこちらに近付いてきます。
「このお店には、鉱石とかは置いてないですか?」
思いがけず、本当に店に用が有ったのですね。外観からして古いものを扱っていそうな店構えで、勘違いをされたのでしょうか。ここはガラス製品や陶器などのアンティークを扱うお店です。宝石やパワーストーンの取り扱いは残念ながらありません。
「申し訳ありませんが、当店はアンティーク雑貨のお店でして」
この辺りに観光に来る人が鉱石を求める事はあまりありません。近くにある美術館の影響で、ガラス製品やオルゴールなどはよく売れますが。特産としてもこの辺りは火山帯なので、宝飾品にできる鉱物や、金・銀なんて、産出するわけもありません。
青年の用件がここで果たせないからと言って、緑を終わらせたくはありません。どうにか、もう少し会話をつなげられないでしょうか。ふと青年の視線が奥の棚のランプに向いていることに気づきました。
「あちらのランプが気になりますか?」
「はい。懐かしい気分になります。あれは……電気ですか?」
青年が見つめているのはオイルランプです。装飾のないシンプルな吊り下げ式の年代物のランプ。照明器具としては少々心もとない明るさですが、正真正銘のアンティークで、好きな人は好きそうな逸品です。懐かしいとは、お爺様とかが似たような物を持っていたのでしょうか。
「オイルランプなので、電気ほどの明るさは出ないですけど、インテリアとしてオシャレですよね」
「すみません!買うつもりはないんです!」
よく見ていただこうと、棚に手を伸ばすと慌てた様子で止められてしまいました。それでも、私は棚からランプを持ち上げます。真鍮のワイヤーでできた持ち手が揺れてキィっと小さく音をたてます。この音も含めてアンティークの良さですね。
「見るだけでもどうぞ?火を点ける訳にはいきませんが、手にとって頂く分には構いませんよ」
この青年とゆっくり話をしたいという私の好奇心が、商売っ気に勝ちました。ランプを懐かしいと言った思い出を聞き、さらに他の商品達も話のダシに使います。話をしているうちに、表情も声も柔らかくなってきました。聞いていた通り、人懐っこい方ですね。
ですが、妹から聞いていた様子と違い、一人で行動されている様です。母親のような女性と一緒に行動していると聞いていたのですが、どれだけ話しても他の人が探しにくる様子はありません。窓の外にカラスが並んでいる様子もありません。人違いでしょうか。
「セファースさんですよね?」
「僕を知っているの?」
思い切って尋ねてみれば、眉が跳ね上がって、色素の薄い瞳が真ん丸になります。セファースさんの表情の変化は、思いがけず私の感情を揺らしました。人を驚かす事が好きな友人の気持ちに人生で初めて共感します。これは確かにクセになりますね。
「カラスさん達は、ご一緒じゃないしですか?」
意地悪にも私はセファースさんの質問に答えず、更に驚かそうと質問を重ねました。元の位置より更に眉を下げたセファースさんは窓に顔を向けます。窓から差し込む夕日が照らす顔は、逆行のせいか影が射して見えました。フッと小さく息を吐いた肩がすぼんだ様にも見えました。
「今は別行動なんだ。それで、なんで僕を知っているの?」
お店に入ってきたときよりも小さな声です。振り返った表情を見て、私は間違えたのだと気付きました。人を驚かせて、お互いが楽しい気持ちで過ごすのは難しいのですね。
「ごめんなさい。あなたの似顔絵を妹から見せてもらったんです。妹が貴方と会った時の事を楽しそうに、『忘れられない』って言ってて。富士の樹海で画家に会いませんでしたか?私、松本由和っています」
「あっ!画家さんの…お姉さん?」
パチパチと音が聞こえそうなくらいの瞬きをして、ポンと拳を掌に打ち付けた仕草が、ハッキリとした顔立ちに不相応な程に可愛らしいです。たった半日を過ごしただけと聞いていましたが、セファースさんは妹の事を覚えていました。一気に緩んだ顔を見るに、妹の印象は悪くないのでしょう。
「妹から樹海を散策した時の話を聞いて、私も会ってみたいと思ってたんです」
「えーっと、妹さんはなんて言ってたんですか?」
小さく首を傾けた表情が、純真無垢な人柄を滲ませています。
「善良な魔法使いさんだって言ってました。お母さん?のような方もとても善良な方だって」
尋ねずとも山中湖の近くで会った時の事を、妹よりも詳細に話してくれました。熱々のほうとうを鍋からすぐに食べれる妹に対する感想は、全くもって同意します。姉妹でも私は猫舌で、コーヒーを飲むのですら時間がかかると言うと、一気にセファースさんとの距離が近くなりました。
「富士山に興味が有ったのでは?どうして箱根に来られたんです?」
「富士山じゃなくて、火山に興味があるんだ」
気がつけば、窓の外が茜色から藍色に移り変わっています。この後の予定を伺うと、温泉に入りたいけれど、宿を決めていないと仰いました。今から泊まれる宿を探すのは大変でしょう。何件かのホテルに電話をして、胸を張ってお勧めできる所の空きを見つける事ができました。それもセファースさんが、予算の上限ナシで良いと言ってくれたおかげですけれど。
ここでお見送りするだけなんて、名残惜しいです。明日はお店の定休日でもありますし、思い切って誘ってみましょうか。妹と似た色彩感覚の方と景色を見れば、なかなか理解してあげられない妹の感性に少しは近付けるかもしれません。
「明日!よければこの辺りのご案内しましょうか?というか、案内させてください!」
ちょっと色々な感情が混ざって、語気が強くなってしまいました。一瞬引かれたかと思いましたが、セファースさんは笑顔で私の提案を受け入れてくれました。
「とても助かります。地元の人の案内ほど心強い事はないです」
私が紹介したい場所に連れていくだけになる事を伝えても、セファースさんは喜んでくれました。
「もし、僕のお願いを聞いてくれるなら、そう、火山の力を感じられる場所も案内してくれたら嬉しいな。僕はね、地球の秘密を知りたくて旅をしているから」
セファースさんのリクエストに答えるには大涌谷でしょう。あの噴煙こそ火山の力そのもの。セファースさんに紹介した宿は強羅だから、先に私が行きたい所に行って、夕方に大涌谷かしら?
翌日は強羅駅で待ち合わせを致しました。駅前のベーカリーであんぱんを買って待っていれば、弾むように揺れる赤い髪が近付いてきます。明るい朝日の中で見ると、瞳の色が一層薄くて、北欧の人みたいですね。
「昨日は素敵な宿を紹介してくれてありがとう。よく勉強できました」
最近流行りのブックホテルは、セファースさんにとって楽しい場所だったようです。温泉にも浸かって大満足だと話してくれます。
電車に乗って一駅移動して、彫刻の森美術館に行きます。広い敷地をゆったりと歩いて、芸術という様々な人の感情や思想に触れるのは、刺激的な時間です。妹ともよく一緒に行くのですが、どうにも同じものを見ているとは思えません。セファースさんはどんな感想を抱くのでしょう。
知り合ったばかりだからこそ、率直に訪ねられるし、素直に話を聞ける気がします。利用するみたいで申し訳ないですが、セファースさんとの会話から、妹の事を知れたらと期待しています。
「夕方には、火山の力を浴びれる場所に行くから、まずは私の行きたい美術館からで良いですか?」
「美術館ですか?そう言えば、僕、美術館には行ったことがないです」
「興味ないですか?」
「ううん。ただ機会がなかっただけです。行ったことない場所に行くのは楽しみです」
電車を降りて、会話を楽しむ間もないほどあっと言う間に着きます。天井が低く感じられるトンネルを潜ったエントランスには早速作品が迎えてくれます。
「ここはね、日本で最初の屋外美術館なんですよ。堅苦しくなく五感で、なんなら第六感まで活用して芸術を楽しむ場所なんです」
見上げたセファースさんはゆったりとした動きで、視線をぐるりと巡らせていました。それから目の前の作品の足元を見つめます。白い玉砂利が太陽に照らされてキラキラと輝いています。
「うん」
小さく頷いてニッコリと笑ってくれました。その仕草や声の意図する所を正確には理解できませんが、悪い感情では無さそうです。ホッとしました。
目の前に浮かぶモニュメントと足元の玉砂利の白さが現実から引き離して、非日常へ誘ってくれます。さてそんなにはゆったりできませんから、効率よく廻らなくては。視野を広くとって整えられた散策路を歩いていきます。寛ぐ芸術達や、特殊なコーティングをされた黒い彫像に立ち止まったり、意見を言い合うのは楽しい時間です。
セファースさんは踏み心地の良い芝生に寝転がろうとしていましたが、止めました。「この国の人は地面に寝ないの?」なんて不思議そうな顔をしないで下さい。というか他の人に注意されていたなら、地面に寝ようとしないで欲しいです。
歩き回って、足湯にたどり着きました。タオルを買って二人で並んで座ります。正面にはこの美術館のメインとも言える塔が見えています。ここから見ると地味な塔なんですけどね。
「セファースさん、あの塔何色に見えます?」
「えっ?うーん。薄茶色?」
「あれ? セファースさん妹と同じような色彩感覚の持ち主なのではないのですか?」
どことなく気落ちした雰囲気のセファースさんが、パシャパシャと足で波を立てながらポツリポツリと話してくれます。どうやらセファースさんの色彩感覚は妹とは違っているようです。妹はあれを離れた所から見ても、カラフルだと答えますから。内側に張り巡らされたステンドグラスの色が溢れ出ていると妹は言っていました。
「そうかぁ。妹さんは本当に『色』を見ていたんですね。僕は不思議な力の色が自然の中に見えていて、人工物の色はそんなに鮮やかに見えないんですよ。期待外れですみません」
妹の事を話すとセファースさんは、少しだけ眉を寄せました。足元のお湯から上る湯気が揺れています。湯気を見つめるセファースさんは何かを考えこんでいるようです。
「同じものが見えないって寂しいですよね。僕の弟や両親も由和さんの様なきも
ちだったんですかね。そうだったらいいのに」
チャポチャポという水音がセファースさんの足元で鳴って言葉の隙間を埋めています。小さい子の様なその仕草にはそぐわない表情で水紋を見つめる瞳が、睫毛の陰で暗く見えます。
「セファースさんに見えて、ご家族に見えない物があったんですか?」
「精霊。多分、妹さんに会ったときに居たカラス達がそうなんですけど。僕の国で精霊が見えたのは僕だけだったんです。精霊のことを話しても、誰も信じてくれなくて、見ようともしてくれなくて、一人でどうにかするしかないと思って家を出ました」
「それは寂しいですね」
「由宇さんは家族が理解しようと思ってくれるだけ、心強いものですよ。理解したい気持ちだけでも伝えた方が良いと思います」
足湯から出て、塔の様な彫刻に向かいました。中に入った途端、セファースさんの表洋が変わりました。階段の足跡を弾んだ調子で踏んでいきます。昼近くになった太陽の日差しは、ステンドグラスを抜けて、キラキラと降り注いでいます。上るほどに明るくなります。
「外からもこの色が見える妹さんが羨ましいですね。すごく綺麗です」
振り向いたセファースさんは上を向きながらグルリと首を回しました。その表情は思わず息を止めてしまうような、この世の者と思えぬ顔でした。見ただけで心を洗われる心地になる純粋さに溢れている顔です。
「あれ? 大丈夫ですか?ボクなにかおかしな事言いました?」
動きをとめてしまった私を気遣うように顔を覗き込んで話しかけてくれる声が、遠くに聞こえます。
「えっと、この光の中だと貴方がこの世の人ではないように見えて驚いたの」
「あー、確かにボクはこの世の人じゃないんだけど……どんな風に見えたの?」
困ったように笑ったセファースさんは、私の手を引いてくれていた様な気がします。セファースさんの言葉を冗談と笑い飛ばせない私が、正気に戻った時には、塔の上で風に吹かれていました。
「由和さん、驚かせてしまって申し訳ないんだけど、火山にも案内してもらっても良いかな?」
ケーブルカーとロープウェイを乗り継ぐ間は、セファースさんが次の旅先選びに悩んでいると言うので、いくつかの温泉地や景勝地についてお話しました。とは言えお話ししたどこも私は行ったことがありません。旅行好きのお友達から聞いた話の伝聞でしかありませんが、セファースさんは真剣に聞いてくれていました。
ロープウェイの大涌谷駅に着くと硫黄臭を強く感じました。近くに住んでいてもこの臭いにはなかなか慣れません。
駅の向かいの黒たまご館に入り、火山と温泉についての展示を見学しました。それから黒たまごを買って、火山ガスの吹き出す火口を眺めます。
「ボクの弟の話、聞いてくれますか?」
「弟さん?」
セファースさんはコクリと頷きました。手元では真っ黒な卵の殻を剥いています。
「由和さんは妹さんに見えるものが見えなくて悩んでいたでしょう?ボクの弟もボクに見える精霊が見えなくて……あれは悩んでいたのかなぁ?」
私に聞いて欲しいとは言いつつも、まるで独り言の様に話しています。私は黙ってセファースさんの横顔を眺めているだけです。殻に覆われたゆで卵の白身を出すように、セファースさんの心も殻を破っている様な、苦しげな表情に見えます。
「幼い頃は、『ボクも精霊さんに会いたい』って確かに言っていたと思うんだ。一緒に精霊の願いを叶えると言っていたと思う。でもいつからか、『精霊なんて居やしない。兄さんは臆病者だからそんな幻想に取り憑かれているんだ』ってボクを罵倒する様になっていた」
「そんな!」
「それで、ボクは家を出たんだけど、何故か弟が偽名を名乗ってまでボクの仕事の助手になりにきた。でもボクはどうやって接したら良いのか分からなくて録に話しもしなかった。もし、もう一度会えるなら、もっと色々なことを話したいんだ」
火山ガスが消えていく空はゆっくりと水色から茜色に変わっていっていました。私も今夜は妹に電話してゆっくり話してみようと思います。