冥き水底の女神
平和な日々が続いた。
少なくとも表向きは。
鐘捲雛子が栗ご飯を炊いた日は、シスターズのテンションも高まった。みんなにこにこしてご飯を食べている。ミルクしか口にできない赤ん坊はごく渋いツラだが。
「機械の姉妹よ、自分だけ馳走を口にして満足か? さっさと我を成長させよ。この体は不自由でならぬ」
しかし機械の姉妹は冷たい。
「本気ですか? 食事など、栄養摂取の手段にすぎませんよ」
「ほう。堂々と嘘をつくではないか。汝が栗ご飯に興奮しているのはサイキック・ウェーブからも明らかであるぞ。口ではなんと申しても、体は正直なものよ」
「撤回してください。あなたはいま、内心の自由を侵害しています」
「なにが内心の自由か! 毎日毎日ミルクを飲まされるほうの身にもなってみよ! しかもママにあやされ、よしよしされながら……。満足してしまう自分にも嫌気が差す! 我もサッカーがしたいのだ! 汝の態度には断固として抗議する!」
「どうしてもというのなら構いませんが、そのためのハーモナイザーは用意できるのですか? 結構な額になりますが?」
「金など一円も有しておらぬわ!」
とはいえ、すべてサイキック・ウェーブでのやり取りだ。
これを聞き取れない鐘捲雛子からすれば、静かな食事風景と映っていることだろう。聞かされている俺たちは苦笑するほかないが。
興奮している赤ん坊を見て、鐘捲雛子は慈愛に満ちた笑みを浮かべ、ぷくぷくした頬を人差し指でつついた。まったくなにも伝わっていないことが分かる。
*
しかし事件は突然舞い込んでくる。
シャワーを済ませるなどして、あとは寝るだけとなったとき、各務珠璃から電話がかかってきた。
「はい、二宮です」
生活スペースの電話番号へは限られた人間しかかけてこないので、苗字で名乗って問題ない。
『あ、よかった! 皆さん揃ってます? じつは赤羽さんの研究所で事件が起きまして!』
「赤羽……」
秒で察した。
彼女の話はこうだ。
『オメガ種が暴走したらしく、うちに救援要請が来ています! 申し訳ないのですが、至急準備願えますか?』
「了解」
『私もすぐ向かいます』
サンプルをいじくってたら大変なことになっちゃった、ということだろう。だから監視しとけと言ったんだ。いや実際は言ってないが。
本社は東京にあるが、研究所は静岡に集中している。あるいは山梨かもしれない。ともあれ、車を飛ばせば一時間ほどで到着するだろう。
「みんな。赤羽がやらかした。出動準備してくれ」
とはいえ、動けそうなのは鐘捲雛子と佐々木双葉だけ。あとはバンで暮らしているジョン・グッドマンにも声をかけねば。
シスターズは留守番。
今回のターゲットはガイア本体じゃない。ごく小さなサンプルから出現した「なにか」だ。用心するにこしたことはないが。
*
バンに乗り込んで待機していると、タクシーから飛び出してきた各務珠璃が乗り込んできた。
「走りながら説明します。グッドマンさん、山梨方面へお願いします」
自宅でリラックスしていたのだろう。パーカー姿だ。このところスーツばかりだったからかなり新鮮だ。
バンは慎重に動き出し、道へ出てから徐々に速度をあげた。
すでに夜だ。景色は暗幕を垂らしたように真っ黒。
「ガイアのサンプルを預けた研究所が、正体不明の怪物から襲撃を受けたとのことです。サイキック・ウェーブを感知したことから、きっと変異体ではないかと」
その説明を聞き、俺は思わず吹き出した。
「絵に描いたような展開だな。例のビーストは? 配備されてるんでしょ?」
「起動させたそうですが、報告によれば、溶けてしまったとか……」
グランドクロスだ。
ただの肉片がそんな能力まで使うとは。
「形状は?」
「監視カメラの映像があります」
タブレットを見せてくれた。
黒い肉でできた樹木だ。少女と呼べる形状ではない。しかもデカい。研究室の大半を占拠している。のみならず、巻き込まれたらしい人物も映り込んでいた。手足のない白衣の男。おそらく赤羽義晴だろう。胴体をツタで絡めとられている。
俺はこう告げた。
「つまり、廊下側から緊急避難装置を起動させればいいと?」
各務珠璃はぎょっとして目を見開いた。
「ち、違います! 赤羽さんからの要望で、博士を救出して欲しいと……」
「これいつの映像? もう死んでるんじゃないの?」
「まだそうと決まったわけじゃありません!」
人の命に関することだ。ジョークにすべきではないんだろう。しかし俺にも考えがある。
「こいつを救おうとすると、俺たちも死の危険にさらされる。そして助かったこいつは、また自分の部下を危険にさらすぞ。被害を最小限に食い止めるのも作戦のうちだぜ」
「でも、あくまで依頼ですから……」
「赤羽からの依頼なの?」
「風間さんも合意しています」
それもそうだな。わざわざ赤羽にサンプルを託したのは、赤羽義晴の頭脳を必要としているからだ。死なれたら困る。
*
山梨の研究所につくと、やはりヘリで駆けつけたと思しき赤羽誠子が駆け寄ってきた。
「兄が! 兄が中に!」
分かってる。
各務珠璃は「最善を尽くします」などと勝手な約束をしている。
俺は仲間たちに向き直った。
「行こう」
ここで議論している暇はない。
なんなら問答無用で緊急避難装置を起動させてもいい。それが俺の最善だ。
二階建ての小さな研究所だ。まだ中に人がいるらしく、同僚に避難を呼びかけている。ひとりでも多くの研究仲間を助けたいという思いなんだろう。こういう善良な人間を使って、あくどい研究をしているというわけだ。
「問題の対処に来ました。あなたも避難してください」
俺が拳銃を構えているのを見て、特殊部隊かなにかだと思ったのだろう。研究者はほっとした顔を見せた。
「あの、まだ下に人が」
「把握しています。さ、退避して」
「はい」
あくまで把握しているだけで、助けるかどうかは別だが。
まあ俺だって冷酷無比ってわけじゃない。ちょっとこの仕事に手を染め過ぎただけの一般人だ。人並みの良心はある。たぶん。
サイキック・ウェーブはレベル3程度。
しかし安心はできない。たとえば獰猛な虎だって熊だって、波のレベルは1にも満たない。が、素手でやりあえば俺は勝てない。
奥へ進むと、声が聞こえてきた。
「助けて! 誰か!」
ひとりじゃない。複数だ。
俺は気配を消し、廊下から中を覗き込んだ。
黒い樹木がある。絡めとられた赤羽義晴もいる。ほかにも、肉に巻き込まれた研究者たちが床でもがいている。
完全に予想外だったが、全員生きている……。
これをガスで始末したら問題になりそうだ。
同じく覗き込んだ佐々木双葉もぎょっとした顔になった。
「なにあれ? どうすんの?」
「どうしようもない」
お伽話みたいに樹木に話しかけて、みんなを解放するようお願いするしかない。
なんとか打開策を得ようとふたたび室内を覗き込んで、俺は目を疑った。
映像でも食らったのだろうか?
樹木ではなく、少女がいるように見えた。それも、タールのように黒い肌の。身体から触手のようなツタを伸ばし、研究者を生け捕りにしている。
念のため、俺は一呼吸してからまた覗き込んだ。
いるのは少女だ。
まさか、ガイアだろうか?
ヘッドセットに通信が来た。
『大変です。例のビルから、ガイアがいなくなったそうです』
機械の姉妹だ。
一瞬、なにを言われたのか分からなかった。
「は? いなくなった? あのデカいのが?」
『例の調査会社が駆けつけたところ、忽然と姿を消していたそうです』
「いや、どうやって?」
『おそらく下水管かと』
「……」
なにがどうなっているんだ。
下水管から海にでも出たってのか? あるいは……まさかここへ? 自分の肉片を追って? となると、本当にこいつはガイアなのか?
部屋を覗き込むと、少女はうっすらと笑みを浮かべてそこに立っていた。
人質をどうするつもりなのだろうか?
栄養を吸収しているようには見えない。ただ捉えているだけだ。
佐々木双葉も覗き込んだ。
「お話し、してみる?」
「えっ?」
「なにか言いたいことがあるのかも」
しかしそのためには、パーソナル・メッセージ・キャンセラーをオフにしなければならない。もしガイアならレベルを一気に15まであげられる。危険だ。
危険だが……彼女の言うことにも一理ある。
俺はサイキック・ブラスターを外し、鐘捲雛子に押し付けた。
「君にこれを託す。俺が変異したら構わず撃ってくれ」
「はい?」
「それくらい危険なことなんだ。分かるだろう?」
彼女の回答はこうだ。
「峰打ちしていい? 腕くらいなら簡単に折れるけど」
「いやいや、ジョークじゃないぜ」
「私の言ったことなにも聞いてないじゃない。だいたい、なんで一緒にきたの? あなたも留守番してるべきだったでしょ?」
「なんだよ急に」
「あなたが死んだらみんなが哀しむの。だから軽率なことはしないでって言ったじゃない」
「そうだけど……」
能力者は俺と佐々木双葉しかいないのだ。俺がやるか、彼女にやらせるか、ふたつにひとつしかない。
すると佐々木双葉はケタケタ笑い出した。
「ちょっと、痴話ゲンカ? 二宮さんはそこで見ててよ。双葉ちゃんがやるからさ。もちろん失敗なんてしないよん。ガイアとは見知らぬ仲でもないしね」
「……」
たしかに彼女は惑星だ。ただの能力者というだけではない。俺より適性があるだろう。
こちらが返事に窮していると、彼女はキャンセラーを外し、でこをぽりぽり掻きながら部屋へ入った。
「ウェーイ! ガイアちゃん、元気してるー?」
「……」
声帯による返事はない。
なんらかのメッセージは出ているのかもしれないが、キャンセラーに阻まれて受信もできなかった。佐々木双葉もサイキック・ウェーブでのやり取りに入ったから、俺たちにはなにも聞こえなくなった。
耳をすましても、研究員たちのうめき声がするだけだ。
しかしどうしたものか。
もし佐々木双葉が命を落とした場合、俺たちはガイアとの戦闘を避けられなくなる。研究員を巻き込んででも、緊急避難装置を起動するしかなかろう。
ガイアも赤羽義晴も死ぬ。
長き戦いに、ひとつの終止符が打たれる、というわけだ。
そして対策本部のいざこざが始まる。
行く末を見守ろうと思い、部屋の中を確認した途端、誰かの顔面に出くわした。
「おわ」
「ばあ! どう? びっくりした?」
愉快そうな佐々木双葉だ。
このデコスケ野郎……。
「ガイアはどっか行ったよん。みんなも助かったっぽい」
「は?」
俺は気を取り直し、ふたたび部屋を覗き込んだ。
ガイアの姿はない。
代わりに研究員たちがへたり込んでいる。死者はゼロ。
「え、マジで? 説得したの?」
「うんにゃ。こっちがなに言っても意味不明なことしか言ってこなくて、気付いたらいなくなってたの。まあでも、双葉ちゃんのお手柄といっていいんじゃないかな?」
大手柄だ。
なにより、鐘捲雛子の説教を聞かずに済む。
「けど、彼女はどこへ? この部屋に下水管なんてある?」
するとジョン・グッドマンが口を開いた。
「おそらく換気口でござろう。姿を変えてそこから逃れたのでござる。ニンニン」
満足そうだが、これは忍術じゃない。ただの変異だ。
しかし水みたいに自由自在となると、捕まえるのはほぼ不可能だろう。静岡と山梨の下水道だってたぶんつながっていないはずだから、ここへも浄水場や海を経由して入ってきたはず。あるいは別ルートか。その気になればどこへでも行けるというわけだ。
俺は研究所に足を踏み入れ、赤羽義晴を見下ろした。
「博士、研究は節度を守ってお願いしますよ」
「来るのが遅い! あと少しで人類の至宝が失われるところだったぞ!」
「人類の至宝って? なにか重要なものでも?」
「私の頭脳だよ! いちいち言わせずとも理解したまえ!」
「それは失礼しました」
こいつも排水管から流してやりたいところだな。
彼はニヤリと気味悪く笑った。
「ふん。天才に敬意を払えるとは、少しは見所があるぞ、二宮渋壱。あとで褒美をやろう」
「褒美ですか?」
「データだよ、データ! それも、天才の生み出したデータだ! 数億の価値があるぞ!」
「それ、俺らに扱えるデータなんですか?」
「誰のオツムで扱うって? ムリに決まってるだろう。『8-NN』にでも食わせておけ」
「了解」
いったいどんなデータなのかは知らないが、数億の価値があるというのだから、とっとと売り払ってパーッと遊びにでも行きたいものだ。
もちろん機械の姉妹に精査させるのが先だが。
俺は床に転がったままの赤羽義晴に手を貸すこともなく、部屋をあとにした。
人類はサンプルを失い、ガイアも逃走した。今後なにが起こるのかはまったく予想できない。それもこれも俺たち人類が引き起こしたことだ。結果を引き受ける義務がある。どんな形であれ
(つづく)




