ブラック・ウィドウ
次の仕事はすぐに回ってきた。
ターゲットは通称「ブラック・ウィドウ」。黒の未亡人だ。誰がこんな失礼なネーミングをしたものやら。年齢は三十二歳。彼女は郊外の一軒家にひとりで暮らしているらしい。
これまでの仕事は、わりと楽だった。なぜならば、指定されるのがいつも人気のない郊外であり、他者の目を気にせず襲撃できたからだ。
それにしても、敵に狙われる可能性のある連中が、なぜこんな孤立した住居に住んでいるのだろうか。まあ本人の趣味ならとやかく言う筋合いもないが。
行きのリムジンの中で、俺たちは自称ウラヌスから本日のプランを聞かされていた。
「まるで断崖に咲く孤高の花といった趣だね。となると、さながら君たちは花を散らす罪人といったところかな。昼過ぎになれば、彼女はいつもテラスに出て庭を眺めながら紅茶をたしなむようだ。仕掛けるならそのタイミングだろうね。ああ、それと、犬は飼っていないから、あのやかましい声は聞かずに済む。今日も幸福な気持ちで仕事を終えられそうだ」
詳細な情報でお膳立てしてくれるのはいいんだが、こんな目立つ乗り込む神経が理解できない。いくら人目がないとはいえ、誰かに見られたらその瞬間に記憶されると思うのだが。
車体がクソ長いせいで、細い道では何度も入り直したりするし。
わざと見せつけているとしか思えないな。「主流派」に対するメッセージのつもりだろうか。
小山を周回するように螺旋状に道路が敷設されている。頂上に見えるのは公園だろうか。
車が停まったのは、白亜の豪邸を見下ろせる一段高い道路だ。ガードレールを乗り越えて斜面をくだれば、邸宅を背後から襲撃できる。帰りはメインゲートから出ればそのまま回収してくれるらしい。
俺はリムジンから出て、ぐっと伸びをした。
夏の気配を感じる晩春の空気。
日はやや傾き始めている。
ターゲットがどういう人物なのかはよく知らない。知るべきじゃないんだろう。とにかくやるしかない。
「気が進まない」
ぼそりとアイシャがつぶやいた。
腕の信頼できる女性ではあるのだが、メンタルがあまり安定していないようだった。思っていたより汚い仕事が続いて気が滅入っているのだろう。
まあ俺も同じ気持ちだ。
鐘捲雛子もやってきて、ガードレールの下を覗き込んだ。
「意見を言うのは帰ってからにして。いまは目の前のことに集中しないと」
タフすぎる。彼女は金のために仕事をしているわけでもなく、自分の身を守りたいから戦っているわけでもなく、シスターズを守るために戦っている。俺たちとは覚悟が違うのだろう。
車内で待機しているウラヌスからヘッドセットに連絡が来た。
『ターゲットがテラスへ出たのを確認しました』
「了解」
俺は手短に応じ、ガードレールをまたいだ。
どこから手に入れた情報か分からないが、まあ彼らがそう言うのだから事実なのだろう。
ゆるやかな斜面だから、転倒したところで下まで転げ落ちるようなことはなさそうだ。俺はハンドシグナルで前進を促した。
本当に静かだ。
俺たちは洗練されたプロというわけじゃないから、ガサガサと音を立て放題だし、枝を踏んでパキリと音を立てたりもした。頭をかがめて邸宅の裏に潜んでいると、まるでコソ泥になったみたいだ。まあ実際、コソ泥をバカにできるような仕事じゃない。
だがテラスまではだいぶ距離がある。
ここからは慎重に行かなければ。まあ気づかれたところで、彼女がどこかへ通報する時間さえないと思うが。
それにしても、ひとりで住むには大きすぎる家だ。上は二階までしかないのだが、敷地面積が広い。テラスへ出るまでに、出窓をいくつも通過した。
女は紅茶をすすっていた。
のんきに鼻歌を歌いながら。
ブラック・ウィドウとは言うが、涼しげな白のシャツを着て、まったく陰鬱なイメージがない。髪も明るめな栗色。人生の成功者がくつろいでいるようにしか見えない。
俺はやる気のなさそうなアイシャに、ハンドシグナルでゴーサインを出した。
いざ始まるとなると、アイシャの動きは豹のようにしなやかだ。
音を立てないだけでなく、ぐんぐん加速してゆく。あっという間に所定の位置につき、片膝をついて薬剤の入った銃を構える。射程が短いから数メートルのところまで接近する必要がある。
が、薬剤は射出されなかった。
パァンと音がして、アイシャの手元で銃が爆ぜたのだ。
狙撃された?
アイシャはとっさに草むらに飛び込んだ。
敵の位置が分からないから、俺も鐘捲雛子も動けない。
女はまだ鼻歌を歌っている。
罠だった、ということか……。
ブラック・ウィドウは静かに紅茶をすすり、ほっと呼吸をしてから、俺たちへこう告げた。
「ヘタクソね。ちゃんと殺してくれないと困るじゃない」
どういう意味だ?
すると二階のベランダから男が降りてきた。植物の描かれたシャツを着て、カラフルな数珠みたいなアクセサリーを身に着け、トーラス・レイジングブルを手にしたツンツン頭の男だ。ロックからレゲエに宗旨替えしたのだろうか。
「そりゃどっちに言ってんだ?」
「どっちもよ」
間違いない。青村放哉だ。
どういうつもりかは分からないが、ひとつだけ確実なのは、彼が俺たちの仕事を妨害したということだ。
青村放哉はふざけた調子でこう告げた。
「オメーら、べつに出て来なくていいぞ。コソコソ隠れてろ。見たら撃っちまうからな」
ナメたことを言っている。
俺は家の壁から顔を出さないよう、しかしギリギリまで身を寄せてこう応じた。
「ここでなにしてんの?」
「あ? なにって、プリンセスを守るナイトだろ、どう見てもよ。ま、どっちかっつーとバイトだけど」
「クライアントは?」
「言うわけないだろ。ま、オメーはムカつくヤツだから、言わなくても『主流派』だってことは分かってると思うが。ここだけの秘密だぞ?」
「ご丁寧にどうも」
いけしゃあしゃあと自己紹介しやがる。どういうつもりで敵側に雇われてるんだ? そんなに金払いがよかったのか? あるいは秘密の取引でもしたのか?
彼はこう続けた。
「理由は聞くなよ。センチメンタルになっちまうからな。聞くも涙、語るも涙ってヤツだ」
「こないだ小田桐さんが来たよ」
「その話はすんなっツったろ」
「あんたのこと心配してたんだ」
「オメーは自分の心配しとけ」
パァンと音がして、目の前の外壁が散った。俺の位置を完全に把握している。サイキック・ウェーブのせいかもしれない。同類がいるとは思わなかったから、ダダ洩れ状態で乗り込んでしまった。次回の反省材料としよう。
女がうんざりと溜め息をついた。
「人んちの庭でいつまでお喋りしてるつもり? 早くどっちか死になさいよ」
「うるせぇ。撃たれたくなかったら黙ってろ」
「撃てば? 抵抗しないから」
「なんだこいつ……」
なぜか口論が始まってしまった。
ま、彼が撃ってくれれば話は早い。こっちは銃を撃たずに仕事が終わるってもんだ。時代は省エネだからな。
だが、膠着が続いた。
どこかへ応援を呼ぶ気配もない。
青村放哉は、本当にひとりで俺たちを追い払うつもりなのだろうか。まあ命がけで突っ込めば、たぶんふたりとも始末できると思うが。代わりにこちらも確実にひとりは死ぬ。
ブラック・ウィドウは焦れたように「あーもー」と天を仰いだ。
「こういうのホント、イライラするわね。変異しそう」
サイキック・ウェーブが高まっているのを感じる。
こいつも感染者だったのか。それもずいぶん高レベルだ。鐘捲雛子とアイシャがキャンセラーのスイッチを入れたので、俺も便乗してスイッチをオンにした。
するとこちらに影響が出ないと踏んだのか、女はさらに高出力でサイキック・ウェーブを放ってきた。一見、凪の状態だが、凄まじいエネルギーが拮抗している。
かと思うと、ズリュリュと下品な音を立てて女の体が変異した。まずは肩口が膨張し、かと思うと脇腹、下腹部、頭部と、次々に肉が膨れ上がった。
最初から死ぬつもりだったということか……。
「クソ、護衛対象が自殺志願者なんて聞いてねーぞ」
青村放哉が苦情を言いたくなるのももっともだ。
俺はとっさに声をかけた。
「ひとまず休戦して、手を組むってのは? このままじゃお互い危ない」
「しゃーねーな。今回だけだぞ」
合意したからな。
鐘捲雛子が「勝手なことをするな」とばかりにこちらを睨みつけていたが、俺は見なかったことにした。四の五の言ってられる状況じゃない。
俺は物陰から飛び出して、ぶくぶく膨れている肉へCz75を撃ち込んだ。トリガーを引く、反動が来る、狙いをつける、その繰り返しだ。
あっという間に撃ち尽くしたので、俺はマガジンを入れ替えた。
肉は自重に耐えきれず仰向けになり、某ホラー映画のようなブリッジを見せてくれた。ブリッジというか、ほぼ鏡餅だが。もしかするとブラック・ウィドウってのは、未亡人ではなく、クロゴケグモのことだったのかもしれない。
そいつはスパイダー・ウォークでドタドタと足踏みし始めた。自分の肉が邪魔でうまく方向転換できないようだ。
ふと、鐘捲雛子に凄まじい勢いで引っ張られ、俺は物陰に倒れ込んだ。射撃がヘタクソなのは認めるが、そんな方法で妨害しなくてもいいと思うのだが。
などと思う間もなく、ブラック・ウィドウの口から吐かれた液体がすぐ脇を通り過ぎて行った。
毒ではなく、強酸だろうか。せっかく手入れのされた庭木の一部がでろでろに溶けてしまった。
「助かったよ。ありがとう」
「しっかりしてよ」
返す言葉もない。
青村放哉からも苦情が来た。
「おい! イチャイチャしてねーで手伝え! こいつぜんぜん死なねーぞ!」
そう言われてもな。
今回はなぜか鐘捲雛子もあまり前へ出ようとしない。
俺は壁に身を隠しながら、注意深く射撃を加えた。
それからマガジンを二回は換えた。ブラック・ウィドウはだんだん動きが鈍くなってきたかと思うと、どしんとその場に崩れ落ちた。弾切れになったらしい青村放哉が、植木鉢を頭部に振り下ろしたのがトドメとなった。
終わってみると、じつに悲惨な死体だ。山盛りの肉から血液を垂れ流すだけのオブジェみたいだ。
「クソ、客になんて報告すりゃいいんだよ」
青村放哉は靴についた血液を土にこすりつけていた。
俺は銃をホルスターへ戻し、彼に近づいた。
「勝手に変異したって言うしかないんじゃない? 実際そうなんだし」
「オメー、他人事だと思って簡単に言うんじゃねーよ。まあいい。とにかく、今回は貸し借りナシだ。それでいいな?」
「いいけど……。帰るの?」
「まあな。こんなところに住むわけにもいかねーだろ」
「いや、俺らと一緒に来ないかって意味なんだけど」
すると彼はふっと鼻で笑った。不快そうに眉をひそめながら。
「くだらねーこと言うんじゃねーよ。敵同士だぞ。少なくとも勤務時間中はな。もう行くわ」
「じゃあまた」
「おう」
手をひらひらと振って彼は行ってしまった。
車庫にバイクを停めていたらしく、やがて爆音を垂れ流しながら走り去った。
鐘捲雛子が脇腹に肘を突き込んできた。
「ちょっと。なに考えてるの?」
「あの人はターゲットじゃない。殺しても一円にもならないよ」
「目撃者は駆除しろって言われてなかった?」
「正確には『部外者は駆除しろ』だね。同業者なんだから、部外者とは言えないよ」
「アマいと思う」
とはいえ、あえて仕掛けなかったところを見ると、彼女にも迷いがあったのだろう。だからリーダーである俺が責任をもって判断をくだしたのだ。違反なら違反でいい。
アイシャも来た。
「凄い腕だね。注入器だけ撃たれちゃった」
怪我はないようだ。
まあそうだろう。彼は俺たちに怪我させないよう、慎重に撃ったのだ。それができる男だ。
さて、しかしこっちも仕事を終えて万々歳というわけにはいかないな。このあとポエム野郎にあれこれ詮索されることになるだろう。
こっちもポエムで返してやろうかな。春はあけぼの……いや違うな。普通に返事しよう。
(続く)