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百年誄歌  作者: 待雪天音
8/10

捌:飢火




 ――気分が悪い。いや、悪いなんて生易しいものじゃない。


 朦朧とする意識の淵で、文夜は考えた。


 目の前には伸びるに任せた雑草が煩雑に突き出し、右頬は剥き出しの土に半ば埋もれている。力なく震わせた指もざらついた土を掻き、急速に萎えた足は力なく地面に投げ出されていた。


 山道に四肢を放り出し突っ伏している現状は、一体どんな行動指針から行き着いたものだったか。曖昧にかすれる記憶を掘り起しながら、文夜は呼吸の苦しさに喘いだ。息とはどうやってするものだったか。そんなことさえ、考えなければわからないほどの異常事態だ。


(噂を聞いて、山に登ろうと……夜明け前に家を出て……それから…、それから……)


 ぐるぐる思考が空振りする間も、腹の底から力が奪われていく。言うなれば、今の彼は極度の飢餓状態だ。――おかしいな、朝食はしっかり摂ってきたはずなのに。


 喉の奥から迫り上がってきた吐き気は、彼の考えを肯定するかのように今朝の朝食の残骸を押し出した。




 ◇ ◆ ◇




「明日は早朝から、裏の山に登ることになった。だから、一華(いつか)。留守を頼む」


 文夜が一華にそう告げたのは、昨日の夕べのことだ。あまりに唐突な、前触れのない相談事は、さもたった今思いついたかのようなていで切り出された。


「なんぞ、ものを書くには飽きたらず、新たな興でも見つけたのかえ?」


「その、ものを書く趣味(・・)のために山登りまでしなきゃならなくなったんだ。何でも、山の頂上に百年以上前の廃寺があるらしくてな。噂じゃ、その屋敷を休憩所に使った登山客が、この世の者とは思えん者を見たらしい」


 目撃者の話では、美しい女とも、骸骨のような化物だったとも言われている。いずれも危害を加えられたという話はないので、危険なものではない筈だ。


「さよけ。それは幾許(ここら)()るだろうね。山は異境だ。現世(うつしよ)幽世(かくりよ)のあわいだ。ヒトならぬものが潜むには誂え向きであろうよ」


 黒々とした黒瑪瑙に似た瞳をゆるく瞬かせて、一華は笑った。いつもの人を食った笑みにも近頃は慣れてきたようで、文夜もひとつ鼻を鳴らすに留めた。


「タチの悪いものじゃなさそうだが、次の題材にはうってつけだろうからな。調べておいて損はないし、自分の住む場所に居るものくらい、知っておいた方がいいだろう」


「多少は賢しくなったね、主人」


 彼女の上からの物言いに、文夜は眉間に薄く皺を寄せた。


 彼の家は、築百年以上になる純和風の日本家屋だ。部屋数は一人で暮らすにはもったいない程度にあり、古いとは言え本来、彼の歳で持てるような一個宅ではない。この家も、そこに付随する周囲の敷地も、すべては彼の祖父から受け継いだ遺産であった。


 文夜は自分の祖父が金持ちだったかなどは知らない。ただ、当時これだけの敷地を個人で所有するのは今より更に困難で――有り体に言うならば、一般市民には天地がひっくり返っても無理な話で――、つまりは、そこそこの家系の出だったのだろうと想像するに易かった。


 その敷地のすぐ側に泰然と構える山に、ヒトならざるものの噂が立った。恐らくは、霊や妖と呼ばれる類いのものだろう。まだまだ毛も生えないようなひよっこではあるが、作家の肩書きを背負う文夜は、噂を聞いて居ても立ってもいられなくなったわけだ。


 次作の題材は、古い言い伝えや因習の絡む山間での怪奇事件物だ。ホラーではないが、そういった方向からのアプローチにはもってこいの噂話である。生来のそこそこ旺盛な好奇心も相まって、文夜はその噂話を拾い上げた瞬間、現地調査という名の肝試し決行を決めたのだった。


 一日あれば、登って降りられる程度の距離だ。だから一華も勝手に行ってこいと興味もなさそうに送り出してくれるだろう。文夜はこのときそう思っていたので、


「だが、行くのは些か……主人には、早いのではなかろうかね」


 一華の口からそのように否定的な言葉が飛び出たことには、咄嗟の返事が出ない程に驚いた。


「お前は、頂上に()が居るのか知ってるのか?」


「さぁて。恐ろしいものが居るよと言うたところで、主人は私を留守居に置いて行くのであろ?」


 目を眇め、肩を竦めて誤魔化すが、よくよく考えずとも彼女は恐らく長い時間をこの山で過ごしてきたのだ。文夜の知らないこの周辺の大抵のことを、一華が知っていてもおかしくはない。そのことに、文夜はいまさらながら考えが及んだ。


「お前が来ると、力のある同族を警戒して出てこないかもしれないだろう」


 一華もまた、ヒトではない。否、山姫と言うからには、かつてはヒトだったのだろうが、今はすっかり血肉にまみれた暮らしに慣れた、正真正銘の妖者(あやかしもの)だった。


 彼女が文夜と主従の取り決めを交わしたのはもうしばらく前のこと。文夜が名を与え、一華がそれを良しとした。以来、彼女は定期的な食事を得ることを条件に、彼を守るため、彼の家へ居座っているのだ。


 なぜ、彼女が文夜を助けるのか。名で縛られることを良しとするのか、文夜は未だに彼女の真意を知らない。それどころか、彼女がどこからやってきて、どういう経緯で妖になったのかも、文夜が来る前はどのような生活を送っていたのかも。


 彼は、一華についてのおよそほとんどのことを知らないのだ。


 それを良しとしたのは文夜であり、彼女が彼を守り続ける間は、彼女の話さないことに無為に首を突っ込むつもりもない。しかし、先日起きた事件から、文夜はずっと一華への態度を考えあぐねていた。


 以前、ふたりは、文車妖妃(ふぐるまようび)、と呼ばれる妖を視た。


 彼女は書物や手紙に込められた強い念が形となったもので、文夜はそれの残留思念に引き寄せられたのだ。


 橘さまと呼ぶ儚げな女。彼女の夫らしい、橘と呼ばれる男。それから、橘が呼んだ白妙という名のヒトならざる女。満開の桜の合間から覗いた唇は、一華のように赤々しく、そこから放たれた声は妙に聞き覚えのあるものだった。


 ――そして文車妖妃は、一華のことを「白妙の」と呼んだ。


 それはつまり、一華が白妙と呼ばれる女と同一人物だろうという推測を、限りなく正解の形として裏付けるものだった。


 彼はそれについて一華へ問おうとしたが、彼女はのらりくらりと文夜の問いをかわすばかりだ。今ではどんな顔をして彼女と話せばいいのかわからず、文夜は気分転換と考えをまとめるという意味でも、今回の登山にはひとりで赴きたかった。


 今の状況は、言うなれば、知らされていなかった知人の秘密を、それと知らずにうっかりと覗き見てしまったようなものだ。本人ではない者から差し出された秘密の箱は、見なかったふりをするには色濃く、見てしまったよと笑って返すには少々重かった。


 文夜の表情を窺いながらしばらく逡巡した一華だったが、やがて彼女は文夜の決意を黙認して、ふいときびすを返した。


「……恐ろしいものではないよ。主人にとっては、恐らくは。だが、途上についてはその限りじゃあない」


「それは……そうだな。安全なんて保証もないか」


「危うくなったら、私の名をお呼び。名の縛りは絶対だよ。何処に居ろうと、主人の声は私の耳に届く」


「ありがとう」


 文夜はこちらを見ない一華に珍しく礼を言うと、自分も早々に翌日へ向けての準備に取り掛かった。




 ◇ ◆ ◇




 そして日も上がりきらぬ早朝、万全の準備で家を出たはずの文夜は、山頂に着くよりはるか以前に現状へと至る。


 山道を歩き出して、まだ一時間かそこらだろう。あまり高くない山の獣道は、緩やかな斜面が木々の間を縫って延々と伸びている。


 最初に違和感を感じたのは、ほんの十分前の――文夜の記憶と体内時計が正しければ、だが――急な空腹からだった。


 まだ朝食を摂ってそう経っていないのに、突然腹の虫が鳴き出したのだ。それから数分も経たない内に、今度は全身からあらゆる力が奪われはじめた。


 空腹感が気分の悪さへと変異し、またたく間に頭を強く殴られたような強烈な目眩が襲う。たまらず地面へ膝をついた瞬間、今度は足の力が萎えて立ち上がれなくなった。足の代わりに体重を支えた腕も、すぐに細い棒切れのように頽れる。


 そうして助けを呼ぶ間もなく、文夜は山道で行き倒れ状態になったのだ。


 喉も腹も、今に干涸らびそうなほど飢えていた。そう、これは極限の飢餓状態だ。やっとそのことに思い至ったところで、既に身体は思うように動かない。バックパックを開ければ水も昼食の弁当も入っているが、背中からバックパックを下ろすことすらできそうになかった。


 このまま死ぬのだろうか。恐怖さえも萎えて、呆然とそんなことを考えていたときだ。


「飢餓は生命に恐怖を植え付けるための、もっとも易く効果的な手だね」


 頭上から、耳慣れた女の声が聞こえた。


 彼女の名を呼ぼうと口を開いたが、そこから声を絞り出すこともままならない。せめて彼女を見上げようと動かした頭は、無様にも彼女の足元を視界に留めるのが精々だった。


「お食べ、主人」


 一華はそう言って、手にしていた林檎をひとつ文夜の前に差し出した。しかし、足はもとより手の先まで力の入らない青年には、それを自力で口に含むことなど叶わない。


 潰れそうになる目で恨みがましく女を見上げる視線に、一華はたった今思い当たったように声を上げた。


「既に身動きひとつままならぬかえ。仕方のないこと」


 言うが早いか、一華は林檎をひとかけ口に含み、よく咀嚼してから文夜の顎を上向けた。文夜が何を考える間もなく、弛緩した唇に一華の唇が落ちる。


 それが口移しだと気付いた頃には、滴る果汁と柔い果肉が余さず彼の口に押し込まれていた。


 まるでそこに義務感以外の如何なる感情もないように、重ね合わされた女の唇は氷ほども冷たかった。


「名を呼べと言うただろうに。よもやかように犬死にしかけておったとは、さしもの私も思わなんだ」


 名残惜しげもなく離れた唇が、僅かな嘲りを含んで問うた。文夜はようやく戻り始めた身体の自由を確かめるように、ゆるゆると首を横に振る。自分でも、何故このような状況になったのかがわからない。


「なんの前触れもなかったんだ。お前の名を呼ぶ猶予がどこにあると思う?」


「主人が見落としていただけであろうよ。倒れる前に、飢えを感じなんだか」


「あぁ、確かに。何だ、まさかそれもお仲間なのか」


 ふんと鼻を鳴らして、一華は薄く笑った。否定も肯定も声にしなかったが、文夜はそれが彼女の肯定の形だと知っている。


「ひだる神にやられたね。よく覚えておいで、主人。飢えを感じたなら、何でもいい、何かをお食べ。持ってきた昼飯でも、ひと欠けの菓子でも、なんなら野辺の草でもいい。たとえ飯を喰らっていっとき経っていなくとも」


「なるほど。次からは気に留めておこう。……助かった。ありがとう」


 何食わぬ顔で頷く皮下で、今更ながらに全身を薄ら寒さが襲う。もう一歩で棺桶に両足を踏み込んでいたかと思うとぞっとしない。


 彼は己の内から滲む恐怖を隠すようにして、先ほどから気になっていたことを尋ねた。


「ところで、なぜここに?」


 ――いや、それを言うなら、どうして彼女は林檎なんかを持っていた?


 さりげなく現れた彼女の出で立ちは、白い着物に林檎ひとつを持って散歩と言うにも苦しいものだ。なぜなら、彼女が手持ち無沙汰に弄ぶことを前提から外せば、食物を持っていること自体、奇妙なことなのだから。


 本来、生き物の血肉を喰らって存在を保つ彼女は、それ以外の食物を口にしない。既に死んだ命を、身体の構造が受け付けないのだろうと、彼女はいたずらに漏らしたことがある。


 だから文夜は、彼女が生き血と、命の滴る肉と、水や白湯以外のものを口にするところを見たことはなかった。


「なに。少々、過去を弔いにね」


 彼女のまとう雰囲気に似合わず、一華は静かに呟いた。薄く微笑むように引き結ばれた唇が、噛み締めたように真っ赤に充血していて痛々しい。


「それは――」


“奥方”のことか。それとも“橘さま”のことか。


 尋ねようとした唇に、歯形の付いた林檎が押し付けられた。


「どうせもう、手土産にはならんだろうね。主人にあげよう」


 有無を言わさぬ圧力のままにそれを受け取って、文夜はため息をつく。またしても話を逸らされた気がするのは、思い過ごしだろうか。


 しばし無言で考えを巡らせた文夜だったが、彼女が固く口を閉ざす以上、答えは決して得られない。不毛な思考を中断した文夜は、きびすを返して山を下り始めた。


「なんぞ、もう帰るのかえ」


「出鼻を挫かれたからな。今日は帰って、後日あらためて仕切り直す」


「さよけ。なれば、帰りは私が供をしてやろうかね」


「お前の用事はもういいのか?」


 後をついて、来た道を辿る一華へ、文夜は歯に物が挟まった心地で聞き返した。彼の据わりの悪さを感じ取っているだろうに、知らぬ風で一華は小首を傾げる。


 女のようなかわいらしさを装ったところで、彼女がヒトならざる者だと知る文夜に、その効果は幾ばくもない。


「用事という用事など、私にはないよ」


「そうか。じゃあ、頼む」


 返事を聞いて短く返すと、文夜は一華の先を行った。留まる者(あやかし)を置いていくのは、いつだって先ゆく者(にんげん)だ。


 離れていく文夜の背中を見つめる一華は、彼に決して聞こえない声でぽつりと悔恨をこぼした。


「飢えを恐ろしいと……そう思わなんだら、それ以上の痛みを知らずにおけたのか」


 一歩踏み出す一華の足が、文夜を追って地を這う。彼女の足取りは彼女の生き様そのもので、見えない足の裏にどれほどの汚れがこびりついているかなど、考えるのは本人すら空恐ろしい。


「のう、主人」


 語りかけるヒトは、もうとうに、はるか彼方へ去っていた。




-  捌:飢火 / 了  -


ひだる神…行逢神(人や動物に行き会いすがら災いをもたらす神霊の総称)や、餓鬼憑きの一種。ヒダル神。

山道や峠、四ツ辻などに現れ、道を通る者に急激な飢餓や疲労、痺れをもたらし、動けなくさせて餓死に至らしめる。

ひだる神は餓死者や変死者の霊が弔われないまま周囲を彷徨う怨霊となったものとも言われており、そうして山道で餓死した旅人がひだる神になるという話もある。

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