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百年誄歌  作者: 待雪天音
7/10

漆:戀文




 ガタン、とバスに揺られた振動で、文夜はひたいを前の座席へしたたかぶつけた。


 鈍い打音が耳を打つと同時に、彼は後を引く痛みで目を覚ます。妙な体勢で寝入ったせいか、身体が強張って軋んだ。


「……って」


 少し遅れて、彼の口から不満の声が上がった。彼は起きたばかりの猫のように、ぼうとした眼で一つ伸びをする。程なくして、バスの車内放送が文夜の目的地を読み上げた。


 乱れた髪を掻き上げて、彼はさも居眠りなどしていなかったかのような顔でバスを降りる。家から歩いて三〇分ほどの場所にあるバス停から、更にいくつも先の停留所。車体に揺られて着いた郊外の、入り組んだ路地裏に足を踏み入れた場所。


 そこに、彼の気に入りの古書店はあった。


 擦れて黄ばんだ古書特有の匂いが鼻を突く、土蔵を改造したような店だ。最近流行の漫画などよりも、歴史書や古典文学が多く息を潜める店だった。


「いらっしゃい、(みささぎ)君。今日は何をお探しかね」


「こんにちは。今回は、新作を書くに当たって資料をね」


 還暦も一昔前に過ぎただろう、小柄な老爺が店の奥から声を掛けた。何度かこの店へ訪れる内に、すっかり顔馴染みとなった店の主だ。


 軽い挨拶を交わして、文夜は店の奥へと入っていく。手前の方こそ薄い本が整然と並んでいるが、奥に向かうほど分厚い絶版本がうず高く積まれていた。


 自分以外に客足のない店内をうろつきながら、文夜は興を惹かれるに任せて書物を手に取る。掬い上げては草臥れた(ページ)を繰り、彼の希望に沿うものでなければ棚へ戻す。


 その一連の流れを何度か重ねるうちに、ふと足元に積まれていた本が気になって手を伸ばした。色褪せてカサカサになった、特段めだつところのない茶色い表紙の本だ。


 目次を見る限り、日本各地の古い伝承を様々に綴った資料のようだった。


 一頁一頁の紙質は薄いというのに、冊子は十分な厚みがある。文夜の目当ては、思ったよりもすぐに決まった。


「おじさん、これって売り出してる?」


「うん、どれかね」


「床に積んであったんですけど、あの奥から二番目の棚の辺りにあったんで」


 この店は時折、店主が個人的に集めた本が売り物に混じって置かれていることもある。あまりの収集癖で、家に置く場所が足りず、この土蔵古書店に仮収納されているのだ。


 迂闊にレジへ持って行って、突き返されようものならたまらない。


 本の表紙をしげしげと眺めて目を細めた店主は、ずれた老眼鏡を押し上げた。


「はて……これは表に出しとったものかな」


「またですか。期待させるだけさせて見せびらかすのはやめて下さいよ」


 苦笑しながら内心では項垂れたい心境の文夜に、店主はふむ、と鼻を鳴らした。


「まぁ、待て待て。奥から二番目の棚か。もしかするとお前さんは、本に呼ばれたのかもしれんな」


「呼ばれた?」


「ああ。物ってやつも、人や動物と同じように所有者を選ぶものだよ。仕舞っておいた筈のものを陵君が見付けたなら、それは君が持っていた方が良いのかもしれん」


 言うが早いか、店主は古びた本を手早く包装した。


 軽く渡された本は、先程よりも重さを増して感じられた。




 家に帰り着くなり、文夜は靴もろくに揃えずに部屋の奥へと引っ込んだ。昔から活字の好きな子供だった文夜は、目当ての書物があればのめりこんで読み耽る性格だった。


 買って来た古書を、心持ち弾んだ気分で開く。逸る気持ちを抑え付けて、いつ頃発行されたのかもわからないほど古い書物の今にも破れそうな頁を慎重に捲った。


 所謂ジンクスのようなものから、神話や地方特有の小さな民話。それから、世に言う妖怪の類が出てくる怪談話。


 幾つもの伝承の中に、文夜はふと一枚の挿絵を見付けた。墨で描かれただけの、水墨のようなモノクロ画。そこには髪を振り乱した一人の女の姿絵が記されていた。


 表題には『山姫』と綴られており、鬼の形相をした女はぼろ切れを纏っている。


「山、姫……」


「呼んだかえ」


 独り言のつもりでもらした言葉に、返事を寄越したのは山姫その人だった。いつの間にこの部屋へ忍び込んだのか、常に彼女は足音ひとつ立てず文夜の前に現れる。


「主人がその名で呼ぶのは珍しいね。なんぞあったのかえ?」


 ころころと笑う一華は、すべてを見透かした上で文夜の反応を楽しんでいるようだ。


「いや、何でも」


 彼女の問い掛けに嘆息しながら首を振った文夜へ、「ならば呼んでくれるなよ」とつまらなそうに言えば、一華はさっさと踵を返して部屋を出て行ってしまった。


 別に呼んだわけではない、とは文夜の言だが、いちいち彼女を追い掛けて弁明する気にもなれなかった。何より、彼の興味は開いていた本の頁へと集中していたのだ。


 挿絵の次の頁を見れば、そこには山姫と云う妖の解説が綴られていた。


 ――古今、日本と云うこの土地には、贄と呼ばれる風習が根強く残っている。飢饉に瀕すれば神への捧げものと一人立てられ、川が氾濫すれば神への慰みものと一人立てられ、奇怪な現象に怯えれば化物への餌と一人、時には複数立てられた。


 後述に記した川姫が、川へ沈められた女達の亡霊ならば、山姫は山へ放られた女達のなれの果てと言えよう。


 そんな書き出しで始まった簡略的な解説が、一、二頁ほど続いた後で、頁は次の伝承の記事へと移り変わる。


(川姫……以前に見たアレか)


 ぼう、と考えながら、文夜はその後の記事を流し読む。ぱらぱらと興味半分に頁を繰る間に、彼は先ほど顔を出した一華のことを思い出した。


 彼女も、山姫と呼ばれていたな。とりとめもなく考えるが、どうにもあの人間離れした美しい女と本の中のやつれた妖女は繋がらない。


 果たして彼女は、本当に山姫と呼ばれる存在なのだろうか? ――或いはこの本に記されている山姫という存在は、真実それだと言えるのだろうか。


 考えていたとて、答えの出てこない思考を振り払いながら、文夜が先の頁を繰った時だった。


「……ん?」


 カサリと乾いた音を立てて、指先に薄い紙片が触れた。本の間に挟まっていたらしい。古くなって黄ばんだ一通の手紙だ。


 まさか、前の持ち主に宛てたものだろうか。ちらとよぎった思考に、文夜は小さくため息をついた。


 売りに出された本ならば、せめて余計なものが付属していないものか確認してくれればいいものを。あの古書店の店主はおおらかだが、時折それが過ぎて大雑把なところがあるのも否めない。


 ため息をつきながらも、文夜は手紙の表と裏とを確認する。いずれも宛名や差出人らしきものはなかった。


 一瞬、手紙を確認しようかと封を開きかけたが、すぐに首を振って手紙を元の場所に戻す。他人のプライバシーを覗き見るのはやはり憚られた。


「こんなもの、どうすればいいんだ」


 手紙を読み上げる代わりに室内へ響いた声は、思いのほか力なく冷えた空気に溶けた。




 ◇ ◆ ◇




 夜陰が庭先を染める頃、昼間に文夜の前から姿を消した一華がふらりと戻ってきた。


 常は大黒柱の梁の上で昼寝をしているか、さもなくば何をするともなく日がな一日、文夜の行動を観察している彼女が、珍しく家を離れていたようだ。


 夕食を摂る文夜の横で、碗を手持ち無沙汰に弄びながら白湯を飲む。彼女の食事は生命の根幹そのもの――つまりは生き血や新鮮な(・・・)肉であったから、食を共にすることはなかった。


 それはいつもと同じ何食わぬ食事風景だったが、この日文夜は、常には決してしないような与太話を唇に乗せた。


「何処へ行ってたんだ?」


 彼がそう尋ねると、一華はちら、と青年の方へ目を向ける。ぬばたまの瞳には、僅かな驚きを滲ませた色が浮かんでいた。


 彼に名を掌握されているとは言え、一華は以前と変わらず気ままに日々を過ごしている。互いのことへ必要以上に干渉しない文夜だからこそ、これまで彼女に動向を一々尋ねることなどなかったのだ。


 故に、一華は目を細めた。珍しいことがあるものだ、と互いにこの日の奇行を揶揄しながら。


「その辺へ散歩に。主人が気にするほどのことは、なぁにもなかろうよ」


「お前はあまりほいほいと出歩かないだろう。何か気になることでもあったのか」


 彼から見たままの事実を淡々と述べれば、一華は瞳を細めたままにんまりと笑った。


「気になるのは主人であろ?」


 ただ一言、青年が投げた問いに似た問いで返すと、からん、と手にしていた白湯の碗を転がす。三分の一ほど残っていた中身は、途端に均衡を崩した縁から溢れ、食卓台の上にぶちまけられた。


 幸いにも広い食卓台に、ついていたのは二人きりだ。白湯が卓の縁を振り切ることはなかったが、目の前で台を汚されたことには文夜が顔を顰めた。


「そうさな。一つ、手がかりをやろうか。主人」


 ころころと碗を指先で弄びながら、一華は笑みを崩すことなく告げる。文夜が、今度は怪訝な顔をした。何故か、紅く色付いた女の唇が蠱惑的だと柄にもなく思った。


「器は(おもて)、白湯は(うら)。不可視の力に傾けられれば、(こころ)は望もうと望まざると地に落ちる。……私の意志とは構いなしに」


「どういう意味だ」


「さて。それは主人が考えることよ。私は“手がかりをやる”と言うたろうに」


 ころころと笑い声を上げて、一華は碗を卓へ置いた。空っぽになった碗に、こぼれた白湯はもう戻らない。空気に触れて、ただただ冷えていくばかりだ。


 文夜はため息をつくと、おもむろに席を立って台所へ向かう。乾いた台拭きを手に戻ってくる頃には、卓についていた一華の姿が消えていた。


 青年は卓を拭きながら、彼女のもたらした“手がかり”が己の頭を苛む違和感に眉宇を寄せた。考えることが増えて頭が痛い。


「まるで意味がわからん」


 古書に挟まれた手紙の謎に加え、彼女の奇行にもどうやら意味があるようだ。


 追究しなければ、面倒ごとは一つ減っただろうか。首を傾げて否と振ると、文夜は女が最後に残した言葉を胸の内で反芻した。


 答えは文夜が考えること。ならば裏を返せば、考えれば出る答えなのだろう。碗を片付けた文夜は、再びついた食卓ですっかり冷えた夕飯に箸を入れながらそう結論付けた。




 ◇ ◆ ◇




 その日、夢を見た。


 橘さま、橘さまと誰かの名を愛しげに呼ぶ女の夢を。


 熱を込めて響くその名は、だというのにひどく寂しげな色を帯びていた。


 はらり、桜が散る。狂い咲く白は雪のように足元へ降り積もり、剥き出しの土くれを埋めていった。


 女は呟く。たった一言、名の他にようやっと紡がれた言葉は、文夜の胸の深い部分に食い込むよう穿たれた。


 ――私では、貴方の桜になることはできないのですね。


 目元の柔らかな、撫子のような可憐さを持ち合わせた女だった。




 ◇ ◆ ◇




 ふっ、と一本の糸を紡ぎ出す細やかさで、眼前に広がる景色が収縮する。練り合わせられた柔らかな飴を依って軸とするように、やがて色は散り散りに霧散した。


 その光の粒子に触れたとき、ふいに闇へ染まった周囲が弾ける。


 それは美しい光景だっただろう。しかし、それをそれと認識できない思考は、気付けば朝日の中で開いた瞼の底に沈んでいた。


 夢だったのだ、ということに気付いたのは、薄闇から朝日へと変わる光が見慣れた天井を照らし出した頃だった。高い頭上で、這うように伸びた木目の層をひとつずつなぞる。四角い天井の中央からはコードが垂れて、その先に照明器具がぶら下がっている。


 呆けながら上体を起こした文夜は、めくれた布団を見下ろしながら唇を引き結んだ。


 脱力していた全身に力が巡るのと、先に見た一場面が脳裏に蘇るのはほぼ同時だった。


 寂しそうに笑う女。続く畦道。白い――雪のように白い、桜。


(何かの暗示か……?)


 そうとは断定できないけれど、ただの夢と切って捨てるには、あまりにも生々しく鮮明すぎた。花びらの質感も、女の纏う着物の織り目も、まるで間近で見ていたかのように思い出せる。


「考えるべきことは増える一方だな」


 身支度を調え、朝食を用意しようと階下へ下りると、既に茶の間には一華の姿があった。


「おはよう、主人。今日は随分と遅い目覚めだの」


「僕の起床時間なんか、お前には関係ないだろうに」


 朝の食卓で顔を合わせるのは別段めずらしいことでもないのだが、昨夜の会話の後では妙にいたたまれない。さっさと台所に引っ込もうとした文夜だったが、脇を通り抜けざま、不意に袖を引かれて背後を振り返った。


 足元には、足を崩して文夜の袖に指を絡める一華の姿がある。唇に刷かれた紅は得体の知れない胸のざわつきを掻き立てた。


「私の食事をおくれよ、主人」


 やはりか。思わずため息をついて、文夜は頭を抱える。死ぬほど搾取されるわけではないが、一度彼女に“食事”を与えると一晩は目眩が止まらない。


 しばらく渋った文夜だったが、やがて彼女の手を振り払うと、台所から持ってきた包丁で手のひらに一筋の傷を付けた。


「今日一日はまともに動けなくなる。間違いなく、守ってくれよ」


「私も、貴重な食料を失うのは惜しいでな」


 言外に肯定を返した一華は、つと文夜の手を取ると、なみなみと鮮血をたたえた手のひらに口付けた。舌で傷をなぞり、一滴とて無駄にしまいと赤い液体を啜る。


 まるでそれが至上の美酒であるかのように、やがて干上がった血を求めて女は舌の先で肉を抉った。びりびりと鋭い痛みが、手のひらから腕を伝って青年の痛覚を貫いた。


「わざとやっているだろう」


 ひとしきり食事を堪能した一華が口を離したタイミングで、文夜は恨みがましく尋ねる。黒瑪瑙の瞳を細めた女は、空とぼけた様子で立ち上がった。


「はて、何のことだか」


 彼女と反対にその場でへたり込んだ文夜は、大量に血を失った不快感から逃れるために身を縮める。卓に腕を預けて突っ伏すと、一華が無言で去っていく足音が聞こえた。


 それから文夜は、のろのろと自らの食事を摂って書斎に籠もった。仕事の締め切りまであまり日がない。疲れを押してパソコンを開いたが、電源を入れて一時間経っても、文書データは白い頁が続くばかりだった。


 無為にキーを叩いては、無意味な文章を書いて消す。あの夢のせいで寝た気のしない気怠さに加え、血の巡らない頭ではまともな文章も浮かばない。


 眠気覚ましに茶でも淹れようと席を立てば、目の前が一瞬暗転して足元がふらついた。


 前のめりに膝を折った文夜は、ふと、産毛を撫でるような声を聞いた。


『――橘さま』


「……!?」


 夢で聞いた、儚げな女の声。焦がれた男を呼ぶようなそれが耳の奥に木霊して、文夜は耳を押さえ、背後を振り返った。ぐらぐらと揺れる視界が、白と黒で彩られている。これだから、一華に血をやるのはあまり好きではないのだ。胸の内で悪態をついて、見上げた天井には特に変わった様子はなかった。


 ただはらりと、白い花弁がどこからかひとひら舞い踊っただけだ。


「ただの夢、では……ないな。これは」


 畳に落ちた花弁を拾い上げながら、文夜は嘆息するばかりだった。




 ――橘さま。


 また、あの声が聞こえる。


(お前は誰だ?)


 夢か現かもわからないまま、青年は姿なき声に問いかけた。景色のない、昏いばかりの風景に、はらはらと白い花びらが舞っている。否、花びらを手に取ると、それはまっさらな紙吹雪であることに気付いた。


 伸ばした手は浅黒く、ぼやける思考とは別の冷静な部分が、この手は自分のものではないと叫びを上げる。


 一方で、これは間違いなく私のものだと安堵する自分も在る。


 頭がおかしくなりそうだった。


(僕は橘では――いや、“私”は橘だ。陵の、橘だ)


 相反する意識を置いてきぼりにして、目の前の光景は進んでいく。白い道の延びるままに、草履をつっかけた足は進む。


「橘さま」


 あの声が、また呼んだ。それに足を止めた“私”は、ゆうるりと振り返った。背後にもまた白い道が延び、止むことのない紙吹雪が降っている。


 その先に、黒真珠の艶めく髪を結い上げた女が立っていた。白い(おもて)はか弱く儚げで、長い睫毛で縁取られた瞳は不安に揺れていた。


「また、桜を見ていらっしゃるのですか?」


 女が尋ねると、“私”が頷く。


「私が桜を好いているのは、お前も知っているだろう」


「ええ、それはもう妬ましいほどに」


「妻のお前がいったい何を妬むと言うのか」


「橘さまはいつも、桜にばかり目を奪われていらっしゃるでしょう。私は貴方の目を釘付けにする桜が羨ましくて仕方ありません」


 女の告げた些細な悋気に、“私”は声なく笑った。……些細なものだと、“私”は思っていたのだ。


「もしも私が桜になったなら、貴方は私を見てくださるのでしょうか」


「何を今更。私は今も、お前を見ているじゃないか」


 さやと紙でできた桜がそよいで泣いた。女はことりと首を傾げて、不安を押し殺すように呟いた。語りかけているようで、それは独り言のようにも聞こえた。


「私では、貴方の桜になることはできないのですね」


 女が追い付くよりも先に、“私”は道の先を行く。桜を模した紙吹雪は、汚れを知らぬ新雪のようだ。そこから透かし見た空はやはり昏く、雲も、星も、月も見えない。光源がないのにくっきりと物の輪郭が見えるのが、ひどく不思議でおかしかった。


 思わず笑いを漏らしかけた“私”の目に、不意に飛び込んでくる影がある。さざ波の音を立てる桜の合間に、抜けるような白い肌が見えた。


 射干玉の闇を溶かした流れる髪と、同じだけの墨を流した猫のような瞳。虹彩とひどく似た色の瞳孔が細く絞られ、釣り上がる赤々とした唇は、白磁の頬に相まって深雪に落ちた熱い鮮血のようだった。


白妙(しろたえ)


 その名を口にするだけで、心は幾らか春めいた。“私”が呼ぶと、眼前の女は妖しく嗤う。




 ――奥方ヲ オ忘レ デ ナイヨ、 主人。




 彼女はそう告げた筈なのに、文夜が次に聞いた声は記憶の欠片(・・・・・)にもない言葉だった。




 ◇ ◆ ◇




「主人、そう易々と夢に呑まれるでないよ」


 息苦しさに呼吸の塊を吐き出そうとして、喉の奥でつっかえた。息の仕方とはどうすれば良かっただろう。一瞬、そんなことを考えてしまうほど、ぎゅうぎゅうと喉が締め上げられている。


 一体、何に?


(否、誰の手に(・・・・)?)


 見開いた目が段々と闇に慣れ始めて、ようやく目の前に迫るものの輪郭を結んだ。闇の中に、黒く浮かぶ結い髪がある。だらりと頬に掛かった髪の間から、覗く女の顔があった。


 はじめ、文夜はそれを一華のものだと思った。しかし、色味の悪い薄い唇が彼の考えを否定する。では、この顔は誰だ。そう考えるに至り、どっと汗が噴き出した。


 血のよく回らない頭が、無意識の警笛を鳴らす。眼前の顔が、白い歯を剥いてニタリと嗤った。


「たちばなさま」


「っひ……!!」


 歪んだ笑みを浮かべた女が、ゆるゆると、見知らぬ男の名をなぞった。声が背筋を撫でるかのように、ぞわぞわと怖気が這い上がる。叫びかけた声は、あまりの恐怖で凍り付いて変な空気の詰まる音だけが闇に響いた。


「やっと、わたしのてに」


 うわごとのようにうっとりと呟く女の手が、ぎちぎちと喉を絞っていく。気道が完全に塞がり、視界が白と黒で激しく明滅する。もう、駄目だ。意識が遠のきかけたとき、再び聞き慣れた声が響いた。


「それは橘ではないぞ、文車妖妃(ふぐるまようび)!」


 叫ぶが早いか、夜闇に煌めく爪が伸びた。まるで先を鋭く磨いだ簪が五本ならんだような手を、欠片の躊躇もなく振りかぶる。ずぶりと柔らかいものの裂けるくぐもった音がした。


 それが文車妖妃と呼ばれた(あやかし)の脇腹を抉った音だと気付いたのは、妖が苦悶の叫びを上げたあとだった。甲高く不快な叫びを形容するならば、黒板に爪を立てて力一杯引っ掻いたような肌の粟立つ音だ。


 咄嗟に文夜の首から手を離し、転がるように襖へと跳び退る。いつでも逃げられる体勢で一華と文夜を見回した文車妖妃は、断続的な息をつきながら壊れた人形のように笑い出した。


「アァ……桜、さくら桜サクラ櫻! 白妙の! おまえはいつでもわたしの邪魔をする! なぜわたしとあのかたを隔てる! おまえがいなければ、橘さまもわたしを見てくださったはずなのに!」


 笑い声は段々と耳障りな癇癪へと変わっていく。その騒々しさたるや、餓鬼の騒ぎ声さえ蚊の鳴く音に聞こえるほどだ。


「なにを問答にもならぬことを。私はここ(・・)にしか存在を許されぬもの。それは奥方の怨嗟を受けた(ぬし)も知っておろうよ」


 一華はふっと翳りのある笑みを浮かべ、言外に目の前の妖と“奥方”が別の存在であることを明言した。夢と、現と、ヒトと、妖。様々な断片が記憶の中で交差して、情報整理に勤しむ文夜の頭を悩ませる。


 呆然と畳から起きあがった文夜が、漸くそこで悟ったのは、「いつの間にか執筆の途中で寝入っていたらしい」という、まったくもって今の状況にそぐわないものだった。


 そんなどうでもいいことを考えるくらいに肝が据わり始めたのか、それともそんな現実逃避をしなければ自我を保っていられないほど動揺していたのか。自分のことながら、文夜は妙なところで感心して一華を見遣った。


「あれは何だ?」


「見ての通り、主人の言う化け物さね」


「冗談はあとで聞いてやる。文車妖妃とは何だ」


 苛立ちの微かに混じった声が、文夜の口を突いて出た。それも当然だろう。一華の助太刀がもう一分も遅れていれば、彼は文車妖妃に文字通りくびり殺されていたのだから。


 この時には、一華の顔に浮かんでいた翳りも消え、いつも通りに本心の窺えない居住まいへと正されていた。


「文物を運ぶ文車、或いは文物(それ)自体に残された思念が形となったものだよ。ヒトはそれを、付喪神と呼ぶけれどね」


「うちにそんな、怨念の籠もった文物はないはずなんだがな」


「だが主人、アレは本体から、そう遠くは離れられんよ」


 確信に満ちた一華が告げると、彼女の隙を縫うようにして文車妖妃が動いた。振り乱した髪も着物もそのままに、かっと見開かれた目が、迷わず文夜を見据えている。――いや、熱の籠もった視線で見つめている。獲物を狩る猫のように俊敏な動きで、彼女は文夜へ飛びかかってきた。


 押しつけがましい愛ほどに薄ら寒いものはないな、と一華を巻き込んで畳を転がった文夜は、すんでの所で文車妖妃の腕を逃れる。


 もつれ合う形で伏して、一華が文夜に皮肉を告げようとしたときだ。


 パサリ、と乾いた紙束の落ちる音が、一瞬だけ訪れた静寂に染み入った。


 その場の全員が、音のした方へ視線を向ける。さっきまで文夜の立っていた場所には、茶色い表紙の古びた本が書面を伏すようにして落ちていた。そばの机に文車妖妃がぶつかった震動で、上に置いていた書物が落ちたのだろう。


 一華の息を呑む音が聞こえた。


「あれは――」


 何かを言いかけた一華の声が止まる。文車妖妃が反射的にその書物へと手を伸ばしたのが見えた。焦った文夜が彼女の横っ腹に体当たりして、書物から彼女の手を遠ざけた。


「一華、それを取れ!」


 ぼんやりと一連の動きを見ていた一華は、文夜の声で我に返って書物を取り上げた。その開いた頁から、白い紙がほとりと落ちる。


 流れるような動きでそれを拾い上げた一華は、中身を覗いてくつりと笑った。


「妙な気配がしやると思うて探し歩いてみたが、よもやかようなところにあろうとは。灯台もと暗し、とはこのことよな」


 一華の手から、黄ばんだ白い封筒と無地の便箋が覗いた。便箋は何枚にも重なっているようだが、すっかり夜の帳の下りた室内ではその文面まではわからない。けれど恐らく、腕の中でもがく妖の妄執を思えば、宛名は“橘さま”に向けたものなのだろう。あの手紙を書いたのは、“奥方”か。


 同時に、先刻ふらりと一華が姿をくらましていたのは、これを探してのことだったのだと納得した。一華の一挙一動の理由が明るみになると、文夜はひそかに気の抜けた息を漏らした。


 ――なぜ、こんなに安心しているのか。


 おかしくなって口元に自嘲の笑みを浮かべると、その顎下にじんと痛みが滲んだ。藻掻いていた文車妖妃の爪が、喉から顎にかけてを引っ掻いたのだ。遠慮のない力は浅からず皮膚を裂き、鉄錆びの匂いを漂わせる。


 たまらず力の緩んだ腕から、文車妖妃が抜け出した。ばたばたと廊下に逃げだそうとしたところで、闇の中に仄かな明かりが灯った。光源を探すまでもなく、ぱちぱちと火の粉を散らす明かりの上では、白皙の顔に赤い紅を敷いた一華の笑みが浮かび上がる。


 自分の思考と妖の動向に気を取られていて気付かなかったが、どうやら机上のライターで手紙に火を点けたようだ。乾いた紙片はひと息に燃え上がり、かつて白かった紙を、またたく間に黒い燃えかすへ変えていく。


 間を置かずに、戸口から一歩足を踏み出していた文車妖妃が断末魔の咆哮を――叫び、というより、それは獣の吠え声だった――上げた。忙しなく視線を動かすと、文車妖妃の身体が煌々と燃え上がっている。


 あの手紙と同じように。


 傍らにあった金属質のごみ箱を引き寄せた一華は、その中に手紙を放った。灰になり、ぱらぱらと不格好に崩れた紙片であったものは、やがて燃え尽くされ火を燻らせながら明かりを失っていく。


 再び戸口へ視線を向けると、そこにはもう、乱れ髪の妖の姿はどこにもなかった。


「何だったんだ、あれは……」


 肺いっぱいに息を吸い込み、体内から不浄物をすべて追い出すように吐き出した文夜は、今度こそ脱力してその場に座り込んだ。


「はた迷惑な人違い、とでも言っておくかね。安心おし。主人はあれの記憶に引かれただけのこと」


「人違いで済むなら警察も護衛妖怪も要らん」


「違いない」


 冷や汗と緊張から来る激しい動悸で、文夜の身体は不快感を訴えていた。着ていたシャツで汗を拭うと、喉元から滴る赤が湿った布地へ滲んだ。喉と顎に傷を受けたことを、すっかり忘れていた。これは染み抜きが厄介だ。


 舌打ちしたい気持ちをなだめすかし、頭上を仰いだところで文夜は驚きに仰け反った。彼の意識がシャツへ向いている間に、一華の顔が目の前まで迫っていたのだ。


「勿体のうことよ」


 囁きをこぼして、一華が目を細める。髪も瞳も闇と同じ色をしているのに、その煌めきだけは決して溶け込むことがない。黒い猫目石のような瞳が瞬いて、しなだれかかった顔が文夜の顎から喉へと伝った。


「一華」


 窘めるように硬い声で名を呼んだが、返事はない。ただ唇と同じだけ赤い舌が、無防備な文夜の傷を舐め上げるばかりだ。


 同じ調子で何度か名を呼んでみたが、彼女はわざと黙殺して一心に血を飲み続けた。今朝血をやったばかりだというのに、一日と経たず再び血液を奪われる感覚は、気分の悪さを余計に助長した。


 まるで彼女のその様子が何かを隠そうとしているようで、文夜は必死にここ数日の記憶を巡っていく。彼女に関わるもの。橘と呼ばれた男。その奥方。桜の夢。それから――。


「白妙」


 その名を口にした瞬間、一華の身体がびくりと震えた。全身が痙攣するような、彼女にしては珍しくあからさますぎる反応だった。青年の首元から口を離した一華は、そのままふいと背を向けると、放置されて真っ暗になったパソコンのキーを叩いた。


 途端に、真っ暗だった部屋が液晶モニターの明かりでほんのり照らし出される。


「ぱそこんは無事のようだよ、主人」


「話を逸らす気か」


「ほ、ほ、純粋に心配しておるのに、薄情だこと」


 言葉で言い負かそうとしたところで、一華相手ではこちらが弄されるだけだ。早々に思い至った文夜は、口を噤む代わりに一華を見つめた。


 うっそりと微笑む女は、ふいに鼻を鳴らして窓の外を見た。カーテンを引き忘れた硝子窓からは、星はおろか月さえ見えない。厚い雲が立ち込めているのだろう。


「誰か来たようだね、主人」


「こんな時間に一体誰が……」


 不機嫌にこぼしかけて、文夜は「あ」と声を上げた。そういえば、眠りに落ちる直前に編集社からメールが来ていたような気がする。


「今夜こっちに相談に来ると……まさか」


 締め切りは近いが、今日明日ではない。そんな油断が、大事な話し合いの予定を記憶の外へと押し流してしまったのだろう。一華を問い詰めることも忘れた文夜は、こちらも彼にしては珍しく、慌てた様子で部屋を出て行った。


 騒々しく去っていく足音を聞きながら、一華はふぅと息を吐く。夜闇など視界を塞ぐ障害にもならない彼女は、ゆったりとした足取りで畳に落ちた本を拾い上げた。それは先日、文夜が読んでいた古びた書物だ。ぱらぱらと見るともなしに中身を捲り、やがて一華は最後の頁へと至る。


 傷んだ頁はかろうじて欠けていないが、代わりに最後の二頁は隙間無くぴったりとくっついていた。


「白妙、か。よもやこれがここにあろうとは思わなんだ」


 内側を見ることができない白紙の頁を、一華は慈しむようにそっと撫でた。――慈しむ、という感情機能が、果たして彼女に残っているかは不明だが。


「あれは橘ではない。……橘では、ないよ」


 誰に言い聞かせるためか、もしくは他の誰でもない、自分に言い聞かせるためか。聞く者の居ない室内で、一華はぽつりと呟きを落とした。


 それを拾い上げる者など、どこにも在りはしないのに。


「器は貌、白湯は心……傾けられれば落ちざるを得ないのだよ、主人」


 一華は本を閉じると、まるでそれが誰かの身体であるようにぎゅうと強く抱きしめた。壊れぬように、けれど離れぬように、自らの身体へその形を焼き付けるように。


 間もなく、玄関からこちらへ話し声が向かってくるのを察した一華は、名残惜しそうに本を手放しパソコンの横に添えた。そのまま踵を返すと、静かに窓を開けて外へ躍り出る。


 もう一刻は帰れないだろうことを想定しながら、射干玉の髪を闇に揺らめかせ、一華は夜の山中に消えて行った。




 -  漆:戀文 / 了  -


文車妖妃…文車(内裏や公家の邸、寺院などで大切な書物を運ぶために使われた車)や文・書物に取り憑いた妖。

古い恋文そのもの、または恋文に積もった執念や情念が妖と成ったものとされている。

鳥山石燕/作の妖怪画集『百器徒然袋』が出典の創作妖怪だが、そこから派生したと思われる言い伝えや説話が各地に存在する。


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