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百年誄歌  作者: 待雪天音
6/10

陸:悪食




 ぷつりと皮膚の破れるような音がして、焼け付くような痛みが首筋を這った。


 あてがわれた唇が喉を鳴らしながら、文夜の身体中を駆け巡る血液を吸い上げる。同時に脱力感が襲って、青年の視界が揺らいだ。


 すぐ側で液体を啜る音を聞いて、生命の源が奪われていくのを自覚する。彼の身体が吐き気を覚え始めた頃だった。


「……ん。馳走になったね、主人」


 今まで食らいついていた首元を舐め上げて、一華は妖しく笑った。唇に付着した血液を舐め取れば、それを合図としたように文夜へしなだれかかっていた一華が上体を起こす。


「毎度気分が良いものじゃないな」


 ぼやく青年は自分の首筋に指を伸ばし、噛み千切られた皮膚の傷を確認した。そこからは微かな血の痕が滲むだけで、既に半分ほど乾き始めている。


「僕の血はそんなに美味いか」


「ああ、それはもう。主人の血には力がありやるからね」


 虹彩まで夜の色をした瞳を細めて、女はふらふらと立ち上がった。食い足りないと言うよりも、酩酊した千鳥足のような身の揺らぎだ。


 彼女は週に一、二度、こうして文夜に血を求めてくる。それが名を与えた対価のようで、男は献血のようなものだと自分に言い聞かせて要求を呑んでいた。


「もう良いのか?」


「ほんに言うなら、主人の肉を噛み千切り、骨の髄まで胃袋へと収めてしまいたい所だが……良いさ。今日は、これで」


「………」


 ぞっとしない話だ。ニタリと笑った女を見遣って、青年は眉をひそめた。


 同時に、同じ人の形をしたものであっても、やはり彼女は人間ではないのだと再認識させられる。


「私が恐ろしいかね? 主人」


 不意にかけられた言葉には、文夜は咄嗟に答えることができなかった。


 これまでとて、幾度となく(あやかし)という未知の存在に恐れを抱いたことはあった。けれどすぐに是と返せなかったのは、もう生活を共にして暫くになる一華が、人間らしい反応を忘れないからだろう。


 驚けば感歎の声を漏らすし、楽しければくつくつと笑う。怒りも、ときおり見せる寂寥に似た愁いも、それは間違いなく彼女なりの喜怒哀楽の出し方だと思えた。


 ……ただ、ヒトとは決定的に何らかの感覚が違うというだけの話で。


「知っているかえ? 世界から相成った妖は、清浄(しょうじょう)な気を糧とし存在するが、ヒトの身から堕ちた妖は、生命の生き血を啜り肉を喰らうことでしか姿を保つことが叶わぬ。ヒトはそれを鬼と呼ぶ。浅ましかろ?」


 文夜が答えを返すより先に、一華は自嘲の滲む笑みを浮かべた。


 それとなく、突き放されているように感じるのは気のせいだろうか。


「ヒトを、恐ろしいと思っておったよ。だが、しかし、妖者(あやかしもの)もまた(おぞ)ましいものだった。ヒトの世を離れとう思うて踏み込んだ世界は、限りなくヒトの世に近い修羅地獄の場所であったのだからね」


 光と影が切り離せぬように、私達もまた、何処かで繋がっておるのだろうさ。


 一華はそう言って、遠くここではない何処かを眺めるように目を細めた。


 珍しい、と文夜は貧血気味のよく回らない頭で考える。


 彼女が饒舌であることもそうだったが、何より、一華が自らのことを語るなど、これまで一度もなかったせいだ。


 もう幾月も共に居ると言うのに、文夜は彼女の何も知らない。


 何処から来て、この地へ根付いたのか。一体いつからこの山に居たのか。後どれほど、彼女はこうして過ごすつもりなのか。――何故、あの日、一華は文夜を助けたのだろうか。


 様々な疑問が頭を巡るうちに、何かが頭の隅に引っかかった気がしたけれど、霞む思考に抗えず、彼はそれを掴み損ねた。


 パタリと力なく布団に倒れ込みながら、文夜は夢うつつに一華の着物の袂を掴む。


「一華は……一華だろう。僕がそう名を与えた。お前がお前を否定しても、僕はお前を否定しない」


 血を大量に失ったせいだろうか。命に関わる程ではないが、意識は意図せず沈んでいく。


 うつらうつらと船を漕ぐ視界の端で、女が微かに安堵の笑みを浮かべたように見えた。




-  陸:悪食 / 了  -

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