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百年誄歌  作者: 待雪天音
5/10

伍:雑穢




 ぴちゃり、と。


 雫の滴るような水音を聞いた気がして、文夜はゆっくりと意識を浮上させた。


 辺りは暗く、時おり外の方からざわめく葉と風の音が聞こえる。月の明るい夜のようで、薄い障子越しに白い光が差していた。


 壁の方に目をやると、掛かっていた時計が仄かな光を受けて、彼へ現在の時刻を伝える。どうやらまだ、夜中の二時半を数分ほど過ぎた時刻のようだ。


 妙な時間に起きたものだと、文夜が再び微睡みの淵へ沈み始めた時だった。


「血のにおいがするね。主人、外に何かがあるようだ」


 重力に引っぱられるように落ちかけた眠りを遮って、いつの間にそこへ現れたのか、一華が小さく囁いた。


 黒漆の髪に同じ色を映した瞳。夜の色彩を持つ彼女は、鼻をひくつかせて障子の向こうを見つめる。


 山姫、と呼ばれる人ならざる者である彼女は、人である文夜よりも敏感な鼻を持っているのだろうか。けれど、一度聞こえた妙な物音はそれきり途絶えて静寂ばかりが支配している。


 暫く闇に呑まれた天井を凝視していた文夜だったが、時間は虚しく過ぎるばかりだ。


 ただの戯言(ざれごと)だろうと、無視を決め込んで二度寝を決心した文夜だったが――。


 ぴちゃり。


 気のせいと片付けた水音が、もう一度耳に届いた。今度ははっきりと、文夜の鼓膜を叩く。


 夢から現へと引き戻す音に、文夜はビクリと足を震わせた。


 痙攣するように突っぱねた爪先は、頭よりも先に恐怖を肌で感じ始めていた。


 血の匂い。このような山の入り口で、それはつまり。


「腹が減るの。のう、主人」


「僕にはわからんよ。お前らの感覚なんか、わかりたいとも思わないがね」


 誰かが“食事”でもしているのだろうと言外に告げた一華へ、文夜はため息混じりに返す。


 爛々と光る黒瑪瑙の瞳で何かを待ちわびる様子の一華に、本当に“食事”を待っているのだろうかとも思ったが、首を指差して食事がしたいのかと頭を捻れば、彼女はまるで可愛らしい馬鹿者を見るような目付きでクスクスと笑った。


 それで、彼は理解する。彼女は文夜へ、外を見てこいと言っているのだ。


 仕方なくのろのろと起きあがった青年だが、障子に手を掛けたところでハッと嫌な想像に辿り着いた。


 もしも人ならざる者――人はそれらを、鬼や(あやかし)と呼ぶ――に出会ってしまったら、どうすればいいのだろう。食事(・・)をしているとして、もし見付かれば自分も夜食(・・)になってしまうかもしれない。


 妖でなくとも、肉食獣が居たとしたら。


 文夜の、文系故に筋肉の乏しい腕が震え、カタリと障子を僅かに揺らした。そのせいで出来た指一本分の隙間から、覗いた向こう側の風景に息を呑む。


「誰も……いない?」


 呟いた文夜の視界に、しかし、不自然なものが映った。


 夜闇に淡く浮かび上がる、地に打ち捨てられた何か。


 それから、ほとりと頭上から落ちてくる水滴を目で追って、


「っ……!」


 上げかけた悲鳴を、彼は夜風と一緒に呑み込んだ。同時に腰を抜かして見上げた先――縁側の(ひさし)にぶら下がる物体を、苦悶の思いで目に認める。


 赤い雫がパタパタと音を立てて、縁側の血溜まりに落ちた。赤黒い液体を滴らせているのは、無造作に蔦の絡まった猫の首だ。


 そう、首から下は無惨にも引き千切られており、胴体は遠く前方で転がっている。


 たった今見付けた、闇の中の異物。首のない猫の胴体は、吊られた頭と一対になる黒いごわごわとした毛皮を纏っていた。


 奇妙なのは、所々の肉が削げ落とされている所だ。


 これほどシュールな光景も、そうそうないだろう!


 糸を引いて地面にぶちまけられた内臓を、直視してしまって思わず口元を押さえた。


 くぐもった声が喉の奥に消えて、代わりに腹の中から別のものが迫り上がって来る。それは瞬間的に喉を焼いて、口の中に酸味ばかりを残していった。


 唾液が大量に口の中に溜まって、ごくりと飲み込めば異様に大きな音が響く。自分の耳の奥だけで聞こえた音なのか、それとも後方でほくそ笑む一華にまで聞こえたかは定かではないが、嫌に耳についたことだけは確かだ。


 舌の上まで這い上がってきた胃液を、やっとの思いで飲み下す。


 咽びそうになっても、文夜はただの一言すら口にすることができなかった。


「誰も居ないようだね、主人」


 口のきけない主の代わりとばかりに、女がくつくつと笑った。「おかしいね?」と尋ねられて、青年は眉間に皺を寄せる。


「何がおかしいんだ?」


「たった今まで、獣がそこにおったと言うに。匂いが残っておるよ」


「獣? 野犬か熊がこんなことをしたと?」


「さてね」


 いとあやし、と面妖な笑みを浮かべた一華は、答えをもたらすことなく部屋の梁に乗り上げた。そのまま身を預けて座り込んだ彼女には、これ以上何を語る気もないようだ。


 所詮は彼女も妖なのだと、頭を振って猫の首を下ろしにかかる。


 あのような所に放置していては、可哀相だという気持ちも確かにあった。けれどそれ以上に、このままにしていては自分の視覚と精神が異常を来すと判断した末の行動だった。


 何にせよ、早く快適な睡眠時間を取り戻す為には、猫を埋葬してやるのが手っ取り早いと思ったのだ。


 ――結局、文夜が悩み疲れて眠りについたのは、日も昇り始めた頃のことだった。




 ◇ ◆ ◇




 目の下に立派なクマを作り上げて、今日こそはと早くに(とこ)へついた文夜は、重い瞼を持ち上げてげんなりとため息をついた。


 ぴたんぴたんと、耳にあの音がこびり付いている。否、今も聞こえるのだ。


 目を覚ましたのは、二時四〇分頃のこと。それからずっと、昨日の悪夢を繰り返すように響く音は、きっとまた赤い血溜まりのものだろう。


「主人」


 一華が、忍び笑いを空間に落とす。抗いがたい()の声は、一種の催眠術のようだ。


「わかっている」


 半ば自分に言い聞かせるよう返事をして、意を決した青年は這い出した布団から障子の格子に手を掛けた。


 今夜は、それを一思いに開け放つ。


 唇を噛み締めて、つんと匂った生臭い悪臭に眉をしかめた。昨日と同じ光景が広がっていると思ったのだが、どうやらそれは甘い考えのようだ。


 口元を押さえることはなかったが、今度は左胸に爪を立てて湧き上がる不快感を抑えた。


 昨夜のように、急激に吐瀉物が逆流することはなかった。ただ、胸の内でぐるぐると何かが回っている感覚がある。


 目前に横たわっていたのは、肉を食い荒らされた猪の姿だ。


 体調は一メートルちょっとだろうか。固い頭部と足の先、あまり肉のない尻尾の部分を除いて、綺麗に肉が削がれている。


 その周囲には、(おびただ)しい数の野犬の亡骸が散らばっていた。


 昨日よりも巨大な獲物だが、今回は頭と身体のバラバラ死体遺棄を免れたようだ。


 臓器は相変わらず辺りに散乱して、今まで動いていたのだろう心臓や肝臓は片っ端から潰されている。


 そんな奇妙な光景でさえ順応し始めている文夜は、自分はどこかしらおかしいのかもしれないとぼんやり考えた。


「埋めてやらないとな」


 無感動に呟いて、文夜がスコップを取りに部屋へ戻ろうと踵を返した時だ。


「お待ち、主人」


 不意に一華が、制止の声を上げた。何だ、と問いたげに背後を振り返れば、いつの間にやら死骸の側でしげしげと亡骸を見下ろしている。


 まさか喰らうわけではあるまいな。


「主人」


「何だ」


「歯形がおかしいね」


「……は?」


 そう、歯。と下手な駄洒落のような文夜の返事に笑いながら、一華は肉片の残る尻尾を持ち上げた。自然と表情が渋くなる彼に、彼女は気にした風もなく死骸を突き出す。


「ご覧。肉の断面がおかしかろう? まるで引き千切り、すり潰したようだ。果たして、野犬や熊のような肉食獣が、かような歯形を残すものかね」


 赤く濡れた唇から、背筋を羽で撫でるような囁きがこぼれる。


 ぞわりと身体に悪寒が走った文夜は、自分の本心を悟られたくなくて、わざと苛立ちの声を上げた。


「何が言いたい?」


「おや、主人にはわかるだろうに」


 私と共に在る主人になら。


 せせら笑う一華の、猫のような瞳を覗き込んで理解した。


お仲間(あやかし)か」


「このような下品な喰い方をする者を、仲間とは思わんよ」


「化け物の癖に、上品も下品もあったものじゃないだろう」


「化け物とは、主人も不粋なことを言う」


 一華はくつくつと、袖で口元を覆って笑う。


 彼女は時折、妖怪ながらに美学のようなものを語る節があった。


 獣と酷似した本能が左右する世界で、一華は少なからず異分子に思える。


「スコップ、取ってくる」


「気をつけられや」


 再び踵を返した文夜を、一華は今度こそ止めなかった。




 ◇ ◆ ◇




 ぴと、ぴたん。


 その水音を聞くのは、今夜で三度目だった。流石に何度も聞いていれば、この後どんな光景を目にすることになるのかくらいは察しが付く。


 はっきり言って、目を開けたくはない。


 けれど、いつまでも軒先に動物の死骸を放置しておくというのも、後味が悪いものだ。


(仕方、ないか)


 目を瞑ったままため息をついて、そろりと瞼を上げる。


 時刻は二時を少し過ぎた頃。


(いつもより、少し早いな)


 ほう、と何とはなしに考えて、のろのろと布団から起きあがった。ふと、障子を透かし見た向こう側に映ったのは――。


「……っ!?」


 今まで以上に、つんと鼻に突く異臭。


 喉を抉るように鼻孔を刺激した(なまぐさ)い肉の匂いと、ぴたぴたと滴る血の影。


 それから。


 二足歩行をする人の身体。その頭部が象る影は、巨大な牛の頭のよう。


 伸びた角は鋭く、前へ突き出た鼻先が、手にした球体のようなものを貪り喰らっていた。


 ひっ、と上げかけた悲鳴を、何者かが背後から伸ばした手によって呑み込む。口元を押さえたのは、人形のような白魚の手だ。


 一華。


 唇の動きだけで名を呼ぶと、白い手は拘束する力を僅かに緩めた。


「私より前に出るでないよ、主人。あれは少々、狂っているからね」


 ――地獄で折檻しすぎたのだろうね。


 女の囁きが耳を擽る。畏怖と形容するに相応しい感覚で、肌が総毛立った。


 ゆうるりと滑るような動作で、白い手が文夜から離れていく。彼の脇をすり抜けて、一華は月光の当たる場所へ躍り出た。


 釣られるように彼女の後へ続こうとして、前に出るなと言われたことを思い出す。


 文夜は物音を立てぬように、慌てて暗い影の中へと身を隠した。


牛頭鬼(ごずき)(ぬし)がここ最近、周囲の森を荒らしておったのだな」


「山姫。供物ハ受ケ取ッたカ」


 一華の声に答えたのは、深く威圧感のある男のような声だった。声帯が発達していないのか、口元が不自由なのか、何処かくぐもった声音だ。


 ぽつぽつと漏らされる言葉も、静謐の夜にはよく通る。


「供物とは、なんぞ? よもや、かように下品な喰い散らかしを、指して言うのではなかろうな?」


「最初ノ肉ハ小さスギた。次ノ肉ハ中々ダッたロう。アまリニ美味ソうダッたカラ、ウッカリ喰ロうてシマッた」


「他人の喰いさしなど、喰らうものかね。それより、牛頭の。何故地獄の守り番である(ぬし)が、かように小さな山を荒らすか」


 くつりと卑下を込めた表情で笑い、一華は牛頭鬼の手にしているものへ視線を投げた。バスケットボールほどの大きさをした何かが、雲の切れ間から差した月明かりで浮かび上がる。


 細い髪を垂らして、牛頭鬼の手に掴まれていたのは、文夜よりも幾つか年下だろう少女の頭だった。


 首から下は引き千切られて、牛頭鬼の背後に打ち捨てられている。


「ぐっ……」


 昨日にも増して生々しい光景に、文夜は思わず声を漏らした。途端に二人の妖は、部屋の奥まった場所を注視した。


 ヒトならざる二対の双眸が、ギラギラと光る。


「あ……」


 射殺されそうなほどの眼光を一手に受けて、文夜は硬直した。たとえるならば、石となったように、あるいは、蛇に睨まれた蛙のようにとでも言うのだろうか。


 指の一本すら動かせない状況で、いち早く動いたのは一華だった。


 つと牛頭鬼と文夜の間へ割って入った彼女は、煩わしげに珍客の方を睨め付ける。


「ここは私の領域と知っての所業か? 牛頭の」


「我ハソレガ喰イたイ。山姫。コノ地デ静カに暮ラシテオッた主が、唯一守リ添う血筋。喰ロうテミたイ」


 血筋、と耳にして、文夜は一瞬眉間に皺を刻んだ。牛頭鬼と呼ばれた妖の言葉が、理解できない単語のように聞こえて首を捻る。


 しかしそれも一瞬のことで、反発した一華の言葉に意識はすぐ別の方向へと向いた。


「さよけ。ようやっと“供物”の意味がわかったよ。だが、しかし、コレは私のだ。たとえ主でもやらぬよ」


 猫の目に似た瞳孔をなお細めて、女は己の爪を舐め上げた。いつもは短く切り揃えられている爪が、今は鬼の指のように鋭く赤黒い凶器と化している。


 長い髪が逆立って、ゆうらりと揺れた。


「無理にでもと言うなら、私は主を連れて、黄泉平坂でも下る算段をしようかね」


 主ひとり程度なれば、この身を伴いあの世へ還すことなど容易いことよ。


 そう付け足した一華の、自信に満ち溢れたること。


 かんばせは息を呑むほど白いと言うのに、瞳に宿る輝きだけは()いだ刃物のような危うい鋭さを伝えてくる。駄目だ、と文夜は思った。


 ここで彼女を野放しにしてしまえば、彼の知る一華は二度と帰ってこない気がした。


 ならばいま目の前に居る、知らない者のような彼女は何者なのかと。


 考えるよりも、早く。


「やめろ」


 掠れる声で呟いて、文夜は一華の腕を捕らえた。力の限りに握っているつもりなのに、彼女の腕に掛かる己の手は弱々しい。振り払われれば、簡単に落とされてしまいそうだ。


 同じことを考えたようで、一華は彼を後目に鼻で笑った。


「かように非力な力では、私は止められぬよ。主人」


 袖を振って青年の手が地へと落ちれば、それで一笑に伏され、次の瞬間には二つの人ならざる存在が衝突していただろう。


 けれど懸命に彼女の腕を握る手は、そこからびくとも動かなかった。


「駄目だ、雪割一華」


「真名を呼んではならぬと言うに」


 歯噛みした一華の波打つ髪は、文夜が名を呼んだ途端に勢いを失ったよう重力に従った。


 指の先に伸びる長く尖った爪は、一瞬にして切り落とされたかのように、いつもの人間と変わらない綺麗な手へと戻っている。


 名を呼ばれて留め置かれた一華に、文夜へ抗う術はなかった。名の縛りは、ヒトならざる者達にとっては絶対なのだ。


 戦意を失って立ち尽くした女に、牛頭鬼がニタリと笑った。身の毛もよだつ笑みとは、まさにこのことか。血走った眼で文夜を捉えた牛頭鬼は、重々しい音を立てて青年の方へ駆け出した。


 縁側を越えて彼の目前まで迫った牛皮の腕が、文夜の頭を畳へ縫い付けようとした時だ。


 ぬばたまの闇に、一迅の突風が吹き抜けた。


「うわっ……何だ?」


 戦慄に目を瞑った文夜は、突如感じた違和感に怖々と瞼を持ち上げる。始めに見えたのは、青年を庇うように立つ一華の姿だった。


 女の視線の先には、牛頭鬼の首元へ刃先の割れた鉾を突き付ける馬頭の化け物の姿がある。


「そろそろ来る頃だと思うたよ、馬頭鬼(めずき)


 一華の濡れた唇が、心持ち安堵した調子でその名を呼んだ。馬頭鬼は黒曜石の眼で彼女を一瞥したが、すぐに牛頭鬼の大きく張り出した角を掴んで踵を返した。


「我ハ我ノ半身ヲ迎エニ来たまデ。(ぬし)ニ助太刀シたツモリハ毛頭ナイ」


 牛頭鬼と似た声で、馬頭鬼は吐き捨てる。


「知っておるよ、主らが二匹で一対ということ程度。それを連れ帰ってくれるのならば、私にとってはどちらでも構わんさ」


 一華は対照的に、得意の底知れぬ笑みを返した。フンと荒い鼻息を漏らして、馬頭鬼は興味もなさげに牛頭鬼を引きずり告げる。


「閻魔法王ノオ達シダ。牛頭鬼。法王ノ許可ナク獄門ヲクグリ、現世(うつしよ)ヘソノ身ヲ現シた罪。及ビ、見張リノ番ヲ放棄シ、無為ニ殺生シた罪ニヨリ、百ノ年月ヲ囚獄(ひとや)ノ内へ縛リ付ケるトノコト」


「何!? ()クモ早ウニ見付カルトハ! ヨモヤ、主ガ告げ口シたノデハアルまイナ」


 牛頭鬼は苦々しい声音で歯ぎしりをしたが、馬頭鬼はそ知らぬ顔で縁側を降りた。鉾を片手に、もう片方の手に牛頭鬼の角を掴んだ異形は、ところが、そこでふと一華を振り仰ぐ。


 つぶらな瞳が、どこまでも底の見えない闇を湛えていた。


()レバ、山姫ノ。主ハイツまデ斯ヨウニ、輪廻ノ定メに抗ウツモリカ」


 馬頭鬼の平坦な問いの向こうで、尚も牛頭鬼が喚き立てている。それにも関わらず、馬頭鬼と一華の間には、息も詰まるほどの静寂が流れていた。


 女に差し向けられた言葉の真意がわからないまま、文夜は一華の小さな背中を眺めていた。


「さてな。明日迄かも知れぬし、向こう百年かも知れぬ。どの道、行き着く先はひとつであろうよ」


 やがて一華のこぼした答えに、馬頭鬼は何を思ったかも知れないまま、ひとつ頷いてまた背を向けた。文夜が口を挟む間もなく、それは手にした鉾をひとつ振るう。一対の鬼は現れた時同様、一迅の突風に乗って消えた。


 後に残されたのは、血塗られた縁側に佇む一華と、その後ろで腰を抜かしたままの文夜だけだ。


「なぁ、一華」


「どうした、主人」


「お前達は、一体どれほど長い時間を生きるんだ?」


 今は彼女から離れてしまった指先が、血溜まりをなぞって緋色の線を引いていく。


 ぬるりと滑る赤い液体は、程なくしてベタつくただの汚れとなった。


「何百でも、強い者は何千でも。少なくとも、百年などとはあっという間さね。おぞましかろ?」


 それは、ようやっと百年生きるか否かという人間にとっては、想像に難い答えだった。


 気の遠くなるほどの長い年月。そんな日々を――昨日か、一昨日か、或いは何十年も、何百年も前か。幾度と見てきたような繰り返しの日々を、一華も過ごしてきたのだろうか。


「嫌悪は感じないが……恐ろしいという意味でなら、確かにおぞましいかもしれないな」


 否定とも同意ともつかない曖昧な答えで、文夜は一華を見上げた。その瞳の中に、彼女の真意の片鱗を見出そうとしてみたが、どうにも不透明でいけない。


 文夜が、逆光に目を細めた時だった。


「さもしかろ。何百生きようとて、老いることなく昨日と同じ今日を生きる。否、これを生きるとは言わぬだろね。――主人は、間違おうとも妖になどなるものでないよ」


 それは、いったい何を指す言葉だったのだろう。血に濡れた足で庭に降り立った一華は、土を踏み締めて夜の山間へと消えて行った。


 女の中で、微かに燻る影のようなものが見えた気がしたが、既に何処かへ去ってしまった一華の心の内など知ることができる筈もない。


 再び月の隠れた雲間を眺めながら、文夜は糸が切れたように目を閉じたのだった。




-  伍:雑穢 / 了  -


牛頭鬼/馬頭鬼…地獄で罪を背負った亡者を責め苛む獄卒。

二体で一対として、地獄の門番の役目も負っている。

牛頭鬼は人身牛頭に罪人を打つ棒を持ち、馬頭鬼は人身馬頭で罪人を刺す()(刃先の割れた鉾のようなもの)を持っているとされる。

昔話や説話には牛頭が人間を襲うという話も多く出てくるが、人間を襲う牛頭の多くは牛鬼(ぎゅうき)と呼ばれる別のものであるとも言われる。

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