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百年誄歌  作者: 待雪天音
4/10

肆:水葬




「古来より、水は不可思議なものとしてその存在を神聖視されてきた。あらゆる信仰の対象であると同時に、畏怖すべき対象でもあった。

 ときにすべての生命の母と呼ばれ、ときにすべてを映し出す鏡と呼ばれるほどに。留まる水は濁り腐らせ、常に流れ続ける清流は穢れを清める。

 ーーならばその水の行き着く先は、一体何処だと言うのだろうな」


「それは、学のないわたくしめには存じ上げぬところでございます」


 ごうごうと荒い川の奔流を眺めながら、男と女はそれぞれに呟いた。


 男は二〇代半ばほどの年の頃で、女は十代半ばを幾つか過ぎた頃だ。知己と言うには近いながら、友人と言うには冴え冴えとした雰囲気に、ここに他者が居たならば思わず閉口しただろう。


 しかし、この場にはふたり以外の誰の影もなかった。さもありなん。如何な馬鹿とて、嵐の日に外へ出るなどという愚かな真似はしないものだ。


 梅雨もとうに過ぎた真夏であるにも関わらず、もう一週間ほど雨が降り続けている。初めはしとしとと泣くような小雨だったそれは、昨晩とうとう暴風雨に変わった。


 雨粒がしたたかにふたりの肌へ打ち付けて来るが、彼らは気にしたふうもなく氾濫した川へ視線を投げている。ときおり川岸の草土が激流に浚われて行っても、二人は顔色ひとつ変えなかった。


 ただ、女は虚ろに、男は何を考えているのかすら窺えない様子で佇んでいる。


 川の上げる唸り声に、嵐の巻き起こす風の悲鳴が混じってふたりの耳を(つんざ)いた。鼓膜が駄目になりそうだ。


 女はぼんやりと自然の怒りと言い伝えられる音に耳を傾けながら、一方で男の声を聞き漏らさぬよう耳を澄ます。たった一言すらも、風に奪われてしまわぬように。


 隣り合って川岸に並んでいたふたりは、けれど女がちら、と男の顔を振り仰いだことでどうにか保っていた調和を崩した。男は女へ一瞥もくれることなく、抑揚のない声で残酷な言葉を告げる。


「時間だ、贄の姫。お前はこれより、神の妻となる」


「村長様のご意向のままに」


 女は紅の引かれた唇で弧を描いて、深くこうべを垂れた。季節外れの長雨は、女からそれ以外の言葉を奪った。


 日を浴びて育つこともできない作物は根腐れして、ぬかるんだ山道は土砂崩れを起こし、川の水は今にも村まで侵食して行きそうだ。


 こうするより他に手だてがないことを、男も女もよく理解していた。




 美しい、宝石を望んだわけじゃない。


 綺麗に着飾って金襴(きんらん)の着物に袖を通したかったわけでも、まして瑠璃の簪で髪を結わき、白粉でめかしたかったわけでもない。


 ーーわたしの願いは、最初から最後までひとつだった。


 白い頬に黒い睫毛の陰を落として、女は思う。


 荒れる雨風に晒されながらも、髪は薬で固めでもしたかのように毛先の一本すら乱れた様子はなかった。


 ただ、もうじき訪れる最後の時まで、じっと男を見つめたまま口を噤む。男が告げた言葉に、否を返すこともない。


 女の視線に気付いてのことだろうか。男の表情がえも言えぬ様相に歪んだ。


 それはじっと見つめてくる女を疎ましく思ってのことなのか、それともこれから己の行う行動によって引き起こされる結末に、女を憐れんでのことなのか。


 どうか憐れまないでください、と女は胸を痛めた。


 同じように、どうか永遠に悼んでください、と女は(くら)い悦を抱いた。


 苦しそうに、男の唇が引き結ばれる。


 躊躇(ためら)いは毒となることを、男は知っていた。だからこそ、踏み留まってしまう前にひと思いに腕が突き出される。


 目が合って。


 ドン、と鈍い震動が互いを突き動かすと同時に、男の腕は女の身体を川の中へと突き落とした。


 交わった視線は、決して逸らされることはない。


 重石に繋がれた女の足が地を離れた瞬間、彼女は、微笑(わら)った。




 ――あぁ、漸く貴方はわたしを見てくれた。




 ◇ ◆ ◇




「……っぅ……!!」


如何(いかが)されたね、主人」


 ぐらりと脳が揺さぶられるような感覚で、文夜は地に膝を付く。突然(うずくま)った青年に対し、彼の後ろをついて歩いていた一華(いつか)は慌てた様子もなく問いかけた。


 さも形式上尋ねておいたとでも言うように、彼女は答えを期待しているようではなかった。


 ところが、


「女性が……男に…、贄の姫と…………白昼夢?」


 文夜が額を押さえながら譫言(うわごと)のように呻いた言葉には、目を細めて喉を鳴らす。


「意識を持って行かれたね、主人」


「意識?」


川姫(かわひめ)の意思に同調したろう」


 くつ、と嗤いながら、一華は促すように近くの川へと視線を投げる。今は緩やかに流れる川の荒ぶる様を、文夜は本当に今しがた、見たような気がした。


彼奴(きゃつ)め。未練たらしゅう残留思念など残しおって」


 ふん、と鼻を鳴らしながら、彼女が見つめるのは川縁に立てられた石塊だった。元は綺麗に直立していたのだろう。所どころ欠けた楕円をした、幼子ほどの大きさのそれは、派手に傾いで今にも倒れそうだ。


 目眩が引いた頃を見計らってゆるりと立ち上がった文夜は、その石を起こそうと手を伸ばす。しかし。


「触れてはならぬよ、主人。今度は御魂まで持って行かれるでな」


 ぴくり、と青年の手が一瞬震えて、それから彼は伸ばしかけた手を下ろした。


 躊躇うように、ただ、その石を見つめながら。


「愛しや恋しと求む()の、罪を水面(みなも)に流しませ」


「何だ、それは」


「名もなき歌人が、想い遂げられぬ相手を想って歌った(うた)よ」


 そうか、と呟きながら、文夜は再び歩みを進める。気晴らしのつもりの散歩が、とんだ危険な死出の旅になるところだった。


 ほんの気まぐれでついてきた一華にひっそりと感謝の念を向けながらも、一刻も早くそこから離れたくて足を早める。


 主人が帰路についたことを遠目に確認した一華は、あの独特の――童女のような、女性のような――笑みを浮かべて傍らを流れる川に視線を投げた。


「のう、主人。罪とは、何を歌うのだろうな」


 口の中で小さく呟いた言葉は、既に離れたところで先を行く青年の耳には届かなかった。




-  肆:水葬 / 了  -


川姫…昔、人々は川が氾濫した時に、神の怒りだと嘆き、怒りを鎮めるための人身御供として妙齢の娘に「お前は神様の妻になるのだ」と言い聞かせ川に沈めていた。

そういった報われぬ女の魂が川姫となると言われる。

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