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百年誄歌  作者: 待雪天音
3/10

参:後髪




 ひたりと首筋に押し当てたのは、鈍く煌めく白銀の刃だった。刃渡り十センチほどのナイフは、しかし力を込めずとも、容易(たやす)く生命の糸を絶てるのだろう。


 満月が綺麗な晩だ、と頭の隅で考えながら、文夜は何とはなしに鼻歌を歌い始めた。


 遠い昔に聞いた、教科書にも載るほど有名な作曲家の作った歌だ。祖父に教えられた記憶はあるが、文夜自身は特に覚える気もなかったように思う。


 それでもこうしてメロディを口ずさんでしまうのは、刷り込みというものだろう。彼の幼い頃、祖父は毎日のように、ときに文夜へ聴かせるために、ときに自分の気の向くままに、よくこの歌を歌っていた。


 何度も繰り返し、耳に付いては文夜もぼんやりと歌ってみせる。


 それに喜んだ祖父の笑顔を、今はもうよくは思い出せない。笑うよりも、憮然とした顔の印象が強かったせいだろうが、なにぶん物心がつくかつかないかという頃の古い記憶だ。


 それでも、二〇年以上経った今でも覚えているということは、少なくとも彼の中で、悪い記憶ではなかったということだろう。


「見ィずやあけぼの露浴びて わァれにもの言う桜木をォ」


 そのような歌詞だった気がする。


 昔の記憶を探りながら、文夜はわざと間延びした声で歌いはじめた。


 やがてその歌が終いに差し掛かった頃。彼は気のない様子で歌いながら、楽器の弦でも弾くかのように滑らかな動作でナイフを縦に引いた。


 つぅ、と彼の首筋から緋色の筋が走る。


 強く押し当てていたわけではない刃は、文夜の血液に濡れて滑って退けられた。


「下手な歌よな。かわず(・・・)の歌を聴いておる方が、余程心休まるだろうて」


「……仮にも主人を(けな)して楽しいか?」


「ああ、愉しいよ。主人は唯一、私を見るヒトだからね」


 突然聞こえた女の声が笑う。嘲笑うとも、陽気なそれともつかない声は、青年にとって不思議な色を含んでいた。成熟した女性のようでもあり、少女のようにも聞こえるそれは、静かなこの部屋でよく通る。


 それがどういう意味でもたらされた言葉だったのか、文夜が知る由もないが、口先で主人と呼ぶ男をからかう響きは隠せない。


「いっ……」


 男が呆れて息をつくと、おもむろに傷が熱を持つ。いまさら自覚しはじめた首の痛みが、自分が何をしようとしていたのかを訴えて心臓が跳ね上がった。


 何かを苦にして自殺を考えるほど、本来の文夜の心は不安定ではない。ただ、ここ最近、あまりにも危険との垣根が低くなっていたので、死とは何かをぼんやりと考えることはあった。


 それでも、まさか無意識に刃物を自分の首に滑らせるなどと。


 熱を持った首筋から指先まで、ひと息に血の気が引いた。何故、己はこのような物騒なものを手にしてしまったのか。文夜はぐらんぐらんと回る視線を押入れの奥へ向けた。


 昔、祖父がよく鉛筆を削るのに使っていたナイフがそこから見つかって、たまには鉛筆と原稿で執筆でもと思い引っ張り出してきたものを、気づけばナイフが削っていたのは鉛筆ではなく自分の首の皮だったのだから、文夜の反応も当然のものだろう。


(囁き声がしたんだ。ナイフを、少し、ほんの少し当ててみようと。……いや)


 一体、誰がそのようなことを囁くというのか。この家には、文夜と一華のふたりしか居ないというのに。


 一華の指が髪の先に触れるのと、文夜がナイフを取り落とすのはどちらが先だっただろう。冷静を装う皮の下で、酷く混乱していた男には、そんなことを悠長に考える余裕もない。


 彼の微細な感情の波に気付いた一華が、やがてころころと笑い出す。ナイフを拾い上げ差し出す女の指は、血を見た所で震える筈もなかった。


 文夜がそれを受け取る前に、ごく自然な動作で彼の首筋へ顔を近付けた一華が、また嗤う。


 細く流れる赤い珠を、それと似た色をした真っ赤な舌で嘗め上げて、曰く。


「勿体のうことをするものよ」


「放っておいてくれ。一華には関係ないだろう」


 言外に奇特な者だと言われたようで、青年は密かに眉根を寄せた。気取られない程度に表情を動かしたのだろうが、或いはそれも、(あやかし)という、ヒトではない彼女には、陽の下に照らされるようにはっきりと見えているのだろうか。


 文夜の動揺にも構わずに、一華は片眉を上げて先を促した。


「続けてよいぞ?」


「……お前は僕を殺す気か」


「放っておけと言ったのは主人だろうに」


 口端を持ち上げた女が漏らす、おかしさをこらえるような笑いに、文夜は今度こそ腹を立てたらしい。血の伝うナイフを乱雑にテーブルへ置いて、彼は部屋を後にする。


「主人」


「なんだ」


 背中に呼び声を投げ掛けられて、文夜は振り返らずに返事をした。揚げ足をとられた手前、今は一華が、どのような顔で笑っているのかなど知りたくなかった。


「ヒトではないものに背中を見せるでないよ。うしろがみにはお気をつけ」


「僕に引かれるほど長い後ろ髪は無いだろう」


「さよけ」


 口ではそう答えるものの、文夜は気にするように自分の襟足に手を当てながら襖を閉めた。男はついぞ振り返らなかったが、彼にとってはそれが正解であっただろう。


 彼の背中を見送る一華の手には、およそ男の髪の長さとは思えぬ、長い髪の塊が握られていた。




 -  参:後髪 / 了  -


後神(うしろがみ)…『今昔百鬼拾遺』などに見る妖怪。

突然人の背後に現れて、後ろ髪を引くものとされている。

また、突然風を起こしたり、冷たい手や熱い物を首筋につけて人を驚かせたりするものも居る。

臆病神のひとつとも言われ、人が何かを行うことに躊躇しているとき、それをするようそそのかすが、その通りにいざ行動に移そうとすると後ろに回って後ろ髪を引き、恐怖心や心残りを誘うとされている。

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