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百年誄歌  作者: 待雪天音
2/10

貳:名前




 しと、しとり。


 縁側の向こうで、軒先から雨粒が滴り落ちる。


 じきに梅雨か、と文机から上げた視線で、文夜は窓の外を眺めた。周囲を木々に囲まれているせいか、今は暑いという感覚よりも、微かな肌寒さを覚えてしまう。


 机上に置かれたノートパソコンのキーを叩きながら、青年の中の憂鬱は益々もって膨らんでいく。


 この純和風な内装に少々似合わない最新の機械は、この家に引っ越してきた翌日に引っ張り出して来た荷物だった。


 せっかく雰囲気もあるのだし、名のある文豪よろしく紙とペンで執筆しようと思っていたのだが、半日も書き続けていると手がじんじんと痛み出したのだ。そのようなところは悲しいかな、さすが現代人と言えよう。


 これまでにも、気まぐれにノートに走り書き程度のアナログな手法で執筆をしてきたこともあったが、日がな一日、ペンで書き続けるというのは苦行にも等しい。昔の文豪はよくあれだけの文書量を手書きで書き綴れたものだ。


 外の雨音をバックサウンドに文字を打ち込んでは消すといった作業を繰り返す。鬱屈した感情を少しだけ晴らしたのは、背中に感じた重みだった。


雪割一華(ゆきわりいちげ)。……重い」


 キーを打つ手を止めた文夜が、首だけで背後を振り返った。彼の背中には、もたれかかるよう背中合わせにして座る女の姿。


 白く透き通るような肌に、黒漆の髪と鴉の濡れ羽色の瞳。腰ほどもあろうかという髪は、風に遊ばせるよう無造作に下りている。


 無言で宙に視線を漂わせる雪割一華と呼ばれた女――その正体は、山姫という人外の者らしい――に、文夜がもう一度口を開きかけた時だ。


「そう易々と、真名(まな)を口にするものじゃあなかろうよ」


 そこに意識があるのかどうか、それすらも定かではなかった瞳は、彼に目もくれず制止を掛ける。まるで、わかっているから少し黙れとでも言われているようだ。


 仕方なく口を噤んだ青年だが、どうにも重くて作業に手が付かない。


 更に真名を呼ぶなと告げた女の意図もわからず、文夜の中で一種の好奇心のようなものが頭をもたげる。


 その瞬間、この日初めて山姫がちらりと青年を一瞥した。


 本当に一瞬のことだが、女は意味深に笑ってまた視線を宙に漂わせる。


「好奇心は、猫をも殺すよ。主人(しゅじん)


 見透かすように、女はゆっくりと男に言う。紅の引かれた赤い唇が、恐ろしく艶めく。


 彼女の言葉に声を詰まらせた文夜は、決まり悪そうにため息をこぼした。


 肩を落として執筆に向かいかけた時だ。


「主人」


「何だ」


 不意に女の方から声がかかる。きまぐれな猫に似た彼女にもう一度顔だけで振り向くと、彼女は意外にも文夜を見上げていた。


「名は身を縛り、心を縛り、天命を縛る。謂わば存在のもっともわかりやすい記号さね。私ら(あやかし)の者にとって、真名は命にも等しいものよ。例えば(ぬし)の心の臓がそこにあるとわかれば、容易に殺められるようにな」


 言って、背中越しに彼の左胸を指さす。男の背筋を、薄ら寒い何かが這っていった気がした。


 そんな言葉を紡ぎ、悠然と笑んだかと思うと、女は目にも止まらぬ早さで青年の顔より横一センチの位置に腕を伸ばした。ベチンと何かを叩くような音が聞こえて、男は横目に事態を確認する。


 あまりに一瞬のことで、息を詰めた青年はその光景を見た瞬間、喉元で燻っていた息を呑んで硬直した。


 自分の肩の、ほんのすぐ側。


 文机に立つようにして、それは居たのだ。


 小人と言うにも小さな身体。背筋が凍る程に恐ろしい、キロキロとよく動く見開かれた双眸。痩せ細り、異様なまでに狭い肩幅とは裏腹に、頭は大きく下腹は膨れている。


 頭を女の片手に掴まれたそれは、ギィギィと耳障りな呻きを上げ、苦しそうにもがいていた。


 人ならざる者。


 文夜の脳裏に、そんな言葉が浮かぶ。


「これは餓鬼。常に食物に飢えておるものだが、ヒトを襲おうとはな。少財餓鬼か。このような小物にとて、真名を聞かせれば命取りとなろうよ。少なくとも、私らの世界ではな」


 弱肉強食だよ。


 女は独特の――少女のような女性のような――笑みを浮かべてそう付け足す。


 あぁ、獣の世界だ、と思った。


 強く狡猾な者だけが生き残れる世界。


 容赦なく繰り広げられる、血で血を洗う世界。それが、彼女達の生きる世界なのだろうか。


 耳元で、ぐじゅりと何かが潰される音がした。それから、ごりごりと硬質なものを砕く音。短く上げそうになった悲鳴を呑み込んだのは、彼女の言葉を理解したつもりでいるからだ。


 代わりに背中を先程よりも強い寒気が這って、小さく身震いをする。


 何と声を掛ければ良いのかわからずに、文夜は幾度か躊躇(ためら)って的外れな言葉を口に乗せた。


「部屋を汚さないでくれないか」


「主人の大切なぱそこんは汚しちゃおらなんだろう?」


 からからと笑うその顔は、悪戯が成功した子供のようだ。


 収まる気配の無い激しい心音に、青年は乾いた笑みを浮かべて山姫を見る。彼女は手に持ったものを片付ける為に、ゆうるりと立ち上がった所だった。


「イツカ」


「うん?」


「雪割一華の〝一華〟で一華(いつか)。そう、呼ぶことにする」


「……あいわかった」


 文夜がそう呟くと、一華は待っていたとばかりに大きく頷いた。


 しと、しとり。


 先程よりも弱くなった雨は、まだ止む気配を見せない。


 ただ、もやもやと晴れなかった彼の心は、妙な落ち着きを取り戻していた。




-  貳:名前 / 了  -

餓鬼…本来は六道輪廻(生命が死んで後、生まれ変わるまでに通る六つの業の道と、その生まれ変わりのこと。六道と輪廻転生)の内、五道、六道に生まれるもの。

生前、勝手な気持ちで動物を殺生した者や、自分の身勝手な欲から食物を分け与えず誰かを餓死させた者、他人を妬み人々から不当に財産を奪い取った者などがこれになる。

常に腹を空かせており、上半身は痩せているが腹だけが異様に膨れている。

餓鬼にはまったく物を食べられないもの、血や膿などの人間の不浄のみを僅かだけ食べられるもの、人の残したものや人から施された物だけを食べられるものが居る。

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