壱:山姫
それは、小さな薄汚れた身体だった。木の根本で、横たわるようにして目を閉じている野ウサギの身体だ。
野生のウサギにしては柔らかい毛並み。少年はそれを腕に抱き込んだ瞬間、吸い込んだ息を止めるように短い悲鳴を上げた。
呆然と野ウサギを見下ろしていた瞳が、突如として焦点を結んだ。じわりと広がる、背筋を這うようないやな感覚。寒くもないのに、少年の身体はガタガタと酷く震え出した。
野ウサギの首元には、赤い汚れが僅かに残っている。
抱き上げた掌に伝わるのは、氷ほども冷たい無機質な温度と、硬直した肉の感触だ。
小学生に上がって丸二年経った春先のこと。これが、少年が初めて直面した“死”だった。
『ソレが、生きるということよ』
ふいに、誰も居ないはずの木々の間から声が聞こえた。まだ若い女の声のようだ。
少年は、誰だ、という言葉を飲み込んで目を剥いたまま辺りを見回した。
なぜ。これは死んでいるのに。
息と同時に飲み込んだ問いの言葉は、しかし女によってあっさりと答えをもたらされた。
『私が、生きる為にソレを喰らった。生きるというのは、ほんに難儀なものよな』
クスクスと笑いを含んだ声音が、葉の間を縫うように少年の耳へ届く。
たったそれだけの女の声が、彼には何故だか畏怖の対象のように思えた。赤々とした唇の端が、吊り上がるような幻覚を見る。
実際に、目の前にその光景がある訳ではない。それでも、少年はさっきよりも酷くなった身の震えを止めることができなかった。
直感的に、声の主がまともな人間ではないことを悟る。
『僕も、食べるの……?』
ガチガチと鳴る歯の間から、絞り出すように吐き出される言葉。自分で吐き出したそれすら、彼には恐ろしいものだっただろう。
もしも声が彼の問いを肯定したなら、少年がその場から無事に生還できる確率はゼロに等しいのだから。
けれど少年の問いに反して、声はけたけたとおかしそうに笑った。
『喰わんよ。いま主を喰ったところで、面白いことは無かろうて』
裏を返せば、面白ければ喰ったということなのだろうか。
未だクスクスと噛みしめるような笑いを上げる声に、少年は眉根を寄せた。
しかし、少なくとも相手に危害を加える意思が無いことを悟ると、彼はゆっくりと心を落ち着ける。腕に抱いた野ウサギの亡骸をより強く抱きしめ、辺りを見回した。
『主は、再び此処へ来るよ』
『え?』
まるで予言じみた言葉を最後に残し、女の声はそこで途切れる。
暫く待ってはみたのだが、その後、彼女の声が少年に語りかけることは無かった。
◇ ◆ ◇
呼び鈴の、音がする。
存外近くに聞こえたその音に、文夜は目を覚ました。まだ春も半ばだというのに、火照る暑さを覚える。
自分は寝ていたのか。起き抜けの頭でそう考えて、青年は辺りを見回した。
そうだ。ここは、かつて祖父が生まれ育った旧家であった。つい一週間ほど前に天に召された、祖父の遺した遺産。そこを、文夜が自宅兼仕事場――駆け出しではあるが、作家である――として使うことにしたのだ。
無事到着したせいか、気が抜けて玄関先で寝入ってしまったらしい。立ち上がると、もう一度空気を震わせる呼び鈴の音が聞こえた。
裏手は山という少々田舎じみた立地のこの家に、一体どんな来客と言うのだろう。
訝しそうに眉を寄せた青年は、警戒するように玄関の引き戸を開けた。
「もし、お尋ねしたいのですが……」
「あ……」
扉が開くなり、声を掛けたのは文夜と同じほどの、二〇代半ばと思しき齢の女性だった。
茶色がかった黒い髪と、焦げ茶の瞳、頭には涼しげなワンピースと同じ色の、白いつば広の帽子を被っている。どうやらひとりのようだ。
「善一郎さんは、いらっしゃいますか?」
女性が、耳慣れぬ男の名を告げた。それは、青年が遠い昔に幾度か聞いた祖父の名前だった。
なるほど、彼女は祖父を訪ねて来た来客ということだろうか。少しだけ開けていた扉をすっかり開けてしまうと、文夜は困ったように頭を下げた。
「申し訳ありませんが、祖父はつい先日亡くなりまして」
「そう、でしたか」
女性が、僅かに気落ちしたように呟く。
「祖父はおりませんが、よろしければ上がられては如何でしょう?」
その様子があまりにも寂しそうで、文夜は思わずそう口走っていた。如何にここが今日から彼の家になると言えど、まだ掃除もろくにしていない家に客人を上げるのはどうかと思ったが、青年は頭を振って踵を返した。
ありがとうございます、と女性が呟いた、ほんの一瞬後のことだ。
彼の腕が、強い力で掴まれた。思わず身体を竦めた青年は、背後を振り返ろうとして後頭部に強い衝撃を覚える。
打ち所は悪くはなかったようだが、世界が回るほどの目眩を覚えた。何が起こったのだろうか、と考えられるようになったのは、自分の頬に茶色がかった黒髪が落ちてからだ。
「な……っ」
「ほほ。容易きこと、容易きこと」
気付けば、背後にはたった今まで自分が立っていた玄関のタイルがあった。冷たい感触が、一気に毛穴から吹き出す汗を冷やしていく。
一見清楚な女性に見えた女は、今は山姥のような形相で文夜を見下ろしていた。
「果報は寝て待つものだのう。美味しそうなヒト」
女は、ギラギラとした猛禽類のような瞳で笑う。形の良い唇がニタリと笑って、そんな言葉を吐いた。
その隙間から牙が覗く。つるりとしていた額は盛り上がり、ごつごつといびつな角のような何かが生える。
人相どころかその形状さえ変わり果てた女の顔に気付かされるのは、それが人ならざる何かである、という憶測的な事実だ。
「誰、か……」
「無駄よ、無駄よ。このような山にヒトは来ぬ。お前は妾の血となり糧となる」
細い女の身体からは想像もできない、異様な怪力が文夜を押さえ付ける。歯の根が合わず、身体同様にガチガチと歯が音を立てた。
知っている。以前にも、この感覚を味わったことがある。
男は直感的に考えて、息を荒げた。自らの死を悟るような、腹の底から沸き上がるような恐怖だ。
のしかかる女が舌なめずりをして、唇を開く。その刹那の出来事だった。
「ほうら、帰って来た」
透き通った、それでいて張りのある女の声が響く。勿論、彼を押さえ付けている女ではない。知らない女――いや、それは、つい最近――遠い昔の記憶に聞いたばかりの声だ。
クスクスと笑いの混じった、あどけなさの残るような、それでいて女の艶めかしさを内包した声。
「誰、だ……?」
地べたに押さえ付けられていることも忘れて、文夜は呆然と呟いた。誰かに尋ねるというよりも、独りごちるようなていで。見上げれば、確かにそこに、馬乗りになる山姥とはまた別の女が立っていた。
問いには、答えは返ってこなかった。
ただ、尚もにんまりと浮かべられた笑いが、紅の差された女の唇を彩るだけだ。
「気をつけられや。物の怪は、油断を誘う姿でヒトを欺くよ。それのようにな」
磁器のような白い肌と、漆のような黒い髪、鴉の濡れ羽色をした双眸を持つ女が言った。女というにも曖昧で、少女と言っても通るかもしれない。死装束のような白い着物が、女の奇妙な艶めかしさを助長しているようだった。
そんな不思議な出で立ちの女に、男はただただ困惑するばかりだ。
「えぇい、黙れ山姫! これは妾が先に見付けたのだ!」
文夜が言葉を継げずに居ると、彼の頭上で物の怪と指さされた女が叫ぶ。山姫、と呼ばれた黒髪の女は、彼女の鬼のような形相にも動じた様子が無い。
「主は少し黙っておればよい。私はそこな少年に用があるでな」
「……っ」
少年という歳では無いのだが、明らかに文夜以外に該当するであろう人物は見当たらない。何故か物の怪の女は、悔しそうに歯噛みすると体勢をそのままに口を噤んだ。
「ヒトを、欺く……。お前は、そうじゃない、と?」
未だ心臓はあらぬ方向に飛んで行きそうだったが、とりあえず震えの小さくなった口で訊ねる。彼の言葉に、山姫はまた笑った。
「さぁて。少なくとも、ヒトを殺める程に下品な喰い散らかし方はせんよ」
それは暗に、自分も物の怪であるということを肯定する言葉だ。しかし、女は特に隠す様子もなく片方の手を差し伸べた。無言で、その手を取れと促されているような気がする。
彼女は、自分を助けるつもりなのだろうか。
状況に追いつかない頭で、文夜は口を開く。
「望みは」
「主の血を、少しばかり分けてくれればよい。主が名を与えれば、私はその手を掬い上げてやれるよ」
「それは如何に山姫とて、許されざることではないのかや! これは妾の獲物だと申した筈だ!」
山姫というのは、彼女自身の名前ではないようだ。名を与えろ、とそう告げた女に、しかしそれまで黙っていた物の怪の女が目を剥いて糾弾する。
山姫は――涼しい顔で笑っていた。
まるで物の怪の女を蝿か何かだとでも言うようなそぶりだ。その様を見て、文夜は噤んだ口を開いた。
「………ちげ」
「聞こえんよ」
「雪割一華、僕を助けろ!!」
「あいわかった」
仰向けの状態で、力の限りに叫んだ。喉の奥から吐き出すように、掠れた声が女達の耳を打つ。
カッと、青年を押さえ付ける女の目が怒りに見開かれた。殺される。そう思った時だ。
音ならざる音が、強く目を瞑った文夜の耳に届いた。ザクリ、ともズブリ、とも聞こえる、弾力のあるものを裂く音。しかし、自らの身体に何ら違和感は感じない。
山姫に問おうとした時だった。
「生きるというのは、ほんに難儀なものよな。誰ぞ生きれば、誰ぞが死に逝く」
山姫の声の後に、パタパタと雫の滴る音が聞こえた。それに、そろりと目を開けようとする。
が、開きかけた瞼は、人の温度を持たない掌によって遮られた。
「まだ、眠っているとよい。これは主には辛そうだ」
「……そうか」
微かに鼻についた、生臭い異臭に押し黙る。いま、掌の向こうに広がっているだろう光景を考えて、文夜は言われるままに再び目を閉じた。
外の光景を、この時は見てはいけない気がした。
「目が覚めたら、血をおくれよ」
「死なない程度、なら」
「うむ。……雪割一華、か。悪くないな」
そっと放された掌に、青年は何故か名残惜しさを覚える。しかし敢えて彼が二の句を継ぐことはなく、山姫は代わりに付けられたばかりの自分の名前を舌の上で転がした。
上機嫌な猫のように、喉をひとつ鳴らして。
山姫は玄関の先、一輪咲いた白く細い花弁の花を見つめた。
- 壱:山姫 / 了 -
10年以上前に個人サイトで公開していた未完の短編連載シリーズ小説を若干修正しつついい加減完結させるために公開に踏み切りました。
週一連載できれば……いいなぁ(予定は未定)
山姫…山に棲む、髪の長い美しい女の姿(または山姥のような姿)をした妖怪。
多くは人間の血を啜り、肉を喰う。
もとは人身御供/生贄などで山に捨てられた娘、または山に迷いこみ正体を失くした人間の女とも言われている。