ユメツツジ
外には長い雨が降っていて、僕は真白な部屋へ運び込まれた。天井やカーテン、机それらの全てが白かった。僕が横たわるベッドもまた白かったように思うが、運び込まれてすぐ永い眠りについた僕に、正確に記憶する力はなかった。覚えている限りは、たしか白かったような気がするだけだ。
一度閉じた瞼は開かない。瞼の裏が強靭なアサガオの蔓で縫い合わされているのではないか。そう疑うほど重い。
しかし、僕に目を開ける気はなかった。開けようと思えば瞼は開くのかと、少し試してみただけだ。結果、開かなかった。ただそれだけ。
気づけば酷く殺風景な田園にいた。辺りには水田が際限なく広がり、濃い霧がかかっている。積乱雲の中に突っ込んでいるかのようだ。霧があるのに、どうして際限がないとわかるのか。そんなこと、僕が知りたい。
わかっている。きっとこれは夢なのだろう。だから、全てがわかるのだ。
そして、夢にしては、その景色は妙にリアルだった。肌を覆うぬるい風も、足元にある土の感触も、水田の水面に映る柔らかな霧も、全てが実在のものに思えてならない。
僕は畦道に立って、前を見ていた。道の脇には電柱がポツポツ低く聳え、電気の線が怠惰な曲線を描き、それらを繋ぐ。
悪くない。そう思った。どうしてか。
僕は歩き始めた。誰かに言われたわけでもなく、そうしなければならないと知った。道の先で、彼女が待っている。それを知った。
歩くたびに衣擦れするのが気になって、首を曲げ、下を見る。僕は、上下とも薄緑の、ゆったりした服を着ていた。足元だけはスニーカーだった。
なんて不釣り合いなのだ。
安心する。
二つの感情が同時に湧きあがり、そして勝手に消えた。
水田はどこまでも続いている。終わりはもちろん、先も見えない。もしかしたら進んでないのかもしれない。濃霧は僕の距離感を麻痺させてしまった。
立ち止まるべきか、逆側に走ってみようか。案は浮かべど、実行には映さない。なぜなら僕は正解を知っている。今見ている方向へ歩き続けるべきだと知っている。これでいいのだろう。
やがて、霧が濃くなった。それはすぐにおさまった。しかし、霧が濃くなる前とは明らかな違いがあった。人影が向こうにいる。
彼女だ──。
僕は直感し、そして間違っていないだろうと確信した。事実、少し歩けば彼女が現れた。
「元気?」
時代錯誤な赤いワンピースを身に纏い、首を傾げるセミロング。僕はそれを見て、うん、と言った。言おうとした。声が出なかった。だから、頷いておいた。
彼女は「そ」と短く答え、僕の隣を歩き始めた。
「例えばさ、死んじゃう人は心残りとか意識しないと思うんだよね」
景色が変わり、気づけば僕らは住宅街にいた。彼女は唐突に切り出した。
僕は視線を前に向けたまま、頷いた。その通りだと思ったから。
「それなのにこの世界には『心残り』っていう言葉がある。それは、残された人たちの幻想なんじゃないかと思うんだよね」
やけに軽く、そして、明るく、彼女は言う。
「ま、だからってどうこう言うつもりはないんだけど」
オチなんかない。ひらひらと振られた彼女の右手がそう告げる。
それから、住宅街を僕らは歩いた。パステルカラーの三角屋根を乗せた平凡な家々が立ち並んでいる。霧は相変わらず深く、見通しは悪い。いや、霧がなくともこの辺りの見通しは良くないかもしれない。僕の身長と同じくらいのコンクリートブロック塀が家を囲み、死角を作っているから。
やがて、道の先にはT字路が現れた。ひどく狭い道だ。
T字の上の辺に沿う位置に、カーブミラーがあった。ひしゃげていた──ひしゃげていた。嫌だなと思った。たとえ夢でも。
彼女はもう笑っていなかった。
「今から、再現するね」
彼女が言った。頷きたくないのに、体が誰かに操られているかのように勝手に動いた。
「私が君を道路側に押すから、君は私の方へ手を伸ばして」
僕らの背後からヘッドライトが迫っている。後ろで起こっていることが、僕にはしっかりわかってしまった。
「それを私が引いて、逆に道路に飛び出すから」
嫌だ。それなのに、頷く身体。
クラクションが鳴り響いた。僕の肩は彼女に押され、車道に傾く。彼女が切ないような表情でこちらを見る。このままでいい。このまま手を伸ばさなければ僕は……
僕の右手が勝手に伸びた。ふざけるなよ。
彼女がそれを掴み、僕の身体を歩道へ引っ張る。その拍子に、彼女は車道に飛び出した。
クラクションが鳴る。鳴る。
「行かないで」
ようやく声が出た。もう遅かった。
「はいハッピーエンド」
彼女は言い、乗用車に轢かれた。
赤いワンピースは嘘のように霧の向こうへ吹き飛んだ。
こんなの許されなかった。たとえここが夢の中でも、これだけは耐えられなかった。
僕は彼女の体が消えた霧の向こうへ歩いた。
数メートル進むと、そこに彼女がいた。
ボキボキに折れた腕や、裂けた太もも、ぐるりと反転した目、陥没した腹。ワンピースだけは変わらず真っ赤だった。
彼女の肢体は植木に突っ込んでいた。ツツジが荒らされ、せっかく咲いた花弁が散っている。紅と紫を混ぜたような奇異な色合いが、完全な赤に染まっている。
「これでよかったんだよ」
彼女が言った。
目が覚めた。僕はベッドに横たわり、傍らには栄養剤の入った細いチューブがある。
目頭が熱くなって、涙が止まらなかった。
救いようのない唐突の出来事が頭のなかに何度も再生された。
僕は夢の中と同じ、薄緑のゆったりした服を着ていた。
スニーカーは履いていなかった。視線をめぐらせば、部屋の中に霧はかかっていなかった。ぬるい風もない、湿気もない。
そして、彼女もいない。白かったはずのワンピース。
だるい体を、一分かけて起こした。窓から見える街並みの、片隅に植えられたツツジが淡い蕾を開こうとしている。
長雨はまだ降り続いている。
田園とひしゃげたカーブミラー。
T字路にツツジ、咲けば咲け。