第10話 クラスメイトへの告白
扉を抜けた俺たちは、一息吐くまでもなく次の現場に出くわした。
このケーキ屋は建物自体が小さいから、ドアを一枚隔てたらすぐにそこがケーキを作る厨房だったのだが、そこでハンニバルとミカンさんが楽しそうに話をしている場面を目の当たりにしたというわけだ。
エプロンをして、粉まみれになって、業務用キッチンカウンターの上の生地のようなものをこねているミカンさんと、嬉しそうににやけて彼女の傍にいるハンニバル。それがパイか何かの生地だということは、料理好きの母親のおかげで俺にはすぐに分かったが、注目すべきはそこじゃない。いつも表情に影があったあの陰鬱さは何処になりを潜めたんだという浮かれた顔で、心から笑っている奴の姿がそこにあった。
もし、このときの俺が洞察の何たるかを知っていたなら、この表情だけで彼の探し求めていた幸福がこのキャラクターTシャツの女にあるってことを、理解することもできたのだろう。
でも俺はまだ十七歳だった。
「あれっ、フォレスト。何?」
俺が咳払いをすると、マルガリータの存在なんか目にも入らなかったのか、ハンニバルは俺にだけ言った。
「えっと、まあ、その」
俺はマルガリータを指差し、苦笑いを作った。
「その女と別れて!」
マルガリータはまた、後先考えずに自分の欲求だけをごり押しすべく、悲痛な声でいきなりハンニバルに迫った。
「あたし、ずっとハンニバル君のことが好きだったの。ずっと言えなかったけど、高校に入ってからずっと……、だからあたしとつきあって欲しいの。だからその女とは別れて!」
「俺?」
一方のハンニバルは自分を指差して、さして喜んでいるふうもなく言った。曲がりなりにもクラスで人気者の女子が自分に告白しているというのに、彼にはその価値が分からないらしい。
マルガリータは一生懸命になって頷いたが、ハンニバルはまったく状況が理解できないという顔をしていた。
マルガリータとハンニバルは互いにそのまま黙ってしまい、しばらく気まずい沈黙が続いた。
やがて気を遣ってくれたのだろう。場を執り成すように、キッチンにいるミカンさんがこちらに向かって笑って言った。
「遠慮しなくていいのよ。わたしたち、別につきあっていないから」
「えっ、そうだったんですか?」
珍妙な空気に冷や汗を掻いていた俺がその執り成しを拾うと、ミカンさんは頷いた。
「ええ。いったいどうしてそんなお話になっているの? でも、そういう関係じゃないのよ。ハンニバル君はときどきうちに買い物に来てくれる常連さんなだけ。
今もね、パイの作り方を習いたいって言うから、見て貰っていたのよ」
「ああ、そうなんですか」
それによって、俺は意外にもマルガリータの恋路が、叶ってしまうんじゃないかという気が一瞬したのだ。
しかしすぐにハンニバルが納得いかないという顔でミカンさんを見た。
「なんで?」
ハンニバルにとっては、マルガリータの渾身の告白なんか屁でもないということなのだろう。彼は目の前で告白したマルガリータが返事を待って震えているのに、それには目もくれずにミカンさんを覗き込んだ。
「なんでそんなことを言うんだ? それはないだろう」
「えっ、だって、つきあってない……でしょ?」
当惑したように粉のついた両手をかざし、ミカンさんは言った。
「そんなことない。つきあってる」
「でも……、貴方はまだ高校生だし……、わたし、とてもそんなふうには……」
ミカンさんは粉だらけの手で自分の髪に手をやり、マルガリータのほうに、申し訳なさそうな視線をやった。そのミカンさんの両肩を掴んで自分のほうを向かせると、ハンニバルはたたみかけた。
「じゃあつきあってくれ。俺と!」
「でっ、でも……、ほら、彼女、貴方に告白しているんだから、ちゃんと聞いてあげなくちゃ……」
「ああ、あれは俺たちには関係ないよ。あんなの只のクラスメイト。只の冷やかしだ。夜も遅いし、もう帰るよ。
それにさ、あいつは何人も彼氏がいるんだよ。大学生だの、物理の教師だの。だから俺とはまったく関係ない。ほとんど口をきいたこともないくらいさ。
今だって夏休みだからって、フォレストと一緒になって、俺をからかってるだけなんだろう。あいつら従姉弟同士だから」
「でも、すごく真剣に……」
そう言うミカンさんにそのまま強引にキスして、更にハンニバルはマルガリータではなく、ミカンさんだけをみつめて言った。
「おまえが好きだ。これで俺たちはつきあった。もう嫌とは言わせない」