4話 鬼嫁の父親に挨拶に行く
「離して!離してよ! 」
俺の腕の中で、彼女は離れようともがく。この細い身体の何処にそんな力があるのかと思うほど、必死になっていた。
だが、俺はもうこの娘の事を離す気は無かった。
「俺とこの先ずっと一緒に居て欲しい。」
「一緒に居たい?決まってるじゃない! この数日はここに来て初めて良かったって思えた! わたしがこんなんじゃ無ければ良かったのにと思って辛かった! それなのに! それなのに! 」
彼女は俺の胸を叩く。
次第に力が弱まると、彼女は胸の中でわあわあと声をあげて泣きだした。
そして、着ていたシャツが涙で濡れて冷たくなる頃、やっと彼女は落ち着いたようだった。
「俺もね。実はここへは自分を殺してもらいに来たんだ。」
しゃくりあげる彼女に俺は言う。
「君は信じてくれないかも知れないが、俺は他の世界で英雄とか勇者とか言われてた。望まれて邪神と呼ばれる神を倒した時、奴に『祝福』として不老不死の身体を与えられた。」
彼女がピクリと震える。
「呪いでは無いから解呪は出来ない。他の神々ですら祝福は消す事が出来なかったんだ。だから、それから千年ほど独りで俺はその世界を彷徨った。どうやらこの世界ではこの祝福は消せないと解ってから、神隠しと言われる現象を研究して他の世界に行く事を考えてた。」
胸の中から、彼女が見つめて来る。
「そして、俺はこの世界に来る事が出来たんだ…そして…。」
*
そこまで言いかけた時、彼女が震えだす。
「ああ…もう自分が抑えられそうに無いの! お願い!離れて逃げて! 」
彼女は、俺を突き飛ばしながらそう叫ぶ。
それは必死の願いだったが、聞くつもりは無かった。
目の前でゆらりとその細い身体が立ち上がる。
「さあ。来いよバケモノ。過保護もいい加減にしろってんだ。」
彼女の背中から黒い塊が溢れて来て、視界一杯を覆って行く。
彼女だったモノは、目にも留まらぬ速さで近寄ると、俺の胸に腕を付き入れた。
心臓がその手によって握りつぶされて行く。想像を絶する痛みに気が遠くなりそうになる。
ただ、目の前で泣いているその姿は、いつもの彼女のように見えた。
腹の底から食道へと血が沸きあがって来る感覚がする。
ぷちりと胸の中で何かがちぎり取られる音がして、俺の意識は暗い闇に呑まれて行った。
*
いつものように黒一色の世界を漂う。
この身体になってからはよく見る景色だ。何も無くて…広くて…誰も居ない。
そんな中、奴は話しかけて来る。
―――やあ。また来たのかい?
「仕方ない。これに賭けるしか無かった。」
―――彼女の罪の意識をえぐるような真似だって言うのに?
「俺が知る方法だと、彼女を解放するには他に方法が無い。」
―――言い訳だね。君が関わったから彼女は君を喰わなくちゃならなくなったんじゃないか。
「あのまま一人きりで箱庭で生き続けるのが良いと?」
―――それは君が決める事では無いだろう。知りさえしなければ不幸だとは思わないかも知れないじゃないか?
「ああ。確かに…俺の我儘だよ。この人となら永遠の生すら苦痛では無くなるって思ったのは事実だ。」
―――その結果、彼女もラクシャサ…いやラクシャシーとして生きて行かなくてはならないとしてもかい?
「そうだ。だが、その罪は俺のものだ。だから約束をして欲しい。」
―――何を?
「約束通りの善行が溜まれば、彼女は輪廻の輪に戻して欲しい。」
―――それはまた彼女が決める事。ただ、彼女が望むならそうしよう。
―――しかし、君も奇特だね。彼女の身体はもう…
「それを言うな! 彼女は彼女でしか無い! 」
―――……私に対して殺気を向けるなんて君くらいだよ。まあいい。そろそろ時間だ。
そのうち明るい点が見えてそちらに身体が引き寄せられる。
もう少しで帰れそうだ……。
*
目を開けると、若い血まみれの女が俺の胸に顔をうずめて泣いていた。
次に音が戻って来る。
「嫌だ…! 嫌だ…! どうしていつもこうなるの? わたしが何をしたって言うのよ! 」
「やっと救われるって期待させて、こんなの酷いじゃない! 」
またこの子を泣かせてしまったなと後悔が溢れる。
次第に感覚が戻って来ると、忘れていた痛みも戻って来る。
今回は随分派手に壊されたらしい。ハラワタ全てと心臓がごっそり持って行かれていた。
再生に掛かる時間がもどかしくなる。
「どうして…どうして…」
泣いている彼女をそのままにしておきたく無くて、気ばかりが焦る。
やっと皮膚と腕の感覚が戻って来た。身体に手を当てて魔力を流して治療魔術を掛ける。一気に内臓が再生されて傷口が塞がる。
愛しさが溢れて、思わず彼女の頭を撫でると、彼女はハッと気が付いたように跳ね起きる。
……時間が無い。
俺は驚いて固まっている彼女を抱きかかえる。
「え、なんで…?なんで…? 」
そう言いながら、俺の胸を本気でボカボカと殴る。
さっきと違って魔力で強化はしてあるが、油断すると不味そうだ。
「…詳しい話は後から。今なら君は外の世界に出られる。」
目の前で起った事が理解できない様子の彼女は、まだ腕の中で固まっている。とりあえず説明は後回しにして、彼女をその場から離す事を優先した。
*
藪を抜けると神社の社殿が見え、一気にそこまで走り切ると彼女を地面に下ろす。
「ここで待っててくれ。直ぐに戻って来る。」
「え…あの…。」
クリーンの魔法を掛けて、俺の血で汚れていた彼女を元の姿に戻す。
「もう一人きりじゃ無い。俺がずっと傍に居る。約束だ。だからこのままここで待っていてくれ。」
細い肩を掴んで目を見ながらそう言い残すと、俺は屋敷裏手まで全力で移動する。
この結界の起点がそこにあるのは確認をしていた。そのため、辺りに徐々に結界を侵食するように魔法陣を敷いてあった。奴はその魔法陣を壊し結界を維持するため、術者の心臓を持ってそこに居るはずだった。
屋敷を横目に見ながら、木々の間を駆け抜ける。
果たしてそこには真っ黒な影が結界の起点の周りを漂っていた。
「あんたが近寄れないようにしておいてあるなんて、当たり前だろう。それすら解らなくなってしまっているのか? 」
俺が声を掛けると、その黒い影はゆっくりと形を取り出す。
*
その姿は、傍目には大男に見えるが、その身体は全て苦しんでいる人の顔で出来ており、その顔一つ一つが上げる怨嗟の声で、俺の言葉が届いているかいないかも怪しい。
その身体の上に載っている顔には、怒りの表情が貼りついており、理性を感じさせないその目玉は真っ赤に染まってうっすらと光を放っている。
「一体どれだけの人間の魂を縛り付けていたんだ…。これであんたがまともだったら、俺の事も滅ぼしてもらえたかもな…。」
俺はベルトに着けてある小さな革のポーチのボタンを開く。魔術を利用したアイテムボックスとして使っているこのポーチには、身に着けて居られない装備が納めてある。
俺は破魔の剣をその中から取り出す。人の背丈ほどもある剣がその小さなポーチから姿を現し、そのまま正眼の構えを取る。
「彼女の父親に殴られるって話はよく見るけど、心臓を引き抜かれるってのは俺ぐらいなもんだ。」
自嘲気味にそうつぶやくと、俺はその黒い影に向けて斬りかかる。
一撃で決めるつもりで放った剣だったが、その身体を貫く事は無く、乱暴に振り回される腕によって弾かれた。
どうやら身体にすら結界を張っているらしい。
もし、間に合っていたなら…。そんな思いが頭を掠める。
結界と言っても堅いだけだ。むやみに手を振り回すだけの攻撃は、躱すのも簡単だった。
魔力を籠めた状態で破魔の剣を振るうと、結界を切り裂いて徐々に黒い男の姿に傷が入って行く。
左足に集中させていた攻撃が通り、とうとう尻もちをつくように黒い男は倒れる。俺は止めを刺そうと剣を引き、突きに備えて剣の先に魔力を集中させる。
これで…終わり。そう思った。
*
「父様…? 」
聞こえるはずの無い声が後ろから響いて、俺はあわてて型を解く。
目の前の黒い男もその声を聞いて動きを止める。
「ダメだ! 待っててくれって言ったろう! 」
「あなただって、私が離れてと言っても聞いてくれなかった! 」
「そう言う話じゃない! やっと切り離す事が出来たんだ。このチャンスを逃せばまた君はっ…! 」
「大丈夫。私の心はもうそんなに弱くないもの。だから…これからずっと一緒に居てくれるなら、黙って私のする事を見てて? 」
真剣な眼差しを俺に向けて頷くと、彼女はゆっくりと黒い男に近づいて行く。
そして、だらりと下げられている男の手に触れる。
身体の表面で人面瘡のように怨嗟の唸りを上げていた者達も、今はその声を上げるのを止めていた。
「父様。ありがとうございます。今までずっと守って頂いてありがとうございました。わたしはもう大丈夫です。」
その声を聞いた男の赤い目が閉じられる。
「そうだったのですね…。わたしはもう…。」
彼女と彼女の父親だったモノとの間に、どんな会話が為されているのかは解らないが、俺が彼女に知らせたく無かった事を、彼女が知ってしまった事は理解出来た。
*
彼女が不幸だったのは、
父親が掛けた術式が自分の魂を依り代としたものであった事。
依り代の魂にまだそこに漂っていた野盗の魂も混じってしまった事。
龍脈の真上にあったため結界の維持がずっとされてしまった事
そして、間違ったままの願いが叶えられてしまった事
「私の為にこれだけの方が今も苦しんでいる事には耐えられません。どうか皆さまを解放してあげてください。命を奪った罪は私が贖います。」
そこまで聞いた黒い男は、ゆっくりとその姿を黒い影に変えて行く。
それに合わせて人面瘡たちが解放されて行き、光の粒となって天へと昇って行く。
残った黒い影も徐々に地面に吸い込まれて行く。
最後のひとかけらが吸い込まれて行く時に俺の周りをくるりと回って行った。
その瞬間、狩衣に烏帽子をかぶった優しい顔をした男に、娘を頼むと肩を叩かれた気がしていた。




