7 穴を隠しました
買い物袋は玄関の上り口に置いたままにしてある。キッチンの前を通ったついでに口をゆすいで洗っておく。納豆はおいしいけど、洗うときのぬるぬるはあまり好きではない。
袋を提げてクロゼットへ戻ると、穴の向こうにテオが居ない。様子を窺うとテオも水を使っている音がして、彼も口をゆすいでいるのかと可笑しくなる。
袋から買ってきたものを出して開封していると、穴の向こうにテオが戻って来た。アイスブルーの瞳が興味深そうに瞬く。
「お待たせ。その棒は何?」
「これはですね、突っ張り棒です」
「ツッパリボウ?」
(分かってた!魔法みたいに言うって、分かってたよ!)
予想通りの反応に、笑顔を浮かべる夏帆を見たテオは不思議そうに首を傾げた。
「ここをくるくると回すと緩んで棒が伸びるんです。そして、好きな長さで止めてまた回すと固定されて…ほら!」
「わ、すごいねこれ。長さを調節できるんだ。仕事場のシャワールームにも似てるのがあるよ」
「あ、そうなんですか。使い方は一緒ですね。私は洗濯機の上に使って棚の代わりにしてますよ」
棚の代わりって何と言われ、二本を固定してその上にカゴを置いていると説明すると彼は感心して頷いていた。やっぱり突っ張り棒は外国の人にはあまり馴染みのない物なのだなと夏帆は思う。
「これは長いやつなので百均じゃなくて普通に買ってきましたけど。これに、このカーテンクリップを通します」
「わ、綺麗な細工だね。…散財させてしまったね」
「いいえ、百均なので大丈夫です」
丸い輪っかにはクリップが着いている。そのクリップ部分の飾りとして、アンティーク調に編まれた針金の中央には綺麗な薄茶色のイミテーションダイヤが着いてるけど、当然プラスチックだ。最近の百均はおしゃれなものがたくさん売ってるから勘違いするのも無理はないなと夏帆は思った。
まさか、“百均”が通じていないのだとは知らない彼女は、クリップを通してそれを持って立ち上がり、突っ張り棒を調節する。テオは体制を低くして穴から見上げたが、あまり見えなかったので残念に思う。
「よし。できたー! お次はですね、じゃーん!」
「おおー。なんか可愛い布だね」
「そうなんですよ! あ、私の趣味で選んじゃいましたけど、よく考えたらテオさんのお部屋からも見えるんですよね。大丈夫ですか?」
厚めのベージュのコットン生地に、縦と横に一本ずつラインが入って右上で交差した布だ。ラインはよく見るとレース編みになっている。色々見たけれど、これが一番シンプルだったし、何より透けていなかったのだ。スダレも候補にしていたけれどこちらを選んだ。
「私にもう少し才能があれば、もっとおしゃれに隠せたんですけどね…」
「大丈夫。だってオレはそのままでいいつもりだったんだから」
テオの言葉に夏帆は苦笑いを零して立ち上がり、クリップに止めていった。
「おおー。思ってたよりもきちんと仕切られるね。少し残念かな」
夏帆がゆっくりと布を横に引くと穴の向こうから、薄いアイスブルーの瞳が現れる。思っていたよりも近いその距離にびっくりしながらも残念の言葉にドキドキしてしまって首を傾げる。
「残念ですか?」
「うん。匂いも遮られちゃうから。何食べてるか分かんないなと思って」
(結局、食欲なんですか!!)
こんなに美形さんなのに、食べることしか頭にないなんて。これがいわゆる残念美形ってやつなのかなと思いながら夏帆は苦笑いを零した。
「どうせクロゼットは閉まっているので、声をかけたい時はいつでも開けてもらっていいですよ」
「…カホちゃん、見ず知らずの男にそんなこと言っちゃだめだよ」
(自分で残念だなって、言ったくせに!!)
夏帆は呆れながらも首を縦に振った。誰にでもこんなことを言うわけじゃない。彼からは食事に関する下心しか感じなかったし、こんな穴では悪いことなど到底できないのが分かり切っている。
「隣で餓死でもされたら困りますもん」
「餓死はしないけど、美味しい匂いがしたら発狂はするかもね」
「発狂されても可哀想なので…そうですね、二人とも時間がある時は分けてあげてもいいです」
なんでこんな提案をしているのか夏帆にもよく分からない。でも、この人との繋がりをこれで終わりにはしたくない気持ちがあるのは確かだった。自分でカーテンを付けておきながらよく言うとは思うけれど、それはそれ。やっぱり丸見え寝言筒抜け状態は嫌だ。
「やったー! 少しだけでも恵んでくれたら嬉しい。実はさ、オレ…いつも腹ペコなんだよね」
言われなくてもいつも腹ペコに見えます。その言葉をぐっと飲み込んで夏帆は頷いた。正直なところ、四人家族で暮らしていた所からの一人暮らしだったので料理の際の量の調節がうまくいかないのが彼女の悩みだった。常に少し多めに作ってしまうのだ。だから彼におすそ分けするのは全然構わない。ただ、残り物をお弁当に放り込めなくはなるのでそこは考えないといけないけど。
「あ、ちょっと待ってね。オレもカホちゃんに食べ物あげる」
「え、そんなわざわざ良かったのに…」
夏帆の戸惑う声に、まあまあと返事をして、テオのアッシュグレーの頭が穴から消える。
戻って来た彼の手には小さな紙箱が乗っていた。
「んー、穴通るかな…あ。通った」
結構むりやりに押し込んだ紙箱は角が少し潰れてしまった。促されるまま開けると、甘い匂いが立ち上ってきた。
「うわあ…かわいいですね」
中には片手に納まるサイズの小さなパイが三つ、積み重ねてあった。
「オレはいつもドゥドゥ鳥肉パイばっかり食べるんだけど。カホちゃんは女の子だからフルーツ系にしてみたよ」
「わー! おいしそうです。ありがとうございます」
ドゥドゥドリってなんだろう。疑問が浮かんだが、それは目の前のかわいいパイにすぐに消えてしまう。
「一番下がアップルパイ、真ん中がチェリーパイで、上がフルーツパイって言ってたかな」
一番上に乗っているフルーツパイが、すごくかわいい。桃にマンゴーの角切り、それにコロンとしたベリーが乗っていて、それらはシロップで艶々と輝いている。「おいしいよー、食べてー」と、夏帆を誘惑してくるのだ。
「オレも風呂に入ってくるから、今日はここでお開きにしよっか」
「はい。あ、私は土日と平日の夜はだいたい居るので」
「そうなんだ。オレの仕事は不定期で時間もバラバラなんだよね」
「大変なんですね…」
「あ、でも明日は休みだよ」
「私もです。じゃあ、明日の晩御飯は何か食べます?」
夏帆は仕事の内容は聞かない。そこまで立ち入ってはいけないと分をわきまえる。彼は奇妙な縁で得た友人になるかもしれない人だ。
「え、いいの? なんか悪いから、オレも何か一品用意しとこうか。とは言っても料理は下手だから買い物してくるだけだけど」
一人暮らしの二人は話し相手に飢えていた。そしてこんなに話しても負担に感じない相手はなかなか居ない。また話をしましょうねと約束をしてカーテンを閉じ、クロゼットを閉めた。
穴越しに向かい合って食事は可笑しいけれど、部屋でテーブルを囲んで二人で食事というのもなんか違うと思う。日本のことに少し疎いけど、料理を褒めてくれる隣人と知り合えて嬉しいと思った。
もらった歪んだ箱の中のパイを見て、思わず笑みが漏れる。
「かわいいなー。どこのお店だろう」
箱には何も書かれてはいなかったので夏帆は首を傾げた。店名も賞味期限も書かれていないなんて珍しい。でも、美味しそう。何から食べようかなとうきうきしながらお茶の準備の為にキッチンへと足を向ける。
土曜日の夜はゆっくりと更けていく…。
ドゥドゥトリニクパイも呪文みたいですね。