21 お母さんのご飯は最高です
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家に上がって仏壇に手を合わせてから、部屋に荷物を置いてお風呂に入った。広い湯船はやっぱり最高だった。普段は水道代とガス代が気になるのでシャワーだ。どうしてもお風呂に入りたいときは近所の温泉に行く。それはそれで最高だけど、実家のお風呂の心地よさにはやっぱり勝てないと思う。
髪を乾かしてから居間へ行くと、こたつの上にほかほかと湯気を立てた食事が用意されていた。
「わー、お母さんありがとー!」
母は食事を準備するタイミングが秀逸だ。居間へやってきてからではなくて、髪の毛を乾かすドライヤーの音で判断して準備しているのだと思うけれど、全体的に間がいい女性だと思う。
(…テオさん、元気かな)
タイミングがいい人をもう一人思い出して夏帆は顔を曇らせた。テオにいってらっしゃいを言ってからもう三週間が経過している。
あの日以来、本当の隣人には二度ほど遭遇して挨拶を交わす間柄になった。なんと驚くことに、夏帆がよく行くスーパーの社員さんだったのだ。昼間にしか行かない夏帆だけれど、たまたま夜中にでかけた時にばったり遭遇して判明したのだ。
その一方で、不思議な隣人にはあれ以来ずっと会っていない。でも、また会う約束はしているのだし大丈夫だと信じ、部屋を隔てるカーテンには手を触れていない。クロゼットを開く時にも灯りが漏れることもないし、ずっと帰っていないのだろうと思う。
(また会えたら、一緒にご飯を食べよう)
食器棚から箸を持ってきて炬燵に座る。母はとっくに向かいに座ってみかんを食べながらテレビを見ている。帰ってくる前から食べていたのだろう、展開図になってしまったみかんの皮が積み重ねられている。
「いただきまーす。あ、嬉しい。豚汁だ」
「夏帆は豚汁好きだもんね」
漆塗りのお椀を持って、夏帆はいい香りを胸いっぱいに吸い込む。お味噌と生姜の良い香りがする。母の豚汁の香りだ。具はおなじみの人参、じゃがいも、玉ねぎ、ゴボウ、豚肉、こんにゃく。
「あー、おいしい! やっぱり擦り下ろし生姜が入ってたほうがいいよね」
「そうね。チューブ生姜使うと誰かさんがうるさいからね」
母の言葉に夏帆は苦笑いを浮かべる。しかし、本当に擦り下ろした生姜のほうが美味しいのだから仕方ない。幼き日の自分の味覚は正しかった。
「唐揚げもおいしい」
「うん。帰ってくるって言ってたから、大島かしわ店の買ってきた」
これも小さい頃から慣れ親しんだ味。モモ肉と、手羽先の唐揚げだ。醤油味で漬けこまれた唐揚げは、実家から三十分くらい街へと車を走らせた場所にある鶏肉専門店の唐揚げだ。お店で揚げてもらうこともできるし、家で揚げるだけの状態のものも売っている。
幼い夏帆はこれが大好きでよくねだったものだ。大人になった今もとっても美味いと思うし、喜ぶだろうと母が買ってきてくれることが何よりうれしい。
一緒に置いてあるのはナスの煮びたしだ。上には小ネギがパラパラと散らしてあって、温め直してくれている。夏に食べる冷たい煮びたしも大好きだし、冬に食べる温かい煮びたしも大好きだ。
そして、きらきらと輝いているお茶碗の中身は今年の新米様。これの美味しさはもう語るまでもないだろう。
帰るといつも量が多くてお腹いっぱいになってしまうけれど、お腹がパンパンになってもついつい食べてしまう。
そういえば祖母が言っていたっけ。料理は愛情が大事だって。小さい頃は笑ったけれど、笑う夏帆に祖母は大真面目な顔をして言ったものだった。
『食べる人のことを考えて料理をすれば、自然と食べやすい大きさに切るでしょう。体に悪い物も使わないでしょ』
その時は言葉の通りにしか分からなかったけれど、今の夏帆には少し分かる気がする。これは食べられるかな? これは美味しいって言ってくれるかな。そう思って料理するのは楽しいものだ。
脳裏にチラつく笑顔を振り払うように夏帆は立ち上がった。
「お母さん、お水もらうね」
「あ、ごめん。出すの忘れてた」
「ううん、それくらい自分でやるよ」
母は、ちょっと子供たちを甘やかし気味なのだ。
苦笑いを浮かべながら食器棚から緑がかったコップを取り出す。夏帆のアパートにあるのと同じビー玉みたいなコップだ。こちらにあるのは赤色と緑色。赤色は母のもので、緑色は祖母のもの。三人で焼き物展に行った時に買ったお気に入りの品だ。プライス品だったけど。
緑色のガラスを溶かし込んだようなグラスに水を入れて座る。唐揚げをぱくつきながら夏帆は母に尋ねる。
「お父さん、また出張なの?」
「うん。そうなの。久しぶりにねー」
「ふぅん。ここ最近少なかったのにね」
夏帆が幼い頃は両親ともに留守がちだった。幼い夏帆と兄は祖父と祖母の家によく泊まったものだ。
「お父さんもそうだけど、あんたも忙しいんじゃないの?」
「うん。そろそろ年末だから書き入れ時だよね」
汁椀に残った豚汁を飲み干してそっと机に置く。もう一杯食べたい。しかし、この時間にこれ以上食べて大丈夫だろうか。
「相変わらず彼氏はいないの?」
「うん。職場は女性とおじちゃんしか居ないし」
母の“いい人いないの?”攻撃をさらりとかわす。兄は結婚して孫もいるんだからいいじゃないかと思うけど、やはり娘の子どもは見たいのだそうだ。しかしながら、夏帆にはその予定は全くない。というか二十三年間そういう相手は残念ながらいないのだ。
母は残念そうに溜息を吐いて空になった夏帆の汁椀を見た。
「…おかわりあるよ」
「ううーん、この時間だし、太るかなあ」
「あんたは、もう少し太りなさい」
なんでそんなにガリガリなのよとぶつぶつ言いながら、母はお椀を持って台所へ行ってしまった。母は夏帆が高校生の頃にプレゼントしたエプロンを付けている。中綿が入っていてふかふかだったエプロンはもうすっかり平たくなっている。そうだ、と考えて夏帆は笑みを零した。
(新しい、冬用のエプロンを買ってあげよう。もっとあったかいやつ!)
実家って居心地いいですよね。
※〝かしわ〟は、鶏肉のことです。