マーガリート幻想・後編
家の近くで、私は男性にぶつかる。よくは覚えていないが、たしか、あちらが飛び出してきたようだった。
私は小さな悲鳴を上げる。
「すみません。大丈夫ですか?」
申し訳なさそうに謝る彼を見上げた。黒い髪に眼鏡をかけており、何だか頼りなさそうな感じにも見える。大事に胸に抱えていた紙袋を見ると、一番上に載せていたラーズバリィが少し潰れていた。
「はい……、大丈夫です」酷くガッカリした声で答える。
「ああ、これ、潰れてしまいましたね。すぐに新しいもの、買ってきましょうか?」
「いえ、ご心配には……」そこで私は、彼の胸元に広がるものを見付けた。「まあ……!」
「え?」
不思議そうに自分の胸元を見た彼は、そこに赤いラーズバリィの染みを見付ける。ぶつかってきた彼が自業自得とも言えるが、服に染みをつけてしまったという点では、私に非があるのだろう。
「大変……。早くしないと、取れなくなってしまいますわ。私の家が近くですの。いまからいらして下さいませ」びっくりしている彼の袖を引っ張った。
「いえ、これくらいの染み、洗ってもらえば取れますよ」
「時間が経つと、取れなくなってしまいますわ。さあ、こちらへ」
困っているらしい彼を連れて、私は歩き始める。そこへ脇道から帽子を目深に被った少年がひょいと現れ、男性の横に並んだ。
「なに? どうかしたの?」
「ちょっと、染みが……」男性の答えだけでは意味が分からなかったようで、少年は首を傾げる。
「ほんのすぐ、近くですわ。ところで、お二人でお買い物ですの?」
「ああ……いえ、仕事の帰りです」男性が答える。少年は黙ってついて来ていた。
「仕事……、どのような? あら、不躾な質問でしたかしら」
「構いません。医師、ですよ」
私は改めて彼の顔を見る。たしかに、こんな風貌の医者はいそうである。威圧的な雰囲気ではないので、気軽な相談はしやすそうなのかもしれない。
気が付くと、私の家までたどり着いていた。
「ここです。ああ、早く染みをどうにかしなくてはいけませんね」
「染み?」少年が不思議そうに男性を見る。そして、やっと胸元の染みに気付いたようだ。いきなり笑い始めた。「相変わらず、間抜けだなぁ」
男性は眉をしかめ、少年の被っている帽子のツバをすこんと叩いた。帽子が落ちる、彼の顔がはっきりと見えた。彼は慌てて帽子を広い、再び目深に被る。
「まるで血がついているみたいだね」少年は微笑んだ。私は、その微笑が怖かった。
「上着を、脱いで下さいますか?」玄関を開けて、荷物を置くと私は言う。
「染み抜きなんてしなくて、大丈夫だよ。ほら」
少年が男性の胸元の染みを一撫ですると、そこにはもう、染みは見当たらない。幻でも見たのではないかと、何度も瞬いた。
「……あー、ここは貴女の庭ですか? 綺麗ですね、あの花とか」その場を取り繕うかのように、男性が不自然に庭を褒める。
「ええ。私、マーガリートが大好きですの」
「マーガリート……、ああ、アルギランテムムね。僕も好きだよ」そう言って、少年は花壇に近付く。
白いマーガリートが並ぶ花壇を、彼は少し悲しそうな表情で眺めながら歩いていた。そして、ある地点で立ち止まる。
「あ……」私は思わず手を伸ばして、引っ込めた。
「どうか……されましたか?」
「いえ、その辺りは最近、植え付けたばっかりでして。堆肥が少し、臭いますでしょう?」
「確かにここ、嫌な臭いがするね」少年は、花壇の隅にある、蕾すらついていない一群を横目に見た。
少年は花を見るのを止め、男性に近付き、ぼそぼそと耳元でなにかを囁く。きっと、早く帰りたいとでも言っているのではないだろうか。
私は、マギィとお茶を飲む約束をしていたことを思い出す。可哀相に彼女は、待ちくたびれてしまっているだろう。俄かにそわそわし始めてきた。
「あの、私、友人とお茶の時間を楽しむ約束をしていますの……」続けて、染みのことを口にしようとしたが、染みが消えてしまったあの現象を口にするのは憚られた。
そうこうしていると後ろから声がかかった。
「あら、帰っていたのね。わたし、あなたまで帰ってこなくなってしまったのかと思ったわ。その方たち、お客様なの?」
隣からマギィが顔を出す。少年は好奇心旺盛な目を彼女に向けた。
「貴女まで、ということは、ほかに誰かがいなくなったの?」
少年がした質問は、マギィを震え上がらせた。私は慌てて彼女を家に押しやる。
「マギィの夫が行方不明なのですわ。彼女は深く傷付いております。そっとしておいてやって下さいな。では、私も用意がありますので、失礼致しますわ」
そそくさと部屋の中に入ってしまうと、台所へ行って、持っていくものの準備をした。ジャムやクリーム、潰れてしまったラーズバリィなどをバースキットに詰め、腕に提げると両手で花瓶を抱えて外に出る。
すると、まだあの二人組みがそこにいたので、私は驚いた。一緒にお茶を飲みたいのだろうか。
「すみません、もう帰るところです。最後に、どうしても貴女に言いたいことがあって……」男性は言いにくそうに、肩を竦める。少年はまた、ぼんやりとマーガリートを眺めていた。
「いいえ、何でしょう?」
「余計なお世話だと思われるかもしれませんが、早く自首、されたほうが良いですよ」
私は飛び上がるほど驚いた。
「何のことでしょうか? あの、貴方は一体……?」
精一杯、隠したつもりだったが、身体がガタガタ震えて思うように動かない。男性は、やや遠慮気に近付いてきて、名刺を差し出した。そこには『キュラソウ事務所』と書かれており、住所と電話番号もあった。彼は自分が医者だといっていたが、探偵のようなこともやっているのだろうか。
「それでは、失礼します」
それ以上、追及されることもなく、彼らは立ち去った。去りぎわに少年が呟いた、マーガリートの花言葉が悲しく私に刺さる。
まさか、私がここにいない間に花壇を掘り返したのだろうか? あのとき、もっと自然な振る舞いを心がけていれば、こんなことにならなかったのだろうか? ああ、もう、後戻りはできないのだ。
倒れるように座り込み、花瓶を抱き締めて泣いた。もう、耐えることができなかった。花瓶の中のマーガリートが揺れる。
私は、私は、マーガリットが大好きだった。
マーガリート幻想<了>




