彼の願い、彼女の困惑
桐島由香は困っていた、太い眉を眉間に寄せ、深い谷間を刻み、唇を引き結んだ険しい表情で原因となった物質を睨みつけていた。彼女の目の前にあるのは所謂「ブレザー服」というものである、現在17歳現役高校生である彼女が制服を着る事は校則で義務づけられて居り彼女自身にとっては爪の先ほども不満に思う事ではないが、問題は彼女の在学先たる高校は「セーラー服」が指定制服だという事だ。そう、彼女を困惑させる服は彼女の高校のものではなく、また彼女が自らの意思で手に入れたものでもなかった。
「——一度だけでええんよ」
正面から掛けられた声に由香は僅かに体を震わせる。紡がれた言葉は日本語であったものの、その訛りの中には異国を思わせる響きが有る。己が表情の険しさを自覚してか、少しだけ顔から力を抜いてから視線を顔事上げ声の持ち主である人物へと目を向ける。
色で言えば確かに黒であるのだが、毛先や光に透ける部分は茶色の髪。緑色の目が何かの宝石の様に爛々と輝いて由香を映している。健康的な蜂蜜色の肌の理由がよく上半身を曝け出して校庭を駆け回っているからだと知っていた。まだ幼さが抜けない他の同級生に比べて体格だけで言えば青年と呼べるであろう姿の彼の名は、織田康友と言う。名前と外見がちぐはぐなのは、彼の両親が日本へ帰化した後に生まれた子供であるからだ。
「きっと、絶対に、似合うから」
見た眼だけなら完璧な外国人、彼の両親はイタリアだかスペインだか、ラテン系の民族の血を引いているのだろう。穿った意見だろうが精悍さの中に甘さを含む顔立ちは女性に対して積極的だと聞く国を連想させる。由香は困惑の中に恥じらいも感じていた、不断男と触れ合う事が全くないのだ、それをこんな風に——距離にして、一メートルもない距離で見詰められて、恥ずかしくないはずがない。あの翡翠の目で見つめられたらどうにかなってしまいそうなんて言っていた友人を思い出す、どうにかなる、の意味が少し異なる気がするが、由香は今まさしくその状態だった。
由香にとって彼は憧れである、眼福というものだ。大人しく引っ込み思案な由香に対し、明るく快活で社交的な織田は夢の様な存在で、けして手を伸ばし掴みたいと思う様な人物ではなかった。身の程、というものは嫌という程知っている。
「…む…無理だよ、ほんとに、無理…」
「そないなこと言わんといてぇな」
自分の良いところを有効活用した表情と仕草、それに少し低い声。恋が憎悪に変わる瞬間はよくあるものらしいが、憧れが嫌悪に変わる瞬間もありそうだと人事の様に由香は思った。短気な性質ではないはずだが、逃げる事のかなわぬ状況に暴挙に出かねない心情である。
どうして、よりにもよって、こんな、
「ほんまに、一度着て——『まったく、私が居ないとだめなんだから』って言ってくれるだけでええんや!」
身の程知らずも夢を見たくなる事だってある、学校で彼にメールアドレスを聞かれて、緊張のあまり数通やりとりするのに一週間もかかった。よければどこかに出かけないかなんて、一生に一度くるかどうかのチャンスだと思った。恋人になれる筈なくとも、いい想い出になれたらいい、なんて思っていた自分を恨めしく思う。
映画を見て、お茶をして、ちょっとカラオケでも入っちゃおうか——とてもエスコート上手な彼だと思ったのに、思えばカラオケが目的だったのだ。個室に2人きり、この状況を作り出すのが。男の子と2人きりで身の危険とか感じた事のない自分が悲しい、性的な警戒心の前に人間としての警戒心を持つべきだった。個室に入って一息吐くなり彼が「お願いがあるんよ」とテーブルの上に広げたのはピンク色のブレザー服、思考も息も一瞬止まった。
この制服の持ち主は貴谷瑞穂と言うらしい、彼女は実在する人間ではなくアニメのキャラクターであると説明を受けたあたりで由香は一度意識を飛ばしかけた。彼女は貴谷財閥のお嬢様で勝気な性格、いつも刺々しい言葉を周りに放っているもそれは人より傷つき易い心を守る為の武装であり、一度心を許すと面倒見の良さを発揮し気遣い、優しさを惜しみなく与えてくれる乙女……途中から脳が記憶する事を放棄した為に曖昧だがだいたいこのような事を言っていたと思う。その貴谷瑞穂というキャラクターに、由香はそっくりであるらしい。違和感しか放っていないブレザーを恭しく掲げながら熱く語る織田は由香にこれを着用し、尚かつ台詞迄言ってくれなどと罰ゲームとしか思えない願いを口にした。
攻防は二時間にも及んだが己の魅力という武器を最大限に使った攻撃に由香が堪えきれる筈もなく——…その日、まだ男を知らぬ筈である彼女は何か大事なものを失った気がして自宅のベッドでむせび泣いたという。
彼が本当に、ただ似ているだけで彼女に目を付けたのか、だとか、これから2人はどうなるかだとかは、また別の話。
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