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隣人・瀬田貴恵の場合  作者: askaK
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9、三男・米沢英三郎の朝

 朝がきて、二段ベッドの下段へと、窓からきらきら日光が差し込んでくる。

 米沢家三男・英三郎は、睡眠を妨害するその日差しに、チッと思わず舌打ちした。

 時計は八時を示そうとしていた。今日は平日だ。当然、中学校が休みであるわけもない。

 上段の寝起きの悪い弟ですら、三十分前には寝床を這い出していた。

 流石にそろそろ起きなくてはまずいなと、英三郎は布団を蹴飛ばし起き上がる。彼はその勢いでベッドと箪笥の間の細いスペースに仁王立ちになると、大きく伸びをした。

 家具は必要最低限しかないというのに狭いこの部屋は、英三郎と清四郎の寝室であった。リビングに近い方の隣室に二人の兄、桂一郎と伶二郎の寝室があり、玄関に近い方の隣室は両親の寝室だった。——母亡き今は、父が一人で使っている。

 一方、米沢家の隣にある瀬田家では、貴恵とその母桃子、そして米沢家の長女である都が寝起きしていた。つまり、マンションに掲げられた「米沢」「瀬田」の表札は仮のものでしかなかった。

 朝になると貴恵が朝食を作りに米沢家の台所へやってきて、その後わらわらと全員が米沢家のリビングに集合する。

 そのため、瀬田家の半分は物置として使われていた。

 そういうわけで、米沢家には家具が少ない。


 英三郎が欠伸をしながらリビングへ行くと、桂一郎、伶二郎、清四郎、それに貴恵の四人がテレビを見ながら朝食を取っていた。

 時はすでに、八時前である。

 父由郎と貴恵の母桃子はとっくに出勤したのだろう。

 清四郎はまだ小学校に遅刻する時間ではないから良いが、高校生の兄姉達はいつもならすでに登校しているはずだ。

 英三郎はひどい寝癖のついた髪をかきむしりつつ、問いかけた。

「なんで桂兄達まだいんの?」

 ようやく英三郎が登場したことに気付いたのか、兄弟達の視線が一斉にこちらを向いた。唯一、清四郎だけがまだ半分眠りながらパンを食べている。いつもなら皿の上に突っ伏して寝ていることもあるのだが、今朝は兄の桂一郎に小突かれながら、何とか起きていた。

「おはよ、英三郎。早く食べないとあんたも遅刻じゃないの?」

 貴恵が皿を机に置いて、英三郎用にパンを三枚トースターに投げ込んだ。

 英三郎はその皿の前に座って、己の分のプチトマトをさりげなく清四郎の皿の上へ転がす。

「『あんたも』ってことは、きー姉達も遅刻?」

「高校は今日体育祭だから登校遅いんだよ」

 伶二郎が水を飲みながら答え、清四郎の皿に乗ったプチトマトに気付いてにやりと笑った。

 幸い、気付いたのは伶二郎だけらしい。

 貴恵に気付かれれば「好き嫌いするんじゃない!」と確実に頭をはたかれていただろうし、プチトマトを押し付けられた清四郎本人も意識がないため無反応だ。

「遅刻してったのは、俺らじゃなくて、みー姉。——おい、清、寝るな」

 桂一郎に小突かれ、はっとしたように目を開いた清四郎は何の疑いもなく、英三郎のプチトマトを口へ放り込んだ。

 それを見届けてから、英三郎は他のおかずに手を付ける。

「みー姉が遅刻? 今日何か用事あったの?」

「よくわかんないけど、七時十分には家出るって宣言してたくせに、さっきやっと出てったとこなんだよね」

 貴恵が言いながら英三郎のパンをトースターから取り出し、桂一郎が「そのわりにのんびりしてたよな」と笑った。彼等の姉は、とてつもなく暢気なのである。

 ごちそうさま、と言って立ち上がった桂一郎は、空になった皿を持って台所へ向かった。

 その後ろ姿を見上げて、ふと思い出したように貴恵が声をはりあげる。

「あ、そうだ桂一郎、体育祭のゼッケン忘れないでね」

「わかってるよ」

「忘れられると、私の責任になるんだから」

「わかってるっつーの」

 面倒くさそうに言い放って、桂一郎が戻ってくる。その手には学生鞄がしっかり握られていた。彼は中から白い布を一枚取り出してぱたぱたと横に振る。そして、そこに大きく書かれたクラスと名前をまじまじと見つめた。これが、「体育祭のゼッケン」という奴らしい。

「……にしても、これ、本当だっさいよなー……高校生にもなって使うもんじゃないだろ」

「あ、それは同感」

 食べ終わったのか、貴恵が立ち上がる。

「大体、十七にもなって、体育祭なんて誰も燃えないでしょ」

「俺は何って、綱引きが嫌だな」

「いいじゃない、綱引き。あたしなんてムカデ競走出ることになってんだからね!」

 皿を持って台所へと消えていった貴恵が、声だけで反論してくる。

 その甲高い声に、伶二郎が噴き出した。

「何でかなー、そんなに嫌かな」

「伶兄は何に出んの?」

「クラス代表リレー」

 すると、ソファーに座っている桂一郎と、台所にいる貴恵の双方から順に抗議が上がった。

「お前は足速いからいいんだよ」

「そーよ、ムカデ出てみろっての!」

 伶二郎は「えー」と呟き、笑った。彼も皿を片付けに立ち上がる。

「いいじゃん、ムカデ。楽しそう」

「あんた、自分が出ないからって……」

「俺がリレー出るって言ったんじゃないもん。気付いたら勝手にリレーにされてたんだよ」

 しれっと言ってのけた伶二郎に、兄達は反駁する気もなくしたようだ。

 貴恵は呆れたような笑いを浮かべ、洗面所に駆け込んでいった。彼女の声が、廊下を通してリビングへ反響してくる。

「そういえば、伶二郎、結局あんた陸上部入部することにしたの?」

「え? しないよ?」

「あ、そう。頼まれたんじゃないの? 部活対抗リレー」

「頼まれたけど、断った。メアドだけ交換してきた」

「……あ、そう」

 それきり、貴恵の声は聞こえなくなった。

 いつでも大量の女性陣から引く手数多の伶二郎に、貴恵も桂一郎も呆れて失笑するばかりだ。が、英三郎にはそんな二番目の兄が、一番輝いて見えた。こっそり自分も伶二郎兄みたいになりたいなどと彼を目指していることは、英三郎だけの秘密である。

 さっさと三枚のパンを食べ終えると、英三郎は立ち上がった。そして、皿の上はとっくに空になっているにもかかわらず未だに食卓で舟を漕いでいる弟清四郎の背中を叩く。

「清、いつまで寝てんだよ」

 びくっと体を震わせてから清四郎は飛び起きて、慌てながら皿をかきあつめた。寝起きの悪い奴は哀れだと思う。英三郎は小馬鹿にしたような笑いを浮かべ、食器を流し台に片付けた。

 それから自室に戻って制服に着替えていると、突然リビングから貴恵の喚き声が響いてきた。

「あっ! 〜〜!」

 それほど防音設備の整ったマンションではないが、部屋を一つ間に挟んでいるため、はっきりと内容までは聞こえない。

 が、ああだこうだと貴恵と桂一郎が言い合っているのはわかった。

 ワイシャツと制服のズボンを着込み、実は校則違反である銀のベルトを外からばれないように締める。

 ベッドの上に転がったグローブと野球部のユニフォームの入った袋を拾ってリビングへ戻ってくると、貴恵が書類の束を手に右へ左へと行ったり来たりしていた。

 それを桂一郎が傍観している。

「どーしよ、届けた方がいいのかな」

「届けるったってみー姉何処にいるかわかんないじゃん」

「だから、電話とかして……」

「いーんじゃねえの? 何しに行ったのかもわかんないんだし」

 どうやら、貴恵が腕に抱いている書類は長女・都の物らしい。

 いかにも重要そうな紙の束であるが、それが置きっぱなしにされていたのだろう。

 自室へと飛び込むなりランドセルを背負って出てきた清四郎が、英三郎の後ろからリビングを覗き込んだ。

「本当に、何しに行ったのかな、みー姉……」

「知らねー」

 英三郎にとってはどうでもいいことだ。

 食卓に置かれた貴恵お手製の弁当を掴んで、適当に言い捨てる。

「デートかなんかじゃねーの」

 すると、清四郎の目が突然きらりと輝いた。

「ああ、この前のヨネザワの人か!」

「お?」

 弟の意味することがわからずきょとんとすると、清四郎は電話を指差し、「違うの?」と首をかしげる。そこでようやく英三郎も思い出した。

「あー、あの謎の外国人な」

 つい数日前のことであったが、すっかり忘れていた。

 二人の弟の会話に、「なになに」と真っ先に興味を示したのは桂一郎である。

 貴恵は部屋の片付けをしながらも、面白そうにこちらを伺っていた。

 伶二郎はというと、すでにリビングに姿がない。

 英三郎と清四郎は何故か得意げに、先日の外国人からの電話事件を語った。

「なんかこの前、みー姉に電話があってさー」

「そうそう『ヨネザワ』『ヨネザワ』連呼する謎の外国人から」

「まったく何言ってるかわかんなかったよね」

「結局英語だったんだろ、あれ」

「とりあえず英君が出たんだけど全然役に立たなくてさぁ」

「お前よかましだから」

 へえ、と先に声をあげたのは、貴恵の方だった。

 彼女は学生鞄とスポーツバッグを肩に担いで、こちらを振り返る。

「誰だろ……名前なんていうの?」

「それがわかんないんだよねー」

 首をすくめた清四郎を押しのけ、英三郎はさっさと玄関へ向かう。

「どーせマイケルとかジョンとかそんなんだろ」

 英語の教科書で見た名前を羅列して、靴を履いた。

 背後から狭い玄関に割り込むように兄桂一郎がのしかかってくるなり、にやりと笑う。

「ビルとかジムとか?」

 英三郎もにんまり笑みをたたえた。

「ジェームズとかスミスとかね」

「……英君、スミスって、それ名字じゃん?」

 小学生にしては博識な清四郎に水を差されて英三郎は言葉に詰まる。反論する知識も納得する知識もない。仕方がないので「知らねーよ」と投げ出して、玄関の扉を開いた。

「ってか、名前なら伶兄が知ってるんじゃね?」

 電話でまともに応対したのは兄の伶二郎だけである。

 そう思って英三郎が繰り出した正論は、伶二郎本人によってばっさり切り捨てられた。

「知らない。忘れた」

 靴を履こうとして鮨詰め状態になっている玄関のその奥で、次男坊は涼しい顔で一つあくびをしていた。

 ぼろぼろになったランドセルを振り回し、玄関からマンションの廊下へと飛び出した清四郎が目をぱちくりさせている。

「忘れたの? 早っ」

「興味ないしね」

 スマートに答えて、伶二郎は革靴を履きながらにっこり笑った。

「つーかお前ら遅刻じゃん?」

 お前ら、と示された先には英三郎と清四郎の二人がいる。時間はすでに八時半だ。確かに、遅刻であった。

 高校生三人に合わせてのんびりしていたが、時間が待ってくれているはずもなく、恐らくこの分では一時間目開始には間に合わないだろう。英三郎は遅刻を免れられないことを、悟った。

「まーいいよ。どうせ急いでも遅刻だし、ゆっくり行く」

 そう言って踵を返すと、「ばか」と貴恵の鋭い声が飛んできた。それでも急ぐつもりはない。一時間目を担当している教諭のことを、あまりにも好きになれないので、実は最初から遅刻するつもりだったとは、口が裂けても言えないけれど。


 彼らの部屋は、マンションの十階であった。

 階段などはもちろん使わず、エレベーターでのんびり下階へ降りる。

 そうして一緒にマンションを出た清四郎もまた、急ぐ気はないようであった。

 弟のマイペースな足取りに、英三郎は若干の違和感を覚える。

 遅刻することにさほど抵抗のない英三郎とは違い、清四郎は根が真面目なのだ。同じ小学校に通っていた去年までは、どんなに英三郎が「急いでも無駄だ」と諭したところで、全速力で坂道を転がり降りていく馬鹿な男だったのに。

「……清、走んねーの?」

 尋ねてみても、清四郎は唸るだけで何も答えなかった。

 下りの坂道にさしかかると、歩く速度の違いで英三郎の方が先へと進む。後ろを歩く弟は、どうやら本気で遅刻するつもりらしい。

「……学校、行きたくないのかよ?」

 わずかに振り返って聞いてみると、清四郎は、ごにょごにょ口の中で呟いた。その声は道を走る乗用車の音でかき消されてしまったが、聞き返すのも面倒臭い。

 「ふうん」と答えて英三郎は考えるのをやめた。

 所詮、英三郎には関係のない話だ。

 英三郎は空を仰いだ。

 秋らしく清々しい、今日は心地良い晴れの日だ。

拍手で誤字のご指摘下さった方、ありがとうございました。

即座に直して参りました。お恥ずかしい……。

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