8、長男・米沢桂一郎と青島
六限終了のベルが鳴る。
教壇に立っていた教師の「今日はここまで」という号令に合わせて、桂一郎は大きく伸びをした。
これで、本日分の授業は全て終了だ。
一斉に教室内が騒がしくなった。
体育祭直前のこの時期、彼の通う高校ではグラウンドの使用が制限されており、運動部のいくつかは活動が休みとなる。そのため、普段はユニフォームに着替えて勢い良く飛び出していく生徒達も、今日はのろのろと帰宅の準備をしていた。
同クラスの陸上部の女子生徒達などは、鞄を置きっぱなしにしたまま集団で教室を出て行った。これから何か用事があるらしく、校則違反の化粧を隠れてするつもりのようだ。何処となく浮き足立っているのが傍からも見て取れた。
また、そんな華やかな女子高生たちとは対照的に、同クラスの瀬田貴恵は刹那のうちに姿を消していた。おそらく学級委員にかこつけて、なにかと面倒事を押し付けてくる担任教師から逃げるためだ。体育祭の準備を手伝わさせられる前にと、急いで帰宅したのだろう。一方、もう一人の学級委員である白根という男子生徒は、何も考えていないのかのんびりと荷物の整理をしている。あれは担任に捕まるな、と桂一郎は彼に憐憫の眼差しを向けた。
黒板の上にかけられた時計は、三時十五分を示していた。
バイトの時間まではまだ充分余裕があるので、桂一郎はのんびりと欠伸をする。
ただ、今日は米を買うという重大な使命があるため、早めに出た方がいいかもしれない。バイト先から早めに帰してもらうためには、シフトより早めに仕事に付くのが一番だった。
つらつらとそんなことを考えながら桂一郎が鞄を手に取り立ち上がったその時である。
不意に、真後ろから唐突に肩を叩かれた。
欠伸の途中であった口は間抜けな形に開いたまま、後ろを振り向けば、クラスメートの女子生徒が一人、こちらを睨み上げていた。
彼女はそのまま喧嘩でもふっかけてきそうなほどに剣呑とした形相をしている。
その気迫に思わずたじろぎながら、桂一郎は彼女を見下ろした。
「何……?」
彼女は気の強さを全面に表しながら問いかけてくる。
「今、ちょっといい?」
「今? まあ……」
少しくらいなら、と付け加えて時計を見上げようと首を巡らせると、時間を確認するより先に、空いている方の腕を少女に掴まれ引っ張られた。
まだきちんと返事もしていないというのに、少女は桂一郎をさらっていくつもりのようだ。
後ろ側へと引きずられて、足がもつれ、腕にぶら下がっている鞄が不規則に並んだ机との衝突を繰り返す。
転倒することのないよう必死にバランスを取りながら両足を動かし、ちらりと見上げた時計の針は三時二十分を示していた。
あと十五分くらいなら猶予もあるなと思った桂一郎に、クラスメートの男子が「達者でな」と面白そうに手を振った。桂一郎は失笑し、ガッツポーズを見せる。
それを最後に教室は視界から遠ざかっていった。
「おーい、どこいくんだ……」
「いいから黙ってついてきて」
ぶっきらぼうに言い放ち、桂一郎の腕を引っ張る少女は、廊下を越えて階段を上り、屋上を目指しているようだった。
屋上の一般生徒の使用は禁止されていたが、数年前より錠前は壊れたままである。
経費が足らないのか、あるいが気付いていないのか、壊れた錠前はそのまま放置されているために時折不埒な生徒がその場を利用していた。例えば、絶好の告白スポットとされている——二人はその場所へと向かっていた。
だがしかし、この少女が自分に告白しようなどと考えているわけがないことは、桂一郎もよく知っていた。何しろ彼女は、桂一郎の弟に想いを寄せていることで、校内でも有名なのである。
彼女の名前を、青島早苗という。
青島は埃臭い最上階にたどり着くと、ちらかっているごみを足でかきわけ、錆付いて塗料のはがれた鉄の扉を押した。
ぎいと苦しそうな音をたてて扉が開くと、その向こうに雲の浮かぶ青が見える。
桂一郎も彼女を追って、屋上に出た。空が近い。
青島は屋上に張り巡らされたフェンスに背を向け、くるりとこちらを振り向く。
そしてぼんやりと空など見上げている桂一郎を睨み上げた。
「単刀直入に聞くけど——」
その口調は、依然として刺々しい。
「あたし、あんたの弟が何を考えてるかさっぱりわからないの。教えてくれない?」
桂一郎は空から少女に視線を落とし、何も言うことができなかった。
やはり伶二郎絡みのことであったか、と桂一郎は頭の中に一つ年下の弟の顔を思い浮かべ、苦りきる。
「教えてくれない?」などと問われたところで、桂一郎にだって伶二郎が何を考えているかわかるわけもなく、ましてや彼からその恋愛事情など、聞いたこともない。
「何も知らないわけじゃないでしょ?」
青島は、いかにも優等生らしい髪型をさらりと片手で撫でた。
桂一郎はプライドの高いこの少女が、あまり得意ではない。学年一の秀才という肩書きが、彼女にそうすべく仕向けたのかもしれないが、とにかく、あまり得意ではなかった。
「……俺は何も知らねーよ。つーか、あの噂……お前達本当に付き合ってたの?」
「付き合ってるの」
青島は毅然とした態度で否定した。
全身から滲み出るようなその自信は何処から来るのやら、やはり苦手なタイプだと再認識させられる。どんな形で付き合っていたのか知らないが、彼女と一瞬でも一緒にいたのだという弟の伶二郎を、心の内で賞賛した。
「変な噂もたってるけど、私達が付き合ってるっていうのは嘘じゃないんだから。二人っきりでしょっちゅう出かけるし、電話もする。伶二郎君なんか夜に突然呼び出してくるくらいだし」
「そうなの?」
「そうよ。九月頃はしょっちゅう……」
そこで少女は口篭った。おそらく十月に入ってからは交流がないのだろう。
九月か、と桂一郎は記憶の糸を手繰った。
確かその頃は姉の都が帰国して、家の中がなにかと騒がしかった記憶があるが、そういえばあまり伶二郎の姿はなかった気がする。
彼が台所にいる貴恵に向かって「ご飯いらない」と告げている姿を、桂一郎も何度か目撃していた。
「そういやあいつ、確かに、九月中はよく外で飯食ってたな」
「でしょ」
「でも、相手はただの友達だって言ってたぞ?」
「嘘……」
呟いた青島の顔が複雑そうに歪んだ。言わない方が良かったのだろうかと思いもしたが、偽りを伝えるわけにもいくまい。
目の前にいる少女は唇を噛み締め、頭の中を整理しているようだった。
気の強さで言えば桂一郎の幼馴染である貴恵とて劣らないが、貴恵は感情的に話すため、桂一郎にとっては扱いやすい相手である。
しかし、他人の言葉を一言一言いちいち分析するような青島は、どうにも居心地が悪い相手であった。
「——まあいいわ。行き過ぎた友情だったとして」
青島が口を開く。「行き過ぎた友情」と、首を傾げたくなるような表現もあったが、突っ込まないでおくことにした。
「普通、友達の電話を無視、しないわよね?」
「無視、されんの?」
「最近になってからよ。急にもう会わない、電話にも出ないって言われて」
「急に?」
「急に」
不満そうに頷く青島に、それは確かに不可解だと桂一郎も眉をひそめた。
伶二郎は何かとマイペースな男だが、他人との交流を嫌ってはいない。むしろコミュニケーションを好む奴だと思っていたのだが、最近どうもおかしい。青島と縁を切った件にせよ、妙に姉の都に反発することにせよ。
「……反抗期、とか?」
桂一郎が言うと、青島は釈然としない雰囲気で反論した。
「でも昼休みに瀬田さんが電話した時は普通に出たみたいよ。反抗期ってまずは家族に対して表れるものじゃないの?」
「まー、あいつ、貴恵には懐いてるし……っていうかわざわざ電話してるとこ見てたわけ?」
「見えたの」
またもや強い口調で否定されて、桂一郎は言葉に詰まった。
なんだかんだぐちゃぐちゃと言っているが、結局のところこの少女は伶二郎に惚れているということなのだろう。
とは言え、此処まで執着するなんて、と桂一郎は思わず感心していた。
そして同時に、違和感のようなものを覚える。
「……なんか意外だな」
「何が?」
なにげなく口にした言葉に鋭く反応されて、桂一郎は肩を竦めた。
こういうところが、おそらく違和感の原因だ。
「んー……なんていうかさ、青島ってさ、あんまり人とつるむの好きじゃないんだと思ってたから。男なんて馬鹿馬鹿しいって思ってそうだし」
再び、青島は表情を険しく歪めた。が、今回は不快の所為ではないようだ。
「……別につるむのが嫌いなわけじゃないわ。ただ、つるむ価値がないと思うだけ」
「誰と?」
「だから、そーゆー馬鹿馬鹿しい奴ら」
「だから」と言われても、桂一郎には、それが誰を指しているのかいまいちわからない。
そもそも、人とつるむ価値という概念も彼には理解出来なかった。が、青島がクラスにいる連中の多くを普段から卑下していることにはうすうす感づいていた。
彼女のその視線が、クラスメート達を突き放すのだ。
そしてますます彼女は孤立していく。
「伶二郎君はさ、一緒に時間を費やしても、価値があると思うわけ。たぶん向こうもそう思ってるはずよ。だって、彼のこと追っかけ回してるほかの女子達はただのミーハー心じゃない。そんな奴らに時間を費やしてどうするの」
うーん、と桂一郎はただ唸った。
伶二郎は青島にも他の女子生徒達にも同等に接しているのではないかと思えたが、確信はないので黙っておく。彼女には彼女なりの見解があるのだろう。
「あと、私は米沢君のことも、価値があると思ってるわよ」
「は、俺っ?」
「そ。馬鹿馬鹿しい奴だと思ってたら此処まで引っ張ってきたりしないし」
さらりと青島は言ってのけた。
それを喜ぶべきなのか、桂一郎には判然としない。青島の言う「価値がある」人間の基準もまた、桂一郎にはよくわからなかった。
青島はプライドの高い女子であるが、同時に頭もいい。故に、伶二郎くらい出来の良い頭脳とでなければ話していても面白くないということならば理解出来たのだが、桂一郎の頭脳はお世辞にも出来が良いとは言えなかった。
青島はどうして、そんな桂一郎と話すことにも価値があるというのだろうか。
「やけにつるみたがる女子は嫌いなの。だから、瀬田さんは好き。あの子は周りにも流されないし、好感が持てる」
「そうかあ?」
貴恵は単に周りに流されるほどの余裕がないのだ。と、桂一郎には思えた。
見方は人それぞれということだろうか。
それにしても、青島の考え方は難しい。
「そうよ。さっき伶二郎君に電話してた時だって、自分も遊びに行こうって誘われてるのに断って、他人の遊ぶ約束取りしきってあげてたんだから」
「それは単に、家帰って晩飯作んなきゃとか思ってただけじゃ……」
そこまで言って、はっと桂一郎は気付く。
——そういえば、自分にも課せられた使命があったのではなかったか。
彼は鞄のポケットから傷だらけの携帯電話を取り出して、そのディスプレイに映るデジタル時計を確認した。教室を出た時から予想以上に時間が経っている。
「うわっ、やべえ、そろそろ俺行かねえと」
「あ、そうなの?」
「そうだよ。自転車飛ばせば間に合うかな……」
早めに行かないことには、バイト先から早めに帰してもらえない。早めに返してもらえなければ、米屋の閉店に間に合わず、家への食糧が届けられない。そして、桂一郎は家族全員から責められることとなるのだ。そうでなくとも、桂一郎自身が己を責めるだろう。白米なしでの夕食など考えられない。
「じゃあ」とだけ言って、桂一郎は屋上を飛び出した。背後で青島が何かを言ったような気もしたが、構っている暇はなかった。
桂一郎は、階段を五段飛ばしで降りていく。
階段を下って昇降口を抜け、裏門を抜けたところに駐輪場がある。
そこまで、全速力だ。
「米、米!」と心の中で念仏のように唱えながら、焦って駆けて行くうちに、やがて青島のことも伶二郎のことも桂一郎の頭の中からは抜け出ていった。
今彼の頭の中を占領しているのは、白米のことのみである。
これが、米沢家長男・桂一郎が、「単細胞」やら「単純馬鹿」などと言われる所以であった。