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隣人・瀬田貴恵の場合  作者: askaK
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7、隣人・瀬田貴恵の正義

 人間という生物は、実に複雑である。日光を長い間浴びないでいると、憂鬱な気分になったり器官に支障が出たりするのは野生であった頃の名残だという。確かに此処数日続いた雨により、湿っぽくもなるのは事実だ。しかし——と貴恵は久しぶりに晴れた空を睨みつける。何も、今、体育祭二日前である今日という日に、狙ったように晴天を見せつけることもなかろうに。

 おかげで、これまで雨天のために出来なかった体育祭の準備に、貴恵は学級委員という名目で駆り出され、大忙しであった。


 昼休みは既に四十分は過ぎている。

 四十分間の労働を終えてようやく教室へ戻って来ることのできた貴恵は、疲れ切った表情で自分の席に着いた。

 時計を見れば、あと十分しか休憩時間は残されていない。まだ手を付けていない弁当を食べきる自信も食べる気力もなく、彼女は机に突っ伏した。日陰に置かれた机の表面は冷たくて心地良い。

 体育祭の準備期間となり、グラウンドは一般生徒使用禁止にされていた。

 外に行けず、体力の持て余した男子生徒の何人かが教室内で暴れまわっている。小学生じゃないんだから、と内心毒づきながら、ああいう奴らにこそ準備作業を手伝わせるべきだと貴恵は思った。何かある度に学級委員を呼びつける担任が憎らしい。


 と、世の不条理を心の中で嘆いていると、ふと近くに人の気配を感じた。

 気配に反応して貴恵がのっそり顔を上げようとすると、それより先に、「貴恵っ」と女子生徒の声が頭上から響く。机から頬を離して目を開くと、同級生の女子生徒が二人、こちらを見下ろしていた。

「ねえねえ、貴恵—、今日暇?」

 女子生徒は貴恵の席の前の椅子に座った。

 貴恵はぼさぼさになっているだろう髪を手で梳かしながら唸る。

「んー……まあ、暇っちゃ暇だけど」

 言いながら、貴恵はまだ来ぬ今日のこれからを考えた。

 上手く担任の目から逃れられたなら、夕飯を作るまでは、暇である。もし、担任に見つかったら——また体育祭の準備に強制参加させられるに違いない。それだけは避けたいところである。

 そんな貴恵の悩みなど露知らぬ少女達は、互いに目配せをして貴恵の机に身を乗り出した。

「じゃあさ、放課後カラオケ行こうよ」

「カラオケぇ?」

「いいじゃん、うちらとカラオケ! 楽しいよ!」

「うーん、でもあんまり私歌うの得意じゃないけどなぁ」

「騒いでるだけで楽しいんだって! 行こう、行こうっ?」

「まー、ちょっとならいいけど」

「やったぁ! ……それでね、出来たら伶二郎君誘ってほしいんだけどなぁー?」

「れーじろぉ?」

 貴恵の声が、僅かに裏返った。

 「もちろん伶二郎君も一人じゃ心細いだろうから、友達とか誘ってくれていいんだけど」と二人は言い募る。彼女たちの目当ては、伶二郎なのだろう。

 それなら直接伶二郎を誘いにいけばいいのに、という貴恵の面倒くさそうな心情が伝わったのか、二人は交互に言い訳を始めた。

「ほら、私達陸上部じゃん? だけどまだうち男子部員が少なくってさ、各部対抗リレーのメンバーに登録出来てないんだ」

「伶二郎君足速いし、無所属だし、体育祭の時だけ臨時入部してくれないかなぁって」

「出来ればそのまま在部してくれればいいんだけどねー」

 ねー、と二人は声の調子を合わせる。

 そういえば、運動神経は悪くないくせに、どの部活にも所属していない伶二郎は、様々な部活からスカウトされているようだった。

 体育祭、そしてその後に続く文化祭という二大行事により、十月は四月の次に勧誘の激しくなる時期なのである。

「でもあいつ、体力ないから必要以上に走りたくないって言ってたよ」

「とりあえず、誘ってみるだけでも!」

「じゃあ、自分で言いに行きなよー」

「えー」

 女たちは言いよどむ。それを見て、「部活勧誘」というのも口実で、要は伶二郎と一緒に遊びに行きたいだけなんだなと思ったが、口にするのは憚られた。

 「お願い!」と二人がかりで頼み込まれては拒否するわけにもいかず、致し方なく、貴恵は鞄の中の携帯電話へと手を伸ばした。途端、少女達の表情がぱぁっと明るくなる。貴恵は飾り気のない二つ折りの電話を開いて、アドレス帳を探った。羅列している人名を眺めながら、目の前の二人に忠告をする。

「言っとくけど、私は行かないかもしれないからね。あんまり遅くまでいられないし。伶二郎は暇だろうから友達でも何でも誘って出てくるだろーけど、入部するかどうかはわかんないからね」

「うん、わかったー」

「ありがとねー、貴恵」

 二人は頓着なく笑っている。ならば、貴恵が暇かどうかなんて聞く必要なかったのではないか。現金な、と一瞬思ったが、人間なんて所詮建前で出来ているものだし、かく言う自分もそうなのだから他人を責める資格などない。

 貴恵はそう考え直して、レイジロウと片仮名表記の名前が黒く反転しているのを確認し、決定ボタンを押した。耳に受話口を押し当てると、コール音が聞こえる。それはたった一度で止まって、すぐに目当ての声に切り変わった。

『きー姉?』

「あ、伶?  今平気?」

『平気だけど……同じ学校いるんだから来ればいいのに』

 のんびりとした口調で、おそらく彼は通話料のことを言っているのだろう。

 瀬田家と米沢家は住処を共用し、家計も共有し、家族同然ではあったが戸籍上は赤の他人である。家族内通話無料というサービスは、今なら多くの携帯会社が設けているサービスであったが、彼らはそれを使うことができなかった。結果、通話をするたびに、馬鹿に出来ない通話料がかかってしまう。貴恵もそれはよく承知していたので早口で要件を述べた。

「あたしの友達がね、今日カラオケ行きたいって言うんだけど、あんた暇だよね?」

『うん、暇……』

「じゃあ誰かクラスの連中でも誘って」

 女子生徒達がジェスチャーで三時半に裏門と貴恵に伝えてくる。

「三時半に裏門だってさ」

『うん……何人くらい連れてけばいい?』

「何人くらいいればいい?」

 今度は貴恵が女子生徒達に問いかけた。通話口を離さず投げかけた質問であったが、声のトーンより自分に言われたわけではないと悟ったのか、伶二郎は反応しない。こういったさりげない瞬間に、賢い奴だとつくづく思う。

 クラスメート達は指を二本立てたり三本立てたりと曖昧な合図を見せていた。貴恵は了承し、「二、三人」と告げる。相手が『わかった』とシンプルな返答をして、電話が切れた。なんとも、付き合いの良い男である。

 貴恵がぱたんと器機を閉じると、少女二人が目を輝かせてこちらを見ていた。貴恵は反射的に愛想笑いを浮かべてしまう。

「オッケーだってさ」

「まじでっ?  ありがとー!」

 満面に笑みを咲き綻ばせて、少女達は交互に貴恵の肩を叩いた。いずれ何かを奢ってくれると言う。ただの社交辞令のような口約束でしかないが、もしそうなったらありがたいなと思った。

 貴恵は携帯電話を鞄へしまうと顔を上げる。

 ふと何処からか、視線を感じた。

 まだ目の前に座っているクラスメートの少女達は二人で盛り上がっていて、その視線に気付いた様子は全くない。

 貴恵は視線の元を探ってきょろきょろ教室内を見回すと、少女達の背後の方からこちらを睨んでいる女子生徒と目が合った。

「ん……?」

 その女子生徒は貴恵と目が合うなり顔を背け、早々と教室から出ていった。完全には閉じられなかった入口の引き戸が、不自然な形で止まっている。

「貴恵、どうかした?」

 放課後一緒にカラオケに行くのであろう、部活仲間へとメールを打つ手を止めて、少女の一人がこちらを向く。

 貴恵は小首を傾げつつも笑顔を取り戻した。

 大したことじゃないんだけど、と前置きし、中途半端に開いたままの扉を見つめた。

「なんか、青島さんがこっち見てたような気がしてさ……」

 青島早苗、それが先ほどまで貴恵たちを睨みつけた女子生徒の名前である。

 自意識過剰だよ、という突っ込みを期待し、軽い口調で放った言葉だったのだが、少女達は何故だか「ああ」と低く呟いた。そこからは、貴恵の予想と全く違う、小馬鹿にしたような様子が窺える。

「伶二郎君の話題だから盗み聞きしてたんでしょ」

「あの子、彼と付き合ってるつもりだったらしいから」

「えっ、そうだったのっ?」

 貴恵はぽかんと口を開いた。初耳であった。

「青島の方が一方的に勘違いしてただけだけどね。伶二郎君は友達のつもりだったらしいし」

「っていうか超有名な話だよ。知らないの、貴恵だけじゃないの?」

「まじ?」

 口が開いたままの貴恵の間抜け面に、二人は「まじまじ」と笑った。そこから、悪意は感じられない。それは、貴恵と彼女達との距離感を象徴していた。


 貴恵は他の女子生徒たちと違って、もとより他人と過剰に群れようとはしない性質であった。とは言え、人との関わりを嫌っているわけではない。

 家の事情もあって、必要以上に友達付き合いをすることは難しく、それでも高校の友達は友達で大切で、クラスメートの全員と適度に仲良くするように心がけていた。

 クラスメート達もなんとなくそれを察しているのか、貴恵を除け者にしようとはしなかったが、敢えて深く関わろうともしない。

 青島早苗と伶二郎の噂をわざわざ教えてやろうとはしないが、きっかけがあれば教えることを厭わない。

 それくらいの距離が、敷かれていた。


 そんな貴恵のことをどう勘違いしているのやら、クラスメート達は時折彼女の中に正義感のようなものを見出していた。

 例えば、貴恵が学級委員を引き受けたことが良い例である。

 学年の初め、学級委員を決めなくてはならず、最初のホームルームで自薦による委員の選定が行われた。

 男子の学級委員に立候補したのは、白根というクラスの中でも目立たない、「暗い」「キモい」と言われ勝ちの嫌われっこであった。

 そもそも学級委員などという面倒な仕事もやりたくなければ、一緒に委員をやる相手が白根であるということも手伝って、女子生徒たちは誰も立候補したがらない。

 このままではホームルームが終わりそうにないなと思って仕方なく、貴恵は「私がやる」と手を挙げたのであった。

 クラスメートたちは、貴恵が立候補したのを見て、どことなく納得したような様子を見せていた。

 「さすが瀬田さん」「さすが貴恵」と口々に言われ、貴恵は失笑せざるを得なかった。

 別に、自分が正義に則って行動しているわけではない。そんなに立派な人間ではないのだ。

 ことごとく男子からも女子からも避けられがちな白根に同情し、彼のために学級委員をやってやろうなどと机を叩いたわけでもなければ、誰もが嫌がる仕事をやってやろうと犠牲になったわけでもない。

 だからと言って、当然気紛れだったというわけでもなく、貴恵には貴恵なりの理由があったのであるが——。


「貴恵ーっ」

 教室中に、野太い男の声がする。

 自分の名を呼ばれて、貴恵ははっと我に返った。いつのまにか、ぼんやり物思いに耽っていたようである。

 正面に座っていた女子生徒達は、携帯を片手に二人で喋っていたようで、貴恵のことを大声で呼んだ男子生徒に気付くと笑った。

「貴恵、ほら旦那が呼んでるよ」

 教室の端で携帯電話を振り回して合図している男の名を、米沢桂一郎という。瀬田家の隣人、米沢家の長男だ。

 家でも一緒の奴と、学校の中でまで関わりたくなくて、彼と学校内で会話することはさほど多くないのだが、どうしても二人の関係は他のクラスメート達とは違う。

 その昔は付き合っているんじゃないかなどと勘違いされたこともあったが、恋人同士のような甘い雰囲気など決して醸し出すことのないその間柄を、クラスメートたちは「熟年夫婦」と呼ぶようになった。

 貴恵はそれが嫌で嫌で仕方ないのだが、桂一郎の方は「言わせときゃいーじゃん」とあっけらかんとしている。大人なのか、単に脳天気なのか、貴恵にはいまいちわからない。

「旦那じゃないから」

 いつも通りの乾いた台詞を吐き捨てて、貴恵は自分の席までやってきた男を見上げた。

 彼は忘れる前にと何やら携帯電話を示している。

「今父さんから電話があって、今日夕飯いらないってさ。遅くなるかもしれないって」

「そうなの?  お母さんも今日は遅いって言ってた」

「何っ、デートかっ?」

「誰と誰がよ……。あ、そういえば夕飯の米ないんだった。帰りに買ってきて」

「は? 俺バイトなんだけど」

「だからいいんじゃん。自転車で来たんでしょ? 十キロは買ってきてね」

「まじかよっ。俺じゃなくて英三郎に頼めよ」

「英三郎なんかに頼んだら絶対忘れるじゃん。あんたが買ってきてくれなきゃ今日ご飯なしだからね」

「……わかったよ」

 仕方ないとばかりに桂一郎は肩を竦めて見せた。が、実の所、米を買ってくるのは桂一郎の仕事として定着しつつある。毎度文句を言いながらも、それが本気の不平ではないことは貴恵も知っていた。その証拠に、去っていく桂一郎の背から、渋々といった雰囲気は感じられなかった。

 一連の会話を間近で聞いていた女子生徒達は、「夫婦だ」「熟年夫婦だ」と口々に呟いている。貴恵がしかめつらをすると、「だって」と口を尖らせた。

 なんだかんだ言っても、貴恵とて自分達の会話が他の高校生とは違うことを認めている。そのため、それ以上は何も反論しなかった。

 ただ、嘆息する。

 それくらいは許して欲しいものである。

「……伶二郎とか弟達の母親代わりって思われるのは嫌じゃないんだけどね。なんかもう割り切ったっていうか……」

 言うと、女子生徒達は互いに目線を交わした。

「だったら桂一郎パパも割り切っちゃいなよ。なんか楽しそうだし」

「そうだよ、羨ましいくらいだよ」

「ねえ」

 声を揃えた二人に貴恵は乾いた笑いを浮かべる。教室の端を一瞥すると、桂一郎が他の男子とじゃれあっているのが見えた。


 桂一郎は伶二郎とはまた別の形で人気者であった。

 伶二郎の人気は「カッコいい」やら「お近づきになりたい」やら、アイドルのような偶像的なものでしかなかったが、一方の桂一郎は、親しみやすいその性格から男女両方ともに慕われていた。

 伶二郎のように見栄えの良さで褒められることなどついぞなかったが、朗らかな笑みが人を安心させるらしい。

 体格がずっしりとしていることも作用して、「象っぽい」と女子生徒達に言われているのを聞いた時には貴恵も笑ったものである。象のようなその姿は、まさに米を運ぶ仕事にもってこいではないか。

 詰まるところ、彼は、根っからのお人好しであった。が、気の弱いタイプではない。

 人々は、直截な物言いをする貴恵につい惑わされがちだが、実際には桂一郎の方が貴恵なんかよりもずっと正義感が強い。

 貴恵はそう思っていた。


 気付けば始業の時間はとっくに過ぎていた。

 いつチャイムが鳴ったのだろうと思っていると、すぐに教員がやってきた。教室に散っていた生徒達が自分の席へと戻っていく。

 貴恵も机の中から教科書やノートを取り出すと、授業を受ける姿勢を整えた。

 今更のように、体が空腹だと訴えていることに気付く。あと五十分の辛抱だ 、と貴恵は必死に自分の胃を宥めてやった。

 これから眠気と空腹で辛い、午後の授業だ。

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