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隣人・瀬田貴恵の場合  作者: askaK
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6、三男・米沢英三郎の疑問

 ぐっと息を吸い込み、腹に力をいれる。腰を低くして腕を組むと、両足を交互に前方へと蹴り出した。傍目には間抜けに見えてしまうようではあるが、実際やってみるとなかなかくたびれる。足腰の鍛錬になるらしく、やり始めた当初はすぐに筋肉痛になったものだが、一週間続けてもう慣れた。

 米沢家三男、米沢英三郎がリビングにて一人筋肉トレーニングをしていると、のそりと現れたのは、ようやく目を覚ましたらしい寝間着姿の四男、清四郎であった。

 彼の髪の毛はあちらこちら自由奔放な方向へと跳ねている。弟が「おはよ」と行儀良く挨拶をしてきたが、あと十数回でノルマを達成出来るところだったので、答えずに蹴りを続けた。

 無視された方もどうでもいいのか何も言わずに、壁にかけられた日めくりカレンダーを破り捨てる。新聞のおまけか何かでもらった再生紙使用のそのカレンダーを気にしているのは末っ子清四郎くらいなものであった。他の兄弟達は見かけたところでその日にちが正しいのか間違っているのかもわからないため、捲るに捲れない。父由郎に至っては、その存在すらつい最近まで知らなかった。

 清四郎が薄い紙を一枚裏返し、メモ用紙として電話機の横に置くと、カレンダー上には赤で書かれた日にちが現れた。

 今日は十月最初の日曜日だ。

 休日ということで、すでに時計の短針は十一を示しているのにまだ起きてこない連中もいる。

 英三郎は一人で起き出してさっさと朝食を済ませ、ボールを投げに外へ出ようかと思っていたのだが、突然の雨によりその予定も反故になった。仕方がないので室内にて筋トレに励んでいたという次第である。

「……三百っ……終わりっ……死ぬっ」

 短く断末魔をあげて、英三郎は床の上に転がった。その横を清四郎がパンをくわえて素通りしていく。最初に筋トレとしてこの動きを見せた時には腹を抱えて笑い転げていたものだが、一週間で奴も見慣れたらしい。未だに兄の伶二郎だけには「コサックダンス」と言って笑われる。

 パンを食べながら新聞を拾い上げた清四郎は、テレビ欄に目を落としつつ口を開いた。

「そういえば今日みんないないの? なんか人少なくない?」

 口の端からパンくずがこぼれるのを見て「汚ぇよ」と英三郎は床を転がり避難した。

「桂兄はバイト。みー姉は資料探しだってさ。父さんは寝てて、たぶんきー姉と桃子さんも寝てる。伶兄は行方不明」

「また行方不明?」

 清四郎は仕方ないなと言って新聞を放り投げ、テレビのスイッチへと手を伸ばす。古い型のテレビが苦しそうな唸りをたてて動き始めた。

 寿命はとっくに過ぎているであろうに酷使される可哀想なテレビである。長男の桂一郎は、電子レンジに引き続き、次はテレビを買おうと夢中になってバイト代を稼いでいるそうだ。

 家の財政状況を心配しているのか、桂一郎はバイト代を一切私利私欲のためには使わず、家電製品を買い換えるためにつぎ込んでいた。最初は家計の足しにしてくれ、と米沢瀬田両家の親達に渡したらしいのだが、「子供が稼いだお金を家計の足しにするほどまだ困っていない」と突き返されたそうだ。それももう、かなり昔のこと——米沢家の母、文子の生前の頃のことだ。

 古いテレビを見ながら回想に耽り、英三郎は身を起こしてあぐらをかいた。

 英三郎は、半年以上前のことは全て「昔」と思うことにしている。もともと追憶に浸るのは趣味ではない。さっさと忘れてしまいたいとは思うものの、流石に亡くなった母のことだけは、そうもいかない。

 そんなことをぼんやり考えていると、ふと清四郎の寝間着の裾からはみ出た足に、赤黒い痕が見えた。普段なら見過ごしてしまうような些細なことなのだが、同じような赤黒い痕がそれだけではないことを知っている英三郎は、自然とそこに、目を奪われた。

「清——また、アザが」

「……えっ」

 テレビのチャンネルを回していた清四郎はちらと振り向き、自分のくるぶしに目をやるとぎょっとしたように足をひっこめた。そうしたところでアザの消えるわけでもなかろうが、よほど驚いたのか、裾を引っ張り隠しながら、狼狽えている。

「あー、なんかぶつけたのかなぁ……」

「最近お前あちこちぶつかりすぎじゃね? 疎いんだから暴れんなよ、とんま」

 英三郎は無頓着に言って、今度は腹筋運動を始めた。

 年中動き回っている英三郎とは違って、清四郎は運動することがあまり好きではない。そのため、英三郎のように生傷の絶えないことはなかったが、最近ようやく動くことに目覚めたようだ。——と、英三郎は勝手に思っていた。

 清四郎は曖昧に笑ってテレビを見やり、英三郎には背を向けた。休日の昼間にやっているような番組に特に興味も湧かない英三郎は、黙々と腹筋を続ける。

 兄弟の間に会話もなく、テレビの音だけが支配する。

 そんな静かな空間の中に、突然電話のコール音が鳴り響いたのは、それからまもなくのことであった。

 甲高く耳に突き刺さるような電子音は、十数年前にファックス機能がまだ新しかった時代に購入して以来、変わっていない。今では端々に傷が見られて保留機能も使えない米沢家の老兵電話が、必死に家の人間を呼んでいた。

 英三郎は無言で「出ろよ」と弟に向かって合図をする。清四郎は心底面倒くさそうに顔を顰めたが、自分の方が電話機に近いことをわかっているためか、受話器を取った。そして、「もしもし」とすら言うこともなく、固まる。耳に受話器を当てたまま、ぴくりとも動かなくなった。

 まさか日本語を忘れたわけじゃねぇよな、と訝りながらも英三郎は腹筋を続けて上半身だけ寝起きを繰り返す。頭が床に近づいたり離れたりする度に、清四郎の硬直する様も上下して見えた。

 やがて、清四郎がはじかれたように振り向く。

 英三郎が動きを止めて眉間に皺を寄せると、焦った表情で、こちらへと受話器を差し出して、口をぱくぱくさせた。

「……英君、大変だ……っ」

「何が」

「日本語じゃない!」

「は?」

 英三郎は顎を落とした。清四郎の手の中にある受話器からは男性と思われる声が漏れてくる。耳を済ませてその声を聞くと、確かに知っている単語は聞こえてこなかった。

 だが、だからと言ってそれが何処の言語であるかわかるはずもなく、コードをぎりぎりまで引き伸ばして受話器を差し向けられては、困惑するばかりである。

「俺にどうしろって言うんだよ」

「中学校で英語やってんだろ!」

「でぃすいずあぺん、しかやってねぇよ」

「何でもいいから代われよ!」

 半ば強引に受話器を耳へと押し付けられると、嫌でも電話回線の向こう側の声が聞こえてきた。

 思ったとおり相手は男性であったが、その国籍まではわからない。わかったところで、英語ですら中学校初年のレベルにも達していない英三郎には、応答することは出来なかったであろう。

「はろう?」

 口元をひきつらせながらも、とりあえず小学生でも知っているような挨拶をしてみた。が、通じたかどうかも怪しい。

「あー……うー、あいあむ、じゃぱにーず。まいねーむ、いず、えいさぶろう、よねざわ」

 それでも普段使わない頭脳を懸命に作動させて努力してみると、相手の声のトーンが卒然と高くなった。電話の向こうの相手は、「ヨネザワ」という単語を連呼している。そこだけは通じたらしい。

「おい清っ、通じたぞ!」

「本当? 何だってっ?」

「米沢って言ってる」

「それうちの名字じゃん!」

「そうそう、米沢って言ってる」

「だから、米沢が何なんだよ!」

 結局にっちもさっちも行かなくなって、二人は途方に暮れた。

 無意味な問答を繰り返している間にも、絶えず相手の男性は何かを訴えている。切ってしまいたい気持ちは山々であったが、聞き取れない言語の合間に「ヨネザワ」と度々呼ばれては強制的に切るわけにもいかず、立ち往生していると、リビングの扉が開いた。

「……何やってんの?」

 廊下からぬっと姿を現したその人を見て、二人は同時に声をあげる。

「伶兄!」

 行方をくらましていた米沢家の次男、兄に対して、「いたんだ」と思うより先に、弟達は受話器を向けた。

 伶二郎とて日本に住む一学生に過ぎないが、少なくとも自分達よりは頼りになるに違いない。

「伶兄、出て!」

「なんか米沢っつってんのはわかるんだけどさ」

「英語みたいな感じなんだよ!」

「いや、英語かどうかはわかんないんだけど」

 代わる代わる弟達の口から披露される状況の説明には首をかしげ、おそらくさっぱり現状を理解することは出来なかったろうが、伶二郎は電話に出てくれた。

 そして、相手の言葉を聞くなり目を細め、

「Excuse me... This is Yonezawa. May I help you?」

 さらさらと異国語を繰り出し始める。

 受話器の向こう側の音までは英三郎達の元へは聞こえてこないため、会話として把握することは不可能であったが、他国籍の人間を相手にしても、伶二郎は難なく受け答えをしているように見えた。

 「すっげぇ」と率直な感想が英三郎から零れる。

 それから数分もしないうちに、伶二郎は受話器を置いた。

 途端、傍観していた弟達は勢い良く彼に詰め寄る。

「何だって、今のっ?」

「米沢って言ってたよなっ?」

「誰だったっ?」

「つーか英語?」

 怒涛のように押し寄せてくる質問に苦笑して、伶二郎はまず「英語だよ」と答えた。

 二人は感嘆の声をあげる。

「伶兄、英語喋れるんだ」

「喋れねぇよ。喋ってないじゃん。単語で聞いただけだし」

 伶二郎は首をすくめた。

「みー姉の大学の関係者だってさ。今はいないって言っといた」

「喋ってんじゃん」

 咄嗟に英三郎が突っ込むと、伶二郎は困ったように笑っている。

 考えてもみれば、米沢家に外国人から電話がかかってくるとしたら、それは海外留学中の長女、都の関係者である可能性が一番高いに決まっていた。が、そこまで頭が回らなかったというのが事実。

 英三郎は、焦った様子の一つも見せずに冷静に対処した三歳上の兄に、畏敬の眼差しを向けた。

 もう既に興味が尽きたのか、窓際に立って雨空を見上げているその兄は、無表情だ。何を考えているのやら、さっぱりわからない。


 正直言うと、米沢家次男坊である伶二郎のイメージは、常に何を考えているのか読み取ることのできない兄、というものだった。

 ひょっとしたら何も考えていないのかもしれないが、仮にそうだったとしても、学年首位の頭脳を持つという話は嘘ではなかったらしい。

 英三郎は、義務教育の講義のみですらすらと外国人の対応をした兄に、心から感心していた。

 成績がいいというだけで他人を尊敬するような英三郎ではなかったが、この兄には尊敬するに値する何かが備わっているような気がした。

 昔は、病弱な兄という認識しかしていなかったというのに、大した変貌ぶりである。


 と、いうように、英三郎が長らく敬嘆していると、ふと、何かが唸るような音がした。

 突然のことに吃驚するが、すぐにそれが携帯電話のバイブ音だと気付く。

 清四郎もその音に気が付いたのか、音源を探るようにリビングの中を見回していた。

「俺のだよ」

 二人の弟がきょろきょろと音源を探しているのを見て、笑ったのは伶二郎である。

 彼は窓に寄りかかり、パーカーのポケットから銀色の携帯電話を取り出すと二人に見せた。緑色のランプが音に合わせて点滅している。いつまでも鳴り止まないことからしてメールの着信ではなく電話なのだろうが、何故か彼は一向に出ようとしなか った。

「……出ないの?」

 清四郎がきょとんとしている。

 英三郎も不思議には思ったが、深く首を突っ込むことでもないだろうと無視していたのに、清四郎は野次馬根性が働くので良くない。

 とは言え、伶二郎は気にした様子もなく、「出ないよ」と答えた。

「もうこの人と電話はしないって決めたんだ」

「……何で?」

「仲良くなっちゃったから」

 伶二郎は微笑して、ポケットに鳴り止まない電話を戻すとリビングから出て行った。

 兄の言葉の意味を全く把握出来ずに、英三郎と清四郎は目線を交わす。

 それから間もなく玄関の扉が開閉する音がして、誰かが外に出て行ったのがわかった。

 今起きているのは二人の他には伶二郎しかいないのだから、彼がまた気紛れに何処かへ出掛けたのだろう。つけっぱなしにされていたテレビの音声がやけに大きく感じられる。

「……何考えてんだろ」

 清四郎の素朴な疑問には「さあ」と答えるしかなかった。やはり、あの兄のことはさっぱり理解出来ない。そしておそらくそれは家族の中でも英三郎だけに限ったことではあるまい。

 家族だからと言って何でもかんでも理解し合える物ではないと、わかってはいるのだが、それにしても二番目の兄、伶二郎は謎の多い人だと思う。——何しろ、一番の理解者だった母・文子はもうこの世にいないのだ。


 一つ息を吐いて、これ以上考えても仕方ないと英三郎は腹筋運動を再開した。無意味なことを考え込むのは柄ではない。

 清四郎もいつの間にかテレビにかじりついており、リビングは見知らぬ外人からの電話が来る前の状況に戻っていた。

 清四郎が向かい合っているテレビの画面には、時折ざあと音を立てて砂が混じる。そろそろ買い換えなくては映らなくなるのも時間の問題だろう。

 窓の反対側、兄の出かけていった外では雨脚の強くなるばかりであった。

 これでは当分、外で投球練習はできないなと英三郎は心の中で嘆いたのであった。

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