5、長女・米沢都の悩み
ぐつぐつと味噌汁が沸騰し、銀色の鍋蓋が持ち上がる。かたかたと金属音をたてながら、鍋は泡を噴き始めた。
米沢家の長女・都は慌ててコンロに駆け寄って火を消すと、蓋を取って中身をおたまで掬った。
湯気をたてる液体に二、三度息を吹きかけてから、彼女は一口すする。なんとも表現し難い味がした。不味くはないが、美味くもない。
都はおたまを握りしめて肩を落とした。
そもそも彼女は料理があまり得意ではない。と言うより、料理をする必要性を感じたことがなかったため、挑戦したことがなかったのだ。
それでも、家族のためにと決意して帰国したのだから、料理くらいこなさなくてはならない。
もちろん、それ以外にも問題は山積みであるが、と都は昼間のことを思い出していた。それは今日の昼間、雨が降るかもしれないからと、わざわざ弟たちの通う高校まで行った時のことである——。
——前も言ったけどさ、あんた忙しいんじゃねえの? こんなとこまで興味本位で来るなよ。
傘を届けに行って、二番目の弟、伶二郎に、そう言われた。
途端、何と返して良いのやら、都の頭の中は真っ白になってしまい、結局何も言い返せなかった。
家族に対して、今まで留学をしていて全く何も出来なかった分、これから尽くしていくと言うのなら、家事をするなど労働力を提供することはもちろんのこと、それ以前にこのぎくしゃくした関係を直さなくてはならない。弟の一挙一 動に怯えるなど、言語道断である。
はあ、と自ずと落胆して溜息が零れた。
「……あれ、みー姉?」
台所の扉が開いて廊下から現れたのは、都よりも一回りも二回りも大きな巨体である。
兄弟達の中でも最も長身なその男は、長男桂一郎であった。
「なんだ、みー姉が作ってたんだ。貴恵が帰ってきたんだと思ってた」
桂一郎は意外そうな顔をして、台所を見回した。包丁などきちんと握ったこともない都が台所に立っている風景は、傍目にも奇妙に見えるのかもしれない。
「貴恵はまだ帰ってないみたいよ」
「え、まじで? なんかみー姉の言ってた通り、今雨降ってきたみてぇだよ。あいつ間ぁ悪いな」
「本当? お父さん達傘持ってったかな。あと清君も帰ってないけど」
都が全て言い終えるより前に、家の鍵が外から開けられる音がした。
荒々しく玄関の扉が開かれて、聞こえてきた快活な声は二人分。
「ただいまー、一瞬で濡れたー」
「きー姉、着替えてきたら?」
「まず冷蔵庫見なきゃ」
続いて、ばたばたと騒がしい足音がして、出入り口に立っていた桂一郎を退けて貴恵が現われた。
彼女は前髪から雫を滴らせて、制服もずぶ濡れにしたまま、都を見るなり「あ」と声をあげる。
「みー姉が作ってくれたんだ」
おたまを持つ都への感想は、桂一郎と同じであった。
そういえばこの家での炊事を担当しているのは貴恵だったな、と今更のように都は気付く。
「おかえり、貴恵。なんかあんまり上手くいかなかったんだけど……」
致し方なく苦笑を浮かべた。
それを受けて都からおたまを取り上げたのは長男桂一郎で、「どれどれ」と言いながら味噌汁を掬う。どうやら突然台所に現われたこの男の目的は、つまみ食いすることだったらしい。味見のようなふりをして、おたま一杯分たっぷりと奪っていった。
彼は喉を鳴らして全てを飲み干すと、首を傾げた。「上手く行かなかった」という都の台詞を否定することは出来ないらしい。
「なんだろ……味が、薄い?」
しかし調理場は貴恵に任せっきりにしてきたこの男にも、料理の経験などほとんどない。彼が適切な表現も出来ずに唸っていると、その後ろから貴恵がおたまを掴んだ。都と桂一郎の間から腕を伸ばすようにして一口分だけ汁を掬うと、口へと運ぶ。彼女はそうだねと頷いた。
「だしが出てないみたい。化学調味料でちょっと整えれば大丈夫だと思う」
貴恵は肩にかかる程度の髪をゴムで束ねると、手馴れた様子で引き出しから白い調味料と茶色い袋詰めにされた粉のような物を取り出した。コンロに火をかけ、茶碗で鍋に水を足すと、「そうだ昨日の残りの鶏も入れちゃえ」と次は冷蔵庫へ走る。
すっかり居場所のなくなった都は台所の隅に邪魔にならぬよう立ち尽くすしかなかった。
その隣に立つ桂一郎も、感心したように首を振っている。
「いつでもお嫁に行けます、ただし性格に難ありって感じだな」
「誰のことよ」
貴恵の手にあるおたまが桂一郎の頭に命中した。わかめが彼の頭髪にとへばりつく。
「わかめ、わかめ」と喚く桂一郎を放って、貴恵は殺菌するかのようにおたまを丁寧に洗った。
「だから性格に難ありって言われんだろ」と不機嫌そうにわかめを食べる桂一郎を見ながら、仲裁に入るべきか否か迷う都の背後で、 がらと再び引き戸が開いた。
「人口密度高いね」
振り返ると、母親譲りの色素の薄い、茶色い瞳と目が合った。しかしそれはすぐに逸らされてしまう。一瞬ではあるが、そのさりげない仕草にさえ、都の胸は痛む。
「あっ、伶、どうかした?」
手際良く調味料やだしを加え、鶏を投入して味噌を溶かしていた貴恵は、制服姿のまま伶二郎の方を向いた。
貴恵の方が余程、実姉である都よりも姉らしい。
伶二郎も、貴恵に対しては露骨に目を逸らすこともなく、普通の態度で接していた。
「なんか向こうの部屋で英三郎がコサックダンスしててさ、うるさいから逃げてきた」
「筋トレだよ、筋トレっ!」
廊下を通って英三郎の怒鳴り声が轟く。それを追いかけるように、清四郎の笑い声が聞こえた。英三郎の所属している野球部では、面白可笑しな筋肉トレーニングを行っているらしい。とは言え、部員は大真面目だ。
伶二郎はつられたように笑い声をあげて、「それから」と貴恵の方を向いた。
「俺、今日ご飯いらない」
都は、思わず目を丸くする。もう人数分作っちゃったのに、と思うけれども、言葉は出てこない。
閉口してしまった都の代わりに返事をしたのは、やはり貴恵であった。
「ちょっとどういうことよ。具合でも悪いの?」
貴恵は食器棚からお椀を下ろしていた手を止めて、それを近くにいた桂一郎に託す。何だ何だと重ねられたお椀を突然渡された桂一郎は焦っているが、哀れなことに誰の眼中にもなかった。
「ごめん、言い忘れてた。友達と約束が」
伶二郎は申し訳なさそうな顔をする。それが何となく演技臭く思えたのは、都の錯覚だろうか。——おそらく錯覚だろう。貴恵は「そう」と不可解そうに答えただけであったから。都はそう自分に言い聞かせた。
「まあ仕方ないけど……ちゃんと早めに言いなさいよね。今日は折角みー姉が作ってくれたのに」
ぶつぶつ文句を呟きながら貴恵は桂一郎の持つお椀の一つを棚へと戻す。それを聞いた伶二郎は、「ふうん」と呟いただけであった。それきり台所を去り、、結局彼は都を一瞥することもなかった。ちらりとすら、見なかった。
胸の奥から全身へと浸透しそうになる不安をぐっと堪えて、都は台所の中へと向き直った。
丁度、貴恵が桂一郎からお椀を受け取り、味噌汁をよそおうとしている。桂一郎も欠伸をしつつ夕飯の用意を手伝っているのを見て、私も何かしなくてはとおたまを握る貴恵の手を止めて、出来る限りの微笑みを見せた。
「私がやるよ。貴恵は着替えなきゃ」
「……あ、そっか」
自分がまだ制服であったことを忘れていたのか、貴恵はぽかんとしてから笑った。
「じゃ、お願い」と言って美弥子に鍋を託し、立ち去ろうとするブレザー姿に、少し迷ったものの意を決し声をかけた。
「貴恵——」
「うん?」
「料理は……私じゃなくて貴恵がやった方がいいよね」
貴恵はきょとんとしている。
「え? どうして?」
「だってほら、今までずっと貴恵がやってきたことだから、みんなも貴恵のご飯が食べたいだろうし……」
その台詞をどう解釈したら良いものか、と貴恵は当惑しているようであった。「そうかな」と困ったように呟いて、都の方を見る。
露骨過ぎたな、と都は自分の言葉を後悔していた。が、その言葉の裏にある真意までは伝わっていないだろう。
それならいい、そうでなくては困る。
家族のためにと言付けて帰ってきたのに、余計な心配をかけるわけにはいかない。
まさか、弟である伶次郎に避けられるのが嫌で、とは、口が裂けても言えない——。
「ほら、あんまり慣れてないから、私……折角、いつでもお嫁に行けるお嬢さんがいることだし」
冗談交じりにはぐらかすと、貴恵もほっとしたように笑った。
「ま、お嫁に行くまで此処は私の縄張りだしね。みー姉は卒業論文とか忙しいだろうし……まあ、任せなさいって」
彼女は軽く胸を叩いて見せて、了承の意を伝えてくれた。「忙しい」という一言に内心動揺したが、表には出さない。
都は微笑で貴恵を見送って、お椀に味噌汁をよそった。しかし、どうしても均等にはならず、つくづく嫌になる。自分はどうしてこんな単純な作業すら器用にこなせないのだろう。
——忙しいんだろ。
それは、ことあるごとに伶二郎の吐き捨てられた台詞であった。
お前は忙しいのだから関わるな、と都の多忙を理由にして、避けられているように思えて仕方ない。
都は考えれば考えるほど憂鬱になることに気付いて、虚しくなった。確かに、帰国したとは言え、まだ留学先の大学を卒業したわけではなく、都はおそらく最後の一仕事になるであろう卒業論文に取り掛かっている。
本当なら、もっと色々なことを勉強したかった。
しかしそれらを諦めて日本へ戻ってきたのは、表向きには「家族のため」だ。そ れを「多忙」と言って勉強を理由に跳ね除けられてしまっては、何の意味もない。
玄関の扉の開く音がして、「おかえり、おじさん」という貴恵の明るい声が聞こえた。米沢家の父、由郎が丁度帰宅したらしい。
「ただいま」と答えた中年は「今そこで伶にあったんだけど、何かあったのか?」と返答に困る質問を投げかけている。それは、父の目から見ても次男・伶次郎の様子がいつもと違っていたということ だ。
都は心底困り果てていた。
幼い頃から聡明な子だと言われ、海を隔てた異国の地においても多大なる評価を受けてきた彼女の脳でも、さっぱり解決方法は見つからない。
一体どうしたら五つ年の離れた弟と、うまく付き合うことができるのだろう。
はあ、と本日何度目になるのかわからない深い溜め息が溢れた。