4、隣人・瀬田貴恵のノスタルジー
人間という生き物は、他の動物達と違って本能の上に理性を被せる技を持っている。それにより秩序を作り社会を構成し、一匹の動物では持ち得ない力を獲得した。しかし、時たまに、理性は社会の中で本能を優先させる道具としかならない場合がある。
貴恵は切歯扼腕していた。
学級委員をやりたくない理由など、「面倒だから」という一つしかないくせに、遠回りし、遠回りして、様々な理由付けをする。貴恵が「やる」と言えば申し訳なさそうに謝っておきながら、貴恵に押し付けられた仕事を手伝おうともしないのだ。とは言え、最初から期待などしていないわけではあるが 。
貴恵が学校を出た時、日は大分傾いていた。一緒に学級委員をやっている白根という男子生徒は、おそらくまだ教室に残っているはずだ。これ以上一緒にいるのは御免だと、さっさと仕事を終わらせ先に下りてきた。信号に捕まらずに帰れればいいなと淡い期待を抱きながら、貴恵は校門をくぐりぬけた。
六限の授業終了と同時に教員室へ呼び出された二人の学級委員に申し付けられた仕事は、毎度のことながら厄介な代物であった。何でも、十月の運動会に向けて、クラス全員分のゼッケンを作れという。
担任は、彼らに大きな布を一枚渡して、切って使えとのたまった。他のクラスを見てみれば、クラス全員で手分けをしたり、体育祭委員がゼッケンも作成したりと、学級委員が仕事を押し付けられてはいない。
おそらく、貴恵のクラスの担任は、誰に作成させるか考えることすら面倒臭がったのだろう。いつもそうなのだ。学級委員がやらなくても良いような仕事が、平気で回される。
担任は、「全員分作るのが面倒なら、クラスの連中にやらせろ」と責任を貴恵達に押し付けた。が、四十人以上いる学級で、それぞれにやらせたりしたら当日忘れる奴が出て来たり、規定のものと違うゼッケンを作る奴が出て来たり、必ずや不備が起こるのは目に見えている。何より、全員に説明することが面倒だった。
そこで、名前だけは体育祭当日に個々人に書かせることにして、切り分けて端を縫う作業だけは仕方ないので自分たちでやろう、と学級委員達は決めた。と言うよりも、貴恵が決めた。
もう一人の学級委員である白根は決して自らの意見を言わなかった。
彼は、厄介な仕事を押し付けてくる担任に、文句一つ言わない。それで仕事をきっちりやるならまだしも、どうしたらいいのかわからないという風に、いつも貴恵に伺う。
そんなわけで、この男がどうして委員に立候補したのか、貴恵は未だに理解出来ていなかった。何かあるたびに遠慮がちに貴恵に詫びを入れる彼を見て、謝るくらいならやらなきゃよかったのに、と思うばかりである。
大きな布を四十数人分に切り分けて、縫いやすいように端に折目をつけると、貴恵は荷物をまとめて教室を後にした。実際に縫う作業は家に帰って米沢家のミシンを借りて行うつもりだ。作業の遅い白根は放っておいた。仕事量はフェアに分担したのだから、それ以上受け持ってやるつもりは毛頭ない。
点滅している青信号目指して車道を横断すると、住宅地に入る。そろそろ日は沈みきり、空は紫色に染まり始めていた。
マンションへと続く坂道が見え始める頃、貴恵はふと前方に黒いランドセルを見つけた。
貴恵よりもほんの少し背の高いもやしのような小学生である。彼は本を読みながら貴恵と同じ方向へ向かって歩いていた。貴恵は見覚えのある姿に含み笑いをし、彼を追って走った。
「こら清っ、読み歩きするんじゃない!」
景気の良い音をたててそのランドセルを叩くと、ひょろりと痩せた体が飛び上がる。本気で驚いたらしく、米沢家の四男坊・米沢清四郎は眼鏡の下から丸い目を覗かせた。
「きー姉かあ……びっくりした」
「そんなの読んでるからよ。また目ぇ悪くなるよ」
母親のような小言を言って、貴恵は清四郎の手にある本を閉じさせた。彼は少しむっとしたようだったが、抵抗はしなかった。
二人はマンションへの道のりを歩きながら、横に並ぶ。電柱に括り付けられた街灯が、幾度か点滅した後アスファルトを照らし始めた。二人分の影が坂道の下へと伸びていく。
「あー、お腹空いたなー……きー姉、今日のご飯何?」
「んー、見ての通り学校帰りだからさ、買い物してないんだよね。余り物でなんとかしなきゃ」
貴恵は腕を組んで唸った。
米沢家の父、由郎は一般的なサラリーマンで、毎日帰りが遅い。母、文子も生前はパートに出かけていることが多く、滅多に台所には立たなかった。貴恵の母親である瀬田桃子に至っては、三人の中で最も稼ぎが良いほどのバリバリのキャリアウーマンで、貴恵は物心つく頃から彼女の家事に従事する姿を見たことがない。
貴恵の幼い頃、米沢文子が家事をしていた頃はよかったが、彼女が病弱だった次男の伶二郎と共に田舎で暮らすようになった七年間は、深刻な人手不足に悩まされたものであった。
掃除や洗濯くらいなら、仕事前に一通り、瀬田桃子と米沢由郎が済ませていくことができたが、問題は食生活である。
長男の桂一郎と瀬田家の長女貴恵は幼い弟達の世話に明け暮れ、長女の都がタイムサービスで安売りしている惣菜を買いに走 った。都を始め、米沢の人々はそれで満足していたようであったが、育ち盛りなのにこんな食生活では駄目だと貴恵は一念発起し、海外留学により都まで米沢家を離れた頃には、ある程度の料理なら何でも作れるようになっていた。今では、米沢瀬田両家の料理長を務めている。
弟達がぐんぐん成長し始めると、これは重要かつ大変な仕事であった。
ブラックホールの胃袋を持つ奴らに食べさせる物は、冷蔵庫に収まりきらないほどの量があるため、毎日買い足していかなくてはならない。そのため、貴恵は中学でも高校でも部活動に属さず、家事に従事した。
それだと言うのに、運動会のゼッケンごときのために下校が遅れるとはこの上なく不本意だ——と、結局そこに行き着いて、貴恵は不服そうに鼻を鳴らした。
しかし、そんな貴恵の心情など露知らず、隣を歩く清四郎もまた不服そうである。
「余り物かぁ……なんかトンカツとか食べたかった」
貴恵の心情を知らないとは言え、平気で文句をつけてくるとは生意気だ。
貴恵は軽く彼の頭をはたいてやった。
「いったい」
「文句言うんじゃないの! あたしだって忙しいんだから。……っていうか、あんた最近よく食べるね」
「成長期だし」
「そのわりに伸びないね」
「きー姉よりでかいよ! そりゃ英君みたいにはいかないけど」
本当にぃ? とわざと声を高くして、貴恵は彼の額に手を乗せる。すると確かに、いつからだろう、肘を上げないと彼の肘には手が届かなくなっていて、驚いた。
貴恵にとって英三郎や清四郎は、彼等が生まれた時からの付き合いだ。米沢文子と伶二郎のいない七年間は、桂一郎と共にまだ幼かった二人を連れて奔走したものだった。
とにかくやんちゃで一日中走り回っていた英三郎と異なり、清四郎は比較的大人しく手のかからない子供であったが、いつのまにこんなに大きくなって、と貴恵は高校生らしからぬ感慨に耽る。
すぐに彼を見上げるようになってしまうんだろうなと思いながら彼の額より手を離すと、前髪に触れ、その下に見慣れない物を見つけて貴恵は動きを止めた。
「ん……? 清、おでこ……」
眼鏡の奥の瞼がぱちくり上下しているのを他所に、貴恵は彼の前髪を掻き分け、その下を街灯に照らす。そこには暗闇でもわかるほどはっきりとした赤い腫れがあった。
「なんか、大きな痣が出来てる」
痛そう、と貴恵が顔をしかめると、清四郎はきょとんとし、やがてはっと目の色を変えた。彼は無造作に貴恵の手を払いのけ、大股で歩き出す。
「別に何でもないよ」
切羽詰ったようなその口調は、台詞の内容と即していない。
清四郎は貴恵を置いたまま、坂を登って行ってしまう。急いで貴恵も後を追った。
「何でもないことないでしょ。そんな腫れてんのに」
「ぶつかった」
ぶっきらぼうに一言だけ返される。余程触れられたくないのか、清四郎は足早に遠ざかって行った。マンションへと至るこの坂はかなり急峻なため、十七歳部活無所属の女子にはなかなか辛い。十代前半の底なしの体力にはとてもついていけなかった。
「ちょっと、清四郎……!」
息を切らしながら声を荒げると、ようやく彼は足を止めた。
ちらりと当惑した表情でこちらを振り向く。
その様子に貴恵も戸惑ってしまい、とりあえず大きく息を吸った。体中の筋肉が酸素を必要としている。
「……ぶつかったなら、冷やしとこう?」
一歩進むたびに呼吸して、貴恵は吐き出す息と共に少年をなだめた。清四郎は罰が悪そうに頷いて、貴恵が来るまで待っている。
貴恵はそれ以上聞かないことにした。清四郎にだって、言いたくないこともあるだろう。それを無理矢理掘り下げる気はない。
(だけど……何か、寂しい気はするな)
貴恵は、何でもかんでも自分に報告してきた彼の幼い頃を思い出し、ほんの少しだけノスタルジックな心地に浸った。
それこそ、高校二年生十七歳らしからぬノスタルジーであったが、貴恵には一般的な十七歳らしさなど毛ほども思いつかなかったため、さほど問題ではなかった。