38、隣人・瀬田貴恵の初恋
「――と、いうわけで、いろいろとご迷惑をおかけしました」
そう言って、米沢家の次男坊伶二郎が、深々と頭を下げたのは、一月も終わる冬の真っ盛りのことだ。
米沢家の人間たちは皆法事を終えた翌日に東京に帰還した、日曜の午後。家族はそれぞれの用事のために外に散っていた。家の中に残っていたのは、長男の桂一郎と、次男の伶二郎と、隣人貴恵のみである。
そして今、米沢家のリビングで、事の顛末を簡単に伶二郎に説明された貴恵は、ひたすら瞬きを繰り返していた。
あの法事の日の夜、伶二郎は伶二郎なりに、自分の心に決着をつけたのだという。
姉である都に淡い好意を向けることは、罪なのだと思っていた。故に、その想いをひた隠しにするために、都にはずっと辛くあたってきた。
だが、果たして人を愛することに罪などあるのだろうかと考えた時に、今は亡き母の姿が浮かんだのだという。母はこの世の全てを包むような包容力で伶二郎を包み込み、愛してくれた。そしてもちろん伶二郎も、母のことを愛していた。
姉に向ける愛情が、母に向けていたそれと全く同じとは言わないが、それでもどちらも「愛」である。ならば、どうしてそれが罪なのだろう。母が与えてくれた「愛」を、罪などと言えるわけがない。
と、いうわけで、伶二郎は、己の想いを責めることをやめたのだという。
当然、姉に想いを打ち明けるつもりはこれっぽちもないが、彼女のことを想うことに罪はないのだなと考えると、幾分心が楽になったのだそうだ。
すっきりとした顔をしてそう告げた伶二郎を見つめ、貴恵はソファに深く腰掛けて、脱力した。
古くなり、弾力性を失ったクッションが馴染んで貴恵を包み込んで行く。
「……けど、……本当に、大丈夫なの?」
思わず、問わずにはおれなかった。
伶二郎が「大丈夫だ」と言うものを無闇に否定はしたくなかったが、彼の苦悩を知っている分、こんなにもあっさりと決着がついたと言われても、信じ難いものがある。
だって彼がなりふり構わず貴恵に縋り付いて来たのは、つい最近のできごとだ。
あれからほとんど時は経っていないというのに。
伶二郎も伶二郎で、決着がついたとは言えども、必ずしも全てが解決したとは思っていないようで、貴恵の疑問に苦笑を浮かべた。
「完璧に大丈夫かって言われると、ちょっとわからないけど……なんていうのかな、吹っ切れたっていうか」
「……吹っ切れた?」
「うん……別に誰のことをどう想おうが、想うことだけなら自由なんだなぁと思ったら、すごく楽になった。実際には何が解決したわけでもないけど、これは俺の心の問題だから」
そう言われてしまっては、もう貴恵には言い返す術はない。
「まあ、頑張って、都さんよりいい女を見つけるさ。なかなかいないだろうけど」
そんなことを茶化して言うものだから、ああ、もう、本当に大丈夫なんだな、と思った。以前の伶二郎ならば、とてもではないが都のことを笑いのネタになんぞできなかった。それどころか、「都」という名前さえ自分の口では言わなかったのに、大した進歩である。
そうか、もう、大丈夫なのか。
と、安堵する、その反面、寂しい気持ちがふつふつと貴恵の心を占拠した。
ああ、これで、これまでのように彼が自分に縋り付いてくることもなくなるのだな、と思う。
それは当然喜ぶべきことであり、貴恵は彼の心の安定をずっと願ってきたのだから、手放しに祝福してやらなくてはならないはずなのだけれど。
ふう、と溜め息を吐いた貴恵は、自分のそんな心の内を落ち着けると、ソファーの背もたれに首を乗せて、大きく伸びをした。長年かけて染みのついた天井を仰ぎ、口を開く。
「……結局、あたしは、なーんの役にも立たなかったみたい」
そんな貴恵の独り言にも似たぼやきに、伶二郎はふわりと笑った。
彼はこたつの上にあぐらをかいて、穏やかな笑みを浮かべている。
「そんなことないよ。とっても理想的なお姉さんだった。きー姉は、本当に……俺にとっては一番のお姉さんだよ」
伶二郎は良かれと思って言った言葉であろうが、その言葉は細かいトゲのように貴恵の胸に突き刺さり、貴恵を心なし、落胆させた。
が、そんなことはおくびにも出さず、貴恵は笑う。笑うしかないのだ。
「お姉さんねえ……血が繋がってなくても?」
「関係ないでしょ」
「……まーね」
伶二郎は本当に吹っ切れたようで、いつもに増して爽やかな笑みを浮かべていた。彼のそんな微笑みを見ていると、「これでよかったんだな」と思えてしまう。己の心に刺さったトゲですら、どうでもよくなって、つくづく自分は伶二郎に甘いと思った。
それからしばらく二人はリビングでのんびり世間話を続けた。その他愛もない会話は伶二郎が時計を見上げて立ち上がるまで続けられ、彼の言葉で締めくくられた。
「――じゃあ、俺、そろそろ行かなくちゃ」
「……あれ? 今日、なにかあったっけ?」
ここ最近、貴恵にべったりだった伶二郎は、毎日貴恵に自分の予定を報告していた。故に、貴恵が彼の予定を把握していないことは滅多になかったのであるが、今日の予定は、聞いていない。
立ち上がってコートを着込んだ伶二郎は、柔らかい笑みをたたえて、貴恵に答えた。
「うん、定期検診」
「……あー、そっか」
そういえばそろそろ、月に一度、伶二郎が病院で検診を受ける時期であったなと貴恵は思い出した。
例え、決着がついたと言ったって、伶二郎の生活そのものが変わるわけもなく、彼は今まで通り、学校に通い、今まで通り勉強もできて運動神経もよくて、今まで通り病院では検診を受けながら、過ごして行くのだろう。
だが、その一つ一つが、貴恵に報告されることは、もうない。
高校生になる男子なのだから、自分のスケジュール管理くらい自分でできて当然なわけではあるが、あのままごとのような恋人ごっこが終わることは、切なく思えた。
だからと言って、貴恵には彼を引き止める権利などあろうはずもないのだが。
「何時くらいに帰る?」
「夕飯前には」
「わかった。夕飯、何がいい?」
「んー……肉」
「あんたそればっかりじゃない。肉って言ってもいろいろあるんだけど」
「そうなんだけど、他に何も思いつかない……」
他愛ない会話をして、見上げる彼の背中は、とても大きく見えた。
ほんの数日前までは、幼稚化を繰り返してまるで幼子のようになっていた伶二郎であるが、今は全く異なる、別人のようだ。
数日で大人びてしまった彼に対して覚える切なさや寂しさを、貴恵は人知れず飲み込んだ。
折角伶二郎が吹っ切れたというのに、貴恵がいつまでもうじうじ引きずるわけにはいかない。伶二郎が前進するのなら、貴恵も前進しなくてはならないのだ。
「じゃあね、いってらっしゃい」
「うん、いってきます」
軽く手を振って、颯爽とリビングから出て行った伶二郎の後ろ姿を貴恵は見送る。
すると、狭い廊下の方から、桂一郎の声が聞こえた。
「お、でかけるのか」
「うん。検診。いってくる」
丁度自室から出て来たばかりのような桂一郎は、狭い廊下でなんとか伶二郎とすれ違い、今度はリビングの方へとやってきた。
遠く玄関から、がちゃん、と扉の閉まる音が聞こえる。伶二郎は家を出て行ったようだ。
家に残されたのは、とうとう貴恵と桂一郎の二人のみとなった。
ソファに座ってぼんやりと物思いに耽る貴恵を桂一郎はちらりと見やって、台所でお茶を汲むなりこちらにやってくる。
そして彼は今まで伶二郎の座っていたあたりにどすんとあぐらをかいて座ると、呆然としている貴恵を見上げて、呟いた。
「……一件落着したみたいで、よかったじゃねえか」
物思いに耽っていたこともあって、一瞬、何のことかわからなかった。
貴恵はゆっくりと顔を下ろして桂一郎を見やると、感情なくごくごくお茶を飲んで喉を鳴らしている幼馴染を見つめる。
そしてようやく彼の言葉を理解して、あんぐりと口を開いた。
「――聞いてたの?」
その言葉のニュアンスに、良い意味がこめられていないと思ったのだろう、桂一郎は心外だとばかりに顔をしかめた。
「俺と伶二郎の部屋、リビングの隣だから、静かだったら会話とか全部駄々漏れなんだよ。伶だって知ってるはずだぞ」
別に盗み聞きをしたわけではない、と彼は主張する。
貴恵とて、この家の作りは重々承知していたので、彼の言葉に嘘がないことはわかっていた。
確かに、リビングで会話をしていれば、部屋にいた桂一郎に会話の中身は駄々漏れだろう。伶二郎とてそれはわかっているはずだ。わかっていて伶二郎が貴恵に全てを洗いざらい話したのだから、貴恵がそれに反感を抱く必要はないのだろう。――それに、桂一郎とて、ずっと伶二郎のことを心配してきた一人である。
ふう、と貴恵は溜め息を吐くと、再び天井を仰いだ。頭ではわかっているものの、それまで二人の秘密であった事柄が他に漏れるのは、あまりいい気はしない。
「……我が家がぼろいことで、言い訳すんのね」
「しょうがねえじゃん。今更だろ」
確かに、今更であった。この家に住んで、彼らはもう十五年以上だ。
ちらりと桂一郎の方を一瞥すれば、彼は心底安堵したような笑みを浮かべて、コップに注いだお茶を飲んでいた。弟が実の姉に恋心を抱いていたということについては、少しの嫌悪もないらしい。それよりも、彼の気持ちが少しでも晴れやかになったのだという事実に、心から安堵したようだった。
――桂一郎らしい、とは思う。
何しろ、彼は他人のことばかり考えているようなお人好しだ。
彼は、家族がそれぞれ幸せならば、それでいいのだろう。
「これで、一安心だな、お姉さん?」
なにも知らない桂一郎は、笑顔で貴恵に問うた。
このお気楽な男は、貴恵が自分以上に正義感の強い女だなんて、誤解を抱いている。
きっと彼は、貴恵が正義感から伶二郎に手を差し伸べ、そしてそれが解決した今、心底喜んでいると、大きく勘違いしているに違いない。
貴恵は本日何度目になるかわからない、大きな溜め息を吐いた。
「まーね……私は、血がつながってなくたって、伶二郎のお姉さんだから……」
そう呟くと、思ったよりも、気迫のない声が出た。
情けないなあと思いながらも、ソファの上で膝を抱えて蹲る。
そんな貴恵を見てぽかんとしたのは桂一郎で、当然元気な答えが返ってくると思っていたのだろう、俯いた貴恵の顔を覗き込んで案ずるような表情を浮かべた。
「なんだよ……まだ心配事があんのか?」
「……」
貴恵は覗き込んできた男の顔を見るなり眉根を寄せて、苦りきった。
――本当に、この男はどこまでも、お人好しだ。
弟の心が晴れたことを素直に喜んでやれない貴恵のことなんて、放っておけばいいのにと思う。こんな感情は、貴恵の独りよがりだ。同情される必要も心配される必要もないというのに。
「別に、心配事なんてないよ……ただ、あたしが一人で、傷ついただけ」
そして、貴恵は、このお人好しな男の、そういうところに甘えている。彼なら自分を救ってくれるんじゃないかなんて、無責任なことを考えている。
「私……伶二郎のこと、好きだったのかなぁ」
「……え?」
突然の、突拍子もない告白に、桂一郎は度肝を抜かれたことだろう。
目をぱちくりさせている幼馴染の顔を真正面から見る気にはなれず、貴恵は抱えた膝に顔を埋めた。
「本当、バカだよね。あんなままごとみたいな恋人ごっこして、その気になってんの。ほんと、自分でも信じらんない。弟だと思ってたし、そんなふうに思うようになるなんて、想像もしてなかったのに……」
まるで懺悔をするみたいに早口でまくしたてた言葉は、抱えた膝の中でくぐもって、小さな音となってリビングの中に響いた。
リビングの中にいるのは、貴恵と桂一郎だけ。他にその言葉を聞く者はいない。
桂一郎はしばらく黙り込んで身動き一つさえとらなかった。
顔を伏せている貴恵には、彼がどのような表情をしているのかさえわからない。
が、やがて、かん、と無機質な音がして、どうやら桂一郎が手に持っていたコップをこたつの上に置いたのだとわかった。もそもそと動く衣擦れの音は、桂一郎がこたつの上で動いた証だろう。
すぐ近くに人の気配がする。
恐る恐る顔を上げれば、すぐ近くから覗き込む桂一郎の朗らかな笑みが見えた。
「伶二郎は……知れば知るほど面白い奴だもんな。まだたった二年しか一緒に過ごしてないし、俺もあいつのことはよくわからないし」
なにそれ、と彼の意図がわからず眉をひそめると、桂一郎は満面に笑みを讃える。
「面白いなぁと思って興味を持つっていうのが、好きになるってことだろ。俺もあいつには興味津々だよ」
桂一郎独自の理論は、合理的ではないけれど、不思議と人を納得させる。まるで魔法みたいだ。
貴恵はそんな幼馴染を見下ろして、きゅっと膝を抱え込んだ。
「でも私がどんなに興味を持ったって、私は伶のお姉さんでしかなくて……ううん、そもそもお姉さんですらない。赤の他人でしかない」
貴恵には魔法も仕えなければ、合理的な言葉のみしか口に上らない。それがとても悲しくて悔しくて、やるせなかった。
例え、何がどうしたって、伶二郎と貴恵は赤の他人だ。血の繋がりもなければ、感情の繋がりもない。
それは動かしようのない事実であり、どんな魔法を使ったところで変えようのない事実だ。
貴恵はそう思ったが、しかし、あぐらをかいて能天気な表情を浮かべる幼馴染はそれでも諦めなかった。
あっけらかんと、とんでもないことを言う。
「一つだけ、あるぞ。赤の他人じゃなくなる方法」
「……は?」
「お前が、伶二郎の姉になる方法だよ」
一瞬、何を言っているのだろうかと思った。
それから、母親たちの再婚が頭を掠めたが、奴の悪戯めいた笑みを見て、即座にその言葉の真意に気付く。そして思わず笑ってしまった。別に、桂一郎を馬鹿にしているわけではない。年末に、母親に再婚をするのかと問うた時、母が哄笑した理由が今ならよくわかった。なるほどそういうことか、と思う。
中学の頃から高校に上がっても、「熟年夫婦」と呼ばれて久しい彼らだが、当然、夫婦ではない。
しかしそれは、相手のことを嫌って、「こいつと夫婦になんかなるか」と思っているわけではなく、その必要がないほどに、互いの距離が密接なのだ。
故に、貴恵は言う。
「それこそ、今更、必要ないでしょ」
今更必要ないやんか、と言った母の言葉を借りて、軽快に言い放ってやった。
すると、桂一郎も「そりゃそうだ」と笑う。その屈託のない笑みに誘われて、貴恵も思わず声をあげて笑った。
人間という生き物は——と、貴恵は明るい笑い声の中で、ふと考えた。
人間という生き物は、どんな形であれ、他者を愛することができる、慈愛の生物だ。
愛は一つの形に固執するのでなく、いくらでもどのような形にも変容しうる。慈愛と信頼でもって接すれば、他者愛する心に変わりはない。——だから、大丈夫だ。
貴恵はそう自分に言い聞かせた。
大丈夫だ、自分はすぐにあの可愛い弟にも、また異なる愛情を抱いて接していける。この幼馴染に対して、自分が言葉にすることのできない無償の愛を感じることができるくらいには。
十七歳、瀬田貴恵の淡い初恋は、このような形で静かに幕を閉じた。
人知れず、幼馴染以外には気付かれることさえなく、とてもおくゆかしい恋だった。
季節はまだ冬だけれども、まもなく暦の上では春がくる。
寒い空気を吹き飛ばし、雪解けの下から花の咲く、春だ。
彼女の心にもいずれ、冷たい心が溶け出して、暖かな花の咲き乱れる季節がくるだろう。