37、次男・米沢伶二郎の決着
親戚一同集まって近所の定食屋で夕飯を食べ、法事の夜はのんびりと過ごした。
米沢の祖父母の家はここから近く、皆で歩いて家を目指す。今夜は祖父母の家に一泊して翌日帰ることになっていた。
正月以来の祖父母の家で、団欒している家族を遠くから見つめ、ふと姿を消したのは、長女の都であった。次男の伶二郎は、そんな彼女の姿を目で追う。
いつも、都が逃げるように家族の輪から抜け出してしまうことに、伶二郎はもちろん気付いていた。気付いていたが、知らないふりをしていた。彼女にそんなことをさせているのは、自分だという自覚もあった。それでも知らないふりをしたのは、彼女と関わることに、恐れがあったためだろうか。
――だが、いい加減、決着を付けなくてはならないかもしれない。
伶二郎は、心の中で、そう思った。
母の墓前で、母の死以来初めての涙を流し、自分の中に渦巻いていたどす黒い感情たちは、不思議なことに全て洗い流されていった。
残されたのは、純粋に母の死を悼む気持ちと、姉への憧れのような想いのみである。
胸の奥を締め付けるような苦しみはまだ残っているけれども、恐らくこれは、憎悪ではない。だが、早いうちに自分の中で決着をつけなくては、また憎悪がぶり返してしまうかもしれない。
そう思い、伶二郎は家族の輪を抜け出した都の後を、こっそりと追った。
都は祖父母の家を出て、暗い夜闇の中、玄関先でぼんやりと空を見上げていた。
また、海の向こうの遠い人のことを考えているのかもしれないなと思いながら、伶二郎はその横顔に見とれる。
街灯に照らされてくっきりと陰影の現れるその顔は、とても綺麗だ。
自分と同じ血が流れているなんて思えないほどにとても、綺麗だ。
玄関の扉をがちゃん、と後ろ手に閉めると、都はその音でようやく伶二郎が出て来たことに気付いたようだった。
彼女は振り返ってそこに伶二郎の姿を見つけると、吃驚したように目を見開き、それから目を泳がせる。
そんな彼女の反応はごく自然なものである。何しろさきほど母の墓の前で、伶二郎は彼女のことを罵倒して、彼女の大切な腕時計まで破壊したのだ。都が自分に怯えるような素振りを見せたとしても、何ら不思議はなかった。
それなのに、そんな態度を取られることがとても悲しいと思うなんて、自分勝手にもほどがある。
それまでにも、都が自分に怯えるような素振りを見せるたびに、伶二郎は底知れぬ苛立を覚えたものであるが、それは怒りからくる苛立ではなかったのだと今思い知る。自分は、ただ、彼女と普通に話がしたかっただけなのだ。
「……えーと……あの……ごめん」
とりあえず何かを言わなくては、と思って、懸命に絞りだした言葉はそれだけであった。
突然の謝罪に、都は呆気に取られている。無理もない。
我ながら情けない文句だとは思うけれども、いつも饒舌なはずの口はこういう時に限って回らず、それ以上は何も言葉が出て来ない。
仕方がないので俯いて黙っていると、都は都なりにその謝罪の意味を解釈したらしく、「ああ」と笑った。
「時計のこと……? 大丈夫だよ、ベルトがちぎれただけだから、すぐに直せるし……」
それもあるが、それだけではない。
と、思って顔をあげると、「大丈夫」と優しく再度呟いた都と目があった。
久しぶりに見る柔らかな笑顔にほっとするが、それもすぐに崩れ去り、彼女は悲しそうな顔をする。
「それに……悪いのは、私だし……ごめんね」
その表情が暗いのは、何も背後に街灯があるためだけではない。逆光のための暗さではなくて、彼女の心が暗いのだ。
そういえば、と伶二郎は彼女の暗い顔を見て、思った。
そういえば、ここ最近、彼女の暗い顔しか見ていない。それは一重に伶二郎の所為でしかなかったが、伶二郎は彼女にこんな顔をさせたいわけではないのだ。
本当は、さっき一瞬見せてくれたような微笑みや、楽しそうに笑う顔や、そういう顔が見たいのだ。
それなのに、どうして、うまくいかない。
「俺はさ……」
何とかしてこの心境を伝えようと、伶二郎は言葉を選んだ。
言葉選びは慎重でなくてはいけない。
正直な心を伝えたいが、全てにおいて正直であってはいけない。自分が彼女に抱く恋慕の心だけは、声にしてはならないものだから。
「俺はさ、あんたが、嫌いなわけじゃないんだ……。っていうか、少し前までは、あんたを見てるの、好きだったし……なんか、別世界の人みたいでさ。キラキラしててさ」
都の睫毛が揺れた。その目には驚愕の色が浮かんでいる。
まさかこんなことを言われるとは、予想だにしていなかったに違いない。
それもそのはずだ。
伶二郎は一度だって彼女に好意を伝えようとはしなかった。なるべく自分の中にある好意に気付かれないようにと、彼女に辛く当たってきたのだ。
だが、それは結局自分も彼女も苦しめるだけだった。
そもそも考えてもみれば、好意を伝えることは、悪ではない。
正直な想いを伝えることはできなくとも、好意を伝えることはできるのだ。
そう、自分で自分に言い聞かせて、口を開く。
「なんていうのかな……自分の好きな道を一直線に走ってるあんたを見てるのが、好きだったよ、すごく」
初めて、桜の下に立っていた都を見た瞬間の、あの得体の知れぬ胸の高鳴りを、一度だって忘れたことはない。春の精と見紛うほど、あまりにも眩くて、瞬きさえ忘れた。
「だからさ……俺、また前みたいなあなたに、戻ってもらいたいよ……家族のためとか、考えなくていいから……俺は、ライアンとあなたの関係とか、よくわからないけど……また、大好きな勉強をして、研究をして、一直線に頑張ってよ。本当は、まだ、続けたいんだろ? 研究も、勉強も、ライアンとの関係も……」
そう言うと、都はさらに驚いたように、目を大きく見開いた。
彼女は自分の心のうちを辿るように「私は……」と呟くが、再び口を閉ざす。
都は何かを考え込んで俯いて、そして己の言葉を吟味すると、観念したように微笑んだ。
「そうだね……伶くんの言う通りだよ。……私は、本当はまだ、研究も、勉強も、続けたい。ライアンのところに帰りたくないっていうのも、本当は嘘。彼と一緒に続けてきた研究はまだ中途半端で……本当は、こんなところで終わりにしたくなんてない。でも、そんなことをしたら、また周りが見えなくなって、迷惑をかけちゃうから……」
「それで、いいんだよ。あんたが一直線に頑張ってることで、かかる迷惑なんて、痛くも痒くもない。家族ってそういうもんなんだ、って、父さんが言ってた……」
父の言葉を借りて告げると、都は瞬いて、あははと笑った。
久しぶりに見た彼女の明るい笑顔に、こちらまで嬉しくなる。
その綺麗な微笑みは、とても自分の姉のものとは思えない。何故なら、彼女の笑みに胸が高揚し、どうしようもなく手を伸ばしたくなってしまうから。これは、当然、姉に抱く感情ではない。
伶二郎はぎゅっと拳を握り締め、己の中の欲望を押しとどめて、空を見上げた。
暗い夜空には雲がたちこめ、月さえ見えない。
「あんたとさ、俺は、たぶん、似てると思うんだ」
「え……?」
「すごく欲しいものがあるのに、手に入れられない。だから八つ当たりみたいに他の物に手を出してみて、何もうまくいかない。苛々する。そんなところが」
目線を落として隣の女を見やると、彼女は綺麗な顔をぽかんとさせていた。
伶二郎はくすと笑って首を傾げる。
「……心外?」
都は問われて慌てて首を横に振ると、目線を伏せた。
「全然……その通りだと、思う。私は、すごく欲しいものがあっても、なかなか手に入れられないから……一生懸命頑張るんだけど、手に入れられないから……なのに他の物に手を出すと、不器用なのかな、一個もうまくいかないし……」
そして顔をあげると、嬉しそうに笑った。
「でも、伶二郎にそう言ってもらえると、すごく嬉しい。私、伶くんのお姉さんなんだなって思える。すごく嬉しい」
その輝くような微笑みに、きゅうと胸の奥が締め付けられるようだった。
どうあったって、この人は自分の姉なのだなと思うと、とてつもなく切なくなった。
この人を憎悪するのはやめようと、そう思った瞬間に心はだいぶ軽くなったけれども、やはり根本の切ない痛みを排することはできない。痛みを捨てることができるとしたら、それは彼女への想いを忘れた瞬間だ。
「俺は……あなたのこと、姉だなんて思えないよ」
思わずぽろりと漏れた本音に、都は衝撃を受けたように身を震わせる。
また、怯えさせてしまうなと思うのに、止められない。
伶二郎はなるべく怖がらせないようにと優しい口調であることを心がけながら、続けた。
「それは、でも……あなたが悪いんじゃない。俺の中の問題で……。俺も、努力するから。姉だと思えるように、努力するから……」
どういうこと、と問いかけてきた彼女の顔があまりにも柔らかくて、咄嗟に何かが衝動的に体の中を駆け抜ける。
気付いた時には手が動いていて、彼女の体を抱き寄せると、自分の腕の中にと押し込めていた。
予想した以上に柔らかな感触に、どんどん胸が高鳴る。その高鳴りにだけは気付かれまいと、なるべく普通の声色で、告げた。
「だから……早く、あなたも、一直線だった頃に、戻って……」
都は突然のことに驚いたようであったが、拒絶はしなかった。
きっと、母の命日にあって精神の不安定な弟が縋り付いて来たくらいにしか、思わなかったのだろう。
それでも優しい手付きで伶二郎の頭を撫でて、答えてくれた。
「うん、ありがとう……私も、頑張るね」
都も女性にしては身長の高い方ではあるが、伶二郎には到底及ばない。
伶二郎はその細い体を必死に抱きしめながら、それでも懸命に、呟いた。
「みー姉……」
あまりにもぎこちないのは、彼女のことを姉だと、自分で認められていないためだろう。
そのことには都も気付いているのか、苦く笑って、伶二郎の頭を軽く叩いた。
「無理しなくていいよ」
その一言で、堰を切ったように、感情が溢れ出してくる。
「……都さん」
溢れ出した感情はしかし、その言葉となって吐き出され、それだけだった。
伶二郎は何をするでもなく、ただ彼女を抱きしめて、それだけだった。
きっとこれで、己の心には終止符を打つことができるだろうと、伶二郎は思った。
延々と、辛いだけの想いを抱えて行くのは御免である。
これで全てを終わりにしようと、そう決意した。
これが禁忌であると、知っているのは伶二郎一人のみ。
空から見下ろしているはずの月も今は、雲のベールに包まれて見えない。
静かな夜だった。静寂に耳が潰れそうになるほど、静かな夜だった。