35、長男・米沢桂一郎の母の一周忌
雪こそ降らないが、空気は凍てつくように冷たく、頬が刃物で刺されたかのように痛む、金曜日。
東京の天気はどうだろう、と空を見上げてもわからないほどに、この場所は自宅から遠い。
平日故に学校の授業はあるが、米沢瀬田両家の人間は皆、学校を休み、新幹線に乗ってはるばると、親の実家のある田舎に来ていた。
ここは、兵庫の山の奥にひっそり佇む、寺である。
桂一郎は制服を身に纏い、黒一色に染まった寺の中に立っていた。
寺の中を見渡せば、同じく制服を着て並んでいる兄弟たちの姿が目に映る。
畳の上に座っている人々の中には一度二度顔を見たことがある程度の親戚の姿もあり、顔はわかるが名前も、自分とどのような関係性にあるのかもわからない。
無視をするわけにもいかないので、目があうとひとまずお辞儀をして挨拶をしておいた。
今日は、米沢家の母、文子の一周忌である。
はじめて迎える命日に、さすがに空気は重いものの、去年の葬儀よりは幾分ましだった。
兄弟たちの顔にも、ちらほら笑顔が見える。去年のこの日には、考えられなかったことだ。
まだ、法事は始まってはいない。
親族達は、寺の中に集まって久しぶりの再会を喜び、世間話に花を咲かせている。
ふと目をあげると、寺の入り口で何やら携帯電話で通話をしていた貴恵が、寺の中へと戻ってくるのが見えた。
親戚がちらほらと来るたびに父由郎が挨拶をするのを横目に見ながら、桂一郎は血のつながりはなくとも親戚と言って相違ない幼馴染の手を捉え、尋ねる。
「――桃子さんから、電話?」
携帯電話の電源を切って鞄に突っ込んだ貴恵は、桂一郎を見上げると、荒々しく首を縦に振った。ぶっきらぼうな対応は、苛立の印である。
「そう。やっぱり今日は来れそうにないって。私の分まで文子に挨拶しておいて、って言われた」
「仕事か……大変だなぁ、桃子さん」
「どうだか……単にこっち来たくなかっただけじゃないの」
厳しいことを言う貴恵に、桂一郎は苦笑した。
最近知ったことであるが、貴恵の母親である瀬田桃子は、実家に勘当されているらしく、桃子自身も実家に帰る気はさらさらないのだという。恐らく、もう何十年も帰っていないため、今更帰るのは気まずいということなのだろう。
とにかく、そんなわけで、桃子は実家のある兵庫にもあまり来たがらなかった。
代々米沢家の葬儀を行って来たこの寺は、米沢の実家に近く、ということは、その幼馴染である瀬田桃子の実家にも近い。
さすがに去年の葬儀の時には桃子も参列したものの、一周忌である今年は、ついに姿を現さなかった。
仕事が忙しいのは嘘ではなかろうが、それでも法事があると言えば、抜け出せないことはなかったはずである。
貴恵もそう思っているらしく、彼女は腕組みをして、苛ついたように吐き捨てた。
「ほんっと、しょうもない。いい年なんだから、いい加減親子喧嘩なんかするなっての」
そんな貴恵の荒々しい口調に、隣で話を聞いていた弟伶二郎が噴き出す。
「……きー姉とそっくりじゃんか」
「何それ」
「この前の神戸の短大を受けるかどうかの親子喧嘩、凄まじかったよ」
「凄まじいっていうか、ひどかったな」
伶二郎に同意するように桂一郎も頷くと、貴恵はぐぅと押し黙った。自分でも、ひどい言い合いをしたという自覚はあるらしい。
むすっとしたまま黙り込んでしまった貴恵を見て、笑ったのは伶二郎である。彼は、背の低い貴恵の顔を覗き込むようにして屈んでから、言う。
「まあ、いいじゃん。俺、きー姉のそーゆーとこ好きだし」
伶二郎はたまに、平気でこういうことを言うが、家族に対して使うような文句ではないと桂一郎は思う。
まるで女の子を口説くかのようなその台詞に貴恵は困ったような顔をして、複雑な笑みを浮かべた。
そんな二人を見比べて、桂一郎は肩をすくめた。
やはり、いびつだ、と思う。
貴恵と伶二郎の間の歪んだ妙な関係性は、依然として続いているままだった。
彼らはぴったりと近くに寄り添いながら、互いに全く異なる物を見ているみたいで、いびつである。
桂一郎が彼らのいびつな関係性に気付いてもう随分が経つが、未だ何も聞かされていない桂一郎は口を挟むこともできずにいた。
それに、と、桂一郎はちらりと寺の本堂の中、畳の上に正座している姉を見る。
完全に決裂してしまっているのは、姉の都であった。
都は兄弟たちから少し離れたところに座り、時折他の親族たちと他愛無い世間話などをしているが、心ここにあらずといった雰囲気である。
もともと一人でぼんやりしていることの多い都であるが、最近では自分から意識をして家族から離れていることが多くなった。
家族で団欒していると、居心地が悪そうに、こっそりその場を抜け出すことが多い。
まるで、自分が家族と共に居ることに引け目があるみたいで、桂一郎はそんな彼女の様子も気になるが、やはり無闇に口を挟むこともできない。
様々なところにいびつな関係性を抱きながら、米沢家の母、文子の法事が行われようとしていた。
新年も明けたばかり、冬の寒い時期である。
古い山寺の中はとても寒く、いくつか石油ストーブが置かれてはいるものの、部屋全体を暖めるにはあまりにも心許なく、全員が全員寒さを堪えながらの法事となった。
寒さを堪えての読経が終わると、次は寺の裏の墓地へと参列することになった。
寺の中から外に出ると、ますます寒さが身に染みる。
コートを着込んで前のボタンを締めて、桂一郎は親戚たちと一緒に黙祷を捧げた。時々通り抜ける風は、頬を突き刺さんばかりに冷たかった。
寺の裏側に広がる広大な墓地は、山の斜面をだんだん畑のように切り開いて作られている。
米沢家の墓石はその上の方に位置しており、斜面から下界を一望することができた。
そこからの景観は、なかなか悪くない。
麓に住宅街が見え、遠くの方には都会のネオンのようなものがちらほら見えた。
空は広く、冬の冷たい空気が舞い降りてくる。
「もう、一年経っちゃったんだね」
黙祷も終わり、親戚たちが暖かな屋内の方へと帰って行く中で、ぽつりと呟いたのは幼馴染の貴恵だった。
貴恵は微かに線香の臭いを漂わせながら、ぼんやりと下界を見つめていた。
見晴らしの良いこの場所に、いつかは自分も埋められるのだろうと桂一郎は思う。そして母と一緒に、この景色を見下ろすのだ。
「あー……一年前は、大変だったな」
墓石と墓石の間を通り抜け、土のむき出しになった階段を下りながら、桂一郎は貴恵の言葉に答えた。
依然、ぼんやりと下界を見下ろす貴恵の声は階段の上の方から響く。
「大変だったね……伶の受験も、すぐ後だったし」
「そういえばそうだったな。しかもあいつ、難関校見事にパスしたのに、全部蹴りやがって。結局俺らと同じ高校入るしな」
「そうそう。あたしらなんて、あそこ入るので精一杯だったのにね」
二人は顔を見合わせ、苦笑した。
彼らの通う高校は、近所では一番学費が安く、しかも歩いて通える場所にあるため、交通費もかからない。
桂一郎と貴恵は、その高校に入るのに充分なほどの成績ではなかったが、高校に進学するなら此処しかないと一念発起して、中学三年の一年を受験勉強に費やしたものだった。
それに比べて伶二郎は、遥かにレベル高い高校を狙える成績であったし、実際受けてみたら受かったのだが、自分で入学金を払わずに辞退してしまった。
おそらく、彼なりに家の経済事情を心配したのだろう。
彼が辞退した後にその事実を知った家族は大混乱に陥ったわけであるが。
そんな伶二郎は今、墓地の階段を下ったところで、祖父母と楽しそうに会話をしていた。
桂一郎には掴み辛い天才肌の次男坊は、墓の下に眠る母によく似ている。
他の兄弟に比べて母と一緒に過ごした時間が長かったために似てしまったのかもしれないし、生まれつき遺伝子を色濃く引き継いでいたのかもしれない。
そしてまた、貴恵の後方でまだ母の墓前に手を重ねている長女の都も、母に生き写しであった。
三男の英三郎が、特に意味はないのだろうが、他人の墓の卒塔婆をぱしぱしと叩いている。
それを見た貴恵は「英、ちょっと、やめなさい!」と声を張り上げるなり、弟たちのところへと慌てて階段を下って行った。
そんなしっかり者の背中を見送ってから、桂一郎は、墓前に手を重ねる姉、都の姿を見上げた。
都は静かに重ねていた手を組んで、立ち上がると、無言で空を見上げた。
ゆっくりと夕焼け空の中を雲が流れて行く様を観察し、冷たい風が吹いても身じろぎ一つしない。いつもに増して、気力を失っているように見えた。
山の斜面を、突風が吹き抜ける。
都の首に巻かれていたマフラーが、風に煽られ宙を舞ったが、都はやはりそのままの姿勢を崩さなかった。哀れなマフラーだけが後方へと飛んで行く。
桂一郎はそんな姉を奇妙に思いながら、階段を三段一歩で駆け上がり、枯れ葉の上に横たわったマフラーを拾い上げた。土埃を払ってから、姉の後ろに立って、そのマフラーを差し出す。
「……飛んだよ」
都は差し出されてようやく弟の姿に気付いたように目を丸くして、
「……ありがとう」
小さな声で答えた。
しかし都は受け取ったマフラーは首には巻かず、腕にぶら下げて再び空を見上げる。
やはり心ここにあらずであり、様子がおかしい。
「空が、どうかした?」
さりげないことを装って聞くと、都は少し笑った。
「……人を、思い出してたの」
「……人?」
「うん、海の向こうの、人――」
海の向こう、と聞いて、「ああ」と桂一郎は頷いた。
都には、家族の知らない世界における思い出がある。
十五の頃から七年間、異国の地にいた都はしかし、家族の前であまり異国のことを語らなかった。故に、桂一郎は姉の事情などは一切知らないが、彼女には彼女の馳せる思いがあるのだろう。
「空を通じて、繋がってるって、ことか」
都が空を見上げている理由をそう解釈して納得すると、彼女はゆっくりと首を横に振った。
「そうじゃないよ……その人、今は空の上にいるから」
「え?」
「お母さんと、同じところにいる」
死んだのだ、と暗に示して、都はマフラーを首に巻き直した。
その表情がどこか自嘲的で、桂一郎は戸惑う。
都は再び空を見上げると、静かな口調で続けた。
「三日前なんだ、その人の命日。だけど、お墓参りにも行けないし、私はここから冥福を祈ることしかできないから」
何と返したものかと考えあぐねて、桂一郎は頭をかいた。とりあえず、姉と一緒に空を見上げる。
「……三日前じゃ、今日は母さんの墓参りだし……海の向こうには行けないだろ。仕方ないって」
「そうじゃなくって……行く資格がないんだ、私には」
「資格……?」
「私が、その人から全てを奪ってしまったようなものだから」
都は空から目線を落とすと、口までマフラーに埋めた。
白い息がマフラーの間から吐き出され、同時にぽつりぽつりと言葉も吐き出されて行く。
まるで悪人が罪を懺悔するかのようだ、と桂一郎は思った。
「その人はね……私の大切な先生の、奥さんなの。大学に入ってから、私がずっと先生を独り占めしちゃってたから、奥さん寂しかったのかな。……突然死しちゃったんだ……」
話の全貌が見えずに、桂一郎はただ瞬いた。
しかし、質問をして彼女の言葉を途切れさせるのも申し訳なく思えたので、都のペースに任せて聞くに徹する。
「先生に初めて会ったのは……私が中学生の時でね、先生は、日本に学会ついでに旅行をしようと思って来てたんだって。まだ先生も若い頃で、初めての街で舞い上がっちゃったのかな、迷子になってたの。だから、私が東京を案内してあげたんだ。そうしたら、すごく喜んでくれてね、自分はどこで何をしているどんな人間だって、全部教えてくれた。英語だったけど、一生懸命話を聞いて、すごく楽しくて。私は先生に憧れて、まずは英語を完璧にしようと思って留学したんだけど、そしたら偶然カナダの大学に先生の名前を見つけて、びっくりして入学しちゃった」
初めて聞かされる都の事情に、桂一郎はひたすら愕然としていた。
ある日突然、外国に留学すると言い出した都の決意は、揺るぎなく固いものであったことを、なんとなく覚えている。もともと気まぐれな姉だったので、テレビか何かに感化されたのだろうと思っていたが、まさかそのような事情があろうとは、思いもしなかった。
「大学に入ってから先生に会ったら、先生も私のことを覚えててくれてて。私の専攻が先生と同じだと言ったら、すごく喜んでくれた。……本当は、先生の追って入学したから、当たり前なんだけどね。……でも、実際に研究はすごく楽しかったよ。毎日朝から晩まで、実験を繰り返して。気付いたら何年も先生と研究室で暮らしていた気がする。研究のことしか頭になかったから、先生の奥さんのことなんて、考えもしなかった……」
だから、と俯く彼女の顔は苦しげで、自分を嘲ている。
「だから……まさか、あんなことになるなんて、夢にも思わなくて……奥さんは持病もないし、健康的な人だったのに、突然死だなんて、原因はストレスくらいしか考えれない……。私の所為だって気付いた時にはもう、棺の中。どうしたらいいのかもわからなくなって放心してたら、急に日本から連絡があって、今度はお母さんが事故死したって……」
都はそのまま言葉に詰まり、母の墓を見つめた。その目が赤く見えるのは、寒さのためかもしれないし、感情が高まったためかもしれない。
ようやく、日本に突如帰国した都の真意を、悟ったような気がした。
何故いきなり、「家族のために日本に帰る」などと彼女が言い出したのか、桂一郎にはまるでわからなかった。気まぐれな姉のことだから、さほど意味はないのだろうなどと軽く考えていたけれど、そんなわけはなかったのである。
都は恐らく、母の死を、自分への報いだと思っている。自分勝手なことばかりをしてきたと己の行動を反省し、だから彼女は家族に対して引け目があるのだ。
そして帰国をしたもう一つの理由は、その教授の傍にもういられないと思った事だ。
だから彼女は大学生活をあと一年残したところで、突如帰国したのである。
彼女は、日本へ逃げてきたのだ。
家族の声が、遠い。
どうやら法事にきていた親戚のほとんどは、寺の住職へのお礼も済ませて、そろそろ寺を出ようとしているようだった。
この後夕飯でも食べましょう、と祖父母に誘われていたことを桂一郎は思い出す。
夕焼け色に染まっていた空も暗くなりはじめ、そろそろ夕飯時だ。
親戚一同が寺の外へと出て行く中で、ふと、すぐ近くから聞き慣れた声がする。
「――それさ、今話すことじゃなくね?」
その声色は、憎悪さえ感じられるほどに刺々しく、冷たい。
驚き振り返ると、いつの間に階段を登って来たのだろう、米沢家の墓石の前に、次男伶二郎が立ちはだかり、こちらを睨みつけていた。
「いつの間にそこにいたのか」という思いと、突然声をかけられたことに、桂一郎も飛び上がらんばかりに驚愕したが、隣にいた都はその比ではない。
視線を逸らし、ゆっくりと母の墓の前にまで歩いて来た弟を見て、彼女は「伶くん」と小さく呟き、震駭した。
「今日、何の日かわかってるよね。なんでそんな話をするかな」
伶二郎は冷たく言い放って、母の墓前にしゃがみこむ。
都は言い返す言葉もないのか、目線を泳がせて、俯いた。
確かに、母の命日であるこの日に、母の墓の前で、適切な話題ではなかったかもしれない。
しかし、敢えてこの場で懺悔をしたくなる都の心情というのも、桂一郎にはわからなくもなかった。
とは言え、そんなことなど考慮してくれないほどに、伶二郎と都は最近折り合いが悪い。
桂一郎は肩を竦ませて、しゃがんだ伶二郎を見下ろした。
「伶、母さんの前だぞ。そんなカリカリしたって仕方ねえだろ」
「じゃあ、めそめそするのはいーわけ?」
なだめるつもりで言った言葉は、即座に突き返される。
彼が苛立っているこっとはその口調からも明らかであったが、怒りを緩和させる方法が桂一郎には思いつかなかった。
伶二郎が、立ち上がる。
都は、おののく。
「教授だとか、教授の奥さんだとか。あんたの事情はどうでもいいんだよ。それに家族を巻き込むなって、俺、言ったよな?」
冷たい空気が、ますます冷え込んだような気がした。
「母さんの死が、あんたへの報いみたいに言うなよ。そうやってあんたは悲劇のヒロインぶってるかもしれないけど、そんな綺麗ごとじゃねえんだよ。勝手に海外渡って勝手に自己嫌悪に陥って、勝手ばかりしてんのに、母さんの命まであんたの事情で都合よく使うなよ。ただの自己満足じゃねえか」
伶二郎は固まってしまって何も言えない都を見上げ、立ち上がった。
一歩彼女に近付くと、ちらりと黒いコートの下から見え隠れするその左腕を一瞥する。
「……その腕時計……ライアンにもらったって言ってたけど、今日もつけてるんだね。……何か意味でもあるわけ?」
伶二郎が都の左腕を掴むと、都ははっと息を呑む。
何をする気だろうと思って、桂一郎も思わず緊張した。
「傍にいる権利がないから帰れないとか言いながらさ、未練たらたらじゃん。さっさと捨てたらどうなんだよ! 悲劇のヒロインぶるだけで、本当は少しも反省なんざしてないくせに……!」
力づくで伶二郎が銀の腕時計を引っぱり、都の顔が恐怖と痛みに歪む。
「や、やめてっ……!」
「おい、いい加減にしろ、伶っ!」
慌てて桂一郎が仲裁に入るが、伶二郎はやめようとはしなかった。
やめて、と叫んで逃げようとする都と、その都の腕にはめられた腕時計をひっぱる伶二郎の力が反発しあって、パチン、と軽やかな音が響く。
「……あっ!」
都の悲鳴に近い叫びの後、彼女の腕にはめられていた銀の腕時計の細い鎖の部位が、散った。それはキラキラと輝きながら舞い落ちて、無情な高い金属音とともに墓地の敷石に衝突する。
本来輪になっているはずの腕時計は一本になって、うつ伏せになって地面の上にと転がった。
さんざん腕と系を引っ張られた事によって腕に時計が食い込んで、手首に真っ赤な痕ができてしまっているというのに、都は痛みすら感じていないらしい。膝から崩れ落ちるようにしてその場にしゃがみこみ、飛び散った銀の残骸に手を伸ばした。それを、伶二郎が冷たく見下している。
「伶二郎、おまえ……」
「あんたとさ、同じ血が流れてるなんて思うと、たまに死にたくなるよ」
たしなめようとした自分の台詞さえ遮られ、桂一郎は唖然とする。そして、伶二郎のあまりにも冷酷な台詞の内容に、自失した。
一瞬、思考回路が停止して、そこに激情が濁流のように流れ込んでくる。
考えより先に手が動いていて、気付いたら思い切り弟を殴り飛ばしていた。
「桂一郎っ……!!」
人の殴られる鈍い音の後に、都の悲鳴に似た声で叫ばれる。それでも、桂一郎は弟を殴ったことを後悔していなかった。
もともと桂一郎は温厚な方だ。
少し苛立つくらいのことならいくらでもあるが、こんなにも激しい怒りを覚えるのは久しぶりであった。
いとも簡単に殴られて後ろへ飛んだ伶二郎は、墓地の横に生えていた桜の大木によろめいてぶつかり、よりかかることでなんとかバランスを保った。
そしてこちらを見やった彼の目は、どこか虚ろである。
伶二郎は殴られても何も言わず、殴り返してくるわけでもなく、何を考えているのかわからない顔をする。
そんな弟を見て、桂一郎も固まってしまった。何と言葉をかけていいのかわからず、だからと言って再び殴ることもできず、ただ否定するように頭を横に振る。
殴られて桜の木にしがみつく伶二郎、その前に仁王立ちになる桂一郎、破壊された腕時計の前に跪く都、誰もが動けずに、その場に硬直している。
どうしたものか、皆目見当もつかない、そんな状況下で、
「——おい、お前ら」
突如、間延びした柔らかい声が響いた。
「墓前で何やってんだ?」
誰を責めるわけでもない、優しい口調である。
ゆっくりと振り返れば、黒のスーツに身を包んだ、米沢家の父、由郎が立っていた。
父は伶二郎が都の時計を壊し、桂一郎が伶二郎を殴り飛ばした一連の流れを見ていたのだろう、呆れに近い苦笑を浮かべている。
墓地の石段をゆくりと登りながら、由郎は子供たちに言った。
「そろそろ夕飯を食いに行こうかって、みんなで寺を出たんだが、お前らがいないから様子を見に戻ってきたんだよ。貴恵がえらく心配してたぞ」
貴恵が、と、桂一郎の脳裏に幼馴染の顔がよぎる。
桂一郎はよく知らない、都と伶二郎とのしがらみについて一番よく知っているのは、貴恵であった。その二人の姿が見えないのだから、貴恵が心配するのも無理はない。
そして、そんな二人の間を仲介できないばかりか、衝動的に弟を殴り飛ばしてしまった自分を、桂一郎は今更ながら恥じた。
思わず殴りたくなるほどの怒りを覚えたのは事実であるが、他にもやりようがあっただろうに、と思う。
どうしようもない自己嫌悪に見舞われたが、気を取り直して、敷石の上にへたりこんでしまっている都に手を差し伸べて、立たせる。
都は腕時計の部品をポケットにしまいこみ、一つ大きな溜め息を吐くと、ぎこちない笑顔を浮かべた。それが空元気であることは言うまでもなかったが、桂一郎も努めて笑顔で答える。
「じゃあ、戻ろうか……あんまり貴恵を心配させても悪いし」
「そうだな」
空元気の姉は、必死に笑顔を浮かべてはいるものの、さすがに伶二郎の方を見る勇気はないようだった。
そんな姉のかわりに、桂一郎が伶二郎のいる桜の大木の方を振り返る。
「おい、伶。行くぞ」
すると、しばらく放心していた伶二郎は「ああ」と呟いて、ようやく我に返ったようだった。
しかし、俯いて、動こうとはしない。
「……俺、後から、行くよ」
そう小さな声で呟いた彼もまた、都の方は見ようとしなかった。今は桂一郎と都と一緒にいたくはないのかもしれない。
父由郎もいるわけであるし、無理に連れて行く必要もないなと考えて、「そうか」と桂一郎も頷いた。むしろ、今は別れて行動した方がいいかもしれない。
桂一郎は「行こう」と都にうながして、石段を下った。都は戸惑いながらも頷いて、桂一郎の後ろに続く。
見上げた空には夜の帳が下りようとしていた。
天国にいるという人も、夜闇に紛れてしまってわからない。
彼らは暗い墓地の中を、静かに下った。
静寂は不思議と不気味ではなく、妙に頭が冴えていくような気がした。