34、隣人・瀬田貴恵の決意
貴恵が突如、「福祉士を目指して、神戸の短大を受ける」と言い出したのは、それから数日後、高校の新学期の始まる前日のことであった。
仕事を終え、帰宅し、米沢家の食卓について遅い夕食をとりはじめた母桃子の正面に座り、貴恵は「印鑑とサイン」と短く告げた。
何のことかわかっていない桃子の前に印鑑とボールペン、そして薄い紙切れを差し出すと、桃子は無言で頷いて半ば無意識であろうが、ボールペンを握り締めた。
桃子は娘の貴恵のやることに対して、放任主義なところがある。それは、自分の両親がとても厳しく、子供は自由にさせてやりたいという気持ちがあったためかもしれないが、とにかく貴恵は、挑戦しようとしていたことを母に反対されたことは、まずなかった。
だが、「進路希望調査」と書かれたその紙を見て、さすがに桃子の手が止まる。
何も見ずにサインだけするわけにはいかないと思ったのだろう。
母はその紙の中身を見つめ、眉をひそめた。
母が良い顔をしないであろうことは、予測していたので、貴恵もじっと母の反応を待つ。
やがて、桃子は顔をあげるなり、声を荒げた。
「貴恵っ、あんた、これっ……神戸の学校じゃない……!?」
「うん、そうだよ」
即座に肯定すると、桃子は口をぱくぱく開閉させながら、幾度も貴恵と紙とを見比べた。
そんな桃子の様子に、くすと笑ったのは、こたつに入っている伶二郎である。彼はミカンをむきながら、言った。
「きー姉、福祉士目指すんだって。ここ二、三日、あちこち走り回って資料探しして、大変だったんだよ」
「二、三日……? そんな短期間で決めちゃったの?」
桃子は露骨に険しい顔をする。
まだこれは仮決定であったし、「福祉士」と大きく言っても具体的にどの福祉士を目指すのかなど、細かいことは決めていないのではあるが、それでは意思が弱く見える気がしたので、貴恵は「そうだ」とはっきり肯定した。
「勢いっていうのも大切だよ。うだうだ悩み続けると、逆にわかんなくなることもあるしね」
「でも、あんた、神戸って……ひょっとして……?」
桃子はさらに厳しい表情を浮かべる。母はすぐに、娘の思惑に気付いたらしい。
――ひょっとして、兵庫にある桃子の実家に行くつもりではないのか?
桃子の疑いは、それだ。
そして、もちろん、貴恵はそのつもりである。
寝たきりになってしまい、親族も持て余しているという桃子の母のもとへ、行くつもりだ。
「丁度いいじゃん? そうしたら、向こうで下宿先探す必要もないし」
「そういう問題じゃないでしょ! 大体それ、どういうことか、わかってんのっ?」
桃子は形相を変え、机の上に置かれた皿やコップを全てなぎたおすような勢いで詰め寄ってくる。しかし、貴恵も負けてはいられない。
「わかってるよ。こんなにいい条件ないじゃない。私は人の世話をするのが好きだから、そういう道に進みたいの。そのためにはそういう学校に行くことが必要で、いい学校が神戸にあるんだって。でも一人暮らしにはお金がかかる。だったらお母さんの実家に住めばいいじゃない。一石二鳥だよ」
「どこが、一石二鳥やねん! 別に福祉士目指すのが悪いって言ってるわけじゃないのよ? でも、寝たきり老人のいるような家に住んだら、勉強どころじゃなくなる! そんなところ行って、どうするつもりなん!?」
「はあ? あたしが今まで毎日何人分の食事作って部屋の掃除も洗濯も、買い物もゴミ出しも全部、どれだけ家事に従事してきたかわかってる? 自分の分とおばあちゃんの分の世話くらい、どうってことないっての」
「子供の世話と、老人の介護とは、全っ然、違うやろっ!」
「だからいいんじゃない! 自分の経験したことのないものにも、挑戦していくべきでしょ!」
息巻く二人のボルテージは上がって行くばかりである。
心配をかけたくないから自分の家の事情は米沢の兄弟たちには隠しておこうという桃子の心遣いも、全てが無駄となった。遠くの方で、由郎が呆れたように笑っている。
とりあえず落ち着こう、と貴恵は大きく息を吸った。
そして深呼吸をして、机の上に置かれたお茶を一口啜る。
暖房で暖まって生温くなったそれを舌で味わいながら、冷静を装い、一度口調を静めた。
「……行っとくけど、一石二鳥っていうのは、私にはお母さんにとってもいいってことじゃないからね。私にとって、一石二鳥なの」
まだ気迫たっぷりに睨みつけてくる母を、同じく鋭い形相で睨み返しながら、貴恵は言葉を続ける。
「私は別に、ここに家族がいるから、他の親戚なんてどうだって良いって思ってた。でも、おばあちゃんがいるんなら、会っておきたいよ。おじいちゃんは会えないまま、死んじゃったわけだし……おばあちゃんに会えて、なおかつ住む場所にも困らないなら、一石二鳥でしょ」
正論であった。
それでもまだ反論したいのか、口を開きかけた桃子を制したのは、由郎だ。
由郎は机から転がり落ちたボールペンを拾うと、桃子の前へと差し出した。
「やりたいようにやらせたったらええやん。こいつ結構本気やぞ」
桃子と話す時にだけ使われる生まれ故郷の言葉は、二人が幼馴染である証でもある。
桃子は幼馴染の差し出したボールペンを睨みつけ、ぎりぎりと歯ぎしりをするような勢いで、唸った。
「……会うたこともないような人間の、世話なんかできるわけない」
負けじと、貴恵は言い返す。
「でも、それが福祉士の仕事でしょ」
「ガキが何言うてんの」
「だったら直接おばあちゃんに会いに行く。春休みに……ううん、三学期中に会いに行く。それで、ちゃんとお母さんもおばあちゃんも、自分も納得いくように、話つけてくる」
きっぱりと言い切ると、桃子は根負けしたように、机の上に崩れ落ちた。
ひらりと進路希望調査表が舞い上がり、再び机上に落ちる。
桃子は舌打ちをして、うめき声をあげた。
「……本っ当に、強情。一体誰に似たんだか……」
誰だろーね、と裏声で言ってやると、後ろの方で伶二郎が忍び笑いを漏らした。なんとなく張りつめていた空気が、一気に緩和する。押し殺した笑いがあちらことらから漏れる中で、桃子だけがしっかりと渋面を浮かべていた。
「……ま、この進路希望表も、まだ仮決定なんでしょ」
綺麗な標準語を喋るのは、冷静さを取り戻した証拠である。
桃子は転がったボールペンを奪うようにして握り、紙上に荒っぽくサインをした。そして、溜め息混じりに、言う。
「……親の介護に娘送ったりなんかしたら、親戚中にどうしよもない親不孝者だってまた悪口言われるじゃないのよ」
そう毒づいた母に、貴恵は不適な笑みを浮かべた。
母のサインの後ろに印鑑を押して、書類をひらひらと乾かしながら、満足感たっぷりに立ち上がる。
「自業自得って言うんだよ」
母のひきつった顔に、何故か勝ち誇った気分を味わう。
その通りだ、と由郎が大口を開けて笑った。