33、長女・米沢都とおしるこ
正月三ヶ日はあっという間に過ぎ、新年の緩やかな空気も街からはゆっくり消えようとしていた。
米沢家は三ヶ日に一家揃って兵庫に帰省し、丁度帰ってきたところであった。
米沢の祖父母ももちろん息子孫の帰省を喜んでくれたが、文子の両親にあたる祖父母は、娘の一周忌を前にして心細い思いをしていたらしく、姉弟五人の大家族が帰省すると、満面に喜悦の色を浮かべた。
それぞれの家に一泊ずつして東京へ帰ると、東京はすでに正月飾りを片付け始め、日常が戻りつつ合った。三ヶ日を終えた桃子は仕事へ戻っていたし、貴恵もすでに家中の片付けを終えて新学期への準備は万端である。
随分としっかりした母子だな、と、米沢家長女の都はぼんやりと思った。
暖かい我が家に帰り、団欒を始めた大家族を見やって、都は静かに席を立った。
幸せそうな家族の様子を眺めていると、どうしてもいたたまれない心地になる。自分はこの家族の輪の中にいてはいけないのではないだろうか、と。
そんな心地でこっそりと、自室へ篭ろうと旅行鞄を引きずりながら、女部屋として使われている瀬田家の方へと都は移動した。
暖房の付けられていない瀬田家の空気は、突き刺さるように冷たい。
靴を脱いで廊下へ上がると、床がまるで氷のようだ。
ストッキング越しにその冷たさを感じながら、都は自室へと戻り、エアコンのスイッチをいれた。
暖かくなるまでは着ていようとコートを羽織る。
冷たい床の上に座ると、都は旅行鞄を開いた。さっさと片付けてしまおうと鞄の中身を取り出す。鞄の一番上に置かれており、一番最初に出て来たのは、数枚のチラシだった。それは、帰省した兵庫の街頭で配られていた宣伝紙である。
神戸の祖父母の家においても、家族団欒の光景を見ているとどうしても居心地の悪くなってしまう都は、できる限り戸外を遊歩していた。
家の中にいたところで、誰が都に文句を言うわけでもないのであるが、家族が楽しそうに会話をしているのを見ると、そんな彼らを利用して逃げ出した自分への罪悪感が湧いてくる。
自分なんぞに、彼らと一緒に楽しむ権利などないのだと思えて、都は彼らと一緒にいられない。――それでも、都はカナダに帰る決心が出来ずにいる。
だいぶ部屋の中も暖まってきた頃、突如、トントンと部屋を外からノックする音が響いた。
都は物思いから醒めて、はっと顔を上げる。
手元に置かれた旅行鞄はこれっぽちも片付いていない。街頭で配られた宣伝紙を自分は握り締めたままだ。
腑抜けた自分を心の中で叱咤しながら、「どうぞ」と都は扉に向かって言う。
きぃ、と古い音をたてて開いた扉の向こうから、覗き込むようにして現れたのは貴恵だ。
貴恵は部屋の中に都の姿を見つけると、ほっとしたような表情を浮かべ、入室するなり手に持ったお盆を掲げて見せた。
「おしるこ。余った餅で作ったんだ」
お盆の上には、黒い漆器が二つ並んでいる。お正月など、改まった時にしか使わない、立派な器だ。
貴恵はそれを二つ、都の机の上に並べて、「失礼」と言って都のベッドの上に腰掛けた。どうやら、此処で一緒に食べていくつもりらしい。
「……みんなは?」
隣の米沢家で団欒しているであろう兄弟たちのことを尋ねると、「ああ」と貴恵は首を竦めた。
「あっちで餅の争奪戦やってる。うるさいから逃げてきた」
言いながら貴恵があからさまに嫌そうな顔をするので、都はつられたように、笑う。
机の上からは、白い湯気とともに甘い香りが漂った。
おしるこなどというものを、食するのはもう何年ぶりだろう。
以前それを食べた時を思い出すことさえできず、ただ感心する。
都は祖国の甘味すら忘れて異国の地にいる間に、貴恵はそれを簡単に作れるようになっていたのだ。
「……貴恵は、凄いなぁ」
暖まった部屋の中でコートを着ていても仕方がないと、コートを脱ぎながら、都は貴恵の方を振り返る。
貴恵は器を両手に持って湯気のたつそれに息を吹きかけながら、ぽかんとしていた。
「……なにが?」
「おしるこが作れちゃうのが」
「あー……いや、そんな難しくないよ、これ」
「それだけじゃなくって、貴恵が作る物って何でも美味しいからなぁ」
「そんなことないよ……」
「貴恵って作り方とか見ないじゃない。家にある材料を見ただけで、何でも作れちゃうって本当に凄いと思うの」
しみじみと呟くと、貴恵は面映そうに俯いた。
「そんなに褒められると、困るけど……これくらいしか、私には出来ることなんてないし、毎日作ってれば誰だって出来るようになるよ。――みー姉は、一人暮らしだったでしょ? 向こうで料理とかしてないの?」
「してないの。外食ばっかり」
ふうん、と貴恵の言葉を聞きながら、都はコートをハンガーにかけて椅子に戻る。
漆器を手に持って冷ましながら、その熱い汁に口をつけると、優しい味がした。
「向こうにいる時は、ずっと自分の研究だけしてたから……寝る暇も、それこそ食べる暇も惜しんで」
海の向こう側にいた時は、とにかく研究一筋であった。
師であったライアン・バーンズとともに朝から晩まで実験に打ち込んで、睡眠も、食事も、ただ生きるための動作として行っていたようなもの。ほとんど研究室に二人暮らしをしているような状態で、たまに訪れる他の研究生や教授のことは、客人のように扱った。時には、ライアンの妻ですら、客人のように思えた。
汁を啜り、都を眺めて貴恵はしばし何かを考え込んでいた。が、やがて、口を開いて、言う。
「……私からしたら、みー姉の方がずっと凄いと思うけどね」
「え?」
「一人で海外まで勉強しにいって、毎日毎日勉強研究って、考えただけで具合悪くなりそう」
「……私だって、好きな研究じゃなきゃやってらんなかったよ。趣味みたいなものだったから、出来ただけ。私は、すぐに好きなこと以外、周りが見えなくなっちゃうから……」
そう言って、都は器を机の上に置いた。
全ての原因は、自分のそんな性にあったのだと思っている。
ライアンと研究を進めて行くことがとにかく楽しくて、二人で時間を過ごしているのが本当に幸せで、周りのことなど何も見えなくなっていた。
もう少し都の視野が広く、気を遣えていたならば、こんなことにはならなかったのかもしれないのに――。
「……こんなんだから、駄目なんだよね、私。伶くんに嫌われても、仕方ないなぁ」
思いのままをぽつりと零すと、貴恵の動きが止まった。
彼女は箸で持ち上げた餅を再び容器の中に落として、小さな声で言う。
「……伶が?」
都はそんな貴恵の反応に多少戸惑いながらも、ごまかすように笑った。
「伶くんは、まっすぐだから……きっと、こんないい加減な私のことが、許せないんだと思う」
嫌われたってしょうがないよね、と付け加えて、都は冷めて食べやすくなった餅を加えた。箸で引き延ばしながらちぎると、まだ中の方は熱い。
貴恵は当惑したように箸の先で餅をつつき、ちらりと都の方を伺ってから、戸惑いがちに、呟いた。
「……別に、伶二郎は……みー姉のこと、嫌いじゃないと思うよ?」
貴恵は言葉を選ぶように、続ける。
「そりゃ伶二郎はきついことも言うけど……嫌いなわけじゃないよ。それに、私にも……みー姉は輝いて見えるし」
「輝いて?」
都が首を傾げると、貴恵は大きく頷いた。
「やりたいこと一筋に打ち込めるっていうのが、輝いて見える。私なんか、全く将来のことも見えないし、進学して勉強したいこともないし、だからって具体的に何をやって働いてこうとかも考えられない。周りが見えなくなるくらい、何かに打ち込むのって凄いと思うよ」
だから、と貴恵は笑った。
「一本気なのも、みー姉の長所だと思うし、伶二郎もそれはわかってるはずだよ」
貴恵はそう朗らかに言うが、そうだろうか、と都は疑わずにはおれない。
自分にとって好きなことに打ち込むというのは、至極簡単だ。しかし、好きではないものに尽力することは難しい。
だから、都は貴恵を「凄い」と言うのである。
家族を言い訳に使うような卑怯な都と違って、貴恵は家族のために働いているのだから。
そう告げると、貴恵は軽く笑い飛ばした。
空になった漆器をお盆の上に置いて、都の空になった器も受け取る。その手際の良さは、やはり、今まで家事に尽力してきた賜物だ。
「それこそ、私の好きなことだもん。たぶんね、私はこうやって人の世話をやくのが好きなんだよ。別に、お人好しでもなんでもなくてさ。――だけどさそれって別に将来につながるようなことでも、立派なことでもなんでもないじゃん?」
だからみー姉のように夢がある人ってすごく輝いて見える、と言って、貴恵は立ち上がる。
その背中を逃すまいと、都は慌てて声をかけた。
「そんなことないよ! そういう道っていっぱいあるだろうし……ほらっ!」
都は座っていた椅子を押しのけて、旅行鞄に手を突っ込んだ。そして取り出したのは、一番上に折り重なっていたチラシの類いである。
都はお盆で手の塞がっている貴恵に、そのお盆の上にチラシを乗せて受け取らせる。
「兵庫に帰省した時に、あちこちぶらぶらしてて、予備校の前でたくさんもらっちゃったの。高校生と間違われちゃったのかな……」
あらゆる進路の可能性の書かれた冊子や広告を見つめ、貴恵は瞬いている。そして、ややあってから、遠慮がちに言った。
「でも、みー姉……これ、全部、関西地方の……」
「……あ」
しまった、と都は口に手を当てる。
中には全国規模の物もあるが、ほとんどは近畿地方の宣伝ばかりだ。
何の役にも立たない情報を与えてしまったと、都は自分の阿呆さにしゅんとする。
「……ごめん」
貴恵は「いいよ」と笑った。
また気を使わせているのだと思って、ますます情けなくなる。
すると貴恵はお盆の上に乗せられたチラシを片手で撫でて、頭を振った。何故か、その表情に、決意が見える。
「本当に、いいって……っていうか、今、いいこと思いついた」
何が、と聞くことも出来ないような気迫に、都はたじろぐ。自分の失敗に触発されて、貴恵は何を思いついたというのだろう。
時折都は、貴恵の決断力や行動力に、圧倒されてしまう。
都もどちらかといえば、決断力も行動力もあるほうだと自分で思っている。そうでなければ、突然思い立って留学することもなかっただろうし、好きな研究を続けるために必要な条件を揃えることはできなかっただろう。
だが、漠然と目標へと向かう都と、確実に目標を目指して走る貴恵とは、根本的なところに違いがある。
剛直に、自分を貫き通そうとするその姿勢は、母親の桃子と酷似していた。
貴恵の決意は、どうやら固いようであった。