32、隣人・瀬田貴恵の頭痛の要因
貴恵の頭の中は整理がつかず、情報が氾濫している。
頷くこともできずに、冷めてしまったコーヒーを、ぼんやりと見つめた。
「いろいろとややこしいし……結局は私の自分勝手が原因みたいなものだから、貴恵にも話し辛かったのよね――ショックだった?」
黒いコーヒーの水面に、母の影がぼんやりと映っている。
貴恵は首をゆっくりと横に振った。
母の桃子と由郎が再婚するという話をされるんじゃないか、などと疑って悩んでいた自分を懐かしく思う。
どうやら自分は大きくアテを外して悩んでいたらしい。
「びっくり……したけど、ショックじゃ、ない。……きっと普通じゃない事情があるんだろうとは思ってたし……」
貴恵は言って、きゅっと唇を結んだ。
一度も会うことなく他界してしまった祖父と、やがてこのままではそうなってしまうであろう祖母。
どうしようもなく祖父母が哀れに思えたが、どうするべきか考えるのは貴恵ではない。
きっと桃子はそれを娘にも話さず、抱え込んで、ずっと悩んで来たのだ。
「……それで?」
先を促すように言葉を放つと、桃子は目を細めた。
「これからどうするのか、って話?」
「うん、まあ、それもそうだけど……お母さんは、どうしたいの?」
「……どうするか、じゃなくて、どうしたいか、なのね……?」
貴恵が頷くと、桃子は苦く笑った。
一口分だけ残っていたコーヒーを飲み干して、桃子は暗くなった窓の外を見やる。店内の照明がついて明るいために、窓は鏡のように反射して、外の世界をほとんど見せてはくれない。
「正直に言うわ――」
桃子はそう力強く前置きした。
「私は仕事をしたい。今軌道に乗っているのに、親の介護のために辞めるのなんてまっぴら御免だと思ってる。それが正直な気持ち」
それに、と言って桃子は付け加えた。
「実際のところ、私が仕事やめたら、米沢瀬田家の経済は崩壊するよ。由郎は俺一人で充分やとか馬鹿なこと言うけど、あいつの安月給じゃどうにかなるわけないでしょ」
「うん、まあ……うち子供多いからね」
「それで、貴恵に聞きたいのは、桂一郎のことなのよね」
「桂一郎?」
「あいつ、進路どうしたいって言ってる? もし事情知ったら、自分の気持ちがどうであれ、働くって言うと思うのよね」
ああ、と貴恵は頷いて納得した。
もしもそのような事情があるのだと知れば、間違いなく桂一郎は就職すると言うだろう。間違いなく、そうである。
「……きっと働くって言うよ。っていうか、そんな事情知らなくても、進学する気は最初からないみたいだし」
貴恵の脳裏に浮かぶのは、進路希望届けをもらった日に交わした会話だ。
――まあ俺頭も良くねえし……俺が進学するより、弟たちの進学費用稼いだ方が、将来的に考えると米沢家の経済は明るいと思うんだよな。
ただでさえ、そんなことを言う桂一郎が、事情を知って働かないわけがない。
貴恵の答えを聞いた桃子は、「やっぱり」と呟いて頭を抱えた。吐き出される溜め息は、とかく、重い。
「今の時代大学くらい行っときなさいよね。そりゃ伶二郎みたいに成績よくして上狙えとは言わないけど」
「……だけど、お母さん。さっき、学歴なんて関係ないって」
「そりゃ私はそう思うわよ。だけど、そう思わない人もたくさんいるの。まだ学歴差別は生き残っている。それだけは誰よりもわかってるつもり」
桃子の語尾に覇気が感じられる。貴恵の父、貴司のことを思っているのかもしれない。
貴恵は冷たくなったコーヒーを啜りながら、上目遣いに母親を見やった。
今までも自分の母親は気の強い女だと思っていたけれども、再確認させられたような気がする。
「――で、由郎おじさんはなんて?」
「予想はつくでしょ。……気にせんと最後に親孝行してこいってさ。私が気ぃ使ってると思ってんのよ。どんだけ、私が仕事をしたいんだって言っても、気にするな気にするなって、のれんに腕押し」
易々と想像できた。
「とにかく。私はここに残って仕事をしたいし、その方が米沢瀬田家にとってもいいし、桂一郎にも進学してほしいし、貴恵、あんたにもよ」
「……え?」
唐突に話の矛先が自分へと向いて、貴恵は間の抜けた返事をした。
「今日呼び出したのは、あんたに釘さしとこうと思ったから。もしも由郎に先手取られたら、家族全員で私を兵庫に送りかねないでしょ。だから先に貴恵に全部白状しておこうと思ったの。いい? 私は貴恵に進学してほしいし、自分が働いた金はそのためのものだと思ってる。別に気を遣ってるわけでもなんでもなくってね」
娘に辛い思いをさせまいと、そう思った気持ちは貴司も桃子も同じだろう。きっとこれは、桃子の愛情なのだ。
しかし、なんとなく、かつて桃子のことを名門校に入れ、一流の大学へと進めることを望んでいたという祖父母の姿が自分の両親と重なって、貴恵はなんとも言えない気持ちになった。
桃子にそんなつもりはないのだろうけれども、結局自分の子供に指図をしたがる親の気持ちに変わりはない。
どちらも、親の愛情ではないか。
しかし、この流れではそんなことは口が裂けても言えず、ましてや自分も実は就職しようかと考えていたとは絶対に言えず、貴恵は口を噤んだ。
そんな貴恵の葛藤など露知らず、はあと再び桃子は深い溜め息を吐く。
「絶対に由郎も私と同じように思ってると思って、ずっと相談してきたのに。あいつは馬鹿だから自分が稼げばなんとかなるとか思ってんのよね、本気で。本当、使い物にならん」
なるほど、そこで由郎にはアテにならないと切り捨てて、娘を味方につけようと白状してきたわけか、と貴恵は納得した。
また、それとは別の事実も同時に氷解した。
今までずっと、貴恵と米沢の兄弟たちが誤解してきた、その件である。
「お母さん……つまり」
貴恵は身を乗り出して、肘をついて脱力している母の方へと迫った。
「最近、いろんなところで由郎おじさんとこそこそ密会してたのって、このことを相談するため?」
桃子は手にしていた冷水のグラスを置いて、瞠目している。
もう答えは出ているようなものではあるけれども。
「何、あんた、気付いてたの?」
それを聞いて、貴恵もまた、ぐたりと脱力した。
桃子としては、自分のややこしい身の上を知っているのは由郎だけだからと由郎を選んで相談していただけのことなのだろう。
そしてそれを子供たちに聞かれて余計な心配をかけてはいけないからと、わざわざ子供たちの目を盗んで密会していたという、それだけの話に違いない。
子供たちに心配をかけまいというその気遣いはありがたいが、きちんと説明してほしかった、と貴恵はうなだれる。
おかげで、本当に余計でしかない心配をしてしまった。
「……てっきり、あたし達は、お母さんたちが再婚するんだと思ってたよ」
「私が? 誰と?」
「由郎おじさんと」
「は? なんで?」
桃子はさらに目を白黒させている。
貴恵は笑うことさえできずに、机に突っ伏した。
安堵なのか無念なのか、よくわからない感情がこみ上げてくる。それら全ての感情が混ざり合って、馬鹿馬鹿しくなった。嗚呼、馬鹿馬鹿しい、この世の全てが、馬鹿馬鹿しい。心配することとは、ただ滑稽なだけのことだ。
ゆっくり顔をあげると、桃子の怪訝そうな顔が目に入る。
全てが馬鹿馬鹿しく思えると同時に、無性に腹が立った。
「……いっそ結婚すればよかったのに」
「私が? 由郎と?」
そう、とぶっきらぼうに吐き捨てると、桃子は軽快に笑った。笑ってしまうくらい、有り得ないことらしい。
ますます貴恵は表情を険しくさせる。
「だってもうずっと一緒に住んでるわけだし、夫婦みたいなものじゃん。結婚したっておかしくないでしょ」
おかしいも何も、そういう問題ではないわけであるが、苛立つ勢いで言ってやった。
すると、桃子は「だからだよ」と爽やかに答える。
訝しげに目線を投げつけると、母はさらりと言ってのけた。
「だって今更、必要ないやんか」
東京に住んで数十年、ばりばりのキャリアウーマンをしている桃子は綺麗な標準語を使いこなすが、家族に対してだけたまに油断したように生まれた土地の言葉を使う。
その言葉を使う時、きっとそれが桃子の本音なのだろうと娘の貴恵は理解しているが、「必要ない」という言葉の意味を、貴恵には理解することができなかった。
今わかっていることはただ一つ、また一つ悩み事が増えた、というそれだけである。
心なしか、頭痛がした。
明日からは新年だというのに、部屋は大掃除できても心は掃除できない。
次から次に塵のように降り積もって行く悩み事を、どうしたものか。
全て白状してすっきりしたような顔をしている母親を睨みつけて、貴恵は苦りきる。
そろそろ帰らなくては、紅白歌合戦に間に合わない頃合いであった。