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隣人・瀬田貴恵の場合  作者: askaK
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31、隣人・瀬田貴恵と母の回想録

 駅に早めに着いて、待つこと五分、母親の桃子は約束の五時ぴったりに現れた。

 時間遵守の桃子は、早すぎず遅すぎずをモットーに生きている。

 さばさばしていて羨ましいばかりではあるが、そうそう真似できる芸当でもない。


 桃子に連れられ到着したのは、駅前の小さなビルに入っている喫茶店であった。

 エレベーターを使って五階まで上がったところにあり、貴恵はこの街に住んで数十年が過ぎるが、その存在さえ知らなかった。

 「穴場なの」と桃子は貴恵に耳打ちし、貴恵も納得する。

 まさかこんなところに喫茶店があろうとは、なかなか気付けまい。


 本格的なコーヒーが売りの店らしく、値段は高校生が来るには向いていない。

 普段なら、米沢瀬田両家の財政のことを思ってなるべく遠慮する貴恵であるが、今日はせっかくだからと一番美味しそうな物を選択した。が、運ばれてきたそれを飲んだところで、いまいち味の良さはわからず、次からは迷わず一番安いものを選ぼうと貴恵は決意する。


「……それで?」

 五階の窓から街を見下ろす母を一瞥し、貴恵は味のわからないコーヒーを啜った。

「急に何? 私だけ呼び出したりして」

「たまにはいいでしょ。親子水入らずっていうのも」

「今まで一度もなかったのに、急におかしいじゃん。何か話があるんでしょ」

 貴恵は白々しいことを言う母親に詰め寄るように、言う。

 桃子はしばし瞠目し、ややあって苦笑を浮かべると、黒に染まったコーヒーを啜った。

「……さすがに、バレてたか。……もしかして、桂一郎たちにも、バレてた?」

「――うん」

 貴恵は予感が的中したことを悟って、苦りきった。

 急に桃子が貴恵だけに話があると呼び出すこと自体が、珍しい。珍しいからには何かしらの理由がある。そして、心当たりがあるといえば、由郎とたびたび密会をしている件だけだ。

 そう教えてくれたのは他でもない、米沢の兄弟たちである。

 そのおかげで心の準備が少しはできたので、そのことに関してだけは彼らに感謝する。

「実はね」

 口を開いた桃子の目は遠い。遠いどこかを見つめているかのようだ。

 貴恵はごくりと唾を飲み込んだ。

「実は……由郎とはもう何度も相談したんだけど」

 付き合っているのだ、という話だろうか、あるいは再婚だろうか。

 貴恵は身構える。

「お母さん……実家に帰らなくちゃいけないかもしれん」

 結婚の挨拶でもするのだろうか。

「母さんの……つまり、あんたのおばあさんの面倒を見なきゃいけないかも……」

「……は?」

 思わず、間の抜けた声が溢れた。

「あんたにも、私の実家の話なんてほとんどしたことなかったね」

 貴恵が拍子抜けしていることには気付いていないのか、あるいは気付いていても気にしていないのか、桃子は貴恵を取り残して語り始めた。

 そしてやはり、語る桃子の視線は、どこか遠いところを見つめている。

「私の実家は兵庫の田舎の方にあって……そう、由郎の実家のすぐ近く。もう十何年も前に勘当されて以来一回も帰ってないのよね。お父さん――あんたのおじいちゃんが死んだのは五年前だけど、私、その葬儀にも行かなかったから。……今更帰りづらくてさ。でも、今、あんたのおばあちゃん、ほとんど寝たきりの状態になっちゃってるらしくて、親戚からしょっちゅう連絡がくるのよ。娘は何をしてるんだって」

 貴恵は話の展開に付いていけず、何度も何度も瞬いた。

 桃子は自分の昔の話をあまりしたがらない。そのため、貴恵は、桃子の実家がどこにあるのかすら、知らなかった。ただ、桃子と幼馴染である由郎の実家が兵庫にあるため、おそらくその辺りなのだろうとは思っていたが、そこには触れてはならない何か事情があるような気がして、貴恵は祖父母について知ろうとはしなかったのである。

 放心してしまった貴恵を見て、桃子が苦笑する。

「ま、ずっと伏せて来たことだから、混乱しても仕方ないね」

 桃子は静かにコーヒーを啜った。

「順を追って、全部説明するわ――」


 桃子も由郎も、出身は兵庫の山奥なのだと桃子は語った。

 同い年であったため、幼い頃からよく一緒に遊んでいたものであったが、先祖代々その土地に住んでいた桃子の一家と、父親の代からその土地に引っ越して来た由郎の一家とは、その頃から「家」の考え方が異なっていたという。

 由郎の家が放任主義で、様々な自由を認められていたのに対し、桃子の家は旧家でありとても厳しく、小さな頃から将来を親によって決められていたようなものであった。


 中学生になる時、中心地の方の名門女子校を受験させられた桃子は、見事に試験を通過して、その女子校の中で、後に米沢由郎の妻となる文子と出会った。

 文子という少女もまた、一風変わっていた。

 誰もが小学生時代に猛勉強を重ねてようやく入学試験を通過できるその学校に、文子は「名門女子校ってどんなところだろう」という興味本位でのみ挑戦し、簡単に試験を通過してしまったのだという。

 故に、進学校であり他の生徒が勉強に勉強を重ねている中で、文子は一人、自由であった。

 何にも縛られないその奔放な文子の気性に憧れ、桃子はますます己の家の窮屈さが嫌いになって、高校に入る頃には、とにかく家を出たい、この土地を離れたいという気持ちばかりがつのった。


 幸い、学業に熱心なふりをしていれば、桃子の両親は娘を認めてくれた。

 「東京の一流大学を受けたい」と言えば、彼らは快く応援してくれた。

 もとより、外聞を気にする親であったため、娘を一流大学へ入れることは、名門女子校へ入学させた時からの目標だったのかもしれない。


 真実のところは不明であるが、とにかく、両親の了承も得手、東京の大学への切符を手にした桃子は、嬉々として兵庫を飛び出した。

 その時にはすでに、生まれた土地に戻る気などなかったように思われる。

 一人で新たな世界へと飛び立ったような、そんな気になっていた。


 そして、中高一貫の女子校で六年間ずっと仲良くしていた文子も東京の大学へと進学し、そして幼馴染であった由郎も、関東への大学へと進学した。それが、全ての始まりだったのかもしれない。

 桃子は、知人の少ない新たな土地で、機会さえあればちょくちょく、文子とも由郎とも会うようにしていた。

 そんなある日、偶然、二人を桃子が仲介するかのような形で両方とともに会う機会があり、それが文子と由郎の出会いであったという。


「そしたらもう、由郎が一目惚れ状態。文子さんに会わせろ会わせろってうるさいの。自分で会いに行け、って蹴飛ばしたったけどね」

 そんな母の台詞に、なんとなく自分と同じ血を感じて、貴恵は笑った。

 桃子も笑い、話は先へと進む。


 自分にとって大切な二人の友人が恋人同士になることは、桃子にとっても喜ばしいことであったため、ようやく由郎の想いが成就した時には手放しに祝福してやったものだという。

 しかし、大学を卒業したら結婚しようと約束した二人を前に、桃子は突然得体のしれない恐怖に襲われた。

 自分は、大学を出たら、どうするつもりなのだろう。

 自分は、将来、何をしていくつもりなのだろう。


 桃子の目標は、とにかく実家から、解き放たれることであった。

 だが、東京の大学にきて、それを果たしてしまった今、明確な道は敷かれていない。

 いや、あるいは、両親たちの願いが桃子が東京の一流大学に通いエリートの道を進むことであったなら、自分は本当の意味で解き放たれてはいないのかもしれない。

 結局、自分は、親の敷いたレールの上を走り続けているのかもしれない。

 一体自分は、どうしたら自由になれるのだろう。


 おそらく、軽いノイローゼのようなものにかかっていたのだろう。

 親友二人が手を取り合って明るい未来へと進んで行くのを後ろから眺め、自分だけが暗闇に取り残されると不安に思っていたのかもしれない。

 とにかく、自分の道は自分で切り開くのだと東京でがむしゃらに就職活動を続け、勉強も続け、上を上を目指しているうちに、気付いたら疲労困憊で倒れていた。


 ビル群の中を疾走し、気を失い、目を覚ませば、桃子は病院のベッドの上に寝ていた。

 道端で呼吸困難に陥り、倒れていたところを運ばれたのである。

 その時に、倒れていた桃子を拾ってくれた命の恩人というのが瀬田貴司――貴恵の父親となる人物であった。


 貴司はそれからも、何かと桃子の病室を訪れた。

 これも何かの縁だと言って、たった数日だけのことではあるが、桃子にとてもよくしてくれた。

 それが堪らなく心地良くて、退院してからもしばらくは連絡を取り合った。

 誰でもいいから、人に縋り付きたかったのかもしれない。

 だが、しかし、それが瀬田貴司という人間でよかったと、今はつくづく思っている。


「ものすごいお人好しだったの。お人好しって言えば由郎もそうだけど、貴司はなんていうのかな……要領の悪いお人好しだったのよね」


 それが、貴司の欠点であった。

 とにかく、彼は要領が悪い。

 桃子より五歳年上であったが、定職にもついておらず、あらゆるところでバイトをしていた。それを学歴がないためだという輩もいたが、桃子はそうは思わない。桃子は高学歴といわれる人間を幾人も見て来たが、彼がそれらに劣るとは思わない。

 ただ、いかんせん、彼は人が良すぎるのである。

 困っている人を放っておけず、全ての人間に救済の手を差し伸べてしまうため、仕事にならない。

 そんな人間だった。


 そんな貴司に桃子は惹かれ、いつのまにか彼らは恋人と呼ばれる仲になったが、桃子の両親はそれを認めようとはしなかった。

 貴司には定職も学歴もないばかりか、父母の身元もはっきりしていない。

 それだけで、桃子の両親にとっては交際を反対するには充分すぎるほどであった。

 それでも反対を押し切って貴司と結婚すると、桃子は実家から勘当される形になった。


「願ったりだと思ったけどね。もう二度とあんな家には帰るもんかって誓ったもの」


 そんな桃子に貴司は困ったような笑いをよく見せていたものであるが、貴恵が生まれるとさすがに迷いも吹き飛んだ。

 子供には幸せになってもらいたいと彼はよく豪語していたが、はっきり言って経済力はない。

 それでも愛はあると真面目に言い兼ねない男だったので、大学卒業とともに就職を決めた桃子が働き金を稼ぐ形になった。

 もともと桃子は働くことが好きであったため、それに不満は少しもなかった。

 桃子の少ない初任給と、貴司のバイト料で過ごす質素な暮らしに、とても満足していた。


 その幸せが脆くも崩れ去ったのは、貴恵が生まれて一年が過ぎようとしていた頃のことである。


 その日は大雨であった。

 近所の皮が増水し、興味本位で見に来た若者が川に転落し、その場を通りがかった男がそれを助けようとして、ともに転落してしまったという。――貴恵の父、瀬田貴司だ。

 例えどんなに泳ぎが得意であろうとも、自然の力に逆らえようはずもなく、レスキュー隊が駆けつけてきた時には二人ともに冷たくなっていた。

 貴司は若者を救えなかったばかりか、自分までも巻き込まれて命を落としてしまったのである。


 その知らせを聞いた時、何の悪い冗談だと、桃子は思った。


 貴司らしいといえば貴司らしいが、あまりにも情けなくて涙が出てくる。

 だったらせめて、助けようとしていた人くらい助けろよ、やら、ミイラ取りがミイラになってどうする、やら、棺に向かって訴えても致し方なくて、涙が出てくる。

 もともと親類縁者のいない貴司の葬儀はあまりにも質素で、娘を勘当した桃子の両親もくるはずがなく、涙が出てくる。


 幼い貴恵を腕に抱えて、すっかり途方に暮れていた時、侘しい葬儀場に唯一参列するために来てくれたのは、米沢の夫妻のみであった。


 現れた米沢由郎と文子の夫妻はいつのまにやら三人の子持ちであった。

 長女の米沢都が生まれたことまでは覚えていたが、下に二人も子供が生まれていたなんて、と桃子はこの時初めて知り、その事実を知りもしなかったということが、彼らとの間に距離があったことを物語っていた。


 しかし、いくら間に空白の年数があったといっても、友人の溝はそう簡単に開いてしまうものではないらしく、話を始めると、すぐに大学生の頃に戻ったかのような錯覚を覚えた。

 米沢夫妻は、何故だかとても恐縮していた。

 どうしてもっと早く桃子の胸中を悟ってやれなかったのだろう、もっと早く自分たちが気付いて桃子と貴司に手を貸してやれていれば、こんなことにはならず、よしんば葬儀をやることになってもこんなに侘しいことにはならずに済んだかもしれないのに、と彼らは懺悔した。

 桃子にはさっぱり意味がわからなかったが、これは単なる自己満足だから、と二人はひたすら懺悔した。


 そして、「一緒に住もう」と、突然米沢の夫妻が提案してきたのは、貴司の葬儀から間もなくのことである。

 あまりにも突拍子のない提案に、桃子は愕然とした。

 いくら友人だからと言って、他人でしかない自分たちが同居するなんておかしいと、桃子の正論は彼らには届かず、すでに夫妻は準備を進めていた。

 都内の某所に新築マンションがあり、対して値の張るわけでもなく、お宝物件だと彼らは目を爛々とさせていた。

 そして「隣同士で部屋を買おう」と、「これからは助け合っていこうね」と笑ったのは文子だったと思う。

 考えても見れば、昔から、いつでもこういった現実味のない話を持ちかけてくるのは、大抵文子であった。そして、それに便乗するのが由郎である。

 今更子供が三人から四人になっても何も変わらないし、その方が兄弟が増えたみたいで楽しい。そのかわり、経済援助は頼んだ、と言って、米沢夫妻はローンを積み立て部屋を購入してしまった。そうなれば、桃子にも反論はもうできない。


「有り得へん、って思ったわよ。でも、米沢夫妻は昔からそんな感じだったから、私がいないと歯止めをかける人がいないんだ、と思って。一緒に住むことにしたわけ」


 その後は、目の回るような忙しさであった。

 米沢家にはさらに立て続けに二人の子供が生まれるし、他の子供たちもどんどん成長していく。

 次男伶二郎の気管支が悪いこともわかり、文子が伶二郎とともに田舎へ移り住むことが決まり、残された東京の家は由郎と桃子が分担して面倒を見る事になった。

 その上、なかなか昇進しない由郎と異なり、桃子は仕事にも向いていたのかどんどん上へと登り詰めて行く。

 今では家事の一切を貴恵が請け負ってくれているため楽になったが、数年前までは家以外のことを考える余裕などなかった。


「だから、お父さん、あんたのおじいさんが亡くなったって聞いた時も……それなりの衝撃は受けたけど、私の夫の葬儀にも来てくれなかった人だ。構うもんか、って突っぱねて。でもその所為なのか、お父さんが死んだ後、お母さんも寝込むようになっちゃったらしくてね……親戚中から親不幸者って呼ばれてんのよ」


 そう言って、桃子は長い話を終えた。

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