3、長女・米沢都の学校訪問
季節は秋。だが、九月と言えばまだ夏の名残も強い。
窓から差し込む日差しのせいで、教室の中は蒸し風呂のようだ。
それでも快活に動くことができるのは、高校生という若さ故であろう。
「桂一郎—、桂一郎っ! ちょっと来い」
数人のクラスメートと連れ添い教室を出て行こうとしていたところを引き止められ、米沢桂一郎は振り返った。窓際にいる級友の何人かが手招きしている。机に座っている男子と、窓から外を眺めている女子が何事かを話していた。
ようやく地獄の古典を終えて帰宅出来ると思っていたのに、と桂一郎は肩を竦める。一緒に帰ろうとしていた男子達に別れを告げて窓際へ行くと、「俺は連日バイトで疲れてんだ、帰らせろ」と相手の頭を掻き毟ってやった。もちろん本気で不愉快なわけではなく、相手もそれをわかっているため、「授業ほとんど寝てんだから体力余ってるだろ」と応じる。そして、女子が数人窓から見つめているその先を指し示した。
「あれだ、あれ。あれお前の弟だろ」
桂一郎はくるりと首を巡らせ、窓越しに校庭を見やった。日光がガラスを通して降り注ぐ。その眩しさに目を細めて、彼は校門の辺りに立っているその男子生徒に目を留めた。確かにそれは、同高校に通う一年生の米沢伶二郎である。彼はこの熱いのに炎天下で立ち止まり、誰かと話しているようだ。桂一郎はその相手を見ようと窓から身を乗り出して、顔を見るまでもなく気がついた。
「一緒に話してるの誰だよ。すっげぇ美人」
どうやら、桂一郎が呼び止められた理由はそれだったらしい。窓際の女子達もこぞってこちらを向いた。伶二郎ってば人気だな、と他人事のように心の中で呟く。
「みー姉……俺らの姉貴だよ。先週帰ってきたんだ」
答えると、「えっ、姉ちゃんっ?」と即座に反応があった。
「お前と似てねえな、姉ちゃんモデルみたいじゃん」
すかさず女子が突っ込む。
「でも、伶二郎君にはそっくりだよ」
そして彼女達は高く笑い声をあげた。本気とも冗談ともつかぬ調子で、「お姉ちゃんか、よかったー」と言う少女達に苦笑する。
伶二郎は、母親や姉の都に似て顔立ちが良い。その上一学期の期末考査の結果、見事学年首位に輝き、二学期の頭に行われた校内対抗球技大会においては帰宅部でありながらクラスの得点王となったため、その注目度はうなぎのぼりなのである。
桂一郎はすでに何度もクラスメートのミーハーな女子に弟を紹介しろと迫られていた。しかし、そういった空気に無頓着な桂一郎にはわざわざ仲介役になること自体が無意味に思え、直接本人に会いに行けと流した。それでも諦めない数人には、貴恵に聞けと言って厄介な役回りを幼馴染に押し付けた。
——同じクラスに属する米沢桂一郎と瀬田貴恵とは、家族ぐるみのお付き合いである、とはすでに周知の事実であった。
お付き合いと言っても甘い香りの漂うようなものではなく、どちらかと言えば生活臭漂う腐れ縁である、ということも有名である。入学当初は「付き合っているんじゃないか」とか「同棲中らしい」とか、いろいろと噂をたてられもしたが、中学の頃から仲良くしていた地元の同級生も多くいたため、すぐに沈静化した。その代わりに、彼等の間に漂う生活臭を揶揄して今では「熟年夫婦」と呼ばれるようになり、貴恵の方はうんざりしているようだった。桂一郎は何事にも鷹揚な性格なので、気にも留めてない。
その二人が、第二学年に進学した時、学校まで引き連れてきたのが弟・伶二郎であった。
その見栄えの良さにより一学期の頃からひそかにファンはいたらしいのだが、夏休みも終えて、今では爆発的人気である。そのアイドルが全校舎より一望出来る校門の前でスキャンダルかと思えば、相手は実姉であったということで、傍観者たちはすっかり盛り上がっていた。
「今度もまた彼女じゃなかったねー」
「だって作る気ないんでしょ?」
「知らない、本人が言ってたわけじゃないし」
「まー、中には誰かみたいに勘違いするのもいるけどね」
「あー、青島のこと?」
「馬鹿、何で言うの。わざわざ伏せたのに」
少女達はきゃらきゃらと笑っている。まだ教室の端に残っていた一人の女子生徒が、黙々と手を動かして帰りの仕度を整えていた。その女子生徒の名を、青島早苗と言う。
青島早苗も、どうやら伶二郎のスキャンダルが気になって教室に残っていたらしいのだが、高揚したクラスメート達のあからさまな陰口の餌食にはなるまいと逃げることにしたらしい。その方が懸命だと桂一郎も思った。
「あれ、伶二郎君いなくなっちゃったよ」
一人の少女が窓の外を一瞥して言う。一斉にそこにいた生徒達が視線を投げると、確かにそこには彼の影も形もなかった。だが、姉の都はまだその場所に残っている。
「……ってか、みー姉あそこで何やってんだ?」
最初に抱くべきだった疑問にようやく気付いた桂一郎は、眉をひそめた。
校門から動こうとしないのは、学校内に用があるわけではないということ。彼女はおそらく誰かを待っているに違いない。
なんとなく嫌な予感がして、桂一郎は窓際から離れた。
「……桂一郎?」
「あー、俺帰るわ」
不可解そうにこちらを伺ったクラスメート達にはひらひら片手を振って、桂一郎は廊下へ飛び出した。都は、頭は良いが、時折常識に欠ける。そういうところも母親文子と瓜二つだ、と桂一郎は思っていた。
とにかく、姉が何かをやらかさないことを祈りながら階段を駆け下りる。
玄関ホールを抜けて校庭へ出ると 、まっすぐ校門へと向かった。
校舎から校門へは部活動のない生徒達によって人の波が出来ている。都は楽しそうにその流れを眺めていた。姉弟とは言ってもまるで性格が異なるため、桂一郎には彼女の思惑が全くわからない。
「みー姉っ!」
声をかけると、にっこり笑って都はこちらを向いた。
「桂一郎!」
嬉しそうに笑う顔は、今は亡き母文子によく似ている。綺麗にウェーブした髪が風に揺れていた。
「みー姉……何してんの、こんなとこで」
「午後、雨が降るらしいから、傘」
そう言って都は手に握っている傘を四本持ち上げて見せた。が、空を仰げば、何処までも青い。一体何処から仕入れた情報か知らないが、雨が降るとは到底思えない天気である。
「……晴れてるけど」
「これから降るかもしれないでしょ?」
「だからわざわざ来てくれたの?」
「うん!」
「……とかなんとか言って、本当は単に俺らの高校見に来たかっただけなんじゃねーの?」
桂一郎が半ば呆れて傘を受け取ると、都は「うーん」と唸った。図星だったらしい。
「やっぱ、バレたか」
「やっぱ?」
都は困惑気味に笑う。
「さっき伶君にもそう言われて……怒らせちゃった」
「伶二郎を?」
うんと言って肩を竦める都の腕に抱かれた傘は、一本桂一郎に渡され今は三本だ。一本は都自身の物、もう一本は妹同然の貴恵の物、そして最後の一本は伶二郎の物だろう。校門の前で都と伶二郎は何かを話し込んでいたが、伶二郎はそのまま傘を受け取らずに帰ってしまったようである。
都は傘を撫ぜて、苦笑した。
「やっぱり余計なことしちゃったよね。次からは気を付ける」
今度は桂一郎が唸る番であった。
確かに、降るかどうかもわからない雨のために傘を抱えて学校までやってくる都も都であるが、それを冷たく伶二郎が突き放したというのも、妙な話であった。
例えば、三男、今年中学生になったばかりの英三郎ならば、姉が学校までやって来た事実を恥ずかしがって怒り、逃げていく姿も想像出来るが、伶二郎は滅多にそういう態度を取らない。むしろ彼は、同年代の男子であれば当然嫌がりそうなどんな恥ずかしいことでも得意の笑顔の仮面を被って難なくこなす。桂一郎はそう思っていたのだが。
「何かあったのかな」
無意識に呟くと、彼の意思を汲み取ったのか、不安そうに都がこちらを窺った。帰国してからというもの、彼女が伶二郎と時折ぎくしゃくしていることに、桂一郎も何となく気付いてはいた。伶二郎が何を考えているのかはさっぱり読み取れないものの、姉が必死になっているのは明らかだ。これ以上心配させるのも可哀想に思えたので、茶化す。
「ドラマの再放送が見たかったとか」
すると、都も気を取り直したようにくすと笑った。
「伶君が? 清四郎ならわかるけど」
「意外に伶も楽しみにしてるかもよ。ま、ゴールデンタイムテレビに張り付いてんのは清四郎と貴恵だけだけどな。よく飽きないよな」
「あ、そうだ。貴恵は?」
思い出したように都はクリーム色の傘を掲げた。
それは、普段瀬田家の玄関に差してある貴恵の物だが、都が不法侵入して奪ってきたというわけではない。
米沢家と瀬田家はほぼ同居状態である。住民票の都合で法律上は分けられてはいるものの、実際には米沢と書かれた1015号室が男部屋、瀬田と書かれた1016号室が女部屋として使われている。つまり、都の寝室は、「瀬田」という表札のかかっている1016号室の方なのだ。
「ん、貴恵は呼び出しくらってたからなー」
桂一郎は校舎の方を仰いだ。そろそろ人の流れも細くなり、校庭にはサッカー部が走っている他に人影もない。当然、その中に貴恵の姿はなかった。
「呼び出し? 何かやらかしたの?」
きょとんとした都に、思わず噴出す。
「違う違う。あいつ学級委員だからさ、なんかまた担任に厄介事押し付けられてんだよ」
「へえ、凄い。貴恵、成績いいんだ?」
「いや、成績は良くも悪くもねえけど……ま、しっかりしたお嬢さんだから」
最後の一言には皮肉を交えたつもりであったが、都には伝わらなかったらしい。彼女は感心したように「へえ」と声を裏返らせた。
実際には——と桂一郎は今年の春のことを回想する。
四月の初めのホームルームで、まず決めなくてはならなかったのが、クラスから男子一人女子一人選ばれる学級委員であった。男子の方はすぐに決まったのだが、女子はなかなか決まらず——と言うのも、立候補した男子生徒がクラスメート達に避けられているいわゆる「嫌われっ子」であったため、女子生徒達は面倒臭さも手伝って誰もやりたがらなかったのである。
時間ばかりが押していく中、「じゃ、私がやる」と手を上げたのが、貴恵であった。あの殺伐とした空気が続けば、嫌な揉め事も勃発したかもしれない。それを止めようと思ったのかどうかはわからないが、貴恵はそういう時、非常にさばさばしていた。 そんな所は好ましいのであるが——。
「うーん、じゃあどうしよう……。まだかかるかなぁ」
都の言葉により現実へと引き戻され、桂一郎ははっとした。誤魔化すように頭をかいて、「さあ」と首を傾げる。実際、貴恵がいつ帰宅出来るのかはわからなかった。
それにしても、校門の前でこうして姉と二人で立ち尽くしているのもおかしな話である。時々サッカー部の連中が、好奇心の目でこちらを見ていることには気付いていた。
「……雨、降らなさそうだし、帰んねぇ?」
ほんの少し居心地が悪くなり、おずおずと提案すると、都も「そうだね」と快く承諾した。もう高等学校の校舎見学には満足したらしい。
そうと決まると、二人はさっさと学校を後にした。
空は依然として綺麗な水色だ。雨が降ることは、ないだろう。
傘を携帯していることが、滑稽にすら思えた。