27、長男・米沢桂一郎と青島その3
教室内に残っていた生徒も徐々に帰り始め、窓から見下ろせるグラウンドでは生徒がぞろぞろと列をなして校門へと向かっていた。
まだ教室内に残る数人は、雑談したり自分の荷物を整理したりしている。
そんな教室内を一望し、さてそろそろ帰るかと桂一郎は肩掛け鞄を手に取った。
それと同時に、教室の後ろ側の扉が開かれて、誰か忘れ物でも取りに帰ってきたのだろうかと思えば、そこから現れたのはこのクラスの人間ではない。だが、それは、桂一郎のよく見知った人物である。
「きー姉!」
きらきら輝く茶髪の持ち主は、一つ学年が下の生徒であり、桂一郎の実弟であった。
兄のことなど一瞥もせずに、彼はまっすぐ貴恵を目指して教室内を歩く。何人かがその方に興味深そうに視線を向けたが、すぐに薄れた。一月前前まではスキャンダルの対象であった彼らも、そろそろネタとしては古いらしい。
「あ、ホームルーム終わったの?」
気付いて彼の方向を向いた貴恵に、伶二郎は満面の笑みを浮かべて頷いた。一緒に帰ろうという誘いにでも来たのかと思えば、彼はまた突拍子もないことを聞く。
「明日、きー姉空いてる?」
貴恵も、突然の来訪の次に投げかけられた質問に、きょとんとしたようだ。
「うん……空いてる、けど?」
「本当? じゃあ、公園行こう?」
「……公園?」
ますます不可解な誘いである。
とは言っても伶二郎がマイペースなのは昔からであり、この不可解さには貴恵も桂一郎も慣れていた。
何を考えているのやら、と呆れる反面、伶二郎なら仕方ないか、と何故か納得させられる。
というわけで、貴恵は呆れたように笑った。
「まー、いいけど……イブに二人で公園?」
「うん。きっと楽しいよ」
貴恵は要領を得ない会話に苦笑しながら、机の横にぶらさげていた自分の鞄を背負った。すでに帰る準備は万端の伶二郎と、当然のように二人で教室を出て行く。
――ああ、そうか、と桂一郎は思った。
いつもなら担任から逃げるためにさっさと帰ってしまうはずの貴恵が教室に残っていたのは、伶二郎を待つためだったのかと、この時になってようやく知った。
(なんだか、いびつだなぁ)
ふと、桂一郎は、そんなことを思う。
傍目には微笑ましいカップルのような光景にも見えるだろうが、桂一郎にはどうにも、彼らの関係は歪んで見えた。
彼らは恐らくカップルではない。だが、友達でもなければ姉弟でもない。では、何なのだろう。
彼らのことが心配ではないと言ったら嘘であった。だが同時に、自分が口出しをするべきではないということも、重々分かっていた。
そして、もう一つ気にかかるのは――桂一郎は教室の箸で、不愉快そうにしているクラスメートのことを見やった。
もはや学校中の誰もが、貴恵と伶二郎のことは気にしていない。
その話題は過去の話、すでに古いスキャンダルであるとして、次の話題に食いつこうとしている中で、この青島早苗という少女だけは、彼らの話題にしがみついて離れなかった。
まるで、意固地になっている子供のようだ。
何気ない日常の中でも彼女が貴恵のことを睨みつけている姿は度々目撃されていたが、当の貴恵が全く気付いていないため、どうにもならなかった。
「おーい、お前さ」
声などかけないで、無視をして帰ってしまえばよかったのに、声をかけてしまったのは、ある意味では八つ当たりのようなものだったのかもしれない。
「いい加減、あいつら睨むのやめねぇ?」
青島はぐるりと首を回し、気色の優れぬ顔をこちらへ向ける。
これは相当機嫌が悪そうだと思うものの、声をかけてしまった手前、逃げるわけにもいかない。
「別に、睨んでないんだけど」
「あ、そう」
青島は、あからさますぎるほどに険悪な顔をして貴恵を睨みつけていたと思うのだけれど油を注ぎたくはなかったので、これ以上は言うのをやめた。
早く帰ろうと、桂一郎はガムテープで段ボールに蓋をする。
しかし、声をかけられた青島の方はそれで引き下がる気はないらしく、机上に散った教科書をまとめながら、きつい口調で続けた。
「それに、百歩譲って私が睨んでいたとしても、それを米沢くんに言われる筋合いはないと思うわ。『俺には関係ない』って」
まとめた教科書をバインダーの中に閉じ込めて、
「そう言ったわよね?」
鼻であしらわれる。
桂一郎は、内心、声をかけてしまったことをものすごく後悔していた。
青島は今日は特に機嫌が悪かったらしく、いつもに増してしつこく絡んでくる。おそらく、期末試験の結果が、思うほど良くなかったことが悔しかったのだろう。それでも成績上位者として廊下に名前は貼り出されていたのだから、いいではないかと桂一郎は思うのだけれど。
桂一郎はガムテープをびりと破り、段ボールを頑丈に固定する。
「うん、まー……そりゃ、俺はあいつらのことには関係ないけどさ」
必死に口籠りながらも答えると、優等生よろしくバインダーを脇に抱えた青島に睨みつけられた。
「だったら放っておきなさいよ。それとも、今更首を突っ込む気?」
首を突っ込んでいるのはお前だろうが、と言い返したいが、飲み込んだ。これ以上青島の神経を逆撫でしたくはない。
貴恵は、桂一郎には「苦手な人間がいない」などと抜かしたが、決してそんなことはないと思う。現に、桂一郎はこの女子生徒がとても苦手であった。何しろ、彼女と話す時には言葉選びに恐ろしいほど神経をすり減らさなくてはならないのだ。
「……伶二郎はさ、何かよくわかんねえけど、結構前から悩んでるらしいんだ。俺には言わねえけど」
「そりゃそうでしょ。そういう人だもの」
あたかもよく知っていると親密さを強調するように言われて、乾いた笑いが溢れそうになるが、押し込めた。
「まーそういう人なんだよな、確かに……でも貴恵にはすっかり悩みを打ち明けちゃったらしくてさ。そんで、二人で悩んでるわけ」
あまり人の動向に聡くない桂一郎でも、その程度のことはわかっていた。
二人の関係が「いびつ」になったのは、あの文化祭の夜からだ。伶二郎はあの夜に、貴恵に何かを打ち明けたに違いない、と。
「つまり……何?」
殺気立った目で睨まれて、自然と口がへの字に曲がる。
「他人が口出しするようなことじゃねえってこと」
「してないわよ……大体あんただって他人じゃない」
「だから俺は無関係だって言ってんじゃん」
「だったら私に文句言いに来なくたっていいんじゃない?」
覚えず、嘆息していた。せずには、おれない。
「――だってお前、伶二郎のこと好きでもなんでもないじゃん」
それが、最もこの女子生徒を苦手とする理由であった。
ここ最近、青島を見ていて気付いたことは、消して彼女は伶二郎に恋心など抱いていないということである。
九月頃、青島と伶二郎の間に噂が持ち上がった時、伶二郎の親衛隊とも呼べる熱狂なファンたちは、散々青島のことを非難した。
しかし、青島はそれでも良かったのだ。
それほどまでの人物を、手中に収めたのだという満足感があったから、彼女はそれで良かったのである。
だが、よもや自分がフラれるなどということは、予想だにしていなかったに違いない。
青島は、その事実を認めることができなかった。
彼女は、周囲に妬まれることは心地良く思えても、蔑まれることだけは許せなかった。彼女はプライドが高い。伶二郎の彼女だから受ける嫌がらせは心地良くとも、伶二郎にフラれた女などと言われることは絶対に認めることができなかったのだ。
その証拠に、桂一郎に図星を差された青島は、黙りこくったまま唇を噛み締めている。
桂一郎はしばらく彼女の反応を待ったものの、一向に動く様子がないので、段ボールを腕に抱えると、鞄を肩に背負った。
「お前の生き方、辛いと思うよ、俺は」
一方的に投げかけたつもりの台詞であったが、予想外に返事が戻ってくる。
「……あんたには、私の生き方にケチをつける権利まであるっていうの?」
「……ないだろーね。気にしなくていいよ、別に」
はあ、と息を吐いて、帰ろうと踵を返す。
「言いたいのは、あんまりあいつらのこと、困らせんなよってこと」
「――だから、あんたには、関係ない」
「あるよ」
今度こそ、自ずと乾いた笑いが漏れた。押しとどめることは、できない。
「俺、あいつらの兄貴だから。――じゃあ、よいお年を」