26、長男・米沢桂一郎の正義感
関東一帯に空っ風が吹き荒れる。雪は降らないものの、空気は冷え込んで、街を行く人々を凍えさせた。
暦は師走も終わり、年末である。
クリスマスという西洋生まれのイベントを二日後に控えたこの日、桂一郎たちの通う高校は、登校最終日であった。
教室の中は騒然としている。
今年最後のホームルームが終わり、解散の号令がかかったところであるが、まだ生徒たちは友達と話すことに夢中で教室から出ようとしない。
桂一郎も例に漏れず教室から出ようとはせず、配られた自分の成績表をぼんやりと眺めていた。――我ながら、お粗末な結果である。
「――何番?」
不意に声をかけられたが、桂一郎は動じなかった。
それは、聞き飽きるほどに、よく聞いた声である。
「162番。お前は?」
「勝った。105番」
桂一郎の隣に立つ貴恵は、無感情に答えた。
その答えを受けて、桂一郎はふんと鼻で笑う。
「なんだ、俺とほとんど変わんねえじゃん」
「は? 60人違うんだけど」
「100越えたらみんな一緒だよ」
貴恵は渋い顔をしただけで、それ以上突っかかってはこなかった。一学年二百人弱のこの学校では、百を越えれば、つまり、半分より下位ということになる。
貴恵は冴えない表情で息を吐き、成績表を鞄にしまった。それと同時に、もう一枚、本日のホームルームで配布されたプリントをちらりと眺め、鞄にしまう。
「桂一郎、あんた、進路希望どうするの」
そのプリントの中身について問われて、桂一郎は言葉に詰まった。進路なんて決めていないどころか、まだ見えてもこない。
「俺は……つーか、お前どうすんだよ」
「私は短大か専門かなぁって思ってるけど……ってか、あんたに聞いてんの」
突き返されて、反射的に空笑いが漏れた。
「ま、俺は家のこともあるしな。まだいろいろ考えるよ」
「……それ、就職するってこと?」
貴恵の声に、驚嘆が混ざる。
驚かれたことに瞠目しながら、「可能性の一つ」と桂一郎は首を竦めた。
「まあ俺頭も良くねえし……俺が進学するより、弟たちの進学費用稼いだ方が、将来的に考えると米沢家の経済は明るいと思うんだよな」
「将来?」
「そーそー。俺が金稼げば、その金で伶がいい大学行けるかもしれないだろ。そしたら伶がエリートになって、莫大に稼いできて、俺にも金が入るという仕組み」
単純馬鹿、と呆れられるかと思えば、貴恵は意外にも黙りこくって、何かを考え込んでいるようだった。
予想外、と思いながら、桂一郎は軽い口調で続ける。
「伶だけじゃなくて清四郎も期待できそうだな。まー、英三郎は今から見込みねーけどな!」
野球一筋で学期末の成績表が見るも無惨な形になって戻ってくる三男坊はしかし、野球部では期待の新人だ。彼には彼の道があるだろう。
そして、期待と言えば、二男の伶二郎である。
伶二郎は今学期もまた前学期に続いて見事に総合学年首位に輝き、人々の注目をますます集めている。さほど優秀な学校でもないため、彼にとってはトップに立つことなど何でもないことなのかもしれないが、それでも連続首位とは頼もしい。
伶二郎がいれば、米沢家の前途は明るい。と、桂一郎は思っている。
「……そっか、就職って手もあったか……」
貴恵が、神妙に呟いた。
「あ? お前、進学すんじゃねーの?」
「別に決めてたわけじゃないし……ってか、就職っていう道をなぜか、忘れてた」
そういう貴恵の顔つきは真剣だ。この高校は有名な進学校でもなんでもなく、学年の半分は就職するのであるが、本当に彼女はその可能性を失念していたらしい。
桂一郎は眉根を寄せた。
彼女が失念していたその可能性を提示したのは他でもない桂一郎であったが、貴恵が働く未来が、どうにも想像できなかった。それはもちろん、いつかは彼女が社会に出る日も来るであろうが、それはまだ先のことだ。
それに、成績こそぱっとしないものの、彼女は決して勉強のできないわけではない。
どうしても家事に従事しなくてはならない現状で、その時間がとれないだけであり、もともと頭の悪いわけではないのだ。貴恵の母親である桃子は学生時代は成績優秀で、今も企業を引っ張る能力の高い女性である。貴恵は彼女の血を色濃く受け継いでいると思うのであるが。
二人を口を噤んで、それぞれ物思いに耽った。
教室の中は未だ雑然としており、クラスメートたちの笑い声が飛び交う。
そんな二人がようやく思考を止めて我に返ったのは、教室の後方の扉を開けて、白根という男子生徒が入って来た時であった。
貴恵とともに学級委員を務める彼は、何かと「学級委員」という役職にかこつけて用事を押し付けてくる担任に、弱い。貴恵のように要領よく逃げることもできずに、何かあるごとに担任に捕まっていた。
そして、登校最終日のこの日までも、面倒事を押し付けられたらしい。
白根は貴恵を見つけると、ほっとしたような表情を浮かべて、言う。
「あ、瀬田さん。先生が、学級委員に冬休み中にやっておいてほしいことがあるって……」
「……。……はぁ?」
消え入るような白根の申し出を受けて、貴恵はあからさまに不機嫌そうな返事をした。
どうやら、この白根という男子生徒、担任から逃げられなかったばかりか、貴恵の分の仕事まで丁寧に仰せつかってきたらしい。
努力に努力を重ねて担任から身を隠していた貴恵にしてみれば、堪ったものではないだろう。
彼女の額に青筋が立ったのが、桂一郎にはよくわかった。
「なんであんたそんなものもらってくんのっ!! つーか、どうして、あたしまでっ!?」
白根はすっかり気圧されて、担任から受け取ったらしい段ボールを抱えてたじろいでいる。
「だって、先生が……」
「学級委員はぱしりじゃないっての!! あんたもどーして言い返さないわけっ!?」
「だ、だけど……」
「もー……冗談じゃないよ。これでまた仕事やったら図に乗るんだから。あたしやんないよ?」
「そんな、困るよ」
貴恵は苛立ったように、溜め息を吐いて、たじろぐ白根を睨みつける。
「大体どうして白根は学級委員になんて立候補したわけ? ぱしられたかったわけ?」
「そういうわけじゃないけど……」
みるみるうちに縮こまって行く白根に、桂一郎は哀憐の眼差しを向けた。
貴恵の言い分のわからないわけでもないが、そこまで白根を責める必要もないだろう。それでなくとも、白根は日々周囲のクラスメートに責められてばかりなのだ。彼のはっきりしない物言いが周囲を苛立たせるのかなんなのか、桂一郎にはわからないけれども。
「まー、点数稼ぎだ、点数稼ぎ。いいことしとけばいつか絶対に報われるもんな」
このまま傍観しているのも寝覚めが悪く、桂一郎は白根に助け舟を出してやることにした。
「貴恵も点数稼いどけよ。いつか報われるって」
「誰が報酬くれんのよ」
「神様?」
「そんな安い神様なら、とっくに私は何回も報われてるはずでしょーが!!」
「うるせーなぁ、わかったよ、じゃあ、貴恵がやんなきゃいけねえ仕事は俺が持って帰る」
「はあっ!?」
貴恵の鋭い眼差しが、ぐさりと桂一郎へと突き刺さる。
が、生憎こちらはこの眼差しには慣れていた。
ものともせずに、桂一郎は、目を白黒させている白根の方を向いた。
「てかどういう仕事押し付けられたんだ? 俺にはできない?」
「いや……えっと、今年の卒業式に、三年がつけるコサージュ作るの手伝え、って……」
桂一郎は内心失笑する。
貴恵が嫌がるわけだ。明らかにこれは学級委員の仕事ではない。
「簡単なの?」
「多分……花にこの緑の茎つけて、テープで葉っぱと安全ピンを固定したら完成だって」
「何個?」
「予備も入れて……211個」
「……なるほど」
確かに、一人でやりたい数ではないなと思った。
冬休みがあるのだから、毎日コツコツ続ければ、出来ないわけでもなかろうが、白根にも予定はあるだろう。貴恵と半分割するつもりだったに違いない。
桂一郎は、「わかった」と膝を叩いた。
「百五十、俺が持って帰るよ」
「え、そんなに……?」
「おう、うち家族多いから、みんなでやればあっという間だろ」
貴恵が隣で嫌悪感たっぷりに声をはさむ。
「え、それ、あたしにもやれってこと?」
「別にやらなくてもいいけど、なんだかんだ言ってやるだろ、お前は」
貴恵はぐ、と言葉に詰まり、大仰に顔をしかめた。だが、貴恵の性格上、家の中にこんなものが放置されていたら、さっさと片付けてしまいたくて仕方なくなるに違いない。
貴恵がこれをやれば、清四郎も喜んで手伝うことだろう。彼はこういった内職のような細かい作業が好きである。
すると、伶二郎が「楽しそうだ」などと言いながら参加してくれるに違いない。彼は経験したことのない真新しい作業が何であれ、好きだ。
姉の都は「手伝って」と頼めば頓着なく手を貸してくれるだろう。瀬田家の母桃子も仕事のない時には手伝ってくれるかもしれない。
――ちなみに、三男英三郎と、父由郎は、あまりアテにしていなかった。面倒くさいと言いかねないし、そもそも不器用な彼らに任せたら、造花が枯れてしまうかもしれない。
むすっと黙り込んだ貴恵のその態度は承諾であると理解して、桂一郎は白根から段ボールを受け取り、その中身の役三分の二ほどを目分量で受け取り、もう一つの段ボールに移し替えた。大して重い物でもないし、段ボールは桂一郎が持って帰ってやるつもりだ。
白根は不機嫌そうな貴恵に怯えた様子を見せながらも、おずおずと「ありがとう」と謝礼する。
「いいってことよ」という桂一郎の抜けた返事にほっとした表情を見せて、彼は自分の席へと戻って行った。
段ボールが途中で壊れてしまうことのないように、教室に備え付けられているガムテープでしっかり補強しながら、桂一郎はちらりと不機嫌そうな顔をしている幼馴染を見やった。
「――不満?」
問いかけると、
「別に」
返答は短い。
てっきり、「当たり前でしょ!!」と怒鳴られると覚悟していた桂一郎は、拍子抜けする。
とは言え、怒鳴られたいわけではもちろんなかったため、すぐににやりと口元を歪ませると、ガムテープを引きちぎって窓に寄りかかった。アルミサッシは制服越しにも冷たい。
「お前だって白根と一緒、自分で手ぇ上げて学級委員立候補したんだろ。細かいことぐちぐち言ってんなよ」
まーね、と貴恵はやはり短く答えて、足を貧乏揺すりするかのように小刻みに震えさせた。
一学期の初めのホームルームにおいて、学級委員を決める際に、彼らのクラスは散々揉めた。その揉め合いを止めたのは、他ならぬ貴恵だ。「誰もやらないなら私がやる」と机を叩いた姿は、とても印象的であった。
桂一郎はその時のことを思い出しながら、言う。
「正義感強いのはいいけどよ、やるって決めたんなら最後まで責任もってやれよ」
「……別に、正義感から手ぇあげたわけじゃないし」
小刻みに震えていた貴恵の足が動きを止める。
「私は桂一郎みたいに、人が良くないから」
独り言のように吐き出されたその言葉に、桂一郎は一瞬、呆気にとられた。
貴恵とともに過ごしてきて十数年、互いにほとんど家族のような存在で、遠慮などなく、くさすことはあっても褒めることなどほとんどない。
そのため、反応が一テンポ遅れた。
「……えっ? 何、お前、褒めてんのっ?」
間の抜けた反応に、貴恵が失笑する。
「褒めたっつーか、事実言っただけだし」
「うわー、お前が俺褒めたら雪降るじゃん!」
「いいじゃん。明日クリスマスイブだし」
「ばっか、ホワイトクリスマスならいいけど、猛吹雪のクリスマスとかじゃ誰も出かけらんねえよ」
いつも通りのかけあいをして、ようやく苛立も収まって来たのか、貴恵は大きく伸びをした。
すぐに怒る貴恵は、その怒りを忘れるのも早い。
そのかわりに何か思うところでもあるのか寂しげに笑って、
「あたしもあんたみたいに、苦手な人間とかいなければよかったのに」
と言う。
今日はどうも様子がおかしい。貴恵がそんなに殊勝だと、調子が狂うではないか。
桂一郎は再び面食らっていた。
「いや……そんなことねーよ。……俺だって苦手な人間くらいいるし……」
調子が狂って、ぼそぼそと呟くように言うと、貴恵はふっと笑った。
今まで十数年も一緒にいて、見たこともなかったような笑顔に当惑する。
何か悩みを抱えているのだということはわかるがしかし、その内容まではわからない。
故に、閉口するしか術がなかった。