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隣人・瀬田貴恵の場合  作者: askaK
24/39

24、隣人・瀬田貴恵と呪詛の言葉

 なんとか無事に期末考査を乗り越えることのできた土曜日、その日は穏やかな冬晴れであった。

 朝、家を出た時には吐く息も白く、手袋の上から何度も手をこすりあわせたものだが、試験の終わる正午頃には、太陽が眩しく地上を照らし、十二月にしては暖かな陽気であった。

 試験という名の重圧から開放された貴恵は、終業のチャイムの音と同時に、鞄を手に取るなり教室を飛び出した。

 試験監督をしていた教師とあやうくぶつかりそうになって怒鳴られたが、軽く会釈をするだけで済ます。

 貴恵は今、急いでいるのだ。聞き飽きた説教に時間を割いている場合ではない。

 校舎を下って正面玄関を飛び出し、校門に辿り着く頃には、貴恵より荷物の準備にもたついていた桂一郎が追いついた。

 二人は校門を飛び出すと、家へ向かう帰路とは逆の方向へ向かって走る。

 歩道のない狭い道に出て、車を避けながら走り、車も通れない裏道を通り抜けた。大人一人分ほどしか空いていない家と家の間をすり抜ける頃には、すっかり息が上がっていた。後ろを走る桂一郎が「今何時?」と聞いて来たが、無視を決め込む。余計なことに体力を消耗する余裕はない。


 そして走り続けた二人がようやく足を止めたのは、目的地である中学校の裏門の前に到着した時であった。

 そこは、桂一郎と貴恵の母校であり、また、現在米沢家三男・英三郎の通っている中学校でもある。

 地図に描かれた大通りを辿って高校からここへと向かうのは、とてつもなく回り道であると二人は知っており、小さい頃から慣れ親しんだ、猫の通り道を辿って一直線に目的地を目指したのであった。


「……すっげー、五分で着いた」

 校舎の裏に備え付けられた古い時計を見上げ、桂一郎が感動したように言う。

 しかし、五分間疾走し続けた貴恵は、それに答えることができなかった。

 息が切れ、体中が熱い。マフラーを取り払ってコートも脱ぎ、冷たい空気を吸うたびに痛む喉を押さえた。

 隣の男は、そんな貴恵の様子に気付きもしない。

 伶二郎なら、ここで荷物の一つは持ってくれるのに、としょうもないことを心の中で毒づきながら、裏門をくぐって校内へと立ち入った。「すげー」やら「懐かしー」やらを連呼する桂一郎もその後に続く。


 そもそも二人がこの中学校まで来たのは、二年前を懐古するためでもなければ、持久走の練習をするためでもない。

 週休二日制によって土曜日に授業のないこの中学校では、土日になると部活動が盛んに行われていた。

 今日は、米沢家三男の英三郎の所属する野球部の練習試合がグラウンドで行われる。そして、それは、はじめて英三郎がレギュラーとして出場する試合でもあった。

 要するに、彼らは弟の勇姿を見学するために、試験の終わるなり体力のあらん限りを振り絞ってここまで走ってきたのであった。


 今朝、家を出る前には、英三郎本人に「絶対来るな」と散々どやされたものである。が、しかし、今日は貴恵たちは試験最終日であるため、丁度試合の始まる時間に合わせて中学校を訪れることができる。その上、久々に夜は外食をすることに決めていたため、それまでの時間つぶしになるからと言付けて、押し切った。

 とは言え、実際のところ、桂一郎と貴恵の中に、二年ぶりに母校を見たいという気持ちがあったことは否めない。恩師に会って、ついでにいろいろと話をしてくるつもりだ。

 そんな兄姉の計画を知って、「だから嫌なんだ」と言った英三郎の台詞は聞こえなかったことにした。別に兄や姉が自分の学校に来るだけのことを、それほど恥ずかしがらなくてもいいのに、と思う。



 というわけで、貴恵と桂一郎の二人は、慣れた足取りで校舎を横切り、グラウンドへと向かった。生徒のいない廊下は閑散としていて、昔通学していた頃よりも、広く感じられる。

「そういえば、伶は?」

 桂一郎の声が、古い校舎の中に反響した。

 彼の弟である伶二郎は貴恵たちと同じ高校に通う一年生で、試験日程も同じだ。当然彼も今日が試験最終日であるはずで、一緒に来れたはずなのに、と桂一郎が不思議そうに首を傾げている。

 それに対して、伶二郎本人からその理由を聞いていた貴恵は「ああ」と頷いた。

「伶二郎も来たがってはいたんだけどね。一年はこの後総合的な学習があるんだって」

「あー……あったなぁ、そういえばそんなの。あの意味あんのかないのかわかんねえやつ」

「そうそう」

「なるほど。どーりでこないわけだ。いつもならあいつ、弟の野球の試合なんて、誰よりも面白がって見に来るもんな」

「面白がってるのはあんたでしょ」

 ばし、と切り捨てると、「そんなことはない」と桂一郎はおどけた調子で反論した。つまり、面白がっている。

(まあ、確かに……伶二郎が来ないのは、珍しいけど)

 貴恵はにやにや笑いを止めない桂一郎には一目もくれず、懐かしい校舎の中を歩きながら、今頃高校で総合的な学習の授業を受けている伶二郎のことを思った。


 この中学は、伶二郎にとっても母校である。とは言え、中学の二年生になってから生家に戻って来た彼は、二年しか此処には通っていないのであるが、最近貴恵にべったり張り付いて離れようとしない彼なら、貴恵が行くと言えば必ず付き添って来たことであろう。――そういえば、伶二郎と別行動をとること自体、貴恵にとっては久しぶりだ。


 学び舎を出て、渡り廊下から二人は手すりを乗り越えて、グラウンドへと下りた。これは校則では禁止されている行為であったが、大抵の生徒は校則など無視して近道であるこの渡り廊下越えをやっていた。真面目にグラウンドへ行こうとすると、此処からさらにぐるりと廊下を渡って正面玄関を回らなくてはならないのである。それはとても、面倒くさい。

 グラウンドの上では、すでに野球部の部員たちが準備を初めていた。

 だだっ広い土の上を、冬の風が吹き抜ける。

 汗も冷えて体温の下がった今の体にはあまりにもその風が冷たくて、貴恵は慌ててコートを羽織った。

 貴恵より一歩前できょろきょろ校庭を見回していた桂一郎は寒くもないのかコートも着ずに、野球部員たちの中から弟の姿を探している。やがて、「あっ」と叫んである一点を指し示すと、その先に比較的新しいユニフォームに身を包んだ弟の姿を捉えて、叫んだ。

「おーいっ、英三郎ーっ!!」

 体の大きい人間というのは、えてして、声も大きい。

 桂一郎も例外ではなく、その声はグラウンドの端の方にまで響き渡っていった。

 もちろん、英三郎がその声に気付かぬはずもなく、ちらとこちらを向いた瞬間に、桂一郎と貴恵の二人はちぎれんばかりに両腕を振る。

 英三郎は遠くからでもわかるほど、あからさまに嫌悪の顔をして、そっぽを向いた。決してこちらを見ようともせず、ウォーミングアップをするその姿からは、つい一週間前まで肩の怪我の治療をしていたことなど想像もできない。

「うわー、無視されたよ。可愛いなぁ、あいつ」

 桂一郎が朗笑する。

「どこがっ? 全っ然、可愛くないじゃん!」

 貴恵は徹底的に背を向ける姿勢の三男坊を睨みつけた。

 しっかりと慣れた手付きでバットを扱うあの様子では、どうせ怪我の完治しないうちから貴恵の言いつけを破って練習に出ていたのだろう。本当に、可愛くない弟である。

 貴恵は首の周りにマフラーをまいて、手には毛糸の手袋をはめた。防寒をしっかりと施してから、気合い付けにと両手のひらを口の横に添えて、大声で叫ぶ。

「英三郎ーっ!! あたしの言いつけ破ってまで試合出てるんだから、しっかりやれよーっ!!」

 自分の声と、冷たい空気の所為で、耳がキンキン痛んだ。

 英三郎はやはり、こちらを見ようともしない。

 やがてホイッスルが鳴ると、両チームの選手がわらわらと動き始めた。英三郎は最後までこちらを一瞥するつもりもなさそうだ。

 むっと唇を結んだ貴恵の横で、桂一郎が忍び笑いを漏らした。腹が立ったので、八つ当たりではあるが、隣の男を学生鞄で叩いた。

 冬の寒空の下、プレイボールのかけ声があがる。三男坊のデビュー戦の、始まりだ。



 ――結果は、英三郎のチームの快勝であった。

 二回目の攻撃の時に、英三郎のチームメートがホームランを繰り出して以来、こちらのチームの打線が勢いづき、次々にヒットを連続させた。

 外野手として初参加した英三郎も犠打で点を加算し、六回目の裏にはコールド勝ちによって試合が終了した。

 野球のルールをいまいち理解していなかった貴恵も、桂一郎の解説を聞きながら、その場の空気に飲まれ、試合後半にはすっかり白熱し、終了時には誰よりも勝利に舞い上がっていた。

 時も忘れて二時間弱ほど応援を続け、気付けば午後五時前であった。

 試合を終えた部員たちがグラウンドの整備などをしている間に、貴恵と桂一郎の二人は教員室を訪れ、当直の教師と座談していた。

 残念ながら、この日は土曜日ということで、彼らの担任をしていた教師は校内にいなかったのであるが、中学の頃から「夫婦」の異名を持っていた桂一郎と貴恵は、校内でもそれなりに有名だ。特に関わりのなかった教員とも話がはずみ、四十分ほどが経過した。

 外が闇に包まれ、グラウンドからすっかり人気もなくなった頃、がらがらと引き戸を開く音がして、教員室の扉が開かれた。

「……終わった」

 姿を表した中学生は、仏頂面でそれだけを言う。

「おう、英三郎、おつかれ」

 意気揚々と弟を労った桂一郎は、教員室の椅子をはじきとばすほどの勢いで立ち上がった。

「すげえ大活躍だったな! 次の試合が楽しみだよまじで!」

「……今回は、練習試合だったし、相手が弱かっただけだっつーの」

 試合を終えて後片付けも終えた英三郎に、言いたいことは山ほどあるのか、桂一郎は楽しそうに弟を掴むなり教員室を出て行った。

 貴恵は慌ててそれまで話をしてくれていた教員に「すみませんまた来ますありがとうございました」と早口で告げると、彼らの後を追う。慌ただしい教え子達を見送りながら教員は苦笑いして「気をつけて帰れ」と言ってくれた。「失礼します」と教員室を出る際に頭をさげたのは、貴恵一人である。兄弟たちは振り返りもせずに、廊下を騒ぎながら行ってしまった。

 二人の後を追って廊下を小走りに駆け抜けた貴恵は、盛り上がっている彼らを厳しく咎める。

「挨拶くらい、しなさい!」

 まるで母親のようなその小言を受けて、桂一郎は

「お、忘れてた!」

 と能天気に笑い、

「……ん」

 と英三郎は唸るだけでぶすっと口を結んだ。

 貴恵は能天気な男の方には肘鉄砲を食らわせ、無愛想な弟を見やるとさらに顔をしかめる。英三郎は急いでユニフォームから制服に着替えてきたのかどうなのか、学ランを着崩し、シャツはズボンからはみ出ているし、校則違反のベルトも曲がっているしで服がぐちゃぐちゃだ。

「……ちゃんと着なさい、みっともない」

 言って貴恵が曲がった襟元に手を伸ばすと、「いいよ」と突っぱねられた。本当に可愛くないことこの上ない。



 それから三人は学校を出ると、他の家族たちと落ち合って外食をするために、待ち合わせ場所である高校の裏門を目指して猫の通る裏道を辿った。

 今日の夕食は高校の裏にある焼き肉食べ放題の店で済ませると、随分前から米沢瀬田両家では決めていたのである。

「由郎おじさんも、お母さんも、今日は仕事で遅くなるから夕飯いらないっていうし……子供しかいないんだったら、食べ放題行ってもモトとれるし、たまにはね!」

 言いながら貴恵は莫大な食費の原因である桂一郎と英三郎の二人を睥睨した。米沢家には男ばかりの四人兄弟がいるが、その中でも特にこの二人はよく食べる。

「私も毎日毎日料理作ってるとたまには休みたくなるしねー。あんたら、ちゃんとお腹はすいてるでしょうね?」

 歩道のないアスファルトの道を、横に三人並んで歩くが、そもそもこの時間帯、この裏通りに車などほとんど通らないため、危険もなければ迷惑にもならない。

「そりゃもちろん。俺はもう腹減って死にそうだよ。今なら軽く十人前くらい食えそう」

「なんで見てただけの桂兄が腹すかしてんだよ……俺なんてあんだけ動いてまだ何も食ってないんだぞ」

「よろしい。みー姉は小食でほとんど食べないんだから、その分も頑張ってあんた達が食べてね。店ごと食いつぶす勢いで」

 了解、と二人が同時に答える。

 よし、と満足した貴恵は、男二人を引き連れて、歩武堂々と道を進んだ。

 この時間帯になると、裏通りには車も少ないが、人気もない。

 薄暗い街灯に照らされる道の上、彼らの他には誰も通る人などいないかに思えた。


 が、その時である。

 不意に、人の声を聞いたような気がした。


 この時間帯に、珍しいなと暢気に思う。

 しかも、聞こえてきたのは甲高い、子供の声だ。

 こんな裏道に、こんな時間帯に子供がいるなんて、親が知れば良い顔をしないに違いない。


 そんなことをぼんやりと考えていると、声のする場所に近付いたのか、さらに鮮明にその言葉の内容まで、聞こえた。

「……っざけんな! てめーらみんな、呪い殺してやるっ!!」

 それがあまりにも聞き覚えのある変声期のしゃがれた声だったので、貴恵は吃驚してその場に足を止める。

 同時に英三郎もその聞き覚えのある声に気が付いたのか、立ち止まり、その声のした方を見つめた。

 ただ一人、桂一郎だけが何も気付いていない。

「お? どーした?」

「……清四郎」

 英三郎が呟く。

 確かに、その暴言を吐き出した声は、彼らの弟末っ子四男の清四郎のものであった。

 声はすれども、彼らの姿は見えない。

 一体どこにいるのだと辺りをきょろきょろ見回す貴恵を置いて、英三郎が駆け出した。貴恵と桂一郎が慌ててその後に続く。

 そこは、裏道の車道から逸れた、住宅街の細道であった。やはりそこにも人通りはない。

 そういえば、この細道をまっすぐ通り抜けると、清四郎の通っている小学校に辿り着くのだったと貴恵は思い出す。

 学校の帰り道だろうか、ランドセルを背負った子供達が細道の中に集まっていた。それはいつか、貴恵がスーパーマーケットからの帰り道に、伶二郎と一緒に目撃した光景と、酷似している。

「呪い殺せるもんなら、殺してみろよ!」

 清四郎の周りを取り囲んでいた小学生のうちの一人が、おちょくるように言い放った。清四郎はその場に尻餅をついており、どういう経過でそうなったのかは判断し難い。

 清四郎が歯を食いしばり、自分を囲む同級生を睨みつけて立ち上がろうとすると、高笑いをしながら他の連中が彼を蹴り飛ばした。立ち上がることができずに再び清四郎はその場に尻餅をつく。その上から誰かが砂をかけると、誘われるように他の少年たちも笑いながら砂を投げつけ始めた。

 貴恵は驚きのあまり、その場に硬直した。

 先日スーパーの帰りに清四郎が暴言を吐くのを見た時にも愕然としたが、今回はその比ではない。

 スーパー帰りに件については、あの後結局清四郎が何も話してくれなかったため、深く聞くこともできず、きっと喧嘩か何かだろうと貴恵は甘く考えていたのだ。

 しかし、考えてもみれば、少し前から清四郎の様子がおかしいことには気付いていたわけだし、何より、あまり外でやんちゃをしない清四郎がこのところ体中にアザなどの傷をこしらえていたのは事実なのだ。――その生傷の理由をようやく悟って、貴恵は震駭した。驚きのあまり、震えることしかできなかったのである。

 もしもこの時この光景を見ていたのが貴恵一人であったなら、貴恵は間違いなく小学生の集団の中に一人で突っ込んでいったことであろう。後先考えずに飛び出して、小学生相手に癇癪をおこしていた可能性も否めない。

 だが、今、その光景に吃驚していたのは、貴恵一人ではなかった。

 貴恵が飛び出すより先に、隣の少年、英三郎の吐き出した低いだみ声が、貴恵の鼓膜を震わせる。

「……あいつら」

 英三郎は、清四郎とは一つ違いの兄であった。一年前までは同じ小学校に通っていたために、清四郎の周りを囲んでいる連中に見覚えがあったのかもしれない。

 とにかく、昔から、英三郎は短気で血の気の多い少年であった。英三郎がどこかで喧嘩をするたびに、今は亡き彼らの母、文子が相手の親子に頭を下げていたのを貴恵は目にしていたし、貴恵自身が頭を下げに行ったこともある。

 その英三郎が、血走った目で小学生たちを睨みつけ、一歩小道の方へと向かって歩き出したため、貴恵は自分の中に芽生えた怒りが全て沈静化していくのを感じていた。そんなことよりも、英三郎を止めなくてはと思って、体が動く。

「英三郎っ……」

 貴恵は慌てて飛びつくようにして彼を止めるが、それを簡単に振り払い、英三郎は拳を握り締めた。毎日呆れるほどの筋力トレーニングを重ねる彼に、貴恵が勝てるわけもない。

 どうしよう、とその場で往生するしかない貴恵の代わりに、弟を止めたのは、長男桂一郎であった。

 桂一郎は弟の腕をぎゅっと握って彼を引き止め、「桂兄っ」と反論しようとした弟に対して首を振る。

 「待ってろ」と落ち着いた声で呟いて、彼は細道へと飛び出して行った。その後に続くのは、朗々とした桂一郎らしい声である。

「おーい、そんくらいにしとけ! それ以上やると、本当に呪うぞー!」

 唖然とした貴恵と英三郎からは死角になっていて小学生達がどのような表情をしているのかは見えなかった。が、突然現れた謎の男に対し、彼らが困惑していることは声から伺える。

 「誰?」「え、誰?」と口々に呟くランドセルの少年達の声が聞こえて、ますます貴恵と英三郎はぽかんとした。

 しかし、飛び出して行った桂一郎には一遍の迷いもない。

「お前らの先輩だよ。それ以上やったら、本当に呪っちゃうからな」

「は? どうやってだよ」

「コイセンに言いつけて」

 しん、と細道が静まり返った。

 「コイセン」とは、「小泉先生」の略である。「小泉先生」とは貴恵たちが卒業してから赴任した小学校の教頭であり、あまりにも厳格なことでOBOGである貴恵や桂一郎でさえその名を知っていた。PTAでさえ小泉教頭のことを恐れており、生徒たちの彼に抱く恐れはその比ではない。目が合っただけで彼から逃げ出す生徒もいると言われるほどに、伝説的な教頭であった。

 コイセンはまずい、と生徒たちが青ざめる。その様子を見て、桂一郎は苦く笑った。

「まずいって思うってことは、まずいことをしてるっていう自覚はあるんじゃねえか。わかってるんだったらとっとと帰りな」

「なんなんだよ、お前! それ、呪いじゃねえじゃん!」

「呪いはまずいことしてるやつにしか、かかんねえの。まずいって知ってんならさっさと帰りな。コイセンだけじゃなくて母ちゃんにも怒られるぞ」

 「は?」やら「うるせえ」やら大人に反抗する子供たちはしかし、自分たちが分が悪い立場にあることは理解しているのか、負け惜しみのような暴言を吐きながら、ばたばた退散していった。

 貴恵と英三郎は顔をみあわせ、慌てて近くの言えの門の裏側に潜伏し、子供たちに見つからないようにする。

 ばたばたという小学生たちの足音が聞こえなくなってからのそのそと二人で門の裏側から顔を覗かせると、丁度小道から桂一郎が清四郎を連れて出てくるところであった。

 にこにこ笑っている桂一郎とは対照的に、清四郎の表情は固い。

 そのひょろりと痩せたからだのあちらことらに、土がこびりつき、茶色く汚れていた。

 そんな姿を見せられた途端、貴恵はいてもたってもいられなくなり、清四郎の傍へと駆け寄る。どうしたらいいのかわからないままにすっかり動転し、ひたすら自分のマフラーで清四郎の体についた土を拭った。

「――このバカ」

 英三郎の苦々しい声色が響く。

 英三郎の呟いた「バカ」という言葉が貴恵の頭の中で何度もこだまして、貴恵の頭を支配した。

「……ばか」

 貴恵も、英三郎と同じ言葉を呟く。

 そしてそれは一度呟くと、止まらなくなった。

「ばかばかばか。この大バカもの!」

「……そんなに言わなくても」

 苦笑した桂一郎には、一切反応してやらない。

 貴恵は土だらけになった清四郎のコートを払いながら、ぐっと歯ぎしりした。

「今日こそは、今日という今日こそは、全部話してもらうからねっ!」

「まーそう言うなって。俺は腹が減ったよ」

 大仰なほどに、桂一郎が大きな溜め息を吐く。

 今度は無視できず、思わず貴恵がキッと彼のことを睨み上げると、初めて清四郎が笑った。

 無理に笑うような、自分を励ますような笑いである。

 桂一郎はそんな彼の頭を撫でると、歩き始めた。

「行くぞ、貴恵、英、清」

 まるでその場の空気を包み込むかのように柔らかな彼の声は、誰の耳にも優しい。クラスメートが彼のことを「象みたい」と言う所以は、ここにある。

「俺ら四人がここにいると、待ち合わせ場所には伶二郎とみー姉が二人きりということになる。俺が思うに、それは少し忍びない」

 それを聞いて、貴恵はそういえばと気付く。確かに、他から見るととにかく仲違いしているようにしか見えない伶二郎と都を二人きりにするのは、忍びない。

 急がなきゃ、と焦る貴恵の横を通り抜けて、桂一郎の隣に並んだのは、清四郎であった。

「そういえば、最近なんか、みー姉と伶兄仲悪いよね」

 そう言った清四郎の声色は、いつも通りの彼のものだ。同級生たちに「呪い殺してやる」と暴言を吐いた時のものでもなければ、さきほどのように無理に笑う彼でもない。貴恵はぽかん、と呆気にとられる。

 気の抜けたように大きな欠伸をして、兄弟たちの後ろをついていった英三郎にも置いて行かれ、貴恵は一人でそこに立ち尽くしていた。一緒に心も置いて行かれたような気になる。


 ――すごいな、と思った。

 桂一郎はたった一言で、少しの動作とその柔らかい声だけで、簡単に弟の心を楽にする。


 桂一郎は貴恵と同い年で、同じところで育った、いわば幼馴染のような、兄弟のような関係だ。けれど、貴恵と彼とは全く違う。それは当然のことではあるのだが、少し悔しく思った。


 彼は昔からそうだ。たった一言で、彼の持つ空気や雰囲気だけで、人を救う。そんな彼のことを周囲は慕ってやまない。例えば高校でも、彼の周りにはいつでも人だかりが絶えないのだ。


(私なんて、誰一人救えやしないのに)

 のろのろと歩き始めた貴恵は、アスファルトを睨んで俯いた。


 貴恵には人を救えない。救いたい気持ちはあれど、何をどうすればいいのか、全くわからないのだ。

 だけど、彼ならば――。


 貴恵は前を歩く大男の背中を見上げる。


 例えば――桂一郎なら、伶二郎を救ってやれるのではないだろうか。


 桂一郎は伶二郎が何かを抱えていることを知りながら、伶二郎が実の姉である都とぎくしゃくしていることも知りながら、本当に彼の苦しんでいるその理由は知らない。


 伶二郎はそれを、貴恵だけに告白した。彼が他の誰にも喋らないので、貴恵も口を噤んでいた。だが、貴恵はその事実を知りながら、どうしても悩む彼を救ってやることができないのだ。


 はあ、と貴恵は嘆息した。

 呪い殺してやるなんて、冗談でも吐き出してはいけない言葉だと思う。そんなことを言ったらまた伶二郎に「きー姉は真面目だ」と笑われるかもしれないが、そう思う。が。


 もしも呪いで人を殺すことができるのなら、貴恵が一番制裁を加えたいのはあまりにも無力な自分自身だ。


 伶二郎が人知れず不毛な恋に悩むように、清四郎が誰にも言わずに同級生からの攻撃に黙って耐えてきたように、誰もかれもが何かを忍んで悩んでいる。貴恵はどうして彼らを救ってやることが、できないのだろう。


 前を歩く桂一郎は、いつも通り朗々として、弟たちとふざけあっていた。貴恵は置いて行かれないようにと必死で彼らの後を追う。

 アスファルトを照らす街灯がむなしく点滅する下で、貴恵はぐっと自責の念を噛み締めたのであった。


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