23、長女・米沢都と父の紫煙
ヒールの靴で、マンション前に広がった巨大な水たまりを飛び越える。竹を割ったような鋭い音が、夜空へと響き渡った。
誰も見ていないからいいものの、大きく足を開いて水たまりを飛び越えるその格好は、お世辞にも行儀が良いとは言えない。
米沢家長女の都は大胆なことをしておきながら、何事もなかったかのように自分の住むマンションの軒下に入ると、エレベーターホールを目指して歩いた。
時計はすでに夜の九時を回っている。
昼間にサンドイッチを一枚食べたきり、水分以外は何も摂取していない彼女の腹の虫は、空腹を訴えて先ほどから唸りっぱなしだ。まさかこんなに帰りの遅くなる予定ではなかったので、食糧を持って家を出なかったのである。
当初の予定では、今日は都の通うカナダの大学の提携校である日本のとある大学で講義を聞いた後、まっすぐ家に帰るつもりであった。が、そのキャンパス内に備え付けられた図書館の歴史ある外装と大きさに勘当し、一階から最上階まで余す事なく巡っているうちに、大雨になってしまったのである。
小雨であれば走って帰ったかもしれないが、バケツをひっくり返したかのようなその雨を見て外に出る気は失せ、雨宿りをしているうちに、こんな時間になってしまった。
さすがに何時間も図書館の中をヒールで歩き回るのには疲れてしまったな、と辟易する。
十階に辿り着くとエレベーターから下りて、都は疲労で重くなった足を引きずった。米沢家はここからまっすぐ歩いた先にある。
と、マンションの廊下を照らす心許ない蛍光灯の下に、黒い影がぼんやりと浮かんでいた。
しかもしれは、丁度都の住居、米沢家の前の辺りに俯いて立っている。
一瞬幽霊かなにかかと思ってぎょっとしたが、すぐにそれが生きた人間であることに気が付いた。
夜空を見上げるように欄干に肘をついて、ぼんやりとしているそれは、都の弟の一人だ。
「……清四郎?」
そっと彼の名を呼ぶと、影ははじかれたようにこちらを向いた。
「あ……みー姉」
米沢家の末っ子四男は、そこに姉の姿を見つけると、戸惑うように目線をさまよわせてから再び俯いた。
明らかに悩んでいるようなその表情からは、何かがあったのだろうと伺える。
だが、あまり深入りする権利は自分にはないと思った。
――あんた、いつまで日本で油売り続けるつもりだよ。
高校の文化祭に足を運び、二男の伶二郎に正論でもって責められて以来、都はなるべく家族に関わりすぎることのないように留意していた。
伶二郎に言われたことに間違いなど一つもない。
以来、自分は家族のために何もしてあげられないのだから、必要以上に深入りする権利もないのだと、自分に言い聞かせるようにしていた。
そのため、今ここで四男の清四郎がどれほど悩んでいたとしても、都は図々しく姉面をして「どうしたの?」なんて聞くことはできないのである。
とは言え、さすがに素通りすることも気が引けたので、無難な言葉を探した。
「ご飯、食べた?」
実に無難である。
清四郎は、何があったのかと聞かれるに違いないと思って身構えていたのだろう。姉からの無難すぎる質問に拍子抜けをして、だがすぐにほっとしたような顔を浮かべ、頷いた。
「食べた」
「そっか。――私、お昼から何も食べてないからおなかぺこぺこだよ」
「みー姉の分も残ってるよ、ハンバーグ」
本当、と顔を輝かせてから、都は家に帰れば当然のように自分の分の夕食も用意されているだろうと思っていたことに気が付く。
だから、ここまでどれだけ空腹でも寄り道することなく我慢して、帰ってきたのだ。家に帰れば、自分の食事は置いてあることだろう。それが当たり前だと思っていた。――貴恵がそれを作るために、自分の時間を割いてまで家事をしているのだということすら忘れて。
こんなことではまた伶二郎にどやされてしまうなと、都は苦々しく笑った。
「……貴恵は、優しいな」
こんな自分のために、わざわざ食事を用意してくれた五つ年下の少女のことを思う。
米沢家の家族は皆、貴恵に一目置いていて、四人の弟たちも、しっかり者の彼女にはすっかり懐いていた。都のことを突き放した伶二郎も、貴恵とはとても仲が良い。だが、それ以上に貴恵が彼らのために様々な苦労をしてきたことを悟って、とても自分では適わないと思った。
「本当に、貴恵は……家族思いで……優しい」
「……。……そう、だね」
清四郎はぼそりと答えながら、何故か縮こまった。何か思うところでもあるのだろうか。
都がそんな清四郎を放置して家に入っても良いものかどうかと逡巡していると、不意に「米沢」の表札の書かれた扉が荒々しく開けられた。
突然のことに、都、清四郎は共にびくっと肩を震わせる。
誰、と思って振り返ると、そこには巨体を持つ中年の男が立っていた。
「……お父さん」
開かれた米沢家の玄関の扉の中から出て来たのは、米沢家の父、米沢由郎である。
彼は大きな体でドアをすりぬけると、そこに立ち尽くしている清四郎の額を軽く小突いた。
「そろそろ戻れ、清四郎。貴恵が中で心配してるぞ」
小突かれたことによってずり落ちた眼鏡にも気付かず、瞬きを繰り返している息子に苦笑し、
「自分のせいで戻ってこないんじゃないかと貴恵が半べそだ」
と続けた。
「え」と呟いた清四郎は、慌てて眼鏡をかけなおして、ばたばたと米沢家の玄関の扉を開き、家の中へと飛び込む。米沢家の扉は再び荒々しい音をたてて開閉し、外には父由郎と都が残された。
ここで何かを悩んでいた清四郎が、家の中に戻るきっかけを得られたことを、都は嬉しく思う。
「……本当は貴恵、半べそなんかかいてないでしょ」
「おう。最初は心配したけどな、今は余計な心配かけやがってと怒り狂ってる」
都は首を竦めてちらりと扉の方を見やる。今頃貴恵に雷を落とされているだろう弟を思って、少しだけ哀れんだ。
都の隣、今まで清四郎のいた所に立った由郎は、ポケットから煙草を取り出すと、口にくわえる。先端に点火すると、彼はその巨体の中に煙を吸い込んだ。
「煙草……わざわざ外出て来て吸うの?」
「前は換気扇の下で吸ってたこともあるんだが……家ん中で吸うと桃子と貴恵がうるさくて」
白煙を吐き出しながら、彼は「あの親子は本当に怖い」と嘆息した。
都は思わず噴き出してから「心配してるんだよ」と付け加える。
すると、由郎の片眉がひょいと持ち上がった。
「お前のことも、心配してたぞ」
一瞬、都の頭を過ったのは、あの文化祭のことである。
貴恵は文化祭の終わった後、都にはあの時のことを決して聞こうとはしなかった。彼女なりに気を遣ってくれていたのだと思う。
あのことで貴恵に多大な心配をかけているのではないかとぎょっとした都の予測に反し、父由郎の言葉は軽い。
「もうとっくに帰ってきていい頃なのに、全然戻って来ないとさ」
ああ、そのことか、と、心配をかけておきながらほっとするのも妙な話だが、都は胸を撫で下ろした。
「……資料あさりしてたら、雨降って来ちゃって。雨宿りしてたらこの時間になっちゃった。貴恵に謝らなきゃ」
そうしなさい、と父に言われて苦笑する。
自分のことが自分で情けなく思えて仕方なかった。
五歳年下の妹のような存在に心配などかけて、自分は迷惑ばかりかけている。本当に情けないな、と反省する。
「……どうした」
俯いた都に気付いて、由郎が問いかけた。
都は溜め息と同時に脱力すると、マンションの欄干にもたれかかって、空を仰いだ。
「貴恵は、凄いなぁと思って……」
「まあ、確かに凄いな。日に日に桃子に似てくるよ。あんなのが家に二体もいたんじゃうるさくて適わん」
心底うんざりしたように言いながら、由郎も手すりにもたれかかった。
都の父・米沢由郎と、貴恵の母・瀬田桃子は、生家が近く幼い頃から一緒に育った腐れ縁、すなわち幼馴染という奴で、互いに対して容赦がない。その様は、桂一郎と貴恵との関係を彷彿とさせて、都には時折羨ましく思えた。
「……私は貴恵より五歳も年上なのに、貴恵に面倒見られてばっかりだ。私はこの五年間、何してたんだろ……」
「勉強してたじゃないか。都は家族の誰より勉強熱心だからな」
「でもそれって何の役に立つのかな。貴恵は家族のためにあんなに頑張ってて……本当になんていうか……立派」
「あれはあれで間違いなく立派だけど、都は都でやりたいこと目指して一人で海渡って勉強一筋で頑張ってきたんだから、それも充分立派だと思うけどな?」
うーん、と唸って、都は自分の手首にはめられた銀の腕時計を眺めた。
これを都に送った人物は、都の恩師であった。恩師になる前は、憧れの人だった。
その人を追って渡った海の向こうで、果たして自分は何をしてきたのだろう。そればかりでない。自分は海の向こうから舞い戻って来て、一体今、何をしてるのだろう。
「……やっぱり、駄目だな、私は……だって、逃げてきたんだもん」
その逃亡劇の子細は、都とこの腕時計だけが知っている。
「自分で海を渡ったくせに、どうしようもなくなって、逃げてきちゃったんだもんなぁ」
思わず自嘲の笑みが溢れた。
「家族のために貢献する」だとか、「私が母親代わりになる」だとか、偉そうに家族の前で豪語したその全てが言い訳だったことを、都は自分でよく理解している。
そしてそれはとうの昔に、伶二郎には見破られていて、彼はだから自分に冷たく当たるのだろう。
無言で煙草をふかしていた父由郎は、目を細めた。
どっしりとした体格をしており背も高く、人相も穏やかとは言えない彼が表情を鋭くすると、どこぞのやくざ者のようである。
「……実家ってのは、そのためにあるんだろ」
しかし、やくざ者の口調は、人相とは対照的に、とても穏やかだった。
彼は煙草を吐き出すと、壁でこすって火を消して、吸い殻は服のポケットの中へと突っ込んだ。おそらく、桃子や貴恵に口喧しく叱られる所以はその辺りにあるのだろうが、本人は気付いていない。
由郎は遠く、星の輝き始めた夜空を見上げて、何かを回想するように呟いた。
「帰れる実家があるなら、時には逃げてもいいんだよ。――自分の家に逃げられない境遇っていうのは、どんな事情であれ、可哀想だと思うよ、お父さんは」
それが暗に誰のことを指し示しているのか、都にはなんとなくわかるような気がした。
それは、まだ都が幼く、桂一郎や貴恵が生まれて間もない頃のことである。
貴恵の父である瀬田貴司が急逝し、それに伴い、米沢の一家と瀬田の一家は共に、このマンションに住むようになった。
しかし、いくら米沢の父由郎と、瀬田の母桃子が幼馴染だからと言って、家族も同然に一つ屋根の下で暮らすなんて、おかしな話ではある。
まだ物心ついたばかりであった子供たちには、未だにその複雑な事情は明かされていない。
ただ一つ子供たちも気付いていて親に聞くことができないでいるのは、瀬田の実家のことだ。
米沢の家族が時々里帰りをして祖父母に挨拶にいくのに対し、瀬田の家は一度も里帰りをしたことがなかった。それどころか、瀬田桃子の両親も、瀬田貴司の両親も、一度だって孫娘の貴恵に会いに来たことはないのだ。
――それでも、瀬田の母子は明るくはつらつと生きている。
都も由郎の隣に並ぶと、同じ夜空を見上げた。
東京の空は明るくて、かつて海の向こうで毎晩見ていたような星を探すことは難しい。
それでも、空は同じ、空である。
都もどんな事情を抱えているにしろ、この空の下にいる以上は、明るく元気に生きていくべきなのだと、心の中で思った。