22、隣人・瀬田貴恵と空虚な言霊
それから、二人が食堂を切り上げたのは、午後五時半を過ぎる頃であった。
空には厚い雲がかかり、日の沈んで行く様は見えなかったが、辺りはすっかり暗くなっていた。
夕食前にとパート帰りの主婦で賑わうスーパーの仲、貴恵もひき肉をカゴにいれ、タマネギやら卵やら、ハンバーグに材料を大量に投入した。
八人分の食材というのは、なかなかの量である。
前までは買い物と言えば、ビニール袋を四つも五つも抱えて、家に帰るまで筋肉トレーニングでもしているかのような苦行であったのだが、今は半分以上を伶二郎が持ってくれるので、大分楽になった。
伶二郎は自分のことを「体力がない」という。確かに、体力だけが取り柄の桂一郎や英三郎に比べれば、それほど豪腕でもないかもしれないが、それでも男手があると違う。
貴恵が袋を抱えて辛そうにしていると、「持つよ」と必ず言ってくれる彼の優しさがどうにもくすぐったかった。
そんなわけで、今日も夕飯の買い物を終えると、二人で荷物を分担して持って、彼らはスーパーを後にした。
古い自動ドアがみしみしと不安定な音をたてながら開く。
街灯に照らされるアスファルトの上へと踏み出した二人は、帰路を辿った。
雲行きはますます怪しくなり、今にも泣き出しそうな天気である。早く帰らなきゃねと、自然と家に向かう足取りは早まった。それでも貴恵を置いて行くことのないよう、歩調を合わせる伶二郎の、女に人気のある理由がわかるような気がする。無意識なのかもしれないが、この男はこの年にして、なかなかのフェミニストなのである。
時折、彼は自分のことを恋人のように扱っているのではないかと思うことがある。
彼の物腰は柔らかで、なにかと貴恵を優先するし、とにかく優しい。
他人からこのような扱いを受けたことなど生まれてこの方一度もなかったので、落ち着かないのは仕方ない。とは言え、もう彼とこの妙な関係を築くようになって一週間は経つのだから、そろそろ慣れてもいいだろうにと、さだまらない視線を貴恵はさまよわせた。
と、ふと、さまよわせた視線の崎に、貴恵は人影を見つける。
アスファルトの続く住宅街の道の端に、数人の小学生と黒いランドセルが固まっていた。
小学生の中では背が高く、年も大きいように見えるから、最高学年であろうか。
米沢家の末っ子四男、清四郎と同い年くらいかな、と思った瞬間に、声変わりの最中であるガラガラの声が住宅街中に響き渡った。
「うっせーよっ!! 近付くんじゃねえよ、この野郎っ!!」
聞き違えるはずのない、その声色。
貴恵は吃驚し、思わずその場で足を止めた。
ビニール袋を持っていない空いているてで前を歩く伶二郎の鞄を掴むと、彼の歩みも強制的に止める。
「何?」と言葉なく首を傾げるだけで問い返して来た彼にもわかるよう、貴恵は人差し指で小学生の群衆を示した。
その中心に立っている眼鏡のノッポの少年は、どう見ても彼の弟清四郎である。
清四郎は、喧しい兄や姉のごった返す米沢瀬田の一家の中で、最も大人しい少年であった。
読書が好きで、テレビも好きで、暴れ回る兄弟たちを前にしていつもおろおろしているような、そんな奥ゆかしい少年である。そのはずなのに――。
たった今、「うっせーよ」と暴言を吐き出したのは、間違いなく、その清四郎であった。
貴恵はただただ唖然とするしかない。
清四郎を取り囲んだ他の小学生たちが何かを彼に向かって言い放っているが、その内容までは聞き取れない。が、そのイントネーションだけを拾って解読してみても、穏便な話し合いではなさそうだった。
小学生たちは、何事かを激しく口論し合っている。
最終的には、誰かが清四郎の服のすそをつかみ、引っ張ろうとすると、清四郎がそれを勢い良く振り払って、怒鳴った。
「うぜぇんだよ……!! お前らみんな、死んじまえっ!!」
その言葉に、誰より仰天したのは、周りを取り囲んだ小学生でなく、隣にいる伶二郎でもなく、清四郎本人でもなく、遠くでそれを見ていた貴恵である。
貴恵は清四郎が生まれたその時からずっと、姉代わり母代わりとして彼と一緒に時間を過ごして来たのだが、彼がそのように人を罵倒する姿など見たことがなかった。
「……清っ、あんた、なんてこと……!」
「ちょっと、きー姉!」
咄嗟に声を張り上げて、清四郎の方へと走り出そうとした貴恵を、伶二郎がビニール袋をぶらさげた腕で引き止める。
白い袋が自分の体に当たって、はっと我に返った貴恵は、言葉を飲み込んだ。
小学生たちの言い合いは、小学生同士の問題だ。
このタイミングで彼の姉とも言える自分が飛び出すのは、あまり賢くない選択だったかもしれないと気付く。
が、音になってしまった言葉は元へは戻らず、貴恵の声を聞いて驚愕の表情を浮かべた小さな弟が、こちらを向いた。
「きー姉……」
清四郎の目が、眼鏡のレンズの奥でみるみるうちに大きく見開かれていく。
清四郎を取り囲んでいた他の小学生たちも、なにごとかとこちらの方を振り向いた。
彼らと目の合った貴恵はどうすることもできずに、その場に佇む。伶二郎も貴恵を引き止めた格好のままだ。
時間が止まったのではないかと誤解しそうな一瞬の空白の後、最初に動いたのは、清四郎であった。
彼は自分を取り囲んでいた小学生の一人を邪魔だと言わんばかりに力強く押しのけて、逃げるように走り去って行った。もちろん自分を取り囲む小学生たちから逃げたわけではあるまい。自分の方を見つめている貴恵から逃げたのだ。
他の小学生たちも、彼の逃走するその後ろ姿を呆然と見届けた後、大人に見つかったのはやばい、と口々に叫んで蜘蛛の子を散らしたように逃げ出した。その言葉を聞いて、彼らが何やらよからぬことを企んでいたのだと知る。あまり深刻なことでなければ良いのだが、と貴恵は不安に拳を握り締めた。
「ごめん、伶……ありがと」
「ん……大丈夫? 落ち着いた?」
貴恵を後ろから抱きしめるようにして引き止めていた腕を解いて、伶二郎が貴恵の顔を覗き込んでくる。うん、と貴恵は大人しく頷いた。
危うく、考えもなしに小学生の群れへと突っ込んで行くところであった。突っ込んだところでどうするつもりだったのか、自分でも全くわからない。ろくな結果にならなかったであろうことだけが確かだ。
そんな貴恵を引き止めてくれたのは、伶二郎だった。彼には感謝をしながらも、再び歩き始めた貴恵の足取りに、先刻までのような力はない。
「あれ……清四郎だったよね」
「うん……ドッペルゲンガーとかじゃなければ」
「……やっぱり、清四郎か……。――死んじゃえなんて、絶対言わない子だと、思ってたのに……」
「そりゃ、清四郎はきー姉の前じゃいい子ちゃんだもん。言わないよ、そんなこと」
「そんな……」
「俺と一緒だね」
とぼとぼと歩く貴恵に歩調を合わせて、伶二郎もゆっくりとその隣に並ぶ。
「なにが」と聞こうとして顔をあげると、彼は「俺もきー姉の前だといい子」などと言って笑った。その微笑みを見ていると、なんだか気抜けしてしまう。
貴恵はがっくりと肩を落として、帰路を進んだ。
一歩進むごとに、二人の抱えるビニール袋がぶつかりあって、わさわさと音をたてる。
「まあ、でも……確かに、びっくりしたね。あいつ内弁慶の逆なんだ。外弁慶?」
「なにそれ」
茶化したことを言う伶二郎に、くすと笑って、貴恵はそっと目を伏せた。
そういえば、と思い返してもみれば、清四郎はこのところ、少し様子がおかしかったような気がする。
額や腕、くるぶしや膝など、妙なほどあちらこちらにたくさん傷を作ってくるし、肩の筋肉を痛めた英三郎ほど豪快な怪我ではないが、いかんせんその数が半端でない。
ひょっとしたら同級生たちと喧嘩でもしているのだろうかと予想して、沈鬱な気持ちになった。
もうすぐ冬が来る。冬が来れば、米沢家の母親である米沢文子の一周忌だ。
米沢文子の突然死から一年が過ぎて、時たまに暗くなることもあった米沢家も、今はだいぶ明るくなったと思う。母親の死を受け入れて、家族のそれぞれがそれぞれ、未来に向かって前進し始めている。
それでもまだ、「死」という言葉には、どうしても、抵抗があった。
そんな軽々しく「死んじゃえ」などと、口にしてはならないに決まっている。
そう思うのは、貴恵だけなのだろうか。
ますます暗い心地になって俯いた帰依を見て、何を思ったのか、伶二郎はふっと笑った。
何よ、と顔をあげて抗議しようとすると、いや、と伶二郎は優しい微笑みを讃えたまま、首を振る。
「きー姉は変なところで真面目だなぁと思って」
「え……? 真面目?」
「うん、真面目」
どういう意味だ、と訝る貴恵に、伶二郎はくすと笑う。
街灯に照らされる彼の顔は、やはり整っていて、綺麗だ。
「死んじゃえ、なんて言葉にはさ、何の意味もないし、力もないよ。そんなことを言ったところで、誰かが死ぬわけでもない」
「それはそうだけど……そういう問題じゃないじゃない」
「だけどね、そうやってきー姉が深く考え込むと、途端に意味も持つし、力も持つんだ」
呆気にとられてぽかんとした貴恵に対し、彼は余裕たっぷり丁寧に言葉を下す。
「言葉って、そんなものでしょ」
屈託のない笑みを浮かべる彼を見上げて、「この子は本当に不思議な子だなぁ」と思った。彼の言葉はするりと貴恵の心に入り込んで来て、不安も焦りも鎮めてしまう。それなのに、時折切ないような、不思議な心地にさせられるのだ。
考えてもみれば、伶二郎は他の誰より「死」という言葉に敏感であっておかしくないはずであった。
他の兄弟の誰より母文子と過ごした年月の長い伶二郎は、母親の死に最も衝撃を受けたはずだ。それに何より、自分自身何度も生死の境をさまよって病院に運ばれた経験のある彼には、「死」という言葉が誰よりも身近だ。
それなのに、彼は屈託なく笑うのだ。言葉には意味がないから、と言う。彼が言うとそれは、不思議と真理であるように感じられた。
「……それでも、言っていい言葉と、悪い言葉がある」
むす、としながら小さく呟くと、隣の男は「そうだね」と反論することなく頷く。
「でも、言っていい言葉と悪い言葉の判別って難しいよね。どうやって見分けたらいいんだろう。……それに、もう声にしちゃった言葉は戻らない。駄目だとわかってても、声に出してしまった場合は、どうしたらいいんだろう」
その含みのある言い方に貴恵は、戸惑いを隠せない。
おそらくそれは、清四郎の「死んじゃえ」という発言を差しているのではない。おそらくは――伶二郎自身の言葉だ。
「……伶は、後悔してるの? みー姉に……いろいろきついこと言ったりしたこと」
伶二郎は、誰にでも優しく接することのできるはずの伶二郎は、ただ一人、都にだけは辛く当たる。それは決して、心からの厭悪からくる言葉ではなく、むしろ、伶二郎が彼女に好意的であるからこそ、それを隠し通すために吐き出される罵詈雑言だ。
だが、都はそのことを知らない。
「後悔は……してないよ」
伶二郎はそう答えた。彼の顔には冷たい笑いが広がる。見る者を震撼させるような、冷たい笑いが。
「後悔は、してない。……だって、きつい言葉の方が、まだマシだろ。本当のことを言われるよりは、ずっと」
貴恵はなんと答えていいのかわからずに、口を閉ざした。
伶二郎は、一生、この想いを言葉にするつもりはないのだろう。そして、想いを不本意に露見してしまうことのないように、きつい言葉で防御する。彼の、都への刺々しい台詞は全て、彼女への良からぬ想いを打ち消すためのダミーだ。その真実を知っているのは今現在、伶二郎の他には貴恵しかいない。
――なんだか、虚しいな。
ふと、そんなことを思った。
虚しい、とても虚しい。
事の真実を知らずに弟に嫌悪されているのだと誤解し続ける都も、どれほど好きでも報われない都への不毛な想いをひたむきに隠す伶二郎も、そして、そんな伶二郎とままごとのような恋人ごっこを繰り広げる、自分も。
二人は言葉なく、帰路を辿った。
ぽつん、と、鼻の頭に雫が乗る。その冷たさに本能的に目をつむると、まぶたの上にも水玉が落ちて来た。
どうやら、灰色の雲の立ちこめていた空は、ついに耐えきれずに泣き出したらしい。
丁度それは、マンションの下に広がる急峻な坂道に差し掛かったところであった。
二人はちらりと目線を交わし、どちらともなく歩調を早める。それに伴い、雨脚も強くなっていくかのようだ。
「……清、私から逃げちゃったけど……ちゃんと家に戻ってるかな。どこかに行っちゃったりしてないかな」
伶二郎の言葉は今は保留しておくことにして、先ほど自分から逃げ出した末っ子四男清四郎のことを案ずることにした。この雨の下、末っ子が濡れていなければいいのだけれど、と思う。
「大丈夫だよ」
隣から返ってきたのは、何の根拠もない励ましである。何の根拠もないくせに、その柔らかな声は不思議と貴恵の中の不安を溶かしてくれる。彼がそう言うのなら、大丈夫かな、なんて、不思議とそう思えた。
坂を登りきった二人は、マンションの敷地に入ると、ラストスパートをかけて地面を蹴る。
駆け込むようにして軒下に転がり込むと、そのタイミングで雨が大合唱を始めた。「バケツをひっくりかえしたような雨」と表現されそうなその強い雨脚に、思わず目を奪われる。
「ぎりぎりセーフだったね」という伶二郎の台詞に頷いて、エレベーターホールへと向かった。
季節は移り変わり、気候は寒くなる一方である。
今夜の大雨によって、明日はさらに冷え込むことだろう。
貴恵の心の中には虚しさが残されたままである。