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隣人・瀬田貴恵の場合  作者: askaK
21/39

21、隣人・瀬田貴恵と次男坊と醜聞と

 世の中にはわからないことがたくさんある。そして、知り得ないこともたくさんある。

 それは至極当然のことであるし、世界は広いのだ。わからないことも知らないこともたくさんあって然るべきであると、貴恵はそう理解していた。

 だが、それは例えば地球の裏側の国の話であるとか、深海に住む生物の話とか、あるいは自分とはまるで異なる立場にいる政治家の事情だとか、社長令嬢の心痛だとか、そういうものに限った話だと思っていたのである。

 故に、貴恵は、愕然とさせられる毎日を過ごしていた。

 まさか、二年間も一緒に過ごしてきて、傍にいるとばかり思っていた彼、伶二郎のことを、こんなに知らないとは思ってもみなかったのである。


 この日、伶二郎に連れられて到着したのは、駅とは反対方向にある住宅街の小さなスーパーマーケットの二階であった。

 米沢瀬田両家において、調理の一切を担当している貴恵も、何度かこのスーパーを利用したことはあったのであるが、何ぶん駅前のスーパーの方が使い勝手もよく、品揃えも良いため、そちらを利用しがちであった。ましてや、スーパーの二階になど、来たことはない。というのも、この小さなスーパーの売り場は、一階部分のみなのである。二階部分には、小さな公共スペースが設けられていた。貴恵はその事実すら、この日まで知らなかった。

 スーパーの二階部分に設けられた公共スペースには、こじんまりとした食堂があった。開くのはお昼時のみなのだという。食堂の前に置かれた食券機には、様々なメニューが並べられていた。

 貴恵はもちろんこの食堂のことも、全く知らなかった。そして、伶二郎が学校帰りにたびたびここに立ち寄っておりのだということも、全く知らなかった。

 学校帰りにここに立ち寄ると、時刻は丁度三時半頃となる。お昼時のみ営業されている食堂は閉めきられ、食堂に務める中年の女性たちがせっせと後片付けをしていた。

 伶二郎はこの、営業が終了した後の食堂を借りて、いつも勉強をしているのだという。

「……っていうか、勝手に使っていいの? 此処、学習スペースでもなんでもないんでしょ?」

 伶二郎の後を追って腰掛けた机は六人がけのもので、広い長方形をしている。

 確かに人口密度の高い米沢家のあの狭隘なスペースの中で勉強するよりずっとここの方が落ち着くし、図書館などと違って極力静かにしなくてはならないという妙な緊張感もなく、喫茶店のようにお金もかからない。

 試験前に集中して勉強をするには絶好の場所であるが、そのために用意された空間というわけでもない。

 貴恵の向かい側に座った青年は、すでに教科書を広げてボールペンを握り締め、勉強する準備は万端であった。彼は居心地悪そうにしている貴恵に気付くと、ペンを置き、笑う。

「大丈夫だよ。俺、ここの常連だし、食堂のおばちゃんたちとももう顔見知りなんだ」

「そうなの? ……って、あんた、いつからここ来てるのよ」

「半年くらい前からかなぁ? 最初はふつうにお昼食べにきたんだけど、そのうち勉強しながら食べるようになって、今では学校帰りの寄り道スポットになってる」

 へえ、と呟いて、貴恵は再び小さな食堂の中を一通り見回した。

 ――全然、知らなかった。

 もう何度目になるかわからない「知らなかった」を、再び心の中で繰り返す。

 二年間一緒に過ごしていたはずなのに、貴恵は彼のありとあらゆる全てのことを、「知らなかった」。今日また新たな「知らなかった」が増えたことによって、新鮮で、少し寂しくて、そして心の奥を弾ませるような妙な喜びがこみあげてくる。

 貴恵は今まで経験したこともなかったその感情を、無理矢理胸の奥へと押しやって、鞄の中から参考書を取り出した。

 部活動などと異なり、試験前であろうとなんだろうと家事に休みはないが、幸いここはスーパーマーケットだ。帰りに食材を買って帰ることができる。

 伶二郎に荷物持ちも頼めることだし、今は思う存分勉強をして、一週間後の期末試験に備えることにしよう。

 そう意気込んで、貴恵がシャーペンを握り締めたその時である。

 突然、見たこともない中年女性に声をかけられた。

「あ、伶くん、今日もお勉強? 偉いわね」

 誰だ、と驚き貴恵が顔をあげると、そこに立っていたのは近所に住んでいそうな至って平凡な中年女性である。貴恵の母親の桃子と、年はそれほど変わらないだろう。

「あ、おばさん、今日もお務めご苦労さまですー」

 にこりと笑って伶二郎が挨拶をしたことにより、この女性が「食堂のおばちゃん」なのだと貴恵は知る。慌てて貴恵も、「ご苦労様です」と頭を下げた。

 食堂のおばさんは伶二郎と貴恵を順々に見渡して、「うふふ」と露骨すぎる含み笑いを零す。

「伶くんたちも、お勉強ご苦労さまね」

 答えるのはもちろん、伶二郎だ。

「今、試験前なんです。スペースお借りします」

「いいわよ、どーせ誰も使わないんだから。――ところで、こちらは、伶くんの彼女?」

 食堂のおばさんの浮かべた露骨すぎる含み笑いの意味が、ここでようやく判明した。

 にやり、と笑うおばさんと目が合って、貴恵は唖然とする。

 返答できずに固まった貴恵のかわりに、柔らかい微笑みを讃えたのはやはり、伶二郎だった。

「まあ……そんなものです。僕も彼女も試験勉強しなきゃいけないんですから、邪魔しないでくださいよ?」

「やあだ、邪魔なんてしないわよ! それじゃ、ごゆっくり」

 食堂のおばさんは高らかに笑って手をぱたぱた振ると、含み笑いを浮かべたまま食堂から出て行った。とんとんとん、と彼女の階段を下っていく足音が響く。あとには、窓際の机に腰掛けた二人だけが取り残された。営業の終了した食堂は、無人である。

 食堂の外にも「共同スペース」という名は付けられているものの、利用者などほとんどいなかった。この街に住むほとんどの人が、貴恵と同じようにここにこんなスペースのあることを知らないに違いない。

 貴恵は、目の前に座って教科書を見つめている青年を、ぼんやりと見つめた。

 なにかと頻繁に行方知れずになる彼が、どこで何をしているのか、米沢家の家族は誰も知らなかった。もちろん、貴恵も然り、である。

 毎日見ていたはずの顔が、知らない場所で知らない表情をしているのだということを知って、先ほどと同じ妙な感情に胸を支配された。新鮮で、寂しくて、とても嬉しい。

 貴恵にじっと見つめられていることに気付いたのか、伶二郎が教科書から顔をあげた。

 二人の目が合う。

 何か言わなくちゃ、と貴恵が口を開くより先に、何を思ったのか、伶二郎が「ごめん」と謝罪した。

「姉だって、言った方がよかった?」

 予想外の謝罪に、「えっ」と貴恵は声を詰まらせる。

 その時になってようやく、伶二郎が自分のことを恋人だと認めて食堂のおばさんに紹介したのだということに、気が付いた。

 いつもと違う表情をする彼にすっかり目を奪われていたらしいことを認識し、自分のことながら、呆れてしまう。

「ううん、別にいいけど……」

「本当? 同じ制服着てるし、姉より彼女って言った方が自然だと思ったんだよね」

「あー、そっか。そーだよね」

 納得したように頷いて、貴恵は参考書に目を落とした。向かい側からも、再びペンを走らせる音が聞こえ始める。二人は無言のまま、試験勉強にと励んだ。


 ――実際のところ、今の二人の関係性は、非常に不可思議であった。


 あの文化祭の夜の一件以来、それまで二人の間に築かれていたはずの姉弟らしき関係は、ぼろぼろと崩れつつあった。

 一般の姉弟では考えられないくらい、常に傍に寄り添って、二人で一緒にいるばかり。

 共に登校し、共に下校する。まっすぐ家に帰ることは珍しく、必ずどこかに寄り道した。その帰り道に二人でスーパーに寄って食料品を買い、家に着いたら晩ご飯の支度に取りかかる。

 以前までは貴恵一人の天下であった台所に、今は伶二郎が始終入り浸っていた。

 貴恵の手伝いをしたり、ただ横にいて話をしていたり、とにかく常に傍にいる状態である。それが、寝るまで続く。

 この関係性は、「姉弟」と呼ぶには相応しくなかった。――それにそもそも、貴恵と伶二郎は、血が繋がってはいない。


 というわけで、本来姉弟でもなんでもない赤の他人である二人が、突如急接近したことは、学校でも噂になっていた。なにしろ、相手は校内のアイドル米沢伶二郎である。今まで一度も恋人を作らなかった伶二郎がついに一人の女と付き合い始めたのではないかと、ミーハーな女の子たちの間ではその話題で持ち切りだ。


 だが、果たしてこの関係性がいわゆる「恋人」と呼べるかというと、それもまた、否、であった。

 何故なら、彼女たちは、どちらかがどちらに恋慕心を持って近付いたわけでもなければ、告白をし合った仲でもなく、互いに恋愛感情などないはずだからである。


「ねえ、伶二郎」

 広げた参考書に並ぶ英文を読みながら、貴恵はぼそりと問いかけた。

 向かい側に座った相手もまた、数式をすらすらと解きながら、「うん?」と応対してくれる。

 学年首位の座にいる伶二郎は、一年先輩であるはずの貴恵よりもどの教科であっても秀でていたため、時々彼に勉強の質問をすることもなくはなかったが、今回の問いかけは、それではない。

「学校でさ、私たちのこと……噂になってるの、知ってる?」

「うん――知ってる」

 カリカリと、ペンの走る音は止まらない。

 貴恵も貴恵で英文を指先でなぞりながら、言葉を続けた。

「なんかね、文化祭の後のあの時……まだ、女子更衣室には人が残ってたんだってさ」

「あー、それで……男子更衣室には俺しかいなかったから、油断したね」

「うん」

 軽い口調で伶二郎が答えてくれるので、貴恵も肩の力を抜いて、楽に話をすることができた。

「それでさ、伶の方はそれだけで噂は終わってるんだろうけど、私の方はそうも行かなくってさ」

「へえ……なんで?」

「ほら、私は一年の頃から桂一郎と『熟年夫婦』とか呼ばれてたからさ……一大スキャンダルなんだよね」

「夫の弟が、妻を!! ……みたいなかんじ?」

「そうそう。しかもさ、桂一郎ってあんなんだから、何言われてもあっけらかんとしてるでしょ? 夫と妻と間男の弟の危ない同居生活みたいに言われてんだよね」

 これには伶二郎もペンを止め、盛大に噴き出した。

 その昼ドラにでもなりそうなどろどろとした構図を想像したのか、声をあげての大笑いである。

「――笑い事じゃないっての。大体、どうして私と桂一郎が夫婦って呼ばれてるのかも納得いかないけど、なんで高校生の身分でスキャンダルの対象にされなきゃいけないんだか」

 伶二郎はなんとか笑いを収めたものの、それでもにやにやと顔は歪ませながら、右手でボールペンをくるくると回した。

「ネタにしやすいからだろ。きー姉と桂兄の関係って、なんだかままごとっぽくて可愛いんだもん」

 それはどういう意味だ、と貴恵は苦りきる。

 弟にまで「可愛い」などと称されるようでは終わりだな、と溜め息が漏れた。

 そして目の前の綺麗な顔をした次男坊を睨みつける。

「そーゆう伶とみー姉は、綺麗すぎて怖い」

 ぽろりと本音を吐き出してしまってから、貴恵は自分の失言に気が付いた。


  ――伶二郎が、前に言っていた好きな人って……あれ、みー姉のことだったんだね。

 ――うん。

 そんな会話を交わしたのは、あの文化祭の夜のことである。


 以来、貴恵と伶二郎の間で、姉の都の話は禁句とされていた。

 それなのに、そのタブーを軽々しく破ってしまった貴恵は、自分の言葉を悔いる。だが、もう遅い。言葉は戻らない。

 禁句を耳にした伶二郎ははっと息を呑んだようだったが、すぐにボールペンを握り直して、数式を解き始めた。もう、そこに笑顔はない。そこに表情はない。

「綺麗じゃないよ。気味が悪いだけだ」

 彼はそうとだけ答えると、一切口を閉ざした。

 貴恵は何を考えているのやら読めない彼の顔を見つめて、言いたいことは山ほどあったけれど、黙って教科書のページをめくった。此処で何を言っても、逆効果なだけだ。自分でまいた種であはあるが、摘み取ることは許されない。


 貴恵と伶二郎は姉弟ではなく、家族でもない。恋人というわけでもない。それでも四六時中傍に居る。そんな関係性を言葉で説明するのは困難であったが、それ以上に複雑なのは、伶二郎と実姉の都の関係性であった。

 都は、伶二郎の心を知らない。自分の弟が、胸の奥にどんな想いを秘めているのかなんて、露程も知らないのである。

 故に、都は伶二郎が自分に冷たく当たる理由も、伶二郎が自分を避ける理由も理解してはいなかった。彼女はおそらく、自分が伶二郎のこっぴどく嫌われているのだと思っている。

 そのため、都と伶二郎の間はとともよそよそしい。

 伶二郎は決して自分から都に近付こうとはしなかったし、都も前のように無邪気に彼に話しかけることはなくなった。

 時折都はそんな弟を見て寂しそうな表情を見せるが、それよりも、都のいないところで伶二郎の見せる苦悶の表情の方が貴恵には印象的だった。


 「もうあの人に会いたくない」「できることなら近付きたくない」と、伶二郎は泣き言のように貴恵の前で零した。

 だが、その望みは叶わず、都は依然として日本に居座り続けた。

 血のつながった姉弟の間に広がるどろどろとした奇妙な溝は、深く、果てしない。

 それを埋めるかのように、血のつながらない姉弟が、接近する。


 奇異な関係性の中にぐちゃぐちゃと巻き込まれてしまった貴恵は、しかしそれを厭うでもなく、時折彼らの姿を傍観していた。

 伶二郎の怨念にも似たどす黒い都への執着心は、奇しくも、美しくさえ見えた。

 生物学的にも法律でも禁じ手であったはずの姉への恋心も、それが禁じ手であることを充分理解した上で後悔する伶二郎の姿も、何も知らずにただ怯える都の姿も、何一つ美しくなどないはずなのに、おかしなものである。

 そして貴恵には、彼らを「美しい」と思うたびに押し寄せてくる寂寥感とやりきれなさの正体が、全くわからなかった。全く、わからなかった。


「……きー姉?」

 しばしの沈黙が続いた後に、声を発したのは、伶二郎の方だった。

 おそるおそるといったふうに声をかけられて、貴恵は顔をあげる。

 向かい側の男は、何故か不安そうな表情を浮かべていた。

 きょとんとし、「どうしたの?」と貴恵が答えてやると、その答えに安堵したように、彼はふわりと破顔する。

「今日、俺、肉食いたい」

「……肉?」

 唐突な夕飯のリクエストに、瞬く。それよりなにより、先ほどの不安そうな表情は一体なんだろう。

 わからないことは多いけれども、あえて深くは突っ込まないことにして、貴恵は無邪気な子供のような笑みを浮かべる彼に、答えた。

「じゃあ……ハンバーグにでもしようか?」

「うん」

 彼は満足そうな顔をして頷いて、上機嫌なまま再び数式を解き始めた。

 すっかり毒気を抜かれた貴恵も、一体何だったのだろうと謎は解けぬまま、教科書を引き寄せる。

 そして、それまで沈黙の中に漂っていた不穏な空気が消し飛んだことに気が付いた。彼は、この不穏な空気を払拭したくて、唐突に夕飯のリクエストなどしてきたのかもしれない。誰もいない食堂に、のんびりと暖房の音が満ち渡る。

 この男が、貴恵のまいた不穏の種を摘み取ってくれたのだと知って、貴恵は静かに苦笑した。適わないな、と思う。

 穏やかな空気の中で、彼らは黙々と勉強を続けた。誰もいない食堂はとても居心地が良く、なるほど、勉強のはかどるわけだと納得した。

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