20、長男・米沢桂一郎と青島その2
何が起きても時間は平等に過ぎて行く。
波乱のあった文化祭も終わり、時は過ぎて、十二月。
ぐっすりと熟睡していた米沢家長男の桂一郎が目を覚ました時、窓の外は夕焼けの赤一色に染まっていた。
桂一郎は、ぼうっとする視界をはっきりさせようと目をこする。こする合間に見た景色には、空っぽの机がいくつも並んでいた。
ここはどこだろうと考えるまでもなく、前方に巨大な黒板が見える。その上に設置された時計が、四時を示していた。
彼が眠りに落ちる前に時計を確認した時は、まだ午後一時を示していた覚えがある。
つまり、午後一時からぽっかり三時間分の記憶が、ない。
なるほど自分は三時間も教室で眠っていたのだな、道理で首が痛いはずだ、とぽきぽき肩の関節を鳴らしてから、ようやく桂一郎は覚醒した。
「えーっ、嘘ぉっ!?」
誰もいない教室にて、思わず、叫んでいた。
十二月のこの時期、高校は期末試験一週間前に入る。部活動は一切禁止され、いつもなら部活動のために残る生徒の姿はなくなり、教室の中はもちろん、校内全体に人気がなかった。
しかし、桂一郎が眠りに落ちたのは、五時間目の途中だ。その時には、回りに人の気配があったことも覚えている。
五時間目が終わり、六時間目も終わり、クラスメートたちが帰っても、どうやら彼は熟睡し続けていたようだった。
(誰か起こせよ……)
心の中で突っ込みをいれながら突っ伏していた机に視線を落とすと、見覚えのない落書きが並んでいることに気付く。
「ばーか」やら「一生寝てろ」やら散々な暴言が羅列されていたが、イジメではない。それぞれの字体に見覚えがあった。クラスの愉快な連中が面白がって投下していったのだろうと思うと、笑いがこみあげてきた。
(……確かに、馬鹿だ)
桂一郎は突っ伏していたために乱れた前髪をぐしゃぐしゃとかきむしってから、ふわりと欠伸を浮かべた。
試験期間の前に部活動が禁止されるのは、生徒を勉強に集中させるためである。
桂一郎は部活こそやっていないが、学校帰りのバイトを一週間休ませてもらっていた。
それなのに、学校で熟睡していたのでは元も子もないという奴である。
椅子の後ろにひっかけていたブレザーを羽織ると、桂一郎は椅子を引いて立ち上がった。
机の横にかけていた学生鞄を拾って背負い、もう一度大きく伸びをすると帰るか、と身を翻す。
それと同時に、教室の引き戸がガラガラと音をたてて開いた。
開かれた引き戸の外から、夕日の赤光が差し込んで来て、そこに立つ人間を逆光で闇色に染める。
「あっ」
闇色に染まった人物は、教室内に桂一郎を見つけると、声をあげた。
誰だろうと思って桂一郎は目を凝らしたが、そのシルエットと動作、そしてその言葉から、それが誰であるかを知る。
「起きたんだ、米沢くん」
はきはきと癖のある喋り方をする彼女を、青島早苗という。
同じクラスの級友である青島は、刺々しい性格のためか、クラスメートからの人望は篤くない。そのため、優等生という柄ではないが、成績は常に学年のトップをキープしている秀才であった。
そんな彼女は、人付き合いの得意な桂一郎には珍しく、苦手な相手であった。
単純にふざけあって騒ぐような仲が好きな桂一郎にとって、なにかと複雑怪奇な質問をふっかけてくる青島のようなタイプはどうにも扱いにくい。
「ずっと寝てたよねー。テスト前なのにさ。勉強しないの?」
しかし、厄介なことに、青島の方は桂一郎を嫌いではないタイプだという。
異性として好みのタイプであるというわけではないが、友人として「つるむ価値がある」と思えるらしい。桂一郎にはよくわからない考え方であるが。
そして、この青島早苗という女子生徒は、桂一郎の弟である伶二郎に、べた惚れであった。
「俺は勉強とかいいんだよ……つーか、青島の方こそ勉強しなくていいわけ? お前学年首位また狙うんだろ?」
鞄を肩に背負い直しながら言うと、青島も教室に鞄を取りに来たらしく、手早く抱えていた筆記用具を自分の鞄に詰め込むと、それを肩に背負った。
「ずっと寝てた人と一緒にしないでくれる? 私は試験前に学校の図書館で勉強するのがモットーなの。そうすればわからないところはすぐに先生に聞けるし、先生も私のこと認めてくれるでしょ?」
当然のように自分の隣に並んで教室を一緒に出た青島を見ながら、「ふうん」と桂一郎は呟いた。どうやら途中まで一緒に帰るつもりらしい。
「――ちなみにね、伶二郎くんも、試験前はよく図書室にきてて、一緒に勉強してたのよ」
知らないでしょ、と言わんばかりに得意げに言われ、桂一郎は「そうなんだ」と答えるだけで手一杯であった。
伶二郎がどこで勉強をしていようが、桂一郎にはどうでもいい話である。
この少女が自分に何を期待しているのか全くわからず、懸命に言葉を探した。
「じゃあ、何、今日も一緒に勉強してたわけか?」
廊下の窓から差し込む夕日に青島の顔が照らされ、歪んでいくのがわかる。あからさまに不快そうな表情を浮かべた彼女に気付き、桂一郎は言葉を選び違えたことを知った。
「昔はね……しょっちゅう一緒に勉強してたわよ」
昔とは、青島が伶二郎と付き合っているのだと思っていた九月頃のことであろう。今が十二月の頭だから、まだ三ヶ月ほどしか経っていない。それを「昔」と表現する彼女の思い切りの良さに唖然とする。
「まー……あいつ、気まぐれだからな」
「気まぐれも、気まぐれ。今日も瀬田さんと仲良く帰ってった」
青島は吐き捨てて、階段を一歩一歩力強く下って行った。その足取りに、妙な気迫のようなものさえ感じる。
「で、実際、どうなの?」
「は?」
彼女の気迫に気圧されて、間抜けた答えをすると、青島はわずらわしそうに眉根を寄せた。
「だから、あの二人。付き合ってんの?」
不機嫌丸出しの表情で睨みつけられて、桂一郎は首を竦める。
ああ、そういうことか、と思った。
二人、とはもちろん、桂一郎の弟米沢伶二郎と、瀬田貴恵のことである。
ひょっとすると、そのことが聞きたくて桂一郎と二人きりになれるチャンスをずっと狙っていた可能性もある。青島ならやりかねない。
そんなことを思って苦りきりながら、桂一郎はそっぽを向いて頭をかいた。
「知らねえよ、俺は」
「知らないってことないでしょ。あんだけ噂になってるんだから」
ぴしゃりと、鋭利なナイフで斬りつけるかのような物言いをする女だ。
桂一郎は身を縮こまらせながら正面玄関を出て、校門を目指した。当然、青島も同じ道を辿る。
まあ仕方はないか、と桂一郎は胸の中で嘆息した。彼とて、青島が、伶二郎と貴恵のことを気にするのも無理ないとは思っているのである。ここ最近、まことしやかに、伶二郎と貴恵は姉弟のような関係だと言いながら、実は付き合っているのではないかという噂がそこら中に流れているのは事実なのだから。
事の発端は、先月末の文化祭であった。
なんでも、文化祭の終わった後、後夜祭の開かれている裏側で、彼らが妙に親密に触れ合っているのを見たという生徒がいるのである。
噂の根源であるその生徒が誰なのかは知らない。桂一郎はそれを見たという生徒から直接話を聞いたわけではない。
だが、誰もいなくなった体育館の舞台の上で、二人がまるで恋人のように身を寄せ合っていたという話は妙にリアルであった。
しかも、そのスキャンダルについては伶二郎も貴恵も口を噤んでしまい、肯定もしなければ否定もしない。
故に、その噂は真実のようだと生徒たちの間で、それはもう、まことしやかに、囁かれているわけである。
そして、そのようなスキャンダルが流れたにも関わらず、伶二郎のファンを名乗る女子生徒たちが誰も反発しなかったことも、青島を苛立たせた要因であったと言えよう。
何しろ、かつて青島が伶二郎と密会しているらしい、青島は伶二郎と付き合っているつもりらしい、という噂が流れた時には、伶二郎のファンたちがこぞって青島のことを叩いたものだ。
それなのに、今回同じように伶二郎と付き合っているのではないかと囁かれる貴恵に対しては、誰も何も言わない。まるで「瀬田さんなら仕方がない」と、あれだけ伶二郎にご執心だった彼女たちがいとも簡単に貴恵のことを認めたようで、青島としては納得がいかないに違いない。
とにかく、伶二郎と貴恵が付き合っているらしいという噂の熱も、三日も経てば収まって、学校全体が期末試験モードに切り替わると、二人が共に下校することなど誰も気にも留めなくなった。
それをいちいち気にしているのは、青島と、まだ伶二郎を諦めきれない熱狂的な数人のファンと、桂一郎くらいのものである。――桂一郎とて、気にならないといえば嘘になるのだ。彼でさえも、まだ二人からは何の話も聞かされていない。
(まあ、確かに……「何か」はあったんだろうけど……)
二人の関係ががらりと変わったのは、噂通り、あの文化祭の夜からだった。
文化祭と言えば、伶二郎が突然姉の都に雑言を浴びせたのも、あの日のことだ。
あの後、貴恵には伶二郎を任せて都と一緒に帰宅した桂一郎は、家で寿司の出前を取ったり弟たちとふざけあったりして、その場を必死に盛り上げた。
都もそんな桂一郎の心遣いに気付いているのか、目立って気落ちした様子は見せず、いつも通りの笑顔を浮かべていた。
その後、伶二郎と貴恵が帰宅して、都と伶二郎は家の中で顔を合わせることとなったが、特に何もなく、妙なよそよそしさを見せつけたのみであった。
以来、二人の間には目に見えない壁が構築されてしまったようで、互いにほとんど言葉も交わさない。おかげで二人がぶつかることもなく、平穏な日々が今に至るまで続いている。
さらに付け足すならば、平穏の理由はもう一つあった。――伶二郎が突然、貴恵にべったりと付き添うようになったことだ。
それまでも、伶二郎は貴恵の言うことはよく聞いて、貴恵には懐いているように見えたが、今はその比ではない。
家でも、外でも、学校でも、なにかと貴恵の後については二人で行動しており、それを見た学生たちが「恋人同士なんじゃないか」と噂するのも無理はないことであった。
だが、彼らを一番近くで見ている桂一郎には、どうしても、彼らがいわゆる「恋人同士」と言うような甘い雰囲気を醸し出しているようには思えない。あれは、まるで――母親と幼い息子のようだ。
とにもかくにも、桂一郎は、二人の間で何が起きたのか、一切を知らされていなかった。
「……ま、俺には関係ねーよ」
思い浮かんだ言葉をそのまま吐き出すと、隣を歩く青島は信じられないとばかりにひきつった顔をする。その上「はあ?」などと人の神経を逆撫でするような素っ頓狂な声をあげるので、思わず身を引きたくなる。
「あんたら、夫婦じゃなかったの?」
「夫婦じゃねえよ。高校生だし」
「だって米沢くん、みんなに「熟年夫婦」とか言われても、満更でもなさそうだったじゃない」
「満更でもないっつーか……どうでもよかっただけで」
「だからって、関係ないっていうの?」
もはや、桂一郎には青島が何を怒っているのかもわからない。
内心逃げ出したい気持ちは山々であったが、どうしたって校門を抜けて途中までは帰り道が同じだ。とりあえず彼女を落ち着けようと、桂一郎は宥めるように、言った。
「関係ないってことはないか……そうじゃなくて、なんつーのかな……それでいいと思ってるんだよ」
青島は不満そうな顔をしながらも、ひとまず口を閉じた。
桂一郎は少しだけ、ほっとする。
「貴恵と伶二郎がいいんなら、それでいいかなって、そう思ってる。……俺はあいつらから何も聞かされてないし、何も知らねえっていうのは、本当だから」
それは、桂一郎の本心からの言葉であった。
おかげで、今のところ、家の中は落ち着いている。
貴恵と伶二郎の二人がこの状況に不満がないのであれば、平穏を守る為にも、この状況が続くことは構わなかった。彼らのことは彼らのことである。桂一郎が首を突っ込むようなことでもあるまい。
無言で桂一郎の言葉を聞くに徹していた青島は、何事かを考え込んで、
「良かないわよ」
と、一言だけ、呟いた。
二人はその後しばらくは無言のまま校門をくぐりぬけ、歩道を辿り、交差点を目指して歩いた。
交差点では、車が激しく往来している。歩行者用信号が赤く光っており、桂一郎は横断歩道の前で立ち止まった。
それを見て、ぽそりと隣の女子生徒が言う。
「……私、こっちだから」
青島は、この横断歩道を渡らないらしい。彼女は右に曲がって、「じゃあね」と言った。
いつも威圧感丸出しの攻撃的な表情を浮かべている彼女の、珍しく陰鬱な様子がどうにも気にかかる。
桂一郎は去って行こうと踵を返した彼女の背中に向かって、聞かなければいいのに、思わず口を開いていた。
「あのさ、青島ってさ!」
「……ん?」
振り返った彼女の顔には、やはりいつもの覇気がない。覇気がないと、まるで別人のようだ。普通の女子高校生に見える。
「青島ってさ――本当に、伶二郎のこと、好きなわけ?」
「……は?」
青島の声が、一重にも二重にも、ひっくり返った。
途端に、彼女の顔に不機嫌そうな色がじわじわと広がって行く。
しまったと思うものの、発してしまった言葉は二度と戻らない。
みるみるうちにいつもの攻撃的な表情を取り戻した青島を前にして、桂一郎は今度こそ逃げ出すことにした。運の良いことに、丁度歩行者信号が青の色に変わる。車は動きを止めたところだ。
「ごめん、なんでもねえよ!」
桂一郎はごまかすためにもなるべく軽い調子で言い放ち、「それじゃ」と軽快に手を振りながら、横断歩道へと足を踏み出した。
できる限りの大股で、すたすたと横断歩道を渡って行く。後ろを振り返る勇気はなかった。振り返ろうものなら、青島に何を言われるかわかったものじゃない。
記憶力の良い青島が、桂一郎の失言を忘れてくれることは期待できないであろう。が、願わくば、この言葉の意味を深く考え込まないでくれるよう、祈る。
これ以上ややこしいことに巻き込まれるのは、ごめんだ。
――ただ少し、この女は本当に伶二郎のことが好きなのかなぁなんて、そんなことを疑問に思っただけだ。
桂一郎は横断歩道を渡りきると、逃げるように住宅街の道を早歩きに進みながら、頭をかいた。
青島と話していて感じる違和感は、何なのだろうかと思う。彼女はあれだけ伶二郎に執着しているように見せながら、まるで伶二郎のことを想ってはいない。何と言えばいいのだろうか、彼女は、自分のために戦っているように、見えるのだ。
とは言え、そんなことを青島本人に言おうものなら、即座に噛み付かれるであろうことは目に見えていた。
桂一郎は思わず身震いする。余計なことで悩みを増やすべきではない。今考えるべきは――そう、一週間後に迫った、期末試験のことだ。
(そうだ、試験だ。試験のことを考えよう)
桂一郎は気持ちを切り替えるべく、自分に言い聞かせるように頷いた。
期末試験のことは、間違いなく、桂一郎にとって重要だった。
トップの座を狙おうなどと多くは望まない。というより、望んだところで今からでは到底無理である。が、せめて、進級だけはしなくてはならなかった。とてもではないが、留年できるようなお金は米沢家の経済状況を考えると、ないのである。
桂一郎は改めて、一時から四時までの午後の三時間を眠りに費やしてしまったことを後悔した。三時間あれば、どれだけの英単語を詰め込めただろうか。ああ勿体ないことをした。心からそう思う。
しかして、本当にその三時間を与えられたところで桂一郎がどの程度熱心に勉強をしたかどうかは、また別の話である。
彼は一人帰途につきながら、溜め息を吐いたのであった。